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問四・このときの感情を答えよ
藪のなか
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今から十年前。蝶野翡翠は、ごく普通の高校生だった。
蜂須のように名門学校に通っていたわけでもなく。マリアのように飛び抜けた努力家だったわけでもなく。風見のように幼少期から勉学に興味があったわけでもなく。花房のように知識をするすると吸収できる素質もなく。
ごく普通の学校に通う、少し国語が得意なだけの男子高校生だった。
「両親もさ、僕には別に期待もしてなかったわけ。大学まで行かせてくれるつもりはあったけど、浪人や予備校通いは想定していない感じ」
蝶野の話を聞く限り、彼の家庭は実に一般的なものだった。だがこれは主観的な「普通」であり、こんな生活すら手に入らない子供も多い。アラクネの仕事を通じ、嫌でも知ることになる現実だ。それでも、俺に染み付いた感覚では「普通」に思えてしまう。ここからトウキ大に進学し、ゆくゆくはアラクネの人気講師になるという未来がイメージできない。
そんな蝶野も、年頃の少年らしく将来の夢を持っていた。
「子供の頃から読書が好きで、小説家になりたいと思ってたんだ。けっこう本気だったんだよ。書き上げた作品はたくさんあるし、中学生の頃から公募に挑戦していた。指南書もたくさん読んだな。それでも学び足りなかったから、大学ではなく専門学校に進みたいと思った。シナリオ作家とか、小説家になるための技術を教えてくれる学校にね」
「でも蝶野さん、結局はトウキ大に進みましたよね」
結局はトウキ大。我ながらすごいことを言っているな、と感じる。専門学校に進むことが最大の目的で、それを諦めた結果がトウキ大だなんて。でも、目の前の彼は実際にそれを経験しているのだ。
「うん、両親が大反対したから。大学なんてそれなりのところでいい、高卒で就職という選択肢もアリだと言っていたのに、小説家になるための専門学校は許してくれなくて。理由とか説教とか代替案だとかは山のように浴びせられたけれど、ここで説明してもキリがないから省略するね。要するに、ミズキくんと同じ。夢にうつつを抜かしていないで堅実に生きなさい、って話」
絵も小説も、将来それで食べていけるという保証はない。貴重な時間をそこに費やしても、何も実らないかもしれない。保護者が心配するのも無理はなかった。
「互いの目標が噛み合わないから、受験勉強も上手くいかなくて。あっという間に成績が落ちた。僕は別に天才でも秀才でもないからね。これじゃあ親の望む〝普通〟の大学すら怪しいぞ、ってなって。三者面談でも絞られて。どっちつかずのまま受験に突入。結果はお察しの通り」
蝶野は両手を上げ、肩のあたりで軽く曲げる。「呆れた」や「お手上げ」と受け取れるポーズだ。世間的には、彼はトウキ大出身の国語科講師だ。プロフィールにもそう書いてある。しかしそれは、ほんの表層の話に過ぎなかった。
彼がトウキ大に合格したのは、小論文形式の後期試験のおかげ。
勉強なんて真面目に取り組んでこなかった、と本人は話していた。
「親を説得できずに夢を諦めた上、堅実なルートすら手放してしまうところだった。本当にたまたま、あのときだけ実施されていた試験形式のおかげで、トウキ大に滑り込むことができたんだよね。僕としては全く自覚がないし、その権利があるとも思えない。なんだか一度死んじゃった気分。何かの手違いで、現世に戻されてきたかのような……」
死んじゃった。その言葉が胸をちくりと刺す。
受験に失敗し、行くあてを失ってしまうことを「死」と表現しているのだ。数年間勉強をして、一枚の通知書をもらう。たったそれだけのことなのに。叶えられなかった者は地獄へ突き落とされる。蝶野もまた、そうなるはずだった。奇跡的に、得意分野で挑戦できる試験があったから生還できただけで。
十八で決まるような生死があるものか。
そう反駁したくなるが、俺自身もそんな社会から抜け出せないでいる。
俺の沈黙を呆れと受け取ったのか、蝶野は悲しげに溜め息をついた。長い息を吐き終わったあと、首を振りつつ話を再開する。
「ごめん、僕の過去なんてどうでもいいよね。ミズキくんの話をしなくちゃならないのに。でも、僕自身の経歴を知っていた方が、行動の理由も少しは分かってもらえるかと思って」
「今まで断片的にしか知らなかったことなので、教えてもらえて良かったです。どんなことも、知らないままだと誤解してしまいますから」
「そう? それなら話して良かった。恥ずかしい過去だけど」
全くの初対面のときは、飄々とした天才型の高学歴男性だと思っていた。当たり前のように知識に溢れていて、勉強が苦手な人間のことなんて理解できないんだろう、と。正攻法ではなく後期試験で合格したことを聞き、かつては小説家を目指していたことを知り、少しずつ印象は変わっていった。
ミズキの相談相手として、適した人だったのだと思う。
だからこそ、何が起きてしまったのかを知りたい。他のメンバーの反応を見れば、良くないことが起きたのだということは伝わってくる。マリアは言葉を濁らせた。花房は「翡翠さんは駄目」だと言った。
どんな真相も受け入れる覚悟を持って、続きを促す。
「四作目の人物デッサンを描くところまでは、俺の知っている通りですよね。それ以降に何があったんですか?」
その質問に、蝶野はゆっくりとまばたきを返す。言いたくないが、言わなければならない。その決意を固めるために要した時間なのだろう。
「率直に説明するとね、僕はミズキくんの夢に反対した。美大進学は諦めて、メイカ大やハンノ大を目指した方がいいよ、って言ったんだ」
「それは……根拠があってのことですよね?」
「根拠なんてずっとあったじゃん。もともと、どっちの可能性もあるから君も悩んでいたんでしょ? 親御さんは反対している。本人も、親を悲しませてまで夢を叶えたくはないと話している。模試の結果も申し分ない。でも、素晴らしい絵を描けるし確実に才能がある」
「たしかに迷いました。夢をとるか、現実をとるか……」
「ふたつの選択肢をずっと迷い続けて、ついに片方を選んで提案した。表向きの行動としては、それだけのことだった。もちろん最終的に決めるのはミズキくんだ。強制したわけじゃないし、彼の夢を貶したつもりもない」
「じゃあ、何の問題もないじゃないですか」
納得できない。まだ何か隠されているのだ。年表に載せられないようなことだと蜂須は言った。三年後、ほぼ同じ内容の相談が届いても、蝶野には任せないという空気が出来上がっていた。
あれはいったい、何だったんだ。
「まあ、続きを聞いて」
俺の混乱を感じ取ったのか、彼は諭すような声色で話した。
「行動だけをなぞれば、僕には何の罪もなかったのかもしれない。でも、全ての行動には裏側に動機があってね。自分がこう思ったからこんなことをした、という因果関係があるはずなんだ。三年前のあの日、僕は決定的な間違いを犯した」
「行動の理由が、間違っていた……?」
「要するに僕は、自分の夢を否定された過去を思い出して、八つ当たりのような感情からミズキくんにも同じことをしてしまった、ってわけ」
「えっ」
言葉が出ない。まさか蝶野が、そんなことをするなんて。何度も言葉を交わし、作品を送ってもらい、その度に真摯に向き合った。直前までの流れは俺と同じだったはずだ。精神上の双子のように、同じことを考えていたはずだ。
「蝶野さんの受験って、当時から数えて七年ほど前のことですよね? どうして急に思い出したんですか」
尋ねてから気付く。思い出した、という言葉は不適切だったかもしれない。俺自身がそうであるように、夢を否定された記憶なんて忘れようもないのだ。ずっと覚えているから思い出しようもない。しかし今さら訂正もできず、蝶野の言葉を待つしかなかった。
「僕がミズキくんを突き放したのは、ちょうどこの時期。十二月の下旬。そろそろ年末だけど、ソラくんは実家に帰る予定ある?」
ずっと俺が尋ねる側だったのに、急に質問が飛んできた。それも、ミズキとは関係のなさそうな個人的な話題だ。正直、言いたくない。俺の家族のことなんて、ここで話す必要はない。でも、まるで面接の再現のように、何か答えなければという衝動に駆られてしまう。
「あの、俺は……親の反対を押し切って美大に進学したので。帰りません。っていうか……帰れません」
「そうなんだ。僕も、大学に入ってからは一度も帰省していない。親からすれば、最後まで言うことを聞かなかったバカ息子だし。結果的にトウキ大に滑り込んだとしても、ね。それはあくまで偶然だから」
同じだ。俺と蝶野は、やっぱりよく似ているのだ――そう改めて意識した途端、彼を通じて自身を客観的に見ることができた。
高校卒業後の進路について、親と揉めに揉めた。その結果、俺は全て自分ひとりで実行することにした。独学で受験勉強をして、奨学金で講義料を支払い、アルバイトで生活費を賄う。実家には帰らないし帰れない。もちろん仕送りもない。そんな日々を送ってでも、ユカリノ美術大学で絵を描きたかった。
それが誇りだとか、推奨するだとか、そんなことは一切ない。結局バイトに追われてろくに講義を受けられない時期もあった。アラクネに拾われるまで、俺は何者にもなれない愚かな貧乏学生だった。
客観的に見れば、ただそれだけ。
でも、こんな俺だからこそ、蝶野は目をつけた――いや、自分の計画に巻き込む価値を見出してくれたのだろう。
「アラクネのサイトって、初期の頃はかなりシンプルだったんだよね。コラムの内容はしっかりしていたけど。メンバーの紹介ページも、YouTubeに進出すると決まってから慌てて作った感じ」
「プログラマさんが紹介文を書いてくださったやつですよね?」
「そうそう。リニューアルしたついでにね。そこでようやく、僕がトウキ大出身だということも正式に公表されたの」
俺はそのページを脳内に浮かべた。講師陣五名のバストショットに、それぞれの紹介文が添えられている。二、三行で完結にまとまっているが、初期はこれすらなかったのか。
「でも、それがどうかしたんですか? トウキ大出身であることについて、誰かに何か言われたんですか?」
気になったので尋ねてみた。蝶野は出身大学を隠していなかったはずだ。紹介ページが存在しなかった頃から、記事の中では普通に公言していた。後から騒ぎ立てる者がいたとすれば、少なくともコアなファンではないだろう。
「誰かに何か言われたか……ねぇ。うん、言われたよ。親にね」
「えっ、親御さんから連絡が来たんですか」
「そのプロフィールが掲載されてから一年近く経っていたし、たまたま目に留まっただけだと思うけどね。アラクネも有名になってきた頃だし。自分の息子が〈トウキ大出身〉として堂々と紹介されているのを見て、思うところがあったんだろう」
頭の中で警鐘が鳴る。しかし、ただ一度きりだった。他者が興味本位で訊くようなことではないと分かっていても、確かめずにはいられない。それまで親身になって相談に乗っていた相手を、自分本位に突き放してしまうほどの内容だったのだ。三年越しに俺が同じことを言われたとして――
耐えることができるのか。
それとも、同じ轍を踏んでしまうのか。
「小説家ごっこも役に立つことがあるんだな、って」
パンッ、と頭が真っ白になるのを感じる。夢見たこと。打ち込んできたこと。それらは全て「小説家になるため」だった。自分が納得しているのならまだしも、強引に切り替えられた進路の糧にされてなるものか。
小説家になるために磨いてきた語彙力は、小論文の執筆でも生きたはず。そのおかげでトウキ大に合格できた。在学中に何かを成し得たわけではないが、トウキ大出身者という肩書を得ることはできた。プロフィールにも載った。ずっと連絡も寄越さなかった親が、それを見てわざわざ嫌味を言いにきた――
きっと、何もかもが気味悪かったことだろう。
「自業自得だって分かっているんだけどね。そんなに大事な夢なら、反対を押し切ってでも頑張るべきだった。貫くことができなかったくせに、受験勉強もボロボロで。何とかトウキ大に入れて良かった、というのは事実なんだけど」
「でも、そんな言い方はないですよ」
本気の取り組みを「ごっこ」と称したり、まるで受験だけが人生の目標であるかのように決めつけたり。読書や執筆の経験は、どんな道に進んでもポラリスのように導いてくれるはずだ。誰もが羨むような難関大学に合格して、やっと「役に立つこともある」と認められるものではない。
「親に言われたことなんだから、親に言い返せば良かったんだけど。言い争いは何度も繰り返してきたし、意味がないと学習しちゃってたんだよね。だから、絶対に吐き出してはいけないところにぶつけてしまった」
「ミズキさんに、ですよね……」
「模試の結果を振り返って、彼が受かりそうな難関大学をピックアップした。その名前を並べ立て、ここを目指した方がいいと伝えて、夢は諦めろと言った。要約するとこんな感じ。最低だよね」
言葉が出ない。呆れているわけではなく、本当に難しかったのだ。確かに蝶野の行動は八つ当たりによるものだった。ミズキの進路について考え抜いた結果ではなく、自身の諦念の巻き添えにしただけだ。
だが、行動そのものには何の問題もない。
「蝶野さんの気持ち、ミズキさんには伝わっていたのでしょうか」
「伝わってたんじゃないかな」
あっさりと蝶野が言うので驚いた。まるで、相手の心を覗いたかのような。どんな推測でも覆せない、確たる証拠を掴んでいるかのような。
「だってミズキくん、その直後に自殺したんだもの」
「それは――」
言葉を続けることができない。間違いなく「年表に載せられないようなこと」だ。直接の原因が何であろうと、相談に乗った相手が自死したことなんて表沙汰にするわけにはいかなくて。
爆破予告をした青年の方がまだマシだ。生きて、こちらに恨みをぶつけてくれるのなら、対面して和解することもできる。
「いなくなっちゃったら、謝ることもできないよね」
「どうやってそのことを知ったんですか?」
ぽつりと呟く蝶野の横顔に、俺はかろうじて問い掛けた。のどが貼りつき、このまま声が出なくなってしまうかと思うほどに、何かを発することが苦しかった。
「音信不通になっただけなら、亡くなったわけじゃないのかも……」
「一週間後くらいかな、彼の親御さんから連絡が届いたんだ。あのチャットルームを利用して」
ああ……そうか。そういえばそうだった。アラクネでは蜂須が全てを監視していたように、ミズキの方も両親に経緯を報告していた。実際にどこまで見られていたのかは分からないが、何か起きればチャットを使って接触を図るだろう。アラクネのメールフォームに問い合わせるより、こちらの方が圧倒的に手っ取り早い。
「息子が亡くなりました、って連絡があったんですか」
「まあそんな感じ。日付も場所も死因も教えてもらえなかったけれど」
「そのとき、何を言われたんですか?」
尋ねながら複雑な気持ちになる。ミズキの両親は、蝶野を責めたことだろう。相談相手が対応を間違えたせいで息子は傷つき、自死を選んでしまったと。親の視点ではそういうことになる。
でも、そもそもの原因は、両親が彼の夢に反対したからだ。やりたいことを素直に認めていれば、ミズキがアラクネに相談を寄せることもなかった。だから、蝶野が責められる謂れなんて――
「責められてなんかいないよ」
当然だと思っていた展開は、あっさりと否定された。
「うん、責められてなんかいない。むしろ感謝されたんだ」
蝶野はこちらを見ない。柵に背中を預けた姿勢のままだ。だが、その両肩や足元から、ゆっくりと力が抜けていく気配を感じ取った。当時のことを振り返り、その説明をする度に、彼の魂が抜けていく。それほど深く刺さり続けていた後悔なのだと、改めて思い知った。
責められてなんかいない。ではいったい、何のために接触してきたのか。その答えは、蝶野の口からそっくり再現された。
「最終的にはこんな形になってしまいましたが、あなたの伝えたことは間違っていません。一時の感情に流されて美大なんかに進んだところで、将来何の役にも立たないのですから。遊んでばかりいないで、蝶野さんのようにトウキ大を目指せるくらい頑張ってほしかったんですけどね」
そう告げたのは母親だったのか、それとも父親だったのか。声色までは変えていないので俺には分からない。否、どちらでも同じことだ。蝶野にとっては、ミズキのアカウントを引き継いだ「別の誰か」でしかない。
もうミズキ本人はそこにはおらず、ただの文字列が地獄のような言葉を並べ立てている。
――息子に現実を見させてくれて、ありがとうございます。
ついに蝶野の膝が折れた。完全にしゃがみ込み、両腕の間に頭をうずめる。俺の視線の届かない位置からくぐもった声が聞こえた。
「ねえ、僕はいつから間違っていたのかな」
水音が混じっているように感じたのは、気のせいだろうか。
「最初から全部、対応を間違えていたのかな。ミズキくんの相手として僕が選ばれたせいで、こんな結末に達してしまった? 他の人だったらどうする? 僕と同じように創作活動を夢見ていて、それでいて僕とは異なる人生を歩んだ人だったら、最後にはどんな選択をしていた? 同じような流れで相談を受けて、同じ高校生を相手にして、それでも同じ結末になったなら――」
「そうだったら、自分は間違っていなかったと証明できる……」
自分でも驚くほどすんなりと、続きの言葉を述べていた。まるで蝶野自身になったかのように。もしかすると本当に〝そう〟なっていたのかもしれない。蝶野に選ばれてアラクネに入り、半年間一緒に仕事をして。彼の監修のもと、彼が起こした事件と同じ流れに放り込まれて。そんな儀式めいた何かによって、俺はすっかり作り変えられていたのかも。
「確かに蝶野さんの行動は八つ当たりじみたものでした。でも、同じ状況下で他人も同じ行動をとるというのなら、話は変わってくる。理由がどうであれ、結果が妥当であるならあなたの罪は消える――それを確かめたかったんですか?」
赤の他人の人生を左右してまで。
そう言いかけたが、すんでのところで声を止めた。思えば、俺が美大生だということを知っているのは蝶野と蜂須だけなのだ。他のスタッフには話していない。友人の花房であろうと、このことは知らない。
面接のとき、ほんの一瞬だけ履歴書を見た蝶野。そして、正式に交わした契約書を所持している蜂須。このふたりは、三年前の事件の際も共犯者だった。あの頃はメンバー全員で見張っていたわけではなく、チャットルームのやり取りに介入できたのは蜂須だけだったから。
蜂須だけが、ミズキの復活に気付いていた。
それなのに彼女は「やっぱり」と呟くに留めて、全てを傍観したのだ。
「してやられましたよ。蝶野さんと蜂須さんに。他の三人は、似たような相談だとしか思わなかったでしょうけど」
「本当にごめんなさい。僕は君に、許されないことをした」
蝶野の顔が上がる。しゃがみ込んでいる姿勢から、ついに両ひざが地面についた。真冬の冷えたコンクリートに跪いている。立ったままの俺に向かって。
まごうことなき懺悔の姿だった。
「僕は悪人なんだ。どんなに人畜無害を装っていても、それに騙された人が好いてくれても、一度でもこんなことをやった人間がまともなわけがない。責任をとるつもりはある。でも、その結果が、君にとって納得できるものだと保証はできない。今さら何をやったって自己満足でしかないから……」
責任をとる。その言葉をぼんやりと反芻した。たいていの事件において、加害者側がとる責任なんて実に無責任なものだ。金を渡したって、刑期を終えたって、しでかしたことは取り返しがつかない。
意味がないな、と思った。
「もう、いいですよ」
本当に。心から。俺は蝶野に、償ってほしいという気持ちを抱かなかった。
「たったひと月足らずのことじゃないですか。時間以外に取られたものもありませんし。それに、蝶野さんが俺に目をつけていなかったら、アラクネの一員になることもできなかったんですから」
「でもそれは、結果的な話であって……」
「理由がどうであれ、結果が妥当であれば罪はない――ですよね?」
蝶野の目が見開かれる。敵わないな、という表情。それを認識した途端、新鮮な感情が俺の中に湧いた。今までは俺が「この人には敵わない」と感じる側だったのだ。困ったとき。迷ったとき。彼にアドバイスをもらっては助けられてきた。
やっと、対等になれたのだろうか。
「本当にいいんです。騙されていたと気付いたときは確かにショックでしたが、今の話を聞いて考えが変わりました。蝶野さんが他人の〝答え〟に執着してしまうのも無理はない。そこに都合よく俺が現れただけです」
面接のとき、机上で一往復しただけの履歴書。晒された時間なんて一秒にも満たなかったと思うが、その瞬間に蝶野と俺の関係は確定したのだ。
騙す者と騙される者。
答えを生み出す者と、それに縋る者。
「知りたかったですよね。俺が持っていたはずの答えを。美大進学を応援するのか、それとも今は諦めるように促すのか」
「教えてくれるの?」
「教えませんよ」
一歩だけ彼の方へと近寄る。手を伸ばせば届くような位置にいたかった。この距離なら、こちらの表情も見えるだろうか。俺は全てを受け入れた。あなたと一緒に先へ進みたいと考えていることが、伝わるだろうか。
「途中で明確に違和感を覚えちゃいましたからね。もう無理です。蝶野さんと同じ条件では判断できません。諦めてください」
三年前、ミズキが声を掛けた相手が俺だったという、そんな偶然さえなければ成功していただろう。俺は相手をミズキ本人だと信じたまま、どちらかの結論を出していたはずだ。蝶野が悪人に堕ちてでも知りたかった答えを。
でも、今となっては本当に何もない。彼に教えることなんて。
「誰が悪かったのか、真相は藪の中。それでいいじゃないですか」
右手を差し出す。それを取ってもらえるときを、静かに待った。
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