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問四・このときの感情を答えよ
帰る場所
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花房の企画したクリスマス会には、それなりの人数が集まっていた。
アラクネという優良企業に所属する、高学歴のスタッフたち。本当に特別な相手はいないのか、と疑ってしまう。恋人のひとりやふたり――いや、ふたりいちゃまずいか――もおらず、こちらの会合を優先してくれるメンバーがこんなにいるという事実は、なんとも驚きのことだった。
とはいえ、温情で来ているといった空気もない。俺の卑屈な想いなどつゆ知らず、安っぽいケータリングや飲み物で十分に盛り上がっている。
「ケーキ、余らせそうな人は持ってきて、って皆にも頼んでおいたから。後で一緒に食べよう」
そっと近寄ってきた花房が囁く。そうだ、元々は俺が発注ミスをしたケーキを消費するための会だった。そして今日は花房の誕生日でもある。祝われる立場であるはずの彼は、誰よりもてきぱきと動いていた。
「無事に五周年を迎えられて良かったな」
紙コップにジュースを注ぎながら風見が言った。ここにいる幹部メンバーは、今のところ彼と花房だけだ。マリアと蜂須の姿は見えなかった。後から来るのかもしれないが、確かめていない。こういった場に蝶野がいないことは異常事態だが――今回ばかりは妥当な流れだと思った。俺だけが事情を知っている。
風見が何気なく続けた言葉が、彼の不在の原因だ。
「ミズキくんの件も、ひとまず解決したようだし」
俺はポケットからスマホを取り出し、こっそり視線を向けた。例のチャットルームが表示されている。作品を受け取り、何度も意見を交わしたその場所は、当たり障りのない言葉で締められていた。
――期間限定ですが、プロの先生に絵を習うことが叶いました。進路相談はその人に引き継いでいただきます。今までありがとうございました。
もちろんそんな事実はない。ミズキは三年前にいなくなったのだから、後日譚なんてあるはずがない。こうやって締めくくるよう、俺から蝶野に提案しただけだ。プロが現れたとなればアラクネが関わる余地はもうないし、円満に全てを終えることができる。
「風見さん、応援してくださっていましたもんね。美大に進めるように」
「いや、あれは俺の理想というだけで……。最終的に決めるのは彼自身や家族だ。口出しできることじゃない」
「やっぱり、後悔しています? 三年前のこと」
彼の喉から、風切羽のような音がした。絵に描いたような「息をのむ」表情。周囲には悟られないように気を遣いながら、俺は言葉を続けた。
「ごめんなさい。これ以上は追及しません」
「まあ、まるで本人みたいな相談だったからなぁ……」
風見は気まずそうに視線を逸らす。本人みたい、というより実質本人だ。だが、三年前の彼はチャットルームを覗けなかったのだから、詳細を知らないのは当然のことだった。
「今度こそは、死なせたくなかった」
ぽつりと呟かれた言葉に、小さな罪悪感を抱く。これは大団円ではなく、強引に取り繕っただけなのだから。ミズキは救われたわけではない。
「でも、無条件に夢を肯定するのも違うだろ? 不誠実だ」
「そうですね……」
難しい話だ。誰かの相談に乗るということは、その人の行く末を安全圏から観察するということ。ガラス越しに、冷徹に、どんなに助けを求められても手を掴むことすらできないということ。真相に気付かないままやり取りが進んでいたとして、俺にその覚悟が持てただろうか。
「何はともあれ、今回はもう安心して――」
風見がそう言いかけたとき、オフィスの喧騒が収まった。誰かがエントランスを通ったことを示すチャイムが鳴ったのだ。別に全員で出迎える必要はないのだが、待ち構えるような空気が漂う。このチャイムが機能するのは夜間だけだ。こんな時間に来るスタッフは珍しい。
「あら。けっこう揃っているわね」
現れたのはマリアだった。業務中にオフィスで見かけたが、そのときとは異なる服装をしている。一旦帰宅して着替えてきたのか。オーバーサイズのジャケットにタイトスカート、長めのブーツ。明らかに仕事には向かない、親しい仲間とのパーティにふさわしいファッションだ。
このタイミングで現れたということは、友人と会った後でもあるまい。正真正銘、俺たちのために着替えてきてくれたのだ。こんな、紙コップや紙皿が並ぶ庶民じみた会合なのに。
「マリアさん、大丈夫なんですか」
綺麗な姿勢で腰掛けている彼女に話しかけた。
「クリスマスなのに、他に会う人はいなかったんですか?」
言葉選びが下手な自覚はある。要するに、彼氏だとかと会う予定はないのか、と尋ねたかったのだ。だって、完全にそういうイメージだから。タワービルのレストランで夜景を見ながらワインを傾けてそうなのだから。
「会う人……?」
首を傾げる。重力に従って流れる黒髪が、夜空のようだった。
「蜂須さんは、来られるかどうか分からないわ。お仕事が入っているから」
ああ、そうか。マリアにとっては、クリスマスだろうが「会うべき人」は蜂須の一択なのだ。可能な限りそばにいたい。全てをサポートしたい。なぜなら自分は彼女に救われて今があるから。
「そんなことより。あなたたち、随分とお行儀の良いパーティをしてるのね」
マリアの声色が不意に変わった。少しやんちゃな、悪戯を宣言する子供のような。背後に置いていたスーパー袋を卓上に載せる。缶飲料のシルエットがビニール越しに窺えた。飲み物なら用意してあるのにな、と考えたとき、その正体に気付く。
「お前なぁ、一応オフィスだから酒は控えていたのに」
風見は呆れ顔だ。この人は本当に育ちが良いな。彼の言うとおり、マリアが持参したのは缶ビールやチューハイの数々だった。
「大人なんだから飲めばいいんですよ。飲める人いるでしょ?」
そう話しながら均等に配置していく。まあ、確かに問題はない。ここにいるのは成人だけだ。酒癖の悪そうなメンバーもいない。
今日はクリスマスであり、アラクネは三日前に五周年を迎え、花房は誕生日だ。誰もがそれを祝い、温かい空気にあふれていた。去年までは想像もしなかった過ごし方だ。アラクネに採用されて、俺の人生は本当に変わった。
でも、俺をそうしてくれた人たちは、まだここに揃っていない。
(やっぱり来ないかな、蝶野さんと蜂須さん……)
ケーキを食べ、会の盛り上がりが最高潮を迎えたが、蜂須は結局現れなかった。やはり忙しいのだろう――と思った矢先、デスクの電話が鳴り響く。俺は手元にある受話器をとった。
「はい、アラクネです」
――お疲れさま、鳥辺野くん。
まさに相手は蜂須だった。互いに名乗っていないが、声だけで分かる関係になったのだな、と感慨深かった。
――そちらはどんな感じかしら?
「盛り上がっていますよ。少しお酒も入っていますけど、皆さん理性的なので全く問題ないです。大学の飲み会とは大違いで驚きました」
――そう。楽しめているのなら良かったわ。
「蜂須さんは来られます?」
――仕事帰りに寄るつもりだったのだけど、解散後になってしまいそうね。打ち合わせが長引いてしまって……。
「それは残念です。どうかお疲れの出ませんように」
その後もあたりさわりのない会話が続いたが、どうにも時間稼ぎをされているように感じた。蜂須が、何かを切り出すタイミングを計っている。
他愛もない会話を何往復かしたあと、ついにそれは告げられた。
――ミズキさんの件なのだけど……。
風見のように「解決して良かった」とは続かない。他ならぬ俺に対して、そんな白々しい話はできないだろう。唐突にプロが介入するという都合の良い展開を見て、彼女は蝶野の計画が崩れたことを悟ったはずだ。
自分も共犯者なのだから、償わなければならない。そんな空気を感じたものの、最も俺が求めていないものでもあった。
「そうだ、蜂須さん」
聞きたくない。彼女の謝罪なんて。だから俺は全力で話を逸らした。
「アラクネに勤めて半年が過ぎたから、そろそろ正社員になってもいいって話、まだ生きています?」
――え?
明らかな動揺が受話器越しに伝わってくる。憤慨や糾弾、失望をぶつけてきてもおかしくない相手が、こんな話をするなんて。そう思うのも無理はない。
「色々考えたんですけどね。俺、やっぱりアラクネで頑張っていきたいです。これからも。クビにならない限り、ずっと」
クリスマスの夜。業務時間外。電話越し。採用の話をするようなシチュエーションではない。でも、今でなければならないのだ。
「過去には色々あったかもしれないけれど、俺はアラクネが好きです」
しばらくの沈黙が続いた。そういえば蜂須は今どこにいるのだろう。移動中ではなさそうだ。息遣いのひとつまで聞こえてくる、静謐な空間が受話器の向こうにある。やがて、彼女は全てを包み込むような声で返答した。
――ありがとう。今度、書類を用意するわね。
「ええ。また今度、ちゃんとお話しします」
少し未来の約束をして、俺たちは通話を切った。今度というのは明日だろうか。それとも正月明けになるだろうか。どちらでも構わない。俺は大学を卒業してもアラクネにいるし、ずっと彼女らと働くことが決まったのだから。
「今度」があるというのは、素晴らしいことだな。
そんな当たり前のことを考えながら、俺はパーティの輪へと戻った。飲み会にありがちな下世話な会話は一切聞こえない。何で盛り上がっているのかと耳を傾けてみれば、「最も長い読み仮名を持つ漢字」はどれだろうかという議論をしていた。動物の名前や単位に使われがちな国字がめっぽう強いらしい。なにそれ。
(こういう話は蝶野さんが詳しいのにな)
国語担当の彼がいないことが悔やまれる。蜂須からは連絡があったが、彼からは何の音沙汰もないままだ。三日前に屋上で対峙して、俺は彼を許すことにした。行動の理由も分かったし、彼の抱え続けた苦しみに比べれば些末な被害だと感じたのだ。だからもう普通に接してほしかったのだが、ずっと避けられている気がする。
花房が呼びかけたパーティにも参加しないなんて、よっぽどだ。
残念に思っているうちにも時間は進み、そろそろお開きにしようかという空気が漂い始めた。卓上が片付けられ、散らばっていた椅子が戻され、フロアの照明が少しずつ落とされていった。蜂須が戻ってくる予定なので、完全には消さない。カウンターの周辺と、奥の廊下のあたりだけが寂しげに光っていた。
そして、自宅の遠いスタッフが帰路に就く頃。
「来てくれたんだ」
花房の声に顔を上げる。少しぼんやりしていたかもしれない。誰かが来たことを示すチャイムが、全く聞こえていなかったのだから。
入室した人物の顔を見て、思わず声を出した。
「蝶野さん」
遅ればせながら蝶野が登場したのだ。といっても、パーティのために来たとは思えない。もう間に合わない時刻であることは本人も分かっているだろう。主催である花房も、素直に歓迎して良いものか決めあぐねている様子だ。
「ごめんね」
何ともいえない空気を感じ取ったのか、蝶野は苦笑した。
「忘れ物を取りに来ただけなんだ」
最初からパーティに参加するつもりはなかった、と。もちろん所用や体調など、理由はいくらでも考えられる。付き合いが悪い、と責める者なんていない。それでも俺は寂しかった。いつもアラクネの中心にいた彼が、少しずつ薄れていくような気がしたのだ。
蝶野は自身のデスクに向かうと、引き出しのひとつを開けた。中から取り出したのはペンダントだ。細い革ひもに捕らえられた、緑のモルフォ蝶。それを掴み、首には掛けずに鞄へと突っ込む。
ついに俺は、いてもたってもいられなくなった。
「蝶野さん、ちょっと来てください」
小走りに駆け寄り、腕を引っ張って外階段へと向かう。彼に伝えなければならないことがあった。でも、今でなくてもいいと思っていた。この瞬間、オフィスに来たのに無駄話のひとつもせず、すぐに引き返そうとする姿を見るまでは。
「また今度」という言葉が、いかに不確かなものか。
「どうしたの、急に」
外階段。地上に繋がるだけの狭い空間にふたりで収まり、冬の空気に身を包む。細かい雨が降っていた。ホワイトクリスマスとはいかない、ただ寒いだけの夜だ。
「蝶野さん。俺、ひとつ気付いたことがあるんです」
「……ミズキくんのこと?」
警戒するような空気を感じる。
それを振り払うため、俺は即座に言葉を続けた。
「悪い話じゃないんです……たぶん。蝶野さんがミズキさんの自死を知った流れが、何だか変だと思って」
「どうして? 親御さんからチャットルームを通じて報されただけだよ」
「警察から連絡が無いのっておかしくないですか」
昨今では、老人が自宅で亡くなっても不審死扱いになるらしい。ましてやまだ若い高校生が、自ら命を絶ったとなれば、アラクネに捜査の手が伸びることは避けられないだろう。進路に悩む高校生が相談を寄せていた相手。約一ヶ月に渡って交わした言葉は、全てチャットルームに残っている。
「ミズキさんは、生きているのかもしれない」
そう考えると全ての辻褄が合う。
「蝶野さんに夢を否定されたミズキさんは、確かに傷ついた。でも、それが原因で死を選ぶことはなく、あなたと距離を置こうとしただけだった。相談を打ち切る方法はいくらでもありますが、ただ円満に終えるのも癪だという考えが過って――罪悪感を植え付けるという意趣返しを考えたのかもしれない」
あくまで、蝶野の行動自体には何の問題もないのだ。暴言を吐いたわけでもなく、表向きは理性的なアドバイスを装っていた。だからここまで引きずることになるとは思わなかったのだろう。ほんの少し、胸中の傷として残ってくれたらいい。その程度のつもりだったのでは。
「両親もチャットルームの存在を知っている、というのは自己申告ですからね。彼が親のふりをして書き込んでいたとしても、誰も察することはできません」
説明を終えたあと、そっと蝶野の横顔を見た。呆然としたような、虚を衝かれたような顔をしている。彼は賢いから――いや、アラクネの人たちは頭が回るから、このくらいのことは気付いてもおかしくなかったのに。
全ての思考を奪うほどに、少年の死は衝撃的だったのだろう。
「その話を聞いて、僕が安堵するのも違う気がするけれど……」
しばらくの沈黙を経て、返ってきたのは否定的な言葉だった。とはいえ、蝶野の立場ではこれが精一杯なのだと思う。誰かを追い込んだ側が、その責任から逃げようとしてはいけない。
だからこそ俺が、彼の代わりに考えたのだ。
「ありがとう。僕の後悔に付き合ってくれて」
そう言って蝶野は、ようやく素直な笑顔を見せた。
屋内に戻ると、もうほとんどのスタッフの姿は消えていた。
時間も時間だし無理はない。薄暗い部屋に、片付けられたテーブル。未開封の缶飲料が整然と並んでいた。明日、希望者に配るつもりか。俺はそちらに歩み寄ると、右端に置かれたひとつを手に取った。
「蝶野さんって、飲む人でしたっけ」
缶ビールを差し出しながら尋ねる。振り返ってみれば、そんな印象は全くない。選択を間違えたかと思ったが、すんなりと手が伸びてきた。
「飲む。実は、煙草も嗜む人」
「えっ、意外ですね」
まだまだ知らないことが多い。彼は椅子のひとつに腰掛けると、小気味良い音を立てて缶を開けた。
夜に溶け込んでいく炭酸の音。それと同時に、鋭い声が飛んでくる。
「蝶野さん、まだ煙草やめてなかったんですか?」
給湯室や執務室の並ぶ廊下から、ブーツの靴音が近付いてきて。タオルで手を拭きながら歩くマリアと、付き添う花房の姿が見えた。ゴミの処理をしてくれていたのだろうか。
マリアは当然のように蝶野の隣に座った。肩が触れ合いそうな距離だ。
「身体には気をつけてくださいよ」
「大丈夫。本当に嗜む程度だから」
キャスターの転がる音がする。花房が腰を下ろしたのだ。彼はパーティに合わせて仕事を終えているはずなのに、全く帰る気配がなかった。それを見守るような席に風見も座っている。
夜更けのオフィスに、幹部メンバーが四人。
あとひとりを待ちたくなるのも自然な流れだ。誰が言い出すでもなく、穏やかに雑談を続けた。最初はどこか突き放すような空気をまとっていた蝶野も、次第に以前の彼に戻っていく。
たとえ上辺だけであっても、それは嬉しいことだった。
「……皆さん、まだ残っていたの」
やがてエントランスのチャイムが鳴り響き、待ちかねていた人の姿が現れた。アラクネの継続と発展のために働く、蜂須瑠璃子の登場だった。マリアが立ち上がって駆け寄る。風見が軽く手をあげる。花房が微笑をたたえて会釈する。俺は椅子ごと引きずるように移動し、彼女が通るための空間を作った。
蝶野は指先ひとつ動かさずに座ったままだ。
まるで、ひとつの絵画を観賞するかのように。
「もうこんな時間」
壁掛け時計を見上げた蜂須は、自身のことを棚に上げて咎めた。
「待っていてくれたのは嬉しいけれど、そろそろお家に帰りなさいね」
俺たちは笑いをこらえて顔を見合わせる。心配ゆえの言葉であることは分かるが、子供みたいに叱られたことが滑稽だった。風見なんて蜂須よりも年上なのに。俺たちみたいな独り身の大人にとって、家に帰ることが何の意味を持つのだろう。どうせ帰ったところで誰も待っていない。他に行くべき場所もない。
(ここが一番、安全なんだよな)
花房は蜂須のそばでこそ自由に生きられるし、マリアも彼女に救われた。風見も今さら、ここを離れる気はないだろう。そして俺と蝶野は、実家の敷居すらまたげないでいる。
一向に去ろうとしないメンバーを見渡し、俺が代表して言うことにした。
「アラクネは、俺たちの家みたいなものですから」
〈問四・このときの感情を答えよ 終〉
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