Arachne ~君のために垂らす蜘蛛の糸~

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エピローグ

結末

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   *

 蝶野の手紙は便箋数枚に渡るが、ご丁寧なことに、ミズキに関する謝罪の文面は一枚に収まっていた。だからその一枚を取り去れば、実物を全員の目に晒すことが可能だった。俺は円卓の上にそれらを並べ、読み上げながら説明をする。といっても、蝶野の心情は彼自身の筆によって余すことなく表現されていたのだが。

 小説家になるという夢を改めて追いかけるため、アラクネを卒業させてもらう。ここで過ごした時間には最大級の感謝を抱いている。共に仕事ができて良かった。迷惑をかけたことはあってもかけられたことはない。何も告げずにいなくなったのは、大勢に惜しまれて見送られるのは自分にそぐわないと感じたから。受け持っていた仕事は全て終わらせてあるし、以降は取りやめてもいい。どうせ僕が自己満足でやっていたようなものだから――

 ただ、国語の講義だけは無くすわけにいかない。

 その後任者として鳥辺野ソラを指名する。

「……と、いうことが書かれています。俺もあのときまで初耳でした」

 寝耳に水、とはまさにこのことだ。俺が国語の講義を受け持つことになるなんて。つまり顔出しをすることになるし、アラクネの幹部メンバーとして会議やイベントにも参加しなければならない。はっきり言って無謀だ。

 でも、自信を持てないことから逃げ回るのにも疲れた。

「鳥辺野くんは、これでいいの? 蝶野の後任になってくれるの?」

 蜂須の問い掛けに頷く。どよめくような空気が渦巻いた。

「向こう半年分の撮り溜めはあるそうです。それを準備期間にあてて、講義ができるレベルまで勉強しようかと」
「国語は、得意?」
「他の科目よりは、という程度ですが……」

 蜂須は溜め息をついた。呆れられたかと思ったが、その表情を見て安堵する。意外にも穏やかな顔をしていた。もう蝶野は戻ってこないのだということを受け入れ、過去の思い出として慈しむような。

「元より、アラクネに繋ぎとめておける人じゃないと思っていたわ」

 メンバーを見渡し、ひとりずつに向かって話す。社長の蜂須が落ち着いているものだから、部下たちからも手荒な選択肢が消えた――そんな状況だった。風見も、マリアも、花房も、ついさっきまでは蝶野を連れ戻す方法を考えていたはずだ。

 もう、彼に対してできることは何もない。

 俺たちはただ静かに、誠実に「その後」を生きるだけなのだ。

「実はね、彼がアラクネに加入するとき、条件をひとつ課されていたの」

 続けられた言葉に首を傾げる。メンバーの加入経緯について聞いたことがあるが、蝶野は「いつの間にかいた」存在であるはずだ。マリアですら彼の前職や詳細を知らなかった。蜂須がスカウトした様子でもなく、向こうから押しかけてきたイメージすらあったのだが……。

 これではまるで、蜂須が頼み込んで入ってもらったみたいじゃないか。

「条件って、何だ?」

 風見も初耳だったのか、デスクに身を乗り出して尋ねる。蜂須は彼の方を向いて答えた。

「突然ふらりといなくなっても、怒らないこと」

 何それ。あまりにも自由すぎる。だが、その条件を飲んででも受け入れたということは、それだけ「必要」な存在だったのだろう。

 かつては必要だったけれど、今のアラクネなら大丈夫。

 宣言通りに彼がふらりと消えたのは、そういう意味だったのかも――

「確かに蝶野は大切な存在ですが、彼がいなくなった途端に崩れるようではアラクネの名が廃ります。私たちは大丈夫。きっと大丈夫よ」

 自分に、そしてメンバーに。新たに直属の部下となった俺に対しても。言い聞かせるようにゆっくりと告げ、蜂須はふわりと微笑んだ。つられるように花房も笑顔を見せる。先ほどから哀れなほどに硬直していたので、俺の罪悪感も和らいだ。

「そうだな。蝶野は蝶野で夢に向かって進みはじめたわけだし、応援すべきだよな。それはそれとして、どこかで会ったらとっちめてやるけど」

 物騒なことを告げ、風見が悪役のような苦笑を浮かべる。結論が出たとはいえ、思うところはまだまだありそうだ。これから長い時間をかけて、彼の中で解決していくことだろう。

 彼の右隣、まるで順番が回るのを待っていたかのようにマリアも言葉を続けた。

「最後まで身勝手な人でしたが、いざいなくなると寂しいものですね。まあ、卒業するからにはきっちり夢を叶えてもらいましょう。有名な作家になれば、仕事の関わりで鉢合わせるかもしれませんし。そのときはとっちめてやりましょうね」

 ん? また物騒な言葉が聞こえた気がする。伝えるべきことは伝え、全員がひとまずは納得したと思っていたが、とんでもない怨恨を遺してしまっていないか? 蝶野は覆面作家を目指した方がいいのでは?

 俺は最後の希望を託して花房の方を見た。心優しい彼なら、未来の暴力沙汰から蝶野を庇ってくれるはず――

「いつか会えるといいね。とっちめてやりたいから」

 駄目だった。この部分では満場一致してしまっている。俺よりも長い付き合いのある彼らにとって、無条件に許せというのも無理な話か。笑顔のまま、さらりと告げるものだから気味が悪い。

 彼らはしばらく口だけの憤慨を示したあと、フッと噴き出した。

「それにしても不思議ね。何だか、あるべき形に収まったような気がするわ」

 マリアの言葉に疑問を抱く。どういう意味だろう。

「あるべき形、って何のことですか?」
「蜂須さん直属の部下である私たち四名――その苗字から一文字ずつ取ると、こうなるのよ。花房くんの花、蝶野さんの蝶、風見さんの風、そして、私の本名である〝月長〟の月……」
「あ、カチョウフウゲツ……」
「偶然だけど面白いでしょ」

 ユニット名みたいだ。でも、それなら蝶野が抜けると崩れてしまうのでは。雪月花だと別の字が必要になるし……。

「いや、俺自身が鳥だから崩れないのか」
「そういうことよ、鳥辺野くん」

 蝶野がいるときもカチョウフウゲツだったとはいえ、本来は蝶ではなく鳥だ。だから「あるべき形」と言ったのか。単なる言葉遊びだが、少しだけ運命じみたものを感じてしまう。

 教えてくれてありがとうございます。そう、マリアに伝えようとした。

 だが、視線を向けた途端に彼女の表情が一転する。蛾眉がつり上がり、怒りをあらわにしていた。やば。今の流れで怒らせる要素あったっけ。

「思い出したわ。私の本名が割れたのって、このエピソードのせいよ」

 去年の夏、彼女は経歴や本名を正式に発表した。しかしその前から本名は割れていたと聞いたことがある。

「生放送で蝶野さんが口走ったのよ。僕たちの名前を繋げるとカチョウフウゲツになるね、って……。当然私ははぐらかしたけれど、あの人、わざわざはっきりと言いなおしたんだから!」

 ほら、まりちゃんは〝月長〟だから〝月〟でしょ――みたいな流れか。手に取るように想像できる。蝶野は確かに聡い人だが、ときどきとんでもなく抜けていることがある。悪気はないのに。

 よりによって生放送で本名をバラされるなど、マリアにとっていかに腹立たしいことだったか。そりゃ、こんな表情にもなるよな。

「思い出したら腹が立ってきたわ」

 マリアは怒り続けている。当人は本気なのだろうが、何しろ顔が良いのでドラマのワンシーンのようだ。蝶野はいなくなったのだから、このことは流してもらうしかない。しばらく彼女をなだめる時間が過ぎた。

「さあ、お仕事を始めましょう。それぞれ業務があるでしょうし」

 俺が始めた会合は、蜂須の号令によって解散された。俺自身の始業時刻もとうに過ぎている。蝶野の跡を継いだとはいえ、まずは撮り溜め分の動画編集をしなければ。俺は自分のデスクへと向かった。

(これからは自分で自分の強みを見つけなきゃな)

 心の中で呟き、軽く頬を叩く。俺を採用してくれた蝶野はもういない。もうすぐ美大を卒業するが、そんな経歴もアラクネの中では凡百だ。それに、蝶野に見出されたという事実だって、結局は履歴書の大学名がきっかけになっただけだし。

(そういえばあの履歴書って……)

 デスクの引き出しを探る。面接時に突き返されたものの捨てる気にもならず、とりあえずここに入れていたっけ。覚えのある質感に触れ、透明なクリアファイルを引っ張り出した。

 机上に置く。何の変哲もない、ふたつ折りの履歴書。
 長髪だった頃の証明写真がこちらをじっと見据えている。

 俺は高校生時代に短期留学をしたことがある。たった二週間程度なので語学は身につかなかったが、ここぞとばかりに学歴欄には書き込んでいた。そのため、大学生の割には記載が多く、後半は二ページ目に渡っている。

 何気なく裏返し、そこを読んでいるときに気付いた。

(あのとき、蝶野さんが俺の大学を知るタイミング、無かったんじゃ……)

 一ページ目に書かれているのは高校の名前と留学経験だけだ。俺は履歴書をふたつ折りのまま出していた。片面印刷とはいえ、大学についての記載は「裏側」にある状態だ。証明写真と同時に目にすることはできない。

 知らなかったのか、あの時点では。

 蝶野は俺が美大生であることも知らず、ただ純粋に俺自身を見て採用を決めたということか。入社以降の付き合いを経て、言動や雰囲気から美術関係の学生であることを察した。そこでようやく、あの計画に巻き込むことを思いついて……。

(なんだ……。最初から、ちょっとは光ってたんだ。俺)

 そして蝶野は俺のことをよく見てくれていた。執拗に隠してきた学歴を見透かすほどに。真面目に勉強へ打ち込み、難関大学に進んだスタッフだらけのアラクネにおいて、俺の過去は恥ずべきものだとばかり思っていたが。振り返れば、誰ひとりとして馬鹿にしてきた者はいない。表情を見れば、気を遣っているわけでもないことくらい分かる。

(ここでは隠す必要なんてなかったんだな)

 どんな選択をしても、俺は俺だ。

 進学も、就職も、彼の跡を継ぐことも。全てを受け入れてこそ、今の俺があるのだから。後悔しないように生きていこう。そう、素直に思えた。


〈エピローグ 終〉
〈アラクネ ~君のために垂らす蜘蛛の糸~ 完〉

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