Arachne ~君のために垂らす蜘蛛の糸~

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Q3・それは何通りある?

捜索開始

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   *

 びっくりするほど何もない駅だった。

 二時間半後、殺風景なホームに降り立って途方に暮れる。見渡す限りの森、緑、川のせせらぎ。気候が良いので快適ではあるが、進むべき方向すら分からない。藁にも縋る気持ちで錆びついた案内板を眺めた。

 地図上には確かに「湯花旅館」の文字がある。しかしそこへ続く道が分からない。正午前という半端な時間帯のため、通りがかる車もなかった。スマホの電波は弱々しいが、何とか繋がっている。散々迷った末、俺は再び湯花旅館に電話を掛けた。ただここにいることだけを伝え、一般の宿泊客だと勘違いしてもらう作戦だ。

「はーい、湯花旅館です」

 女性の明るい声がする。彼女が美園だろうか。それとも雇われているスタッフなのか。何となく声色を変えつつ、駅からからどう移動すればいいのか尋ねた。

「あれま。徒歩だと大変ですよ。こちらからお車を向かわせます」

 ありがたい。どうやら送迎車が来てくれるようだ。警戒されている様子もない。俺はベンチに座ってゆっくりと息を吐いた。

 記事では「湯花旅館、奇跡の復活」と記されていたが、かつての栄華には程遠いと感じる。旅館へ続く道は荒れ放題だし、観光客の姿も見えない。でも、それでいいのだと思える明るさが電話口の声にはあった。

 気軽な口ぶりから察するに、おそらく美園本人だろう。十代の頃から旅館を切り盛りしてきた貫禄。大抵の苦難は笑って乗り越えられるようになった人生経験。何とも見習いたいものだ。

 やがて、遠くから白いミニバンが近付いてくるのが見えた。降りてきた運転手に促され、後部座席に乗り込む。その瞬間、不意に自分の行為を客観視してしまった。泊まる予定もないのに車を出させるなんて、最低な客じゃないか。

 勢いというものは恐ろしい。何も言い出せないまま俺は旅館へ運ばれ、受付へと案内された。当然の流れだ。予約なしでも泊まれる程度には空いているらしく、部屋を選ぶように勧められる。そりゃそうだ。何も間違っていない。

「あの……実は、宿泊の予定ではなくて」

 思いきって白状した。きょとんとした顔の従業員に対し、お金は払いますから、と弁解する。アラクネという優良企業に雇われてからというもの、懐には多少の余裕があった。まあ、金を払うからといって迷惑をかけていいわけではないのだが。

「女将の和田美園さんはいらっしゃいますか」

 俺が質問を終えるや否や、スタッフの後ろから女性がもうひとり顔を出した。着物姿でやや小柄。歳は二十代の後半くらい。記事で見た写真からちょうど十年分を成長させれば、こんな雰囲気の容姿になる。和田美園本人に違いなかった。

「はい、私が和田ですよ。どうなさいました?」

 こちらが悩んでいることも吹き飛ぶような明るい声。旅館に来る客の中では、俺は若い方に入るはずだ。子ども扱いされている気配すらある。あの不審な電話を忘れてしまったのか? いや、それは都合が良すぎる。実際に来てしまったのだから受け入れるしかない、という切り替えの結果だろう。

「蜂須瑠璃子さんについてお尋ねしたいんです。一週間ほど前から、ここに泊まっていませんでしたか?」

 どうしても怪しい訊き方になってしまう。でも仕方がない。俺が持っているのは状況証拠に過ぎない。あんな反応をしたのだから何か知っているはずだろう、という程度の。美園は表情を引き締めると、手招きしてから廊下を歩き始めた。慌てて後を追う。やがてたどり着いたのは、簡易な応接室のような場だった。

「その確認をするためにここまで来たんですか? 所属を証明できるものはお持ちですよね?」
「あっ、その……」

 しどもどしながら一枚のカードを取り出す。何に使うわけでもないが貸与されている、顔写真つきのスタッフ証だ。美園はそれを受け取ったあと「少し借ります」と言い残して部屋を出た。通報されるのではと不安に駆られたが、さすがにそれはない、と自身に言い聞かせる。不法侵入ではない。脅迫でもない。まだ大丈夫だ。

 数分後、何事もなかったかのように美園が戻ってきた。スタッフ証も無事に返却される。俺はホッと息をついた。

「蓮子の立ち上げた会社のスタッフさんですね。なら、正直に話してもいいかな」

 どうやら信頼は得られたようだ。そして今の言葉で、俺の推理も証明された。本名のファーストネームで呼び合う関係。高校生時代の親友、ということで間違いないだろう。まだまだ解決には遠いとはいえ、ひとまずの安堵を覚える。それとは反対に、美園の顔にはじわじわと不安が浮かびつつあった。

「確かに蓮子はここに泊まっていましたよ。お仕事の息抜きだと言っていました。でも、今朝早くに発ったんです。元々ざっくりした予定ではあったけど、あんなに早く出ていくこともないのに、と思っていたところです」
「そうなんですか……」
「蓮子に何かあったんです? 私、大事なものを失くしたばかりなんで、何だか縁起が悪く感じちゃって」

 信心深いタイプなのか、美園はそう付け足した。自分の失せ物に結び付けて友人を心配するなんて、心根の優しい人だ。一刻も早く安心させてあげたいが、打つ手がないのは俺も同じだった。

「ちょっとした音信不通というか……。でも、休暇中ですし。あえて連絡を断っている可能性は十分にあるので、騒ぐのはまだ早いかと」

 適度に嘘を混ぜながら答えた。今の反応を見るに、美園は今朝からの騒ぎを知らない。蜂須が早朝に発った理由にも気付いていない。ここで真相を話しても混乱させるだけだ。ましてや、過去に自分が流した画像が原因だ、ともなれば。

 考えれば考えるほど、こんなに優しそうな人が寄せ書きを晒してしまった理由が分からない。蜂須にとっては唯一と呼べる親友だった。グループで共有し、そのうちのひとりが裏切った、という流れでもなさそうだ。もやもやするものの、今は追及している場合ではない。少なくともここにいたことがはっきりしたのだから、後は足取りを追うだけだ。

 そのとき、俺の鞄の中でスマホが振動を発した。ちらりと画面を見れば、マリアからの着信だ。ぎくりと緊張が走る。確かに彼女とは連絡先を交換したが、休日に掛けてくるような人ではないはず。何か起きたのか。それとも……。

 俺の勝手な行動が、バレたのか。

 さすがに放っておくことができず、美園に目配せをしてから立ち上がった。応接室の出入口付近まで移動する。視界の半分で廊下を、もう半分で美園の横顔を確かめながら、通話ボタンをタップした。

「鳥辺野くん。いま、蜂須さんの泊まった旅館にいるのね?」

 開口一番、言い当てられる。俺は天を仰いだ。こんな情報を提供できる人物はひとりしかいない。美園の方へ視線を向けると、彼女もこちらを見ていた。その両手が合わさり、顔の前で掲げられる。謝罪のポーズだ。そうか、スタッフ証を預かって姿を消したときに……。

「女将さんから連絡が来たわよ。鳥辺野ソラという青年は、アラクネのスタッフで間違いないですか、って。あなた、このために有給をとったの?」
「いえ、あのときはちゃんと休むつもりだったのですが……。色々と考えているうちに、思いついてしまったことがあって」

 経緯を正直に説明する。蜂須の言葉から親友の過去を推測し、旅館を特定したということ。まずは電話で確かめようとしたが、警戒されたので直接訪ねるしかないと考えたこと。しかし蜂須は早朝に発っており、もうここにいないということ。

「私も行きます」

 話を聞き終えたマリアは、明瞭に告げた。

「私と風見さんと蝶野さんとで分担して探します。旅館を発ったのは八時頃ですよね? 現在は十二時半……。交通の便の良くない地域ですから、そう遠くへは行けないでしょう。絶対に探し出します」

 彼女がそう言うのなら、本当に見つかりそうな気もする。風見は反対するかもしれないが、頼めば行動してくれるだろう。話し込んでいる時間も惜しいのか、通話はすぐに切られた。俺としても提供できる情報は他にないため、スマホを仕舞って美園の元へ戻る。

「来たばかりで申し訳ないのですが、駅まで送り返してもらえますか……」

 溢れんばかりの謝罪を声に乗せ、しおらしく頼んだ。美園が明るく了承してくれたので救われる。

「まあ、ここにいないんじゃ仕方がないですものね」
「すみません、本当に。お金は支払います」
「いいのよそんな。その代わり、ちゃんと見つかったら教えてね」

 また車に乗せてもらって駅へ向かう。移動中、運転手と少し話をした。彼はアラクネのことも蜂須のことも知らなかったが、若いのにきちんとした女性が来たものだと感心したそうだ。十代で旅館を継いだ美園のことも立派だと思っていたが、その友人である蜂須にも同じ空気を感じた。やはり波久亜学園出身の女性は芯がある、と繰り返す。

 確かに、人間の素養というものは教育の影響を大きく受ける。特に小中学生の間に得た経験は、一生携えていくことになるだろう。どんな大学に進もうと、波久亜学園で学んだことは決して消えない。

 やがて車が駅前に着く。ドアを閉める直前、運転手に尋ねてみた。

「今朝、蜂須さんをここで降ろしたとき、どちらのホームに向かったか覚えておられますか?」
「ああ……どっちだったかな」

 彼はホームを眺めながらしばらく考えた後、右手側を指した。都心へ戻るルートとは逆方向だ。ここからどのように路線が続いていくのか知らないが、どんどん山奥へと分け入ってしまうような気がする。

 やはり彼女は、行方をくらまそうとしているのか。

 運転手に何度も頭を下げた後、俺はそちらのホームに足を踏み入れた。運が良いことに次の電車は十五分後に来る。設置されている路線図で確認したところ、このあたりは短い路線がゆるやかに繋がりながら交通網を広げているようだ。終点まで行き着けば、少し歩いて別の駅へ。数駅だけ走ったらまた終点。その繰り返しによって、かろうじて山奥の集落まで人を運んでいる。

「とにかく終点まで乗ってみるか」

 何か具体的な目的がないのなら、蜂須もそうしたことだろう。途中の駅で降りる理由がない。かといって、終点まで乗ったところで何があるわけでもないのだが。ただ「遠くに行きたい」という願望は叶えることができる。都心から、オフィスから離れてずっと遠くへ。もう誰も追って来られないような場所へ。

 最初の終着駅に着く。思ったほど寂れたところではなく、駅員の姿も見えた。次の電車へ乗り込むためには少し歩く必要がある。改札を出て周囲を見渡すと、絵に描いたような田舎の売店があった。念のため尋ねてみるか。そう考えて歩み寄る。

「ごめんください」

 てっきりおばあちゃんが店番しているものだと思っていたが、顔を出した店員は意外にも若かった。蜂須と同じくらいか、少し年下か。

「今朝、黒髪のおかっぱ頭の女性がここを通りませんでしたか。二十代後半で、白いワンピースに紫のカーディガンの……」

 美園に教えてもらった服装を伝える。女性はゆっくりと視線を巡らせると、目の前にあるY字路の片方を指した。

「あっちに行ったと思う」
「ありがとうございます!」

 やはり駅の方向だ。そして、ここまでのルートは合っているのだ。足取りを掴めたことが嬉しくて、つい大きな声を出してしまった。カウンターの女性は気だるげに欠伸をすると、ちらりと俺を見上げながら呟いた。

「あんた、あの人の彼氏かい」
「はい?」
「早く追いかけてやりな。何か思いつめている様子だったよ。この辺にあんな上品な恰好をした人なんて来ないから、印象に残っているんだ」

 言いたいことを言い終えると、すぐにそっぽを向いてしまう。彼氏と間違えられたことには驚いたが、有益な情報だった。普段のようなスーツ姿ではないとはいえ、想像よりもきちんとした着こなしであるらしい。そして、行きずりの人間にすら、ただ事ではない様子が伝わっていたのだ。

 教えられた通りに駅へと急ぎ、次の電車に乗り込む。今のところロスタイムはほとんどなかった。導かれているかのようだ。しかし、こうやって同じスピードで移動している限り、追い付くタイミングは永遠に来ない。算数の問題によくある、忘れ物を届ける兄弟みたいに。

 次の終着駅が最後だ。もう近くに他の駅はなく、あとはやみくもに歩くしかない。そのホームに降り立ったとき、俺は彼女の行先を想像することができるだろうか。不安に押しつぶされそうになりながら、電車の揺れに身を任せていた。
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