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エピローグ
出勤
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目覚まし時計の音がうるさい。俺の冬期休暇は、ようやく終わった。
いつもの時刻に起き、いつものように準備をする。正社員の内定を得てから初めての出勤日だった。蜂須の言う「今度」は翌日のことだったので、十二月二十六日には契約が済んでいたのだ。急に仕事の内容が変わるわけではないが、少しだけ仕立ての良いシャツに袖を通してみる。
出発すべき時刻の十五分前には準備が終わった。このルーティンにも慣れ、余る時間は次第に増えつつある。俺は時計を確認した。よし、これなら間に合う。ベッドの上に座ってノートパソコンを開くと、アラクネの公式サイトへと飛んだ。
トップページにあるインフォメーション。新着記事や、動画投稿がある度に半自動で更新されている。アラクネはホワイトな企業なので、冬期休暇中は全く動いていなかった。今日、そこにぽつんと追加された情報がある。年明け一発目。まだ誰も仕事を始めていないはずなのに。
〈蝶野翡翠 アラクネ卒業のお知らせ〉
ゆっくりと息を吐いてから、その文字列をクリックした。YouTubeの公式チャンネルにリンクされている。内容自体は知っていた。数日前、蝶野が持参した手紙はこれに関することだった。アラクネを卒業する。散々迷惑をかけた末に逃げるような形になってしまうが、どうか許してほしい――そんな話を夜通しされた、はずだ。
画面には蝶野の上半身が映っている。三脚にセットされたカメラによる、何の面白みもない構図。大切な告知があるときはいつもこんな感じだ。だが、オフィスにある撮影部屋の背景とは明らかに異なる。
内容は知っていたが実際に観るのは初めてだ。はて、ここはどこだろうかと首を傾げた。事情が事情なので、オフィスでは撮りづらい。だから別の場所を選んだというのは分かるが――あまりにも洒落ている。ブライダルフォトを撮る写真館のような雰囲気だ。
疑問に思いつつも動画は進行する。蝶野は実に身勝手に、しかし視聴者にはそれを悟られないような口ぶりで引退を発表した。あたかも仲間と話し合いを済ませているかのように。それでいて、明確な嘘はつかない。何ともずるい人だ。引退の理由はあたりさわりなく、「新しい夢を追いたいから」とのことだった。
彼がその話を終えたとき、身体の左側から舞い飛んできたものがあった。
俺ではない。動画の中の蝶野に対して、だ。画面外から白いものが飛んできて、グレーのパーカーの上に落ちる。そのままスッと消えていった。ああ、雪だ。開け放たれた窓から雪が吹き込んでいるのだ。
(もしかして、蜂須さんがたどり着いたスタジオと同じ場所……?)
メンバーの引退騒動は去年の秋にも起きた。我らが社長・蜂須瑠璃子が、失敗の責任をとるため行方をくらませたのだ。それを追いかけて行き着いた先が、郊外の洒落たスタジオだった。後から蝶野も駆けつけたので、足を踏み入れたことはあるはず。わざわざ再訪してこの動画を撮ったということになる。
確かに美しいスタジオだ。画角にはほとんど収まっていないが、もし最後の撮影をするならここがいい、と思えるような場所だった。迫りくる木々が秋の色に染まり、隙あらば窓から飛び込んでくる。あのときはそんな景色が見られた。
そして冬になり、紅葉は雪へと変わった。
(蜂須さんの事件のとき、俺が引き留めていなければ取り返しがつかないことになっていた、みたいなことを言われたよな……)
蜂須が無事に見つかり、復帰した後。蝶野は俺の活躍を称賛してくれた。たまたま最初に見つけただけなのに、とあの時は思っていたが……。
(公式チャンネルに投稿する権限を持っているから、って)
それは蜂須だけでなく、蝶野も同じだ。蜂須にできることは彼にもできる。もしかすると既に計画は立てていて、彼女に未来の自分を重ねたのかもしれない。まさか勝手に投稿なんてしないだろう、と俺は返した。いくら蜂須が追い詰められていても、投稿ボタンは最後の砦だ。独断であることに気付く視聴者などおらず、アラクネ全体の公式発表として受け取られてしまう。
でも、蝶野はそれをやった。俺はあらかじめ知っていたのに、誰にも報告しなかった。もちろん、自分でアカウントにログインして阻止することも。
(……行こう、アラクネに)
新着動画の通知を設定しているリスナーは多いだろう。いくら朝とはいえ、引退報告は大勢が知るところになったはずだ。そのうちネットニュースにもなる。登録者百万人のうちの数パーセントであろうと、無かったことにはできない。水差しの中に落としたインクは、止める術もなく広がっていく。
年が明け、新しい空気になった町を自転車で駆け抜けた。
オフィスに着き、駐輪場に自転車を停める。既にそれなりの人数が出社している様子だった。時刻としては妥当だ。階段を上るにつれ、困惑を孕むざわめきは大きくなっていく。蝶野のことを噂しているのだろう。
「蝶野さん!」
事務所に入るや否や、何かがぶつかってくる衝撃を感じた。悲鳴に近い女性の声。俺ではなく蝶野の名を呼んでいる。
「あ……鳥辺野くん、だったの」
マリアが俺に駆け寄り、両肩を掴んだのだ。人違いに気付いた彼女はすぐに手を離す。数歩後退して、俺の全身を眺めた。
「雰囲気が似ていたものだから。その……髪、切ったのね」
「ええ。休み中に」
俺は右手をあげて自らの後頭部に触れる。そこにあった長髪はナイフで切り落としていた。年始なので床屋はどこも閉まっており、整えることもできない。この髪型が蝶野に似ているというのは意外だったが、確かに同じくらいの長さだ。
マリアはこちらをじっと見ていた。俺が冷静である理由を分析し、まだ何も知らないからだ、と判断したようだ。思いつめた表情で説明を始めようとする。
「新年早々、ごめんなさい。実は蝶野さんの件で……」
「いえ、それは知っています」
知っているどころか、俺が元凶だ。止めなかったという点においては。かつて、このオフィスに爆破予告があったが、その際も動画が使われていた。出勤前にそれを見た俺は慌てふためき、幹部メンバーの落ち着きぶりに感心したものだ。
まるで逆だな、と思った。
オフィスにいる人間の中で、俺だけが落ち着いている。他の誰もが蝶野の引退に衝撃を受け、マリアなんて人違いをするほどだ。異性のスタッフに掴みかかるなんて、普段の彼女なら絶対にしないのに。
「知っているんです。何もかも」
正面に立つマリアを躱し、事務所の奥へと進んでいく。その途中で、風見と花房と蜂須の姿を確認した。誰ひとりとして腰を下ろしていない。電話の前で立ち尽くしたり、蝶野のデスク付近をうろついたり、他のスタッフに泣きつかんばかりの状態だったり。起きた事件の規模を鑑みれば、当然の行為だ。それでも、優秀な彼らの一面としては異様だと感じた。
「集まってください。事情をお話しします」
最奥にある会議スペースに着くと、俺は振り返ってひとりずつの顔を見た。円卓の周囲には六つの椅子がある。ミズキの相談は終わったので、俺の席はもう必要ないはずなのに。
操られるように蜂須が一歩踏み出す。正社員になったばかりの編集係が、どうして急に主導権を握ったのか。それが不気味でならないのだろう。だが聞かないという選択肢はない。蝶野に関する情報という人質をとられ、俺の指示に逆らえない状態になっている。
当然だが、椅子はひとつ余った。会議スペースには簡単な仕切りしかなく、他のスタッフが近くで覗くこともできるはずだ。しかし誰も近寄ろうとせず、遠巻きに眺めるだけである。まるで結界でも張られているみたいで、少し滑稽だった。この空間は幹部メンバーだけの聖域――という意識が浸透しているのかもしれない。
俺は、肩にかけていた鞄から封筒を取り出した。
「手紙……?」
震える声で、蜂須が見たままの言葉を告げた。
「鳥辺野ソラ様へ、って書いてあるわ。蝶野の字よ」
「いつ受け取ったんだよ、それ」
風見の声が裏返る。ああ、怒鳴り慣れていないのにすごもうとするから。その隣に座る花房は、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ていた。正直、怒りをぶつけられるよりもこたえる。
俺は、手紙をひらひらと振って示しながら、言葉を続けた。
あのときの蝶野の口ぶりを、なぞるようなつもりで。
「この内容は皆さんにとって嬉しいことではないと思うし、きっとすごく困るだろうと予想します。だから話し合いをしましょう。気持ちとか、理由とか、いくらでも説明しますから」
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