Arachne ~君のために垂らす蜘蛛の糸~

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問四・このときの感情を答えよ

冬の訪れ

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 新しい自転車のフレームに街のイルミネーションが映り込む。トナカイや雪だるまを模した飾り付けが、昼間からきらきらと点滅していた。まだ十二月に入ったばかりだが、世間は既にクリスマス一色だ。
 
 所持金三百六十六円から始まった俺の新年度は、ついに自転車を買い替えられるほどに落ち着いた。欲しい本に手を伸ばすこともできるし、知的好奇心のままに博物館へ赴くこともできる。アラクネに雇ってもらえて、本当に良かった。もしあの募集に応じていなければ、生きていくだけで精一杯の貧乏生活が続いていただろう。親からの仕送りも無く、受けるはずだった講義をアルバイトで潰し、課題に必要なものすら買えず、何のために進学したのか見失っていた頃とは大違いだ。

 信号機の前で自転車を停める。何気なく視線を巡らせると、商店街の入り口が目に留まった。大きなクリスマスツリーが鎮座しており、カラフルなボール状のオーナメントがぶら下げられている。青。黄色。赤。緑。紫。どこかで見た組み合わせだな。信号が変わるまでの数十秒、考えてみて気付いた。アラクネの幹部メンバーの担当カラーだ。オフィスに行けば何度もこの並びを目にすることになる。

 各々の撮影部屋の扉がこのような色をしているのだ。ふと、メンバーが抜けることがあればどうなるのだろう、と浮かんだ。いくら彼らが優秀でも、さすがに四人のままでは仕事が回らない。新しい人員を追加するはずだ。担当カラーも引き継ぐことになるのか、それとも扉を塗り替えるのか……。

 そんなことを考えているうちに、アラクネのオフィスが見えてきた。何百回も通勤した道。見慣れた白い建物。駐輪場に自転車を停めながら、縁起でもないことを想像してしまったな、と反省した。
少なくとも今は、不穏な傾向はないのだから。春と夏と秋、幹部メンバーが抜けかねない事態は起きたものの、この冬こそは大丈夫だ。それぞれ自身の抱えているものを受け入れ、これからもアラクネの一員として生きていくことを決意してくれた。まだ腹のうちが読めないのは蝶野くらいだが、彼はまあ、いつの間にかいたと言われるような人だし。悩みも葛藤も想像がつかない。

「ソラくん、何か考え事?」

 不意に掛けられた声に顔を上げる。まさにその蝶野が、オフィスのエントランスに立っていた。心配そうな顔をこちらに向けている。よほどぼんやりして見えたのだろうか。

「おはようございます、蝶野さん。ええと……そろそろクリスマスだな、と思って」

 自分でもわけの分からない嘘をついた。クリスマスだから何だというのだ。撮影班は何か企画を考えているのかもしれないが、編集担当の俺には関係がない。

 案の定、蝶野は怪訝な表情を浮かべた。

「変なソラくん。クリスマスは一ヶ月近く先だよ。それに、もう午後だし」
「あ、そうでした」

 普段は午前中に出社しているため、朝の挨拶をしてしまった。今日は大学に寄ってから来たので、ここに着いた時点で昼を過ぎている。四年生の冬とはいえ、一応まだ学生の身。他のスタッフたちのようにフルタイムでは働けない。

 オフィスの様子はいつもと変わりなかった。接客用のカウンターの向こうには、スタッフが作業をするためのデスクが並んでいる。半分は個人用。もう片側は、自由に席を選んで使える共有スペースだ。さらにその奥には、簡易的に仕切られた会議用の空間がある。蝶野と共に事務所へ入り、デスクの間を縫って歩いた。

 俺は壁かけ時計を見上げた。もうすぐ午後一時。今日は月曜日。幹部会議の始まる頃合いだ。蝶野は円卓を囲む椅子のひとつに腰を下ろした。近くの席についた俺も、その様子を何気なく眺める。まだ他のメンバーは来ておらず、荷物も置かれていないため、広い天板の全てを観察することができた。

 一枚板の円形ではなく、ピザのように分割されているのか。今さらながら他愛もないことに気付く。ひとつずつ分けて使うこともできそうだ。ぴったりと寄せられているので視認が難しいが、境界線は六本あった。これ、六分割だったんだ。五人で囲むには不便だろうに。構造を知ってから見ると、椅子の並びもわずかに等間隔からズレている気がする。

 まさか、元々は六人いた……なんてね。昔の写真を借りたことがあるが、幹部メンバーが増えることはあっても減ることはなかった。見覚えのない美人の姿に驚いたりもしたが、イメチェン前の花房だと判明している。写真は複数人から借りたので、何者かの存在を隠し通すことは難しい。デスクの使い勝手として、六分割の方が好都合というだけだろう。

「よう、鳥辺野くん。来ていたのか」

 背後から声を掛けられる。振り返ると、今度は風見が立っていた。相変わらず爽やかな出で立ちで、洒落た服装をしている。アシンメトリなデザインのシャツに、こだわりを感じる革靴。いわゆるモード系を好んでいるらしい。それでいて、派手なアクセサリーやだぶついたズボンなどは身に着けていない。彼は科学実験を行うため、危険性を徹底的に排除しているようだ。

 俺が挨拶を返すと、彼は軽く手を振ってから奥側の席についた。役職や年齢によって席が決まっているわけではなく、単に動線を意識してのことだ。やや狭い空間なので、先に来た者が奥の席に座る方が混み合わずに済む。いつだって一番手前を確保している蝶野が非常識なだけだ。

 次は花房が現れた。彼は俺の姿を認めると、控えめな笑顔を見せた。蛇のような銀色の瞳がぎろりと動く。ツーブロックに刈り上げられた金髪。縦瞳孔のカラコン。片耳のフープピアスはなかなかに存在感がある。最初はとっつきにくい容姿だと感じていたが、今はそんな誤解もない。派手な見た目だが、どこまでも穏やかで心優しい青年だ。

「ごめんなさいね、皆さん。お待たせして」
「すみません、いま終わりました。すぐ準備します」

 最後に、蜂須とマリアが小走りにやって来た。取引先とのウェブ会議でもあったのか、ふたりともきっちりとスーツを着こんでいる。いや、蜂須がフォーマルな服装なのはいつものことなのだが。丁寧な物腰ながら、独特のカリスマ性を持つ蜂須。多忙な社長を多方面からサポートするマリア。彼女らの手にかかれば、取ってこれない契約などない。少なくとも俺の知る範囲では、企画が頓挫したことはなかった。

 慌ただしくふたりが席についたとき、時計の針はちょうど十三時を指した。これから会議が始まる。聞き慣れた蜂須の声が、いつものように議題を告げた。

「さて、皆さんの今週の動きを教えてください」

 撮影の予定。講義で取り上げる内容。出張や案件の仕事について。ここに就職しなければ知り得なかった世界が耳に流れ込んでくる。俺が直接関わる機会はないが、常連の企業の名前は覚えてきた。そうか、よく見かける広告やPR動画はこうやって作られていたのか。小さな発見を繰り返しながら、社会の仕組みを知っていく。
普通の大学生なら、就職活動や企業研究、インターンシップを経てこのようなことを勉強するのだろう。会議の傍らで聞き流すのではなく、もっと能動的に。でも、俺はいまだに行動できないでいた。かろうじて「アラクネのために頑張ろう」と思い始めた程度だ。

 将来の夢だとか、成し得たいことだとかは何も思い浮かばなくて。

「それでは、サイトに寄せられた相談を読み上げますね」

 予定の共有が終われば、学生からの相談へと議題は移る。毎回の流れだ。それでも内容に慣れることはなく、いつだって驚くような話が飛び出した。世界は広い。インターネットを介することで、氷山の一角とはいえ触れることができる。たとえば、勉強をしていると親が良い顔をしない家庭もある、だとか。二言目には「勉強は済んだのか」「試験の結果はどうたった」と言われ続けた俺にとって、目の当たりにしなければ知りもしなかった環境だ。

 あのときの相談者――雪村という少女は、今頃どうしているだろうか。順調に受験勉強を頑張れているといいな。学校の先生が協力しているので、もう不安はないはずだ。

 そして今日もまた、新しい相談が蜂須の声によって伝えられる。

「高校二年生の男子学生。進路のことで悩んでいます……」

 タブレットに視線を向け、丁寧にメッセージを読み上げている。他のメンバーは真剣に聞き入り、意見を出したり担当を決めたりする。俺にもやるべきことがあるため適度に聞き流していたのだが、三件目の相談に差しかかったとき、その内容に意識を傾けた。雪村の立場に類似している、と感じたのだ。

「僕の実家は製造業をしています。小さな町工場ですが、この分野では重要な役目を担っているそうです。いずれは長男の僕が跡継ぎになるべく、工業高校に通っています。でも、大学へ進むことは許してもらえません」

 家業を継ぐのだから、進学は必要ない。そういう主張をされているのか。女子に勉強は必要ないという差別も根深いが、男子だからといって優遇されるとは限らない。特に長男の場合、家業のために進路を制限されることもある。

 話には聞いたことがあった。しかしこうやって相談を受けるまで、どこか他人事のように感じていた。長男だったらなおさら、進学に期待するのが親というものだと思っていたのにな。そもそも彼は本当に家業を継ぎたいのだろうか。行間に隠された本心まで察する必要がある、デリケートな相談だ。

 今回は誰が担当をするのだろう。順当に考えれば、同じような境遇にいたマリアが適任なのだが。しかし、挙手したのは意外な人物だった。

「この相談、俺が担当してもいいか」

 円卓を囲むメンバーを見渡し、風見が明瞭に告げた。どこか緊張した面持ちだが、意思は固そうだ。手を上げようとしていたマリアが動きを止め、驚いた表情で彼を見詰めた。

「風見さんが、ですか?」
「ああ。俺じゃ駄目だろうか」
「それは……」

 マリアの言わんとすることも分かる。風見の人生において、勉強を否定されたことは一秒たりともなかったはずだ。未就学児の頃から塾に通い、受験対策として絵を習い、生活のあらゆることを学業へと捧げてきた。親が進学を許さないという、真逆の環境にいる男子高校生に寄り添えるのか。当然の懸念だ。
それでも風見は、訴えかけるように言葉を続けた。

「もちろん、俺と彼とでは生きている環境が違いすぎる。向いているのはマリアの方だとは思う。でも、知らないからといって避け続けていたら、永遠に理解できないままだろう。それは良くない……と、俺は思う」

 彼も変わったな。近くの席で耳を傾けながら、どこか俯瞰した視点で俺は考えた。もともと優秀で立派な人だが、効率を重視するきらいはあった。相談に乗るなら、最も共感できる者が担当すればいい――そんな考えから一歩を踏み出し、自分から幅広く関わろうとしている。

「分かりました」

 マリアは頷く。押し負けたわけではなく、心からの納得を感じる声色だった。

「私自身、反省はあったんです。こういった相談は全て自分の担当だと考えて、つい真っ先に手をあげてしまって……。本当は、ひとりで抱え込まない方がいいのに。雪村さんのときだって、そのせいで皆さんにご迷惑をかけたのですから」
「ん? あれはひとりじゃなかったろ」
「あっ、ああ……そうでした。風見さんも共犯ですね」

 わざとらしい誘導に、マリアは慌てて同調する。ふたりで顔を見合わせて笑った。蜂須の前である以上、建前だけは保っていなければならない。しかし実際、あの暴走はマリアが抱え込みすぎたせいでもあるだろう。同じ境遇にいる者でないと寄り添えない。本当の意味で助けになることはできない。そう思い込んでしまったせいで、最悪の道を進みそうになっていた。

「だから今回は、風見さんにお任せしたいと思います」

 マリアがそう締めくくると、風見は安堵の表情を浮かべた。

「良かった。でも、俺もまだまだ分からないことが多いだろうから、サポートしてくれるとありがたい」
「もちろんです。回答は一度しかできませんからね。慎重になるに越したことはないです」

 彼らのやりとりを聞きながら、やっぱりまだそのルールがあるんだ、と思った。理由は何度か聞いている。学校や塾の先生ではない以上、未成年と深く関わることにはリスクが生じる、と。金銭のやり取りはない。契約も交わしていない。あくまでインターネット上の存在であるアラクネにとって、一歩間違えれば組織ごと潰れかねない要素だというのは理解できるが……。

 けっこう不便だよな、これ。

 相談する側も、本当は親や学校に伝えるのが一番なのだ。無理にアラクネを頼る必要はない。だからこそ、他に行き場のない相談ばかりが集まってくる。ただの冷やかしや、講師との接触が目的の質問は、あらかじめ弾かれているだろう。学校の先生には相手にされない。親に話すのもはばかられる。そういった相談の流れ着く場所がアラクネのメールフォームだ。「まずは先生や家族に相談して」と繰り返しても、こればかりはどうにもならない。

 とはいえ、俺が今さら意見できることでもなかった。おそらくこのルールは、破れば即座にクビの可能性もあるほどに重い位置づけなのだろう。マリアはその覚悟をもって雪村と接触したし、バレてしまったときには膝から崩れ落ちた。温情で丸め込めるものではないという共通認識が、メンバーの中にはあったのだ。

 相談に乗るって難しいことなんだな。まあ、俺にはそんな機会もないのだが。一度だけ口を挟んだことがあるが、我ながらつまらない回答をしてしまった。自分の体験に基づいて話しただけ。相手の立場も分析できていない。蝶野は肯定してくれたものの、はたして役に立ったかどうか。

「役に立ったよ」
「えっ」

 心の中の言葉に声が返ってきた。顔を上げると、蝶野が椅子ごと振り返ってこちらを向いている。キャスターを使って円卓から離れ、俺の席へとにじり寄った。

「秋頃ね、ソラくんが相談に答えてくれたことがあったじゃない。勉強に対するモチベーションを保つにはどうしたらいいですか、って。ガラスペンや万年筆を使うのはどうか、ってアドバイスしてくれたよね。ファンレターでそれの続報が来たんだよ。本当に役に立ってるって。字を書くのが楽しいから、暗記が得意になったって」

 そう、まさにそのことを思い返していた。口から全部漏れていたのか? いや、蝶野が経緯から話しているということは、会議の方でも同じ話題になったのか。ぼんやりして聞き逃していた。何はともあれ、役に立てたのは嬉しい。

「良かったです。続報を教えてくださって、ありがとうございます」
「何言ってるの。ソラくんのアドバイスなんだから、ソラくんには伝えるでしょ」
「でも、会議を中断してまで……」

 円卓に残っている四人を見遣る。誰も迷惑そうな顔はしていない。だが、俺なんかのために時間を割いてくれたことは事実だ。会釈してから蝶野を返そうとした。だが彼は一向に戻る様子を見せない。それどころか、俺の座る椅子を片手で掴んでいる。いったい何のつもりなんだ。電車ごっこじゃあるまいに。

「せっかくだからさ、ソラくんも参加しない?」

 俺の顔を覗き込み、とんでもないことを言い出した。そのまま俺ごと会議スペースへと引きずっていく。咄嗟のことだったので抵抗もできず、あれよという間に円卓へと連れ去られてしまった。

「どういうことですか!?」

 不思議なことに、他のメンバーもサッと場所を空けて俺を収めようとする。この円卓が六分割されていることは会議前に知ったばかりだ。つまり俺が加わって六人になるとちょうどいい――なんて、馬鹿なことを考えている場合じゃなくって。

「実は、相談の回答者に鳥辺野くんを入れてはどうか、という話になったのよ」

 右隣の蜂須が言った。なったのよ、と言われても意味が分からない。唐突な展開に驚きつつも何とか言葉を返す。

「どうしてそうなるんですか。俺、ただのアルバイトですよ」
「それはあなたが学生さんだからであって、フルタイムで勤務できる都合さえついたら、すぐにでも正社員になってくださっていいのよ。ここに来てから、もう半年は経つでしょう?」

 正社員になってもいい。その言葉に、思考が一瞬止まる。こんなにあっさりと自分が必要とされるなんて思ってもみなかった。夢のようだ。信じてもいいのか? たった半年、同じ場所で同じような作業を続けていただけなのに?

 いや……今はまだ、それに応じる段階ではない。ここに骨をうずめる覚悟もできていないくせに。蜂須の心遣いは嬉しいが、一旦は脇に置いておくことにした。今はただ、この円卓から離れることだけを考えなければ。中高生から寄せられた相談に乗るなんて、責任重大なことが俺にできるはずもない。

「他の社員さんたちだって半年以上は勤めていますよね。どうして俺なんですか」
「鳥辺野くん、いつもここで会議を聞いているでしょう」

 そんなのただのBGMのつもりで――という失礼な言葉を飲み込み、激しく首を振る。確かに耳を傾けていたのは事実だ。うっかり口を挟んでしまうこともあった。だがそれは部外者ゆえの余裕であり、傍らで眺めている囲碁の勝負を理解した気になるのと同じこと。決して本来の能力ではない。

「考え直してください。俺のせいで、未来ある若者が間違った選択をしたら大変ですよ」

 相談者にとっては、俺もアラクネの一員に変わりない。動画に出ていないしサイトにも寄稿していないが、それでも一定の信頼を寄せてくれるだろう。俺の言葉に従って進路を変えてしまう子もいるかもしれない。
俺をメンバーに入れるなんて、どうせ冗談だ。ただの思いつきに決まっている。ここで強く否定しておけば、もう二度と声が掛かることはないだろう。甲斐性なし。せっかくのチャンスを棒に振る男。どう思われたっていい。実際に俺はその程度の人間なのだし。

 流れるように浮かんだ自虐は、あっという間に胸中を支配していった。
 
 蜂須は優しいから、こんな俺にも正社員の切符をくれたわけだが。やめておいた方がいいのにな。やりたいことにしか手を出さず、一時は全財産が小銭だけになり、のらりくらりと生きてきた人間だ。俺が社長だったら絶対に採らない。

――だからもう、俺なんて放っておいてくれ。

「ソラ、まずは話を聞いて」

 ぐるぐると巡る自己嫌悪は、割り込んできた声に遮られた。一瞬、誰が話したのか分からなかった。男のようでもあり、女のようでもあり。鋭くもあり、穏やかでもあり。でも、ここで俺を呼び捨てにするのは彼だけだ。

「花房……」

 六人を繋ぐ六角形。その対角線上にいる花房が、俺に声を掛けたのだ。手には数枚の資料を握り、紙面越しにこちらを見ている。そこに相談が載っているのか。その内容を俺に聞けというのか。

「君に担当してほしい相談がある。この内容ならソラが向いているって、翡翠さんが言った。だから、まずは聞いてほしい」

 翡翠さん? ああ、蝶野のことか。彼はいつも気軽に巻き込んでくるなぁ。そもそも、俺がアラクネにいるのも彼の思いつきのせいだし。あのとき、俺に対して何かを感じた様子だったけど、その正体はいまだに聞き出せていない。俺に向いているという相談を聞けば、ヒントが得られるだろうか。

 さっきまでは逃げることばかり考えていたのに、不思議と心が落ち着いてきた。花房に諭されたのが利いたのかもしれない。まずは話を聞こう。聞く耳すら持たないのはさすがに大人げない。

「分かったよ。俺に向いている相談なんだね?」

 蝶野がそう言ったのなら、きっとそうなのだ。彼は常にポジティブだが、社交辞令は言わない。花房は小さく頷くと、紙面を読み上げ始めた。蜂須が読むときとは少し異なる、自分なりに要約や補足を織り交ぜた伝え方だった。

「相談者は高校二年生の男子。家族は受験に協力的だし、学校もそれなりの進学校だけど、進路について悩んでいる。というのも、美大に通いたいという夢が諦めきれないから」

 導入を聞いた途端、声を発しそうになるのをこらえた。今までのもやもやとした思考は全て吹っ飛び、この相談に応えたい、という考えに塗り替えられる。もちろん、即座に案が浮かぶわけではないが、少なくとも俺が担当するべき案件だ――つい、傲慢なことを考えてしまうほどに。

 そして、蝶野は俺を指名したのだから、その権利はある。

 前のめりになって花房の声に耳を傾けた。

「学校で美大向けの勉強をすることはできない。独学か、先生を探して習う必要がある。でも家族は大反対。美大だけは絶対に駄目だって。今まで積み上げてきたことが無駄になってしまう、と言われたらしい」

 話を聞きながら俺は頷く。予測できた展開だった。受験が近付くにつれ、成績に応じて志望校を変えることはよくある。本番直前まで定まらないことも多い。しかし、一般的な四年制大学と美大では話が違ってくる。そう簡単に切り替えるわけにもいかず、親の説得は難しいはずだ。

「相談者は……どれほど本気で考えているのかな」

 花房の声が止まったので、俺は口を挟んだ。メールフォームに書かれていた文面はこれで全てらしい。あとは俺たちが想像を巡らせるしかない。いや、俺が考えるべきなのだ。ひとりの少年の未来ごと、責任を持たなければならない。

「美大に進む方法を模索するか、今は諦めて親御さんに従うか。それも含めて回答しなければならないわね」

 蜂須が言った。俺も同意見だ。シンプルに美大を目指す方法を伝えるだけでは足りない。本当にその進路でいいのか。どうしても美大で学びたいことがあるのか。そういったことも併せて考えなければ。

「難しいですね……」

 正直な感想が漏れた。たった一度の回答に全てを詰め込むのは至難の業だ。本来、こういった相談は相手を見ながら慎重に対応する必要がある。意欲と見込み。欠点と長所。それらを踏まえて総合的に、彼の取るべき行動を判断したい。

 でも、アラクネではそれが不可能だ。

 思案に暮れる俺の姿を、蜂須がじっと見つめていた。何か言いたいことがありそうだ。やがてゆっくりと瞬きすると、意を決したように口を開いた。

「実はね、今回だけは制限を外そうと考えているの」
「えっ?」

 俺は驚きの声をあげたが、他のメンバーは反応していない。蜂須と同様、真剣な表情を保っている。既に彼女から話を聞き、全員が納得した後なのだろう。

「あなたと彼がやり取りをするため、専用のチャットルームを作成するわ。幹部メンバーの全員が閲覧できる状態で、対応を進めていただきます。もちろん、誰も勝手に口出しはしないから安心して」
「いいんですか、相談者と一対一で関わって」

 以前はそうする場合もあったらしいが、現在は絶対的な禁忌だったはずだ。かつて年表にも載せられないようなことが起きたと聞いている。まさかこのタイミングで解禁されるなんて。

 もちろん一時的なことだし、メンバーの目も光っている。チャットルームが復活したとはいえ、問題点は可能な限り潰されているはずだが……。

 俺はその「以前」を知らないのだから、ただただ驚くばかりだ。

「ええ。さすがに美大進学の相談となると、ね……」

 蜂須はふいと目を逸らす。その先に何かあるのかと思ったが、壁と天井を経由して俺の元へと視線が戻っただけだった。どことなく含みのある口ぶりなのが気にかかるが、この展開はありがたかった。

「助かります! これで、詳しい話を聞くことができます」

 難題への糸口が得られた興奮から、つい声を張ってしまった。メンバーの顔に安堵が浮かぶ。もう引き下がれない。この相談は、俺の担当になった。

「ありがと」

 蝶野が簡潔に礼を述べた。どうにも彼の手のひらで転がされた気がするが、最後に決めたのは自分だ。頑張ります、とこちらも短く返す。議題はこれで出しきったようで、会議はお開きとなった。各々が荷物をまとめて立ち去る中、俺は座っていた椅子を元の場所へ戻そうとしていた。

「それ、このままでいいんじゃない?」

 マリアの言葉を受けて動きを止める。なるほど、確かにそうだな。俺が相談を受け持ったということは、来週からは正式に会議へ加わるということだ。共有スペースの椅子が埋まりきることはないため、ひとつくらい移動させても問題ないだろう。椅子を円卓の下へ収めると、想像以上にしっくりと来た。デスクの構造からして当然といえば当然なのだが。

「今から大丈夫かしら? チャットルームの使い方を説明するわ」

 蜂須に声を掛けられたので、その後をついていく。背中に強い視線を感じたが、急いでいたので振り返らなかった。どうせ気のせいだ。すたすたと歩く蜂須を追って、青い扉の部屋へと向かった。

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