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Q3・それは何通りある?
一蓮托生
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こうして蜂須はアラクネに戻ってきた。
様々なことが起きた気がしたが、振り返ってみればたった一日に収まっている。他のスタッフは何も気付いていない。例の記事を見た者もいるかもしれないが、わざわざ言及されることもなかった。
社長が無事に休暇を終えて戻ってきた、それだけだ。予定も全く狂っておらず、起きたことを伝える必要もない。それでも蜂須が謝罪して回ろうとするので、皆を混乱させることはやめた方がいい、と諭した。そんなもの、湯花旅館の温泉まんじゅうひとつで十分だ。
「蜂須さんは、もっと自由でいいんですよ」
復帰日の業務中。資料室で鉢合わせたので、当たり障りのない会話の後にそう告げた。偉そうな口を利いた気がして緊張したが、これで不機嫌になるような人ではないと知っている。彼女は少し沈黙した後、思いきった様子でこう返した。
「では……例の噂についても、無視してしまってもいいのかしら」
意外な言葉だった。筆跡の一致によって明かされ、広まってしまった蜂須の母校。その後処理について彼女は頭を悩ませていたはずだ。デマではないため認めるしかない。正式な発表の場を設けるしかない。俺ですらそう思い込んでいたのだが、まさか当人の方から「無視」という案が出るとは。
でも、きっとこれが一番いい。
「……アリですね、それ! 無視しちゃいましょう、こんなの」
身を乗り出して同意する。そもそも、きっかけは無断転載だ。拾い画だの何だのと言って、他人の卒アルを晒した人間が悪い。面白がって広めた人間が悪い。蜂須がどんな経緯で今を生きていようと、大多数の人間には関係がないことなのだ。両親に対する負い目を完全に払拭できる日は遠いかもしれないが、少なくとも野次馬に向けるべき配慮などない。
「触れる必要すらありません。今まで通り非公開で行きましょう。蜂須さんも分かってきたじゃないですか」
今度こそがっつり偉そうな口を利いたが、蜂須は嬉しそうに笑ってくれた。彼女は自分を守る方法を知らなかっただけで、誰かに教わればいくらでも吸収していく。触れたくないことには触れなくていい。悪いことをしていないのなら、謝らなくてもいい。当たり前すぎて教わる機会のなかった部分を、アラクネの皆でサポートしていけたらいいな、と考えた。
そんな未来に、俺がいつまで関われるのかは分からないが。
「社長、お客さまがいらしています」
扉がノックされ、マリアが顔を出す。蜂須は慌てて応接室へ向かった。そのままマリアも立ち去るのかと思ったが、入れ違いに室内へ入ってくる。
「鳥辺野くん。頼まれていた写真、持ってきたわよ」
彼女が差し出したのは、簡易的なアルバムだった。現像された写真が一ページにつき二枚ずつ収まっている。自分の依頼を忘れたわけではないが、想定した形と違ったので、少し沈黙してしまった。
「どうしたの。アラクネの昔の写真が欲しいって、言ってなかった?」
その言葉に頷く。感謝を伝えながらアルバムを受け取った。
「いや、てっきりデータでいただけるのかと。マリアさん、こういう写真ってちゃんと現像するタイプなんですね」
「何よ。その方が振り返りやすいでしょ? 元データは前に使っていたスマホに入っているから、発掘が難しくて。データ化するならスキャナを通せばいいわ」
五周年記念サイトに載せるため、アラクネ発足時の写真を貸してほしいと頼んでいたのだ。ぱらぱらとアルバムを捲れば、四、五年前の彼女らの姿があった。メンバーの外見は今と大差ないが、オフィスはあからさまにこぢんまりとしている。はじめの頃は非常勤スタッフを含めても十名に満たなかったらしいので、このくらいが適していたのだろう。
ただ、最初期の写真に花房がいないことが気になった。加入時期としては最も古株のはずだが、当時の彼は学生でもある。幽霊メンバーのような扱いだったのかもしれない。
その代わり、見慣れない人物が頻繁に写っていた。
漆黒の髪と瞳が特徴的な、若く清楚な雰囲気の女性。背中に垂らした髪は綺麗に編み込まれ、一匹の魚が泳ぐかのようだった。表情は固く、それでいて瞳が大きいので独特な魅力がある。色白で、化粧っ気がないのに美しい。
「……どなたですか? この人は」
マリアに尋ねる。ありていに言えば、俺は惚れ込んでしまった。久しく見ないタイプの美人――大和撫子だ。今の幹部にはいないし、スタッフの中にいるようにも思えない。ということは既に辞めてしまったのだろう。そんな想像はつくものの、詳細を訊かずにはいられなかった。
緊張した面持ちの俺を、不思議そうな視線が撫でる。
「誰って、花房くんだけど」
「ええっ!?」
「面影、そんなに無いかしら。出会った頃はこんな感じだったのよ」
これはまた盛大なイメチェンだ。写真を見返してみるが、同一人物だとはとても思えない。しかし、この吸い込まれるような瞳だけは俺も見たことがあるはずだ。花房がカラコンを嵌め忘れた状態でオフィスに来たとき。漆黒の大きな瞳が、蜂須のことを案じて潤んでいたのを覚えている。
この写真を載せれば、昔を知らないファンは驚いてくれるだろう。良いものを貸してもらえた。改めて礼を伝えるとマリアは立ち上がり、モデルのように手を振って部屋を去っていく。またひとりになった俺は、アルバムの続きを確かめた。
蜂須の容姿は全く変わっていない。定規で測ったのかと思うほど、寸分の狂いもなく同じ髪型だ。四、五年前ならまだ二十代半ばのはずだが、若者とは思えない貫禄をまとっていた。だが、胸中では不安が渦巻いていたことだろう。自分の経歴は、アラクネのトップとしてふさわしくない。糾弾が起きたらどうしよう。そんな考えをずっと抱えていたに違いない。
加入時期が離れている風見は、それに比例して写真もやや少ない。こちらも外見はほとんど変わっておらず、最初から垢抜けていたんだなぁ、という感想。高身長、爽やかな容貌、トウキ大で学んだ頭脳。男の夢を全て詰め込んだような存在だ。はじめのうちこそ距離を感じる写り方をしているが、馴染むまでさほど時間はかからなかったようだ。まあ、あの蝶野と同じ組織にいて、馴染めないわけがないか。
それにしても、マリアがこうやって思い出を形に残すタイプなのは意外だった。アルバムから一枚を丁寧に取り出し、眼前で眺める。何のことはない、一般的なL版の写真だ。裏には印刷所のロゴが入っている。現像した写真とセットで貰える簡易的なアルバム。最近では滅多に見かけなくなったアイテムだ。
「L版の写真って、スマホのカメラとは縦横比が違うんだよな」
ふと思い出したことを口に出した。昨今は何でもスマホで撮りがちだが、それを現像するとわずかに端が切れてしまうらしい。スマホカメラの縦横比は3対4だが、L版のサイズはもっと複雑なのだ。俺は画像の縦横比に敏感で、異なる比率の画像が並んでいると違和感を覚えることが多い。この写真を使う際は少し調整しなくては、と考えたとき。
頭の中でぴったりと繋がる事象があった。
(待てよ、あのスレッドで『拾い画』と言われていた画像って……)
自身のスマホを取り出し、カメラロールを開く。例の画像は蜂須と再会した後に削除したのだが、まだゴミ箱の中に残っていた。卒業アルバムの一ページを取り込んだもの。クイズ番組を放送するテレビ画面を撮影したもの。その二枚を反復幅跳びのように見比べながら、やっぱり、と呟く。
縦横比が違うことには気付いていた。しかし、その原因を考えることは後回しにしていた。クイズ番組のスクショ――と言いつつスマホで撮影しただけのものは、スマホカメラの設定通りなので3対4だ。こちらは問題ない。一方、卒業アルバムの画像は、スマホで紙面を撮影したものではなかった。縦横比が微妙に異なる。どうやら、L版写真をスキャナにかけて取り込んだようなのだ。
つまり……。
(本当に道端で拾ってきた写真だったのかよ!)
これは盲点だった。「拾い画」という単語でイメージするのは、複製されてインターネットの海を漂っている画像のことだ。無断転載を繰り返されているものの、最初の投稿は本来の権利者が行った、という認識がある。だからスレッドの人間たちも、俺ですら、流出の原因は蜂須の友人であると考えていたのだ。裏切られてかわいそう、といった言葉も投げかけられていた。
しかし実際は、美園はそんな裏切りなど犯していなくて。
湯花旅館へ訪れたときのことを思い出す。俺の聞き込みに対し、彼女は「大事なものを失くしたばかりなんで、何だか縁起が悪く感じちゃって」と返した。あのとき、具体的に何を失くしたのか尋ねておけばよかった。彼女は〝写真に撮り、現像して持ち歩いていた卒業アルバムの寄せ書き〟をどこかで落としてしまったのだ。そこに親友の安否を重ねてしまうのも無理はない。
波久亜学園で教育を受け、難関大学を目指していたのは美園も蜂須も同じだった。しかしどちらも本来の志望校に受かることができず、美園に至っては進学すら諦めざるを得なかった。これから社会人として旅館を救わねばならないという不安の中、彼女が心の支えとしたのが親友のメッセージだったのだろう。
ミノリ大学でも親友でいてね。結局叶うことはなかったが、お守りとして持ち歩くほどに大切な言葉だ。
美園は蜂須を裏切ったわけではない。ただ、運が悪かったのだ。肌身離さず持ち歩いていたからこそ写真を落とし、それを拾った人間がわざわざデータ化して、ネットの海に流した。蜂須が炎上している今なら話題になると考えて。
(これ、後で蜂須さんに伝えておこう……)
美園はどこかネットに疎そうな雰囲気があったから、自分が原因で事件が起きたことには気付いていないのだろう。当人から真相が語られることはなさそうだ。今さら仲違いすることもないと思うが、懸念事項は潰しておいた方がいい。美園は何も悪くない。それどころか、ずっとあなたの言葉を携えて生きてきたんですよ――そう伝えたなら、蜂須は安心してくれるだろうか。
そんなことを考えたとき、ドアが再びノックされるのを聞いた。
「ソラくん、ここにいたんだ」
返事をする前に入ってきたのは蝶野だった。彼は俺のいるデスクまで歩み寄ると、当然のように隣に座る。USBメモリを持っていた。
「これ、昔のアラクネの写真」
「ありがとうございます」
写真集めはマリア以外にも頼んでいた。視点は多い方がいいと考えたからだ。やっぱり普通は現像なんてしないよな、と思いつつ、メモリをポケットに仕舞う。案の定というか、いつものことというか、蝶野は立ち去ろうとしなかった。椅子を斜め四十五度に回し、完全にこちらと話し込む体勢だ。
「ひとりで解決できたじゃん、ソラくん」
隣の席で頬杖をつき、囲い込むように半身を傾ける。そんな状態で蝶野は言った。予想できなかった言葉に俺は面食らう。
「何のことですか?」
「るりちゃんの捜索。ソラくんが見つけてくれたって、聞いたよ」
ああ、そのことか。確かに、最初にスタジオへ到着したのは俺だった。とはいえ、ただ順番がそうだったというだけだ。直後にマリアも来ている。蜂須を連れ戻すことができたのは、彼女の説得のおかげだ。
「別にひとりじゃ解決できてませんよ。マリアさんもすぐに追いつきましたし。蝶野さんや風見さんも、近くを探し回っていたんでしょう?」
「うん。でも、ソラくんが引き留めていなかったらまずかったと思う」
「ああ、また移動するかもしれないから……?」
「というより、もし動画撮影が済んでいたら取り返しがつかなかったかもね」
動画撮影……というのは、蜂須が引退を表明するために撮ろうとしていた動画のことだろうか。アラクネにはYouTubeチャンネルから入ったファンが多く、文面による報告だけでは周知できない可能性が高い。だから動画が必要になるし、その用意を済ませておくことで覚悟を示すことができる。
動画撮影が済んだ時点で、計画は一歩進むことになる。
それは理解できるものの。
「取り返しはつくでしょう。マリアさんが説得してくれたんですから」
そう、結局はマリアの功績なのだ。どれほど心が固まっていようと、あんなに泣きつかれてまだ引退を考える者などいない。必要なのは、いざというときに抱きしめてくれる人。自分のために泣いてくれる人。俺にはそんな相手がいるだろうか、と一抹の寂しさを感じる。
しかし蝶野は、ゆるりと首を振ってから告げた。
「分からないよ。撮影した動画をすぐに投稿する権限、るりちゃんも持ってるんだから。僕たちが止める前にアップされちゃってたら、終わりだったよね。今のアラクネの規模だと、数時間後にはネットニュースになっていただろうし」
「まさか、勝手に投稿するなんてことは……」
さすがにあり得ない。日頃から奇行の激しいあなたならともかく、という言葉を飲み込んだ。蝶野の方も口をつぐみ、この話はこれで終わる。何はともあれ、蜂須は戻ってきてくれたのだ。今はそれだけを噛みしめていればいい。
だが、話題がひとつ尽きても立ち去らないのが蝶野という男で。
これは「お喋りしたいモード」に入っているのだな、と感じる。仕方がない。こちらも急ぎの用はないことだし、少し付き合ってやるか。何か題材はないかと机の上を見渡せば、蜂須が本を置き忘れていったことに気付いた。
「珍しい。蜂須さんの忘れ物だ」
忘れ物自体も珍しいが、紙の本を使っていることも珍しい。彼女は電子書籍派だ。青い表紙の参考書の上に、リボンを通した栞が置かれていた。ただの短冊形ではなく中央に細いスリットが入っている。紙面に重ねると、ちょうどその隙間に一行分が収まることだろう。まるで、スポットライトを当てるかのように。
「蜂須さんって、もしかしてディスレクシアなんでしょうか」
ふと、蝶野にそんな質問を投げかけていた。しまった、もっと段階を踏んで話すつもりだったのに。でも、俺の中では昨夜から考え続けていたことだ。あれほど真面目で努力家な彼女が、なぜ志望校に合格できなかったのか。いや、他人の受験について分析するなんておこがましい話なのだが――根本的な、どうしようもない理由があったような気がしてならないのだ。
タブレットを手放さず、よほどのことがなければ文字を書くことがない。実際、彼女の筆跡は子供がお手本を元に書いたみたいだった。紙の本が苦手。ファンから届いた手紙も、自分では読まずにマリアに読み上げてもらっていた。早押しクイズは楽勝だったのに、筆記形式になった途端にぐちゃぐちゃになって。唯一書けたのは、自分の本名にも含まれる「蓮」という漢字で。
「それ、本人じゃなくて僕に訊いちゃうんだ?」
蝶野は口の端を上げる。嘲笑っているようにも感じる、含みのある声色だった。もし本当にそう思われていても仕方がない。蜂須の抱えているハンデについて答え合わせがしたければ、本人に確かめるのが筋だろう。他人に言いふらして何になるのか。そう考えるのが普通であることは、分かっていた。
でも、俺にとって蝶野は単なる先輩ではない。俺が花房を傷つけてしまったとき。風見とマリアが衝突し、収拾がつかなくなったとき。おおっぴらに助けるわけではないが、最小限の行動で最大の結果をもたらしてくれた。日頃からメンバーをよく観察し、幅広い知識を持っていないと成し得ないことだ。
「すみません。蝶野さんなら何か知っていると思って……」
「ま、本人には言いづらいよね! るりちゃん、自覚していないみたいだし」
先ほどの言葉とは一転、明るい調子で返されたので安堵する。よかった。幻滅されたわけではなかったのか。彼は参考書の上にある栞を指し、言葉を続けた。
「僕がプレゼントしたんだよ。これを使ったら本が読みやすくなるよ、って」
「ということは、やっぱり……」
「微妙なところなんだよね。検査するように促すことも考えたけど、すごく困っているわけじゃないならいいかな、って。色々と道具を使って工夫しているようだし。るりちゃんの使っているタブレット、読んでいる行がマーカーされるアプリが入ってるの。だから普通に読書も勉強もできる。でも、学校に通っていた頃は大変だったと思うなぁ」
ディスレクシアとは学習障害の一種だ。俺たちが普通に読み書きできる内容でも、どうしても困難に感じてしまう人たちがいる。少しでも行間が詰まれば読みづらくなり、文字を書こうとしても形が思い出せず、単純な書き取り作業にも大きな苦労が伴う。完全に不可能なわけではないために誤解を招きやすく、本人ですら努力や勉強が足りないだけだと思い込んでしまうケースが多い。
振り返ってみれば、蜂須の苦手とすることはディスレクシアと一致する……ような気がする。子供の頃の様子が分かれば、もっとはっきりするのだが。とはいえ、観察眼の鋭い蝶野が「微妙なところ」と言う程度の症状なら、特別な配慮も必要ないのだろう。本人が可能な範囲で対処をして、それで上手く回っているようだ。
「今の俺たちは、ガラスペンで勉強したって叱られませんものね」
ぽつりと呟いた言葉に対し、蝶野は不思議そうな顔をした。さすがに言葉を省きすぎたか。俺自身の受験生時代を思い出す度に、ちくりと過る思い出がある。それに絡めて話さないと伝わらないことだ。
そして、彼になら話してもいいと思えた。
「他人からは効率が悪いように見えても、自分に合った方法があるってことですよ。机に向かって勉強する気が起きないのなら、まずはガラスペンを手に取ってみる。綺麗なペンとインクで教科書を書き写してみる。それだけでも記憶に残るものです。でも、こういう姿を大人に見られると、遊んでいる場合じゃないって叱られちゃうんですよね」
勉強の方法なんて人それぞれなのに、どうして「机に向かって手を動かしている」姿だけを誉めそやすのだろう。ノートと鉛筆ではなく、タブレットと電子書籍を与えられていたら、蜂須の成績も見違えるものになっていたのではないか。俺だって、お気に入りのガラスペンが捨てられていなかったら、志望校も変わっていたかもしれない。まあ、遠い可能性の話だ。今さら振り返っても意味はない。
ただ大切なのは、もう誰も俺たちの宝物を捨てはしない、ということだ。
「捨てられちゃったんだ? ガラスペン」
「そうなんです! せっかく、あれを使ったらやる気が出るようになってたのに」
「パブロフの犬だね。やる気の条件付けは実際に有効だよ。コーヒーを飲んだら仕事のスイッチが入るだとか、大人もよくやることだと思うけど」
「子供が自分なりの方法でやる気を出そうとした途端に、それは遊びだ、と叱るなんておかしいですよね」
この人に話を聞いてもらうと、嫌な思い出も過去のものとして消化されていく気がする。決して忘れ去るわけではないけれど、もういいじゃないかと思えるような。俺にとって蝶野はただの先輩ではない。他の幹部メンバーとも異なる位置にいる。上手く言語化できないが、彼を頼れば大丈夫だという圧倒的な信頼があるのだ。
「そうだ、これを渡そうと思っていたんだ」
ふと蝶野が呟いて立ち上がる。資料室の棚を探ると、長方形の箱を携えて戻ってきた。参考書の隙間から平然と取り出すものだから、まるで手品のようだ。そんなところに何を置いていたのだろう、と目を凝らしてみる。
「ガラスペンだ……!」
思わず声が出た。優美な形のガラスペンが、包装フィルムの向こうに見えたのだ。溝を作るべく捻られたペン先と、それを延長して緩やかに半回転する軸。内側にはクラックガラスが封じ込められており、まばゆいばかりの輝きを放っている。鮮やかなエメラルドグリーン。ガラスのひび割れが、蝶の翅を思い出させた。
「これ、どうしたんですか」
ガラスペンについて話した直後に、本物のガラスペンが現れるなんて。何のために用意したのだろう。まさか、俺がガラスペンを使うことを勧めた、あの相談者に渡すわけじゃないよな。直接のやり取りは禁止されているはずだ。
驚きを隠せない俺の手元に、その箱が差し出された。
「あげる。ソラくんにプレゼント」
「どうして俺の誕生日、知っているんですか?」
ちょうど今日、二十二歳になったのだ。アラクネの人に教えた覚えはない。友人である花房ですら、まだ知らないはずだ。でも、蝶野なら俺の履歴書を見ているはずだから……と考えかけたが、あんなものは一瞬だったと首を振る。雇用契約を交わす書類には生年月日を記入したが、蜂須が勝手に口外するはずもないし。
その真相はごく単純なものだった。
「え? 誕生日だったの?」
皆に伝えなきゃ、と部屋を飛び出そうとするので、慌てて引き留める。なんだ、単なる偶然か。それはそれで嬉しいけれど。
「いいんですか、いただいちゃって」
箱に入ったガラスペンを眺めながら、俺は言った。本当は蝶野の顔を見ながら話すべきなのに、どうしても目を離すことができない。角度を変える度にきらきらと輝くペン軸が、記憶の中のものと重なって……。
いや、俺の使っていたものは、もっと安価で地味だった。色はとても似ているが。あのことはもう忘れよう。いつまでも引きずっていたって仕方がない。今日から俺は特別なガラスペンと生きることができるのだから。
「ソラくんに似合うと思ったから、あげたくなったんだよね」
「ありがとうございます。これ、出してもいいですか」
「もちろん。もう君のものだよ」
元より中身の分かる包装だったが、取り出してみると一層に美しい。指に挟んで眼前にかざす。色ガラスの向こうに、ゆらりと歪んだ蝶野の姿が見えた。
「二十二歳になったんだね。ふじのんと同い年だ」
彼がそう話すので、ガラスペンを箱に戻してから応えた。
「はい、二十二歳です。花房は誕生日がまだ来ていないんですね」
「うん。あの子はクリスマス生まれだから。十二月だよ」
クリスマスといえば、アラクネが五周年を迎える頃でもある。そのとき、俺はどんな立場にいるのだろう。あと二ヶ月で就職先は決まるのだろうか。そもそも、生涯の仕事として何かを選ぶことができているのか? このままアラクネに籍を置き続けることも可能だとは思うが、あまりに流されすぎている気もする。
ここに来てから半年間。そんなつもりはなかったのに、幹部メンバーの過去を次々と知ってしまった。花房、マリア、風見、蜂須。みんな雲の上の存在だと思っていたが、それぞれ苦悩を抱えて生きてきたのだ。何の悩みもない天国で生まれたわけではない。
蝶野は――どうなんだろう。
彼も何かを抱えているのだろうか。まだ分からない。全く読み取れない。そっと顔を伺ってみれば、不思議そうな視線が返された。その胸元で、かつては空を飛び回っていた蝶の翅が銀枠に囚われている。
――いつか、どこか遠くへ飛んで行ってしまいそうな人だな。
そんな根拠のないことを、ふと、考えた。
〈Q3・それは何通りある? 終〉
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