Arachne ~君のために垂らす蜘蛛の糸~

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Q3・それは何通りある?

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 移動中、スマホの画面で『クエスチョン5』の配信を視聴した。既にダウンロードしてあるので、通信量の心配はない。当然だが、花房と一緒にテレビで観たときと何も変わらなかった。ひとりずつ交代していく早押しクイズ。答えが分かった者から司会者に耳打ちをして抜けていくクイズ。どれも蜂須は好成績だった。チームメンバーが詰まったときに代打を申し出ることもあって、さすが俺たちの社長だと誇らしく感じたものだ。

 だが、最後に追加された四字熟語クイズだけは上手くいかなくて。正解できたのは「一蓮托生」という比較的簡単なものだけ。しかも彼女は、三番目の席から二番目の席へと移動させてもらっていた。「托」の字に自信がなかったのか。切り抜かれて転載されたのは、この瞬間の光景だ。彼女の前のボードには、ぎこちない筆跡の「蓮」が書かれている。投稿者は「スクショ」と称して貼り付けていたが、実際はスマホカメラによる写真だろう。テレビの画面を正面から撮ったもの。画質が荒いし、少し傾いている。

(まさか、これらの画像が結びついてしまうなんてなぁ……)

 偶然というものは恐ろしい。だが、アラクネのチャンネル登録者数は百万人を超えている。それだけの人数が目を光らせていれば、秘密を隠し通すことなど無茶な話なのかもしれない。

 スレッドに貼られていた画像をもう一度確かめた。何度もあの記事を見るのは辛いので、自分のスマホに保存済みだ。テレビ画面をスマホで撮影したものと、卒業アルバムの一ページを撮影したもの。スワイプしながら見比べてみると、縦横比が微妙に異なっていることに気付いた。変だな。どちらもスマホカメラでの一発撮りのように思えるのだが。

 トリミングしたのだろうか。あるいは、撮影したカメラの設定が異なるのか。卒業アルバムの方はガラケーを使っている可能性もある。この違いから何かに思い至りそうな気がしたのだが、俺の思考よりも電車の走るスピードの方が速かった。

 間もなく、電車は終点で停まった。

 ベルの音と共に足を踏み出す。ホームに立ち、柵越しに周囲を窺った。喫茶店でもあれば立ち寄ろうと思ったのだが、見事にひとつも見当たらない。今度こそ無人の改札口を抜け、駅前の通りをあてもなく歩く。まばらに民家が見えたが、インターホンを鳴らして聞き込みをするだけの気力は残っていなかった。

 コンビニはもちろん、売店も飲食店も現れない。この光景は蜂須にとっても同じだったはずで、いったいどこへ向かったのか見当もつかなかった。たとえば知人がここに住んでいて、その家に匿ってもらっているのだとすればお手上げだ。思えば偶然に助けられてばかりの追跡だったし、ここで途切れてしまっても無理はない。

 ただ俺が諦めきれないだけ。惰性で追いかけているだけ。この行動に意味はない。そんな考えが、胸の内に垂れこめる。きっと戻ってくると風見も言っていたじゃないか。俺なんかより、四年連れ添った風見の見立ての方がよっぽど信頼できる。

 でも、本当にこれでいいのか?

 電車を乗り継いで移動している最中、蜂須には考える時間が十分にあったはずだ。秋の穏やかな風が吹き込む車内、自身やアラクネの今後について想いを巡らせたことだろう。それは次第に成熟し、最後の駅に降り立つ頃にはすっかり固まっていて。あとは行動に移すだけ。そんな状況で、彼女が目にしたものは何だったのか。

「撮影スタジオ……?」

 ぽつぽつと民家が並ぶ道の途中、唐突に現れた施設に足を止める。白い壁が眩しい二階建ての建物。西洋風の窓が美しく整列している。見た目はカフェかホテルのようだが、看板には〈スタジオ〉と記されていた。すぐ後ろまで木々が迫っており、色とりどりの紅葉が覆い尽さんばかりに降り注ぐ。あちら側の窓を開けていれば、室内まで落ち葉で埋まってしまいそうなほどに。駅からそれなりに歩かなければ行き着けない立地。明らかに場違いだが、確かに存在している。あるものはあるのだから、蜂須が入った可能性は捨てきれない。

「動画撮影可、機材貸出あり、時間制で貸切可……」

 看板の添え書きを読み上げる。こんなところで撮影をする人なんているのか、と訝しんだが、直後に思い浮かぶ光景があった。需要ならある。今日に限った話だが、その需要を抱える人物がここを通りがかったかもしれない。

 マリアが自身の経歴を公表したとき、それは文書と動画の両方で掲載された。アラクネの本業はサイト運営なのだが、今となっては動画の視聴者の方が多い。重要な報告をサイトに掲載しても、知らないままでいるリスナーが多かった。ということは、蜂須が引退を発表するときも動画が必要になるはずで……。

「まさか……!」

 オフィスの撮影部屋は使えない。戻ってくるや否や、スタッフ総出で説得されるだろうから。適当なビジネスホテルなどで撮るわけにもいかない。花房と動画を作るようになってから知ったことだが、撮影というものは案外と細やかな準備が要るのだ。少しでも雑な照明を使えば途端に安っぽくなってしまう。蜂須瑠璃子としての最後の動画なのだから、妥協はできないはず。とはいえ「すぐに」撮る必要もある。部下との対話を重ね、了承を得てから作ったのでは遅すぎる。その対話の切り札として使うつもりなのだから。

 どこで動画を撮ろう、と考えながら歩く蜂須の前に、白亜のスタジオが現れた。最初からここを目指していたわけではなく、全くの偶然に。今の俺はその状況を追体験している。

「すみません!」

 全速力で入口に駆け寄り、ガラスの嵌まった扉を押し開けた。広くすっきりとした店内に、気難しそうな男性がひとりで座っている。他に人影はない。もう立ち去ってしまったか、そもそも見当違いだったのか。軽い絶望を覚えながらも、掠れた声で問いかけた。

「あの、ここに蜂須瑠璃子さんは……」

 容姿を伝えなければ質問にならない、と気付く余裕もなく。それでもなぜか、彼は不審がらずに受け入れてくれた。ゆっくりと椅子から腰を離し、右手を上げる。天井の方へとまっすぐ。俺も視線をそちらへ向けた。

「二階にいるよ。ひとりで撮影したいと言われたんで、全部任せている。機材の扱いには慣れている様子だったからね」
「本当ですか!」

 はずむように頭を下げると、案内されるままに階段を上った。店主を置き去りにして二階へ到達する。直後、全身を風に包まれた。窓が大きく開いている。ああ、落ち葉が舞い込んでしまうのに――と、場違いなことを考えてしまって。

 その窓を閉めようとしている女性と目が合った。

「蜂須さん……」

 気持ちは急いているのに、大きな声が出せない。でも、それで十分だったように思う。彼女は俺の方を振り返ると、窓枠から手を離して歩み寄ってきた。

「どうして、ここが分かったの……?」

 機材を間に挟んで立ち止まる。完全にこちら側へは来てくれない。この位置関係だと、あたかも俺がカメラマンみたいじゃないか。本当は縋りつきたいくらいの気持ちなのに、間に引かれた見えない線を越えることができなかった。言いたいことは山ほどある。でも、先に質問をしてきたのはあちらだ。それに答えなければ。

「蜂須さんの話から、ご友人が切り盛りしている旅館を特定しました」

 まずは一手目。有給をとったものの家に帰る気にもならず、カフェで考えた推理から全ては始まった。

「その旅館へ行って、女将さんと運転手さんに聞き込みをしました。蜂須さんが朝早くに出発したこと、そして都内へ帰るルートとは逆方向の電車に乗ったことを知れました」
「ええ、それで?」

 彼女の穏やかな相槌に、勉強を教えてもらっているような感覚になる。どのような道筋で問題を解いたのか、優しく確認されているときと同じだ。嫌な先生は途中で駄目出しをしてくるが、蜂須は決してそんなことをしない。だから俺も安心して続きを話すことができた。

「途中の駅で降りる理由が見つからなかったので、終点まで行きました。売店でまた聞き込みをして、このルートが間違っていなかったことを確かめて……」
「そう、途中で確認することができたのね」
「最初の電車は終点まで乗ったのだから、次も終点まで行くだろうと予想しました。そこまでは良かったんですが、これ以上先へ進む路線がなくて。歩くことしかできないので、やみくもに歩き回って……いつの間にか、ここに着いていました」

 話しながら情けない気持ちになってくる。なんてお粗末な捜索だろう。もしマリアたちと旅館に来ていたら、もっとスマートに動くことができただろうに。薄い根拠に基づいて電車を乗り継ぎ、最終的にはただ歩き回るだけ。たまたまここを見つけることができたから良いものの――いや、まだ「良い」とは決まっていないのか。俺ごときが引き留めに来たくらいで、蜂須の心が変わるはずもない。

「本当に、ただの偶然なんです。何ひとつ賢いことはできていない。あてずっぽうで問題を解いたみたいなものだ……。こんな解答じゃ駄目ですよね。こんな俺が何を言っても、決めたことは変わらないですよね……?」

 ふたりの間にあるカメラへ視線を向ける。これが何を意味するのか、言葉に表さなくても把握していた。オフィスでも自宅でも撮れない動画。わざわざスタジオを貸し切り、店主まで締め出した上で撮影に挑む動画。たかが母校がバレただけ、などという慰めは通じない。彼女がアラクネを立ち上げたときから、こういった事態が起きればこうするということが決まっていたのだろう。過去を隠し通すために偽名まで使っていたのだから。

「いいえ、あなたはちゃんと賢いわ」

 カメラの前で佇んだまま、蜂須は唇を動かした。白いフレアスカートが揺らめいている。まるで画面越しに眺めているかのように、現実味を感じられなかった。

「まず起点となる推測をしたでしょう? 私の提示した条件を元に、符合する結果を探したのね。それから実際にそこへ赴いて、次の情報を獲得した。途中の駅で降りる理由がないので終点まで行ったはず、というのも立派な論理的思考よ。中盤でルートの確認ができたのも良かったわね。最後は総当たりになってしまったけれど、数学にもそういう問題はたくさんあるわ」
「そんな、試験の解説みたいに言われても……」
「ご不満かしら。でも、人生って数学の大問みたいなものだと思わない? 最初のうちは理解できるのよ。誘導として小問が用意されているから。後になるにつれて、自分自身の力で解法を見つけなくちゃならないのが難しいのよね」

 そうやって、蜂須も誤答してしまったのだろうか。難関大学だけを目指し、幼少期から自身にかけられ続けてきた期待と投資。どうするべきなのかは明らかなのに、どうやってそこに到達すればいいのか分からない。小問による誘導はあった。周囲の者は皆、それに従ってどんどん先の問題まで解けるようになった。だがそれが出題である以上――大勢をふるいにかけるためのものである以上、全員が完答できるわけではなくて。

「失敗したと思っているんですか」

 自分の人生について。そう付け足した声は口の中で溶けていったが、ちゃんと聞き取ってもらえたようだ。彼女はまっすぐこちらを見据え、唇を動かした。

「失敗じゃなかったら何だったというの」

 波久亜学園からミノリ大へ。それまでにかかった学費のことを考えれば、期待していたものとは程遠い。あのスレッドに集っていた人間のみならず、大多数がそう考えることだろう。 

 美園のように事情があるわけでもなく。柳田の息子のように、普通の高校からの大躍進でもない。せめて何か、言い訳にできる理由があれば。せめて、メイカ大にでも引っ掛かっていれば。必死になって探してみても現実は現実で。降り注ぐ批判と攻撃を甘んじて受け止めるしかない。

 そう考えてしまうほどに、蜂須は追い詰められている。

「蜂須さんは、アラクネを立ち上げたじゃないですか。順調に大きくなって、チャンネル登録者も増えて。それも失敗だったと言うんですか……?」
「ええ、そうね」

 笑顔を保ったままなのが恐ろしい。俺は俯いてしまった。アラクネが失敗だった、という言葉はショックだが、きっと額面通りに受け取るべきではない。俺の考えと彼女の考えは次元が違う。彼女の話す「失敗」は、全てが投資基準だ。依頼されていないものを立派に作り上げたところで、何の報告もできない。アラクネによって何人救われようと、どれほど大きな企業になろうと、それは一切関係なくて。

 薄布を掛けられたかのようにぼんやりとした思考の中、蜂須の声が漂った。

「失敗だと分かった上で、私はアラクネを作ったのよ。罪滅ぼしを脇に置いてでも、先に実現させたかった。一年足らずで優秀な人材が集まってくれたことには、感謝してもしきれないわ。不意に私がいなくなっても、こうやって追いかけてくれる部下もいる。最高に幸せよ」

 そう、これは誇りに思うことなのだ。俺はいま最大限に褒められている。失敗だったとしても出会えて良かった、と。親の望み通りに生きていたなら、こんな出会いはあっただろうか。

 アラクネが軌道に乗って良かった。頼りになる部下たちで良かった。社長が一週間姿を消しても、ちゃんと仕事が回ると証明された。蜂須は幸せ者だし、部下である俺たちだって最高に幸せだ。

「でもね、この出題で問われているのは『蜂須瑠璃子の幸せ』ではないの」
「そんな……」
「あら、当然のことでしょう?」

 ここに立っているのは、本当に蜂須瑠璃子なのか。それとも、三神蓮子として彼女は話しているのだろうか。彼女に施された教育は、必ずしも親のエゴだというわけではなかった。波久亜学園の出身者は品がある、と運転手が言っていたとおり、間違いなく彼女自身の血肉にもなったはずだ。

 だが、それはあくまで「三神蓮子」の将来のためだ。
 偽名として生まれた「蜂須瑠璃子」など、両親はあずかり知らなくて。

「全部、受験が終わってからのことだもの。試験終了の合図の後に何を書いたって、得点にならないのは当たり前のことよ。挽回なんてあり得ないの。失敗したまま全てが終わって、それを見て見ぬふりしながら別のことを始めたというだけ」

 そう、あとは贖罪をするのみ。アラクネがどれだけ成長しようと、それをもって埋め合わせとするつもりはないのだろう。俺は彼女の両親と会ったことがないし、実際にどう思っているのか分からない。だが、百万人を超える視聴者を抱え、ひとつの企業を運営している娘を失敗だなんて感じようがない――と思う。トウキ大やケイト大に合格するよりも、ずっと大きなことを成し遂げた。だからもう気にしなくていい。俺が親だったらそう伝える。

 とはいえ、最後に決めるのは本人と大衆だ。たった一枚の画像が流出しただけで、有象無象があれほど騒ぎ立てた。アラクネのトップは失敗作だと糾弾した。自分はふさわしくないのだと、そう感じてしまった蜂須を引き留めることは難しい。

「これでもう、ひと段落ついたわね。私が受けた仕事は済んでいますし、いざとなれば社長業務もこなせるようにとマリアに引き継いでいるわ。契約回りの処理を終えれば、すぐに引退できます。新社長として、あの子をよろしくお願いしますね」

 勝手にするすると決めていく。早ければ早いほどいい、とでも言いたげに。まるで俺が追い出したみたいじゃないか。今すぐいなくなれ、顔も見たくない、と訴えているようじゃないか。そんなはずがない。誰もあなたの引退なんて望んでいない。そう伝えたいが、彼女の考えていることも理解できてしまう自分がいた。

 彼女が消え、アラクネがマリアに引き継がれれば、少なくとも世間は納得する。恵まれた環境にいたのに結果を出せなかった者。何もかも奪われたのに意地でも食らいついた者。どちらが大衆に好かれるのかなんて、一目瞭然だ。
そしてアラクネの血肉となっているのは、そんな大勢の支援や認知なのだ。

「マリアはストイックなところがありますから、ひとりに任せると仕事を抱えすぎないか心配ね。この機会に副社長の役職を設けるべきかしら。まあ、それは後ほど決めるとして――」
「待って、勝手に進めないでください!」
「あら、大丈夫よ。マリアのことはあなたもよく知っているでしょう?」
「そういう問題じゃなくて! 俺は、蜂須さんが辞める必要なんて無いと――」

 拙い語彙による説得を、必死にぶつけようとしたとき。階下でドタバタと人の暴れるような音が聞こえた。侵入しようとする者とそれを止める者。言い争う声。すわ強盗かと思ったが、それらの声に覚えがあった。片方は先ほど会ったばかりのダウナーな店主。もうひとりは――

「社長!」

 階段を駆け上がってくる足音。アスリートのようなテンポとスピードで、あっという間にここまで到達する。長い髪の女性が現れ、素早く辺りを見渡した。

「マリア……?」
「蜂須さん! 蜂須さん、こんなところにいた……」

 普段の彼女からは想像もつかない、床を踏み抜きそうなほどに激しい動き。一気に距離を詰めると、俺がどうしても越えられなかったカメラの境界を、あっさり無視して飛びついた。蜂須の体躯が折れそうになる。それでも何とか踏ん張り、バランスをとるために背中へと腕を回した。

「良かった、本当に良かった……。蜂須さんがいなくなってしまったら、私、どうなっていたことか……」

 水音の混ざる声。マリアが泣いている。風見に逆鱗を撫でられた時ですら、決して涙を見せなかった彼女が、今回ばかりは明らかに号泣していた。顔を窺えない位置にいる俺にも伝わってくる。

「マリア、どうしてここが……」
「そんなの……」

 答えようとしたマリアの声が詰まる。嗚咽に埋もれていく。もうしばらく待たなければ、詳細な説明を聞けそうになかった。蝶野や風見が現れる気配はない。俺が居場所を伝えて呼んだわけでもない。彼女は単独でここを見つけ出したのだ。

 先に動き始めた俺と大差ないということは、やはり効率的な計算方法があったのだろう。偶然と総当たりに頼って動くのではなく、大切な人を確実に見つけ出すため、マリアは頭を使った。彼女にできて、俺にはできないことだ。俺みたいな人間が、永遠に社会から必要とされない理由。

「俺、この場所のことは教えていませんからね」

 マリアの肩越しに、蜂須と視線が合う。うっかり自分の功績になってしまわないように釘を刺した。結局、正しい計算ができたのはマリアの方だ。俺のやり方も賢いと言ってもらえたが、彼女の行動を聞いてもまだその考えを保てるだろうか? 答え合わせをすればすぐに分かることだ。

 さて、彼女はいったい、どんな方法を使ってここを突き止めたのか。

「そんなの、しらみつぶしに探し回ったに決まっているじゃないですか!」

 答えは、思っていたよりも早く聞けた。ぐずぐずと止まらない涙を流しながらも、マリアは振りきるように叫ぶ。先ほどまで悶々と巡っていた俺の自嘲を吹き飛ばす勢いで。

「湯花旅館を出発したのが今日の早朝。そこから移動できる範囲を全て、風見さんや蝶野さんと分担して探していたんです。こっそり家に寄ることもできないよう、そちらは花房くんに見張っていてもらいました。誰が最初に見つけたって構わない。どんなに非効率的でも、じっとしているよりマシです。それぞれ車を使って、可能性のあるところは片っ端から訪問して、蜂須さんが来ていないか調べました。何です? もっと賢い方法じゃなければ納得できませんか!?」

 もっと賢い方法。あくまで相対的な比較だが、それに該当するのが俺のやり方だろう。ある程度の予測を立ててから動いたし、聞き込みによる確認も挟んだ。むしろ何の捻りもない手段をマリアがとり、俺の方が効率的な捜索を実行したのだ。

 まさか、立場が逆転してしまうとは。

 でもよく考えてみれば、十分にあり得る話だった。これは試験問題ではない。マリアが最も大切に想う相手の一大事なのだから。

「蜂須さんが納得できなくたって、これは正解なんですよ! 試験でもそうじゃないですか。場合の数の問題、全部書き出して答えた生徒を不正解にします?」

 場合の数。つまり、条件を満たす組み合わせはいくつあるのかを答える問題だ。ロゴの配色について蜂須に相談した日のことを思い出した。

 五角形、およびその各頂点から伸ばした線によって作られた地図を四色で塗り分けるとき、それは何通りある? 結果は120通りで、全てを書き出して数えることは難しい。難しいが、不可能ではない。悩む前に作業を始めていれば、蜂須やプログラマに頼ることなく目的を達成できたはずなのだ。

 なんだ、正解へたどり着く方法はいくらでもあるじゃないか。

 そう考えた途端、足がすんなりと動くのを感じた。カメラの脇を通り、抱き合っているふたりのそばに立つ。俺の気配を感じた彼女らは身を離した。まだマリアの目元は潤んでいたが、ようやく泣きやんだようだ。かなりギリギリではあるが。

「こんなに泣いてくれる人がいて、まだ戻ってこないつもりなんですか」

 声を掛けると、蜂須は呆然とした表情をこちらへ向けた。先ほどまで全身にまとっていた、悟りきった空気は消えている。

「ごめんなさい……私、まさかこんなことになるとは思わなくて……」

 きっと、蜂須はこの瞬間まで、自分の行為が部下たちを悲しませたことに気付いていなかったのだと思う。こうやってマリアに抱きつかれ、大泣きされ、合理性の欠片もない捜索方法を告白されるまで。自分の存在に価値など感じておらず、だからこそ消えてしまっても問題はないと考えていた。

 その証拠に、俺に見つかったときには謝罪をしていない。ただ「どうしてここが分かったの」と尋ねるだけで、心配をかけたことに関しては言及しなかったのだ。普段はどんな些事にも責任を感じ、自分のせいでなくとも頭を下げて回っていた蜂須が、自らの失踪については詫びていない。

 「失敗」が明るみに出た社長なんてもう要らない。引退を発表する動画を用意し、それを携えてオフィスに戻れば、むしろ褒めてもらえる。喜んでもらえる。そんな認識すら抱いていたのだろう。

「ごめんなさい。私、本当に迷惑を掛けたわね……」
「そうですよ、少なくともこれに関しては!」

 マリアが即答する。普段より声が大きいのは、そうしないと涙の方が先に出てしまうからだろう。しかし少しは余裕が出てきたようで、笑顔を作ろうとする様子が見られた。

「移動するのに使ったお金、経費で落としてもらいますからね」
「それはもちろんですけど……鳥辺野くん以外は、車を使って来たのよね? 遠距離の運転、風見さんは大丈夫だったの?」
「あの人は私の助手席です。駅に着いてからはタクシーを拾いました。早く無事を伝えないと、どんどん費用がかさみますよ」

 マリアは鞄からスマホを取り出し、蜂須に渡す。既に発信ボタンは押されていた。強制的に繋がった電話を前に、彼女はわずかな逡巡を見せる。しかし意を決したように手を伸ばし、耳元に添えた。

「蜂須です。本当にごめんなさい……」

 風見と話している声が震え、やがて涙まじりになる。誰もが必死に自分を探していたということを、やっと実感できたのだろうか。いなくなってほしいわけがない。なにしろ、あのマリアが合理的な解法を投げ出すほどの事態だったのだ。

「鳥辺野くん」

 なかなか終わらない通話を眺めながら、マリアが俺に話しかけてきた。眠りについた子供の傍らで語らうみたいに穏やかな声だった。

「ありがとう。先に蜂須さんを見つけてくれて」
「ええ、まあ……」

 ストレートに告げられると気恥ずかしい。彼女の方がよほど効率的に探すと思い込んでいただけに、まさか礼を言われる側になるとは考えもしなかった。だが、ここは素直に受け止めた方がいいだろう。

「お役に立てて良かったです。マリアさんも、ありがとうございました。その……俺だけじゃ説得できそうになかったから……」
「説得? 何の?」

 ああ、そうか。この人は自分が新社長になりかけていたことを知らないのか。二階で交わされている会話など知らず、ただ蜂須を見つけたい一心で飛び込んできた。スタジオの店主を振り払い、床を踏み抜く勢いで階段を駆け上がって。

 知らないのなら、知らないままの方がいい。
 そう考えた俺は、そっと視線を逸らしながら小さな嘘をついた。

「……いえ、何でもありません。全部解決しましたから」
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