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エピローグ
年始
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年が明けるとすぐに実家を出た。もう用はない、というのが正直な感想だ。敷居はまたげたし就職の報告もした。向こう十年分くらいの関わりは持った気がする。もちろん、親子関係にそんなシステムなんて無いのだが。
新幹線を降り、大きな駅から小さな駅へと乗り継いでいく。毛細血管が指先まで行き渡るみたいに。馴染みあるアパートの門が目に入ったとき、辺りはすっかり暗くなっていた。
(誰か、いる……?)
安アパートだからエントランスなんて贅沢なものはない。外階段から部屋の扉まで直結だ。誰でも立ち入ることのできる廊下の隅に、しゃがみ込んでいる人影が見えたのだ。そこが、俺の部屋の前だった。
「何やってるんですか、蝶野さん」
危険そうなら逃げようかと思ったが、すぐに知り合いだと分かった。彼は顔を隠すでもなく、当たり前のように座っていたから。足元にリュックサックを置いて、文庫本を手にしている。待ちぼうけになることを予想していたのか、落ち着いた空気が放たれていた。
「こんな正月早々、部屋まで来て。っていうか、住所なんて教えましたっけ」
職場の先輩が自宅に現れた――そう考えると急に怖くなってきた。何これ。ストーカー? どうやって調べたんだ?
「あのね、部屋の場所は君自身が明かしているよ」
「そんなことありました?」
「クリスマスの夜。最後の最後で酔いが回って危なっかしい状態になってたから、僕がここまで送ってきたよね」
「あー……」
思い出した。クリスマスパーティの日、俺はマリアの差し入れた酒を飲んでいた。あんな缶チューハイで酔うことはないと思っていたし、実際に終盤まで平気だったのだが、そういえば帰路の記憶がないのだ。最後の一本が引き金となって悪酔いしてしまったのか。
「その節はお世話になりました」
素直に頭を下げる。だが、そんな苦言を呈するためにここまで来たわけでもあるまい。俺は鍵を取り出して扉を開けると、三日ぶりの自宅に彼を招き入れた。
「とりあえず入ってください。何かお話があるんですよね?」
「ありがとう」
もしかすると彼は、俺が帰省していた三日間ずっと来ていたのかもしれない。待たされることによる焦りや苛立ちのようなものは全く感じなかった。初日こそ「いると思ったのに」という落胆を抱かせたはずだが、三日も経てば「会えたらラッキー」くらいの感覚にもなるだろう。
まあ、約束もしていないのだからこちらに落ち度はない。蝶野を座らせ、ローテーブルを挟んだ向かい側に俺も座る。ソファなんてものはないし、冷蔵庫も空っぽだった。水しか出せないが我慢してもらおう。
「待たせてしまって申し訳ありません。実家に帰っていたので」
「帰省しない仲間だと思っていたのに」
確かにその通りだ。実家には帰らないし帰れない、そう言った。だから俺がいるものだと思って訪ねてきたのだろう。休み明け、オフィスで顔を合わせてから話すのでは遅すぎることを伝えるために。
「実は、ソラくんにお願いがあるんだ」
蝶野はリュックから封筒を取り出した。事務的な通知などではなく、いわゆる「お手紙」といった見た目だ。誰かが心を込めて書き、封筒に入れ、相手に渡す。この時代にはとんと見られなくなった、慣習的な気持ちの伝え方。
「その内容は君にとって嬉しいことではないと思うし、きっとすごく困るはず。だから話し合いをしよう。気持ちとか、理由とか、いくらでも説明するから」
そんなことを言われて受け取る手紙なんて、どんな顔をして読めばいいのか分からない。でも、逃げるつもりもなかった。他ならぬ蝶野の頼みだ。彼との間には様々なことが起きたが、それを考慮しても見捨てることはできなかった。
蝶野翡翠は俺にとって、唯一無二の大切な存在。
手紙を受け取る理由なんて、それだけで十分だ。
「じゃあ、読みますね」
そこから先は、振り返ろうとしても言葉にできない。間違いなく記憶には残っていて、蝶野の視線も動きも脳内で再生できるのに、他者に説明するのは不可能だ。皆が知りたがるのはこのシーンだというのに。
手紙の内容は彼ひとりで処理できるようなものではなく、さりとて俺を巻き込めば済むものでもなく、アラクネ全体に影響を及ぼすものだった。だから俺は、後々何度も詰められることになる。ふたりきりで何を話したのか教えろ、と。
それでもこのシーンのことだけは、うまく説明できない。
「読みました」
数分後、見れば分かることを俺は報告した。感想や感情は不思議と湧かず、ただこれからどうするべきかを考えていた。そんな俺に対して、蝶野は何か尋ねたのだと思う。よく覚えていない。大丈夫? だとか、納得した? だとか。そんな言葉だったろうか。大丈夫ではないし納得もしていないが、俺は頷いたのだと思う。
どうして言いなりになってしまうのか。去年の十二月のことを踏まえれば、俺が蝶野の要望を聞く必要は全くない。むしろ蝶野の方こそが俺の言いなりになってもおかしくない関係だ。なのに手紙を破り捨てることもできず、彼のお願いを聞くことばかり考えてしまう。
その筆力に圧倒された、というのもあるが。
確実にこれが最後のお願いになるから、という理由でもあった。
ふと気づいたとき、蝶野の姿は部屋になかった。窓の外は白みはじめ、時間は確実に過ぎていることが分かる。颯爽と消えたわけではなく、相応の泥臭さをもって話し合いは進んだはずだ。彼の頼みを断る気はないものの、恨み言のひとつふたつは言ったかもしれない。喧嘩とか、それに近しい状況にもなったかも。
――駄目だ。記憶には残っているのに、説明するための言葉が分からない。
俺は立ち上がり、部屋の隅に置いてある道具箱を手に取った。カンバスを張るための鋲やハンマー、布の切れ端などをかき分けて、一本のナイフを取り出す。頻繁に使うものではないので、ブレードには錆もなく綺麗だった。そこに映る自身の顔を一瞥したあと、右手に掴んで首の後ろに回す。
ザクッという音を、どこか他人事のような気持ちで耳にした。
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