Arachne ~君のために垂らす蜘蛛の糸~

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問四・このときの感情を答えよ

良き人へ

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 どこかに座りましょう、と言いたくなるタイミングだったが、あいにくベンチのひとつもない。ここを出て地上に戻れば座れるだろうが、誰も提案しなかった。冬の夜が始まっている。滅多に人が来ない空間とはいえ、照明設備は生きているようだ。四隅に設置されたソーラーライトが、溜め込んだエネルギーの分だけ明るさを放出していた。

 俺たちは座ることができない代わりに、柵に体重を預けていた。外の景色に背中を向けて、ふたりで隣り合っている。蝶野の横顔が逆光でシルエットに見えた。成人男性のイラストカットとして、そのまま使えそうなほど平均的な造形だった。

 そんな口元が、ふわりと動き始める。

「三年前。ミズキくんは高校生で、ソラくんは大学一年生だった。そして僕は、アラクネに入ってから一年が経ったあたり」

 年表を作ったので記憶に残っている。蝶野がアラクネに加入したのは四年前の八月だ。その一年後――三年前の夏の終わり頃、彼の仕事に変化が起きた。

「一年間、アラクネの一員として頑張ってきて、僕は相談を受け持つことができるようになったんだよ」

 つまり、ちょっと浮かれていたのかもしれない。そう付け足したあと、自嘲気味に彼は笑った。もちろん最初のうちは緊張していた。自分が担当した相談に対して、本当に自分なんかが答えていいのだろうかという思いがあった。
しかし蜂須の方もそれは想定内で、難易度と緊急性の低いものを回してくれていたようだ。いくつかの経験は自信に繋がり、蝶野は堂々と自分の意見を述べられるようになった。

 そんな折に舞い込んできたのが、ミズキの相談だ。
 
 当時、アラクネの相談募集は匿名を徹底していなかった。ミズキというのは蝶野がつけた仮名であり、実際には本名を名乗っていた。ただ、ここではミズキと呼び続けることにするね――と補足し、彼は話を続ける。

「美大に進学したいけれど親に反対されている。どうすればいいか……っていう、ソラくんが見たのと同じ内容だね。その担当として僕が選ばれた。理由は――」
「蝶野さんに、専門学校を目指していた過去があるからですね」
「そう。知ってたんだ?」

 花房に教えてもらった、と正直に明かす。蝶野は小説家に憧れていた頃があって、その技術を学ぶための専門学校への進学も考えていたらしい。美大と専門学校ではカテゴリが異なるが、難関大学出身者ばかりのアラクネにおいて、最も近い境遇だったのでは。蝶野が抜擢されるのも納得できることだった。

「まあ知ってのとおり、僕はトウキ大に進んでいるんだけどね。小説家にもなっていないし。その経験も含めて参考になれば、という考えだったんだろう。そういうわけで、僕はミズキくんの担当になった」

 それが「三年前に起きたこと」の始まりだった。

 蝶野に美術方面の知識はない。ひとまず数年分の過去問を取り寄せ、そこに書かれている通りに課題を出した。蜂須のアドバイスを受け、現時点の練習の成果も送ってもらった。結果、届いたのはスケッチブックが五冊分。
俺のときと全く同じだ。

「そこから先は、全部ソラくんが経験した通りだよ」

 ページを節約するため、裏面にも描かれたデッサンの数々。ティッシュケースとテニスボール。太陽系の模型。三年前の時点では、まだメイちゃんはリストラされていなかった。そして、エメラルドグリーンのモルフォ蝶。

 俺とミズキが――いや、俺と蝶野が交わしたやり取りは、そっくりそのまま、蝶野自身が経験したことでもあった。三年前の出来事が再現されていたのだ。あの頃、相談者用のチャットルームに入室できたのは三名だけ。相談者と、担当者と、蜂須。そのうちのひとりなのだから、全ての記録を手元に残すことができた。もちろん俺の反応によって言葉を変えた部分もあったはずだが、おおまかな流れを再現することは可能だったのだ。

「とはいえ、こうも上手くいくとは思わなかったけどね。ユカリノ美術大学の過去問が毎年同じ内容でも、急にソラくんが別の課題を出す可能性もあったわけだし」
「そのときはどうするつもりだったんですか?」
「どうにもごまかしが効かないなら、相談を打ち切ることもできた。考えが変わったとか、親が本格的に反対してきたとか。覚悟はしていたよ。不思議なほどに、君は思い通りに動いてくれたけど」
「もし上手くいかなかったら、俺は放り出される予定だったんですね。あれほど真剣に向き合っていたのに」
「だから言ったじゃん。僕は悪い人なんだ、って」

 俺は空を見上げ、この十二月のことを振り返る。ミズキの担当になると決まったのが月初――ちょうど一日だったか。翌日には初めて接触した。蜂須と相談しながら志望校を選んだり、頼んでもいないのに模試の結果が送られてきたり。

 そういえばあれも、三年前の模試というわけか。どうりで大胆にトリミングされていたわけだ。平均点や出題内容が明かされていれば、風見あたりが真相に気付いてしまうかもしれない。

 最初の課題は四日後に提出された。次の課題も約四日かけて描かれたが、三作目だけは妙に早かった。これも、蝶野が体験したとおりの日数なのだろう。ミズキの意気込みや理性に対し、俺が同じ印象を受けるように。なるべく同じ条件で、ミズキへのアドバイスができるように。

 最初の接触から三作目の提出まで、二週間足らずの出来事だった。

「まさか、相手が蝶野さんだったなんて知らなかったから……。俺は、ずっとミズキさんのことを考えていたんですよ。少しでも役に立ちたくて」
「そうだね。それはちゃんと伝わっていたよ」

 蝶野の表情が、少しだけ満足げな様子になる。俺の気のせいかもしれないが。自身の手掛けた作品に頷く芸術家を連想した。

「僕がそう仕向けたとはいえ、全く同じだ。ミズキくんに問いかけたこと。話し合いの頻度。油絵具が買えないならアクリルガッシュを使おう、という提案も。君には君の考えがあっただろうから、これは意地悪な言葉なんだけど――まるで、昔の自分を見ているようだと感じた」
「本当に意地悪ですね。俺はあなたの再現でしかないというわけですか」
「でも、だからこそ分かるでしょ? 僕も真剣だったんだよ。あの頃」

 その言葉に反論できない。同じなのだ、何もかも。全く同じ流れを経験した俺がそうなのだから、蝶野もまた、真剣だったということ。

 プロではないため、課題に対するアドバイスは不完全だったかもしれないが。客観的な視点があるだけでも、人は随分と救われるものだ。ミズキは喜んでくれた……と思いたい。少なくともあの時点では意味はあった、と信じたい。

「でも、その〝意味〟をぶち壊したのは僕自身だった」

 蝶野の吐いた息が白くたなびく。冬期休暇は始まっていないものの、学生がぐんと減ったキャンパスの空に消えていった。皆、それぞれの行くべき場所があるのだ。就職活動のために講義を休む者。少し早めの帰省に出向いた者。入学時とは考えが変わり、別の道に向かって行動を始めた者。

 俺たちだけが、どこにも行けず夜の屋上に囚われている。

「似ているね、僕たち」

 蝶野の言葉を胸中で肯定した。しかし彼の考えを聞きたかったので、口先では質問しておいた。

「似ていますか?」
「だってそうでしょう。似ているからうまく行ったんだよ。この計画。同じ相手から同じ相談を受けて、同じ返答をもらう。同じ作品を提出される。そんな状況だったら一緒の行動をするんだよ、僕たちは――」

 うまく行った。その言葉に小さな苦笑が漏れる。たしかに俺はここまで放り出されずに済んだ。少しでも想定外の反応を示していたら、即座に切り捨てられてもおかしくなかった。とはいえ、それを「うまく行った」と表現できるのは蝶野の立場だからだ。俺にとっては、ただ虚空に向かって話しかけていただけで――

 いや。虚空ではないか。

 たとえ時間軸は違っても、画面の向こうには彼がいたのだから。

「なるほど。では、そのよく似た後輩を使って、あなたは何をしようと考えていたんですか? どこまで一致していて、どう分岐したんですか? 続きは、あなた自身の口から話していただくしかないんです」

 やはり負い目を感じているのか、蝶野の視線はなかなか交わらなかった。空の星々や街灯の光を辿った後、意を決したようにこちらを向く。眼鏡の奥で二、三度まばたきをしてから、白い息と共に言葉を紡いだ。

「四問目。ミズキくんが人物デッサンを描くまでの流れは変わらない。僕たちは彼に才能を感じ、美大に進んでほしいと思いながらも決め手を得られずにいた。親の説得がどれほど難しいか、身をもって知っているから」
「蝶野さん、作家の専門学校を目指していましたものね」
「相談には親身に乗っていたものの、事態を好転させるための決定打をアドバイスできない。もどかしい思いを抱えながらも課題だけは与え続けていた。過去問題集の通りに伝えればいいから、それだけは自信を持ってやり取りできたんだ」
「たしかにそうでした。アドバイスとなると何を伝えるべきか悩みますが、課題と講評だけは淡々とこなせたんです。内容もコツも評価のポイントも全部、テキストに載っていますから……」
「もっとも、彼が求めていたのは別の部分だったろうけどね。そんなテキスト通りのことじゃなくて。とにかく課題だけは順調に進み、彼は人物デッサンを描く段階に差し掛かった」
「そして、モデルを探すためにここへ来たんですよね。美大生なら相手をしてくれるんじゃないか、と考えて」

 入試本番では四時間ほど費やす課題だ。知人や友人には頼めずに、苦肉の策としてミズキはここを訪れた。そして、今の蝶野はミズキに成りすまして行動しているのだから、該当する日時にこの屋上へ現れるはず――

 というのはさすがに楽観が過ぎる。いくら蝶野がミズキを演じていようと、実際に現地へ向かう必要は無いのだ。作品は全て手元にあるのだから、どこにいても提出することができる。

 わざわざティッシュ箱やテニスボールなんて用意していないだろうし、宇宙探検科学館の模型も眺めていない。モルフォ蝶を描くためだけのアクリルガッシュなんて、持っていないはずだ。

 だから俺は、四問目にトラップを仕掛けた。

 人物デッサンではなく〈背景付きの人物画〉に変更し、現地の写真も添えるように指示したのだ。こうすることで、蝶野はミズキの作品を転送するだけでは済まなくなった。もちろん理由をつけて拒否される可能性はあったが、写真の一枚くらいならボロは出ないだろう、と油断してくれることを狙ったわけだ。

 そして俺は待ち続け、賭けに勝った。

 十二月二十一日の十七時半。ついに蝶野は現れたのだ。

「人物デッサンの描かれた日――つまり、俺とミズキさんが出会った日。こればっかりは、蝶野さんの視点では特定できませんものね。俺は知っていますけど」
「そうだね……」

 観念したような声で蝶野が呟く。いつも周囲を見透かしたような態度の彼が、こうして追及されている様は新鮮に見えた。

「四問目の課題を伝えた日から提出されるまで。その間のどこかの日ということしか分からなかったよ。時刻は背景の時計台を参考にしたけれど、それも正確ではないだろうし」
「デッサンには数時間かかりますから」
「まあ、これは気持ちの問題だからね。本人がいない以上、正確な日時は誰にも分からない……はずだったし」
「三年前のデッサンモデルなんて、二度と会うことはないと思っちゃいますよね」
「本当だよ。びっくりした。まさかソラくんだったなんて」

 顔を見合わせて笑う。どちらも乾いた声だった。

 決定的な証拠を持つ人間を、自分の計画に巻き込んでしまった――蝶野にとっては想定外の失敗だが、俺にとっては最後に掴んだ蜘蛛の糸だ。俺があのとき、モデルになっていなければ。ミズキの依頼を断っていれば。何も知らないままチャット相手の存在を信じ続けていたことだろう。

 だからこれは、安堵の笑いだ。

「でも、これで完全再現できましたね。あなたの扮するミズキさんと、あのときのモデルが対面しています。そして人物デッサンは送信されました。ここまで同じです。俺たちの行動が分岐するのはここからです」

 時計台に視線を向ける。色々と話をしているうちに、その針は三十分ほど進んでいた。あとどのくらいかかるだろう。今日は何時に出社できるだろう。場違いなことをふらりと考えたあと、隣に立つ男の顔を見遣る。

 明日以降も彼が俺の近くにいてくれるのか、不安でたまらなかった。

 それでも確かめなければならない。

「蝶野さん。三年前のあなたはこのあと、彼に何をしたんですか?」
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