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カナリア
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大きな道路から離れると、さっきまでの喧騒は嘘みたいに静かだった。人の気配がすっかり消えてしまった住宅街を私は一人で歩く。
もう家には帰れないだろうと思った。大切な人達のために大切な人を裏切った罪を、どうやって雪げるだろう。たかだか十四の子供にはどうしようもなかったんだと、考えても無駄だと分かっていても、頭を占めるのはそのことだった。
現象の始まりは、ほんの一週間前だった。例年ならば、早ければ十一月頃から流行するインフルエンザが、今年は十月の初めから突然広まった。感染の手はすぐに日本全国を手中に収め、海外へも伸びていった。異常だったのは流行時期と感染力だけではなく、その致死率の高さもだった。連日報じられる数千数万単位の死者数は、まるで世界の終わりへのカウントダウンみたいだった。
誰も彼もが予防接種を求めて病院に詰めかけたが、ワクチンが本格的に出回る時期ではなく、ほとんどの人は迫り来る死に怯えながら踵を返すしかなかった。だから今道路を埋め尽くす車は、わずかな可能性を求めるものではなく、時限爆弾を身に宿した感染者を運ぶ行列だった。
国は不要不急の外出を禁じていたけれど、私はあてもなく外をさ迷うことを選んだ。家を飛び出してきたままの長袖は少しだけ寒くて、空腹で胃がキリキリと痛む。
昨日の朝食で「たぶん感染したみたいだ」と言い出したのは父だった。四十度を超える発熱に、関節も焼けるように痛むと言う。
「病院に行っても助からないことは分かってる。だから、せめて最期まで家族と一緒にいたいんだ」
母と弟は何も言えずにいた。
私は「トイレ行ってくる」と言って部屋を出て、保健所に通報した。父のことは好きだったけれど、母も弟も大好きだった。父のわがままで家族を失うなんて耐えられなかった。
すぐに保健所の人が冗談みたいな真っ白い防護服を来て踏み込んできた。よく分からない液体を家中に噴射して、わめき散らす父の両脇を抱えて外へ連れ出した。
そのとき私を見た父の目は、一生忘れないだろうと思う。我が子を慈しむ光なんて無くて、今にも喉元に噛み付いて息の根を止めてやろうとする獰猛な獣みたいな目だった。距離を置いた母と弟が私に向けていた視線も、私を家から追い立てるには十分だった。結局、私は家族を失った。
小雨が降ってきた。濡れた部分から急速に温度が奪われていく。幼い頃よく遊んでいた公園にたどり着いて、中央に立つ木の下に駆け込む。腰を下ろして、いつ止むとも知れない雨をしのぐことにした。
耳をすましても、水の粒が地を打ち葉を打つ音がするだけだった。もうとっくに世界は滅んでしまっていて、この地球には私しか残っていないみたいだった。
じっとしていると、どうしても余計なことを考えてしまう。かと言って、気を紛らわすために歩き出すには疲れすぎていた。体育座りした両膝の間に頭を埋めて、目を伏せた。
小学生のとき、この公園で家族四人でバドミントンをした。ちょうど金木犀が香る今頃の時期だった。人数分のラケットとシャトルを母が玄関に用意したはずなのに、弟は公園に着くなり「すっかり忘れてた」と泣き出して、母からラケットを手渡されていた。父は、私と弟がめちゃくちゃな方向に打つ羽をよく拾ってくれたし、母は、木のベンチに腰掛けて穏やかに笑っていた。
たったこれだけのことで。たかが世界に終わりが来たくらいで、私達は離れ離れになってしまった。
雨は強さを増してきて、木の葉では受け止めきれなかった粒が頭に肩に落ちてくる。
ピューイ、ピューイ。
雨の音に混じって頭上から声が聞こえて、空を見上げた。黄色い点が遠くに見えて、思わず木の陰から出て目を凝らす。点が徐々に近付いてきて、ようやく黄色い小鳥が羽ばたいているのだと分かった。こんな雨の中でも鳥は飛ぶものなのだろうか。小鳥は私の頭上まで来ると旋回を始めた。私が手の平をかかげると、待っていたかのようにそこに降り立った。
ゆっくりと胸元に引き寄せて、指先で背をなぞる。人に慣れているのか、逃げることもなくきれいな声でピピピと鳴いた。鳥を飼ったことがないからよく分からないけれど、きっとカナリアだろう。目の覚めるような鮮やかなレモンイエローの体躯は、心なしか痩せて見えた。餌を求めてこの雨の中を飛んでいたのかもしれない。飼い主もまた疫病に倒れたのだろうか。
また木陰に腰を下ろす。地面は茶色く湿っていてズボンを濡らした。もう気にする必要も無いかもしれないが。
手の中のカナリアは温かかった。確かな熱を持っていた。細くなった体でありながら、この雨の中を力強く羽ばたき、声を遠くに響かせていた。胸を何度も上下して呼吸し、目には光が宿っていた。
私はもう何もできない。この子に何もしてやれない。木から一枚一枚ひらひらと葉が落ちるように、地球から人間が一人ひとり消えていって、世界が静かに終わっていくのを黙って見届けることしかできない。
しばらく座ったままでいると雨が弱まってきた。雲が流れ、少しずつ日も顔を覗かせていた。頭から足先までずぶ濡れで、体は小刻みに震えていた。
「ほら、雨上がったよ。もう行きなよ」
唯一冷えきっていなかった手の平を持ち上げると、カナリアはすぐに飛び立った。
雲間から差した陽光に、たくましく羽ばたく双翼は金色に輝いた。ピューイと鳴いた声は凛としていて、世界の果てまで届きそうに思えた。その姿は、私にはあまりにも眩しすぎて直視できなかった。
何もかも元には戻せないし、私の罪は洗い流せないし、あのカナリアのようには羽ばたけないけれど。ここに立つ木の葉が全て散るまでは、世界から全ての灯火が消えるまでは、ほんの少し足掻いてみようと思う。
-----------------------------
Twitter企画タグ:#週一創作ワンライ
お題:
・茶色
・金木犀
・少しだけ寒くて、
・用意したはずなのに
・「すっかり忘れてた」
もう家には帰れないだろうと思った。大切な人達のために大切な人を裏切った罪を、どうやって雪げるだろう。たかだか十四の子供にはどうしようもなかったんだと、考えても無駄だと分かっていても、頭を占めるのはそのことだった。
現象の始まりは、ほんの一週間前だった。例年ならば、早ければ十一月頃から流行するインフルエンザが、今年は十月の初めから突然広まった。感染の手はすぐに日本全国を手中に収め、海外へも伸びていった。異常だったのは流行時期と感染力だけではなく、その致死率の高さもだった。連日報じられる数千数万単位の死者数は、まるで世界の終わりへのカウントダウンみたいだった。
誰も彼もが予防接種を求めて病院に詰めかけたが、ワクチンが本格的に出回る時期ではなく、ほとんどの人は迫り来る死に怯えながら踵を返すしかなかった。だから今道路を埋め尽くす車は、わずかな可能性を求めるものではなく、時限爆弾を身に宿した感染者を運ぶ行列だった。
国は不要不急の外出を禁じていたけれど、私はあてもなく外をさ迷うことを選んだ。家を飛び出してきたままの長袖は少しだけ寒くて、空腹で胃がキリキリと痛む。
昨日の朝食で「たぶん感染したみたいだ」と言い出したのは父だった。四十度を超える発熱に、関節も焼けるように痛むと言う。
「病院に行っても助からないことは分かってる。だから、せめて最期まで家族と一緒にいたいんだ」
母と弟は何も言えずにいた。
私は「トイレ行ってくる」と言って部屋を出て、保健所に通報した。父のことは好きだったけれど、母も弟も大好きだった。父のわがままで家族を失うなんて耐えられなかった。
すぐに保健所の人が冗談みたいな真っ白い防護服を来て踏み込んできた。よく分からない液体を家中に噴射して、わめき散らす父の両脇を抱えて外へ連れ出した。
そのとき私を見た父の目は、一生忘れないだろうと思う。我が子を慈しむ光なんて無くて、今にも喉元に噛み付いて息の根を止めてやろうとする獰猛な獣みたいな目だった。距離を置いた母と弟が私に向けていた視線も、私を家から追い立てるには十分だった。結局、私は家族を失った。
小雨が降ってきた。濡れた部分から急速に温度が奪われていく。幼い頃よく遊んでいた公園にたどり着いて、中央に立つ木の下に駆け込む。腰を下ろして、いつ止むとも知れない雨をしのぐことにした。
耳をすましても、水の粒が地を打ち葉を打つ音がするだけだった。もうとっくに世界は滅んでしまっていて、この地球には私しか残っていないみたいだった。
じっとしていると、どうしても余計なことを考えてしまう。かと言って、気を紛らわすために歩き出すには疲れすぎていた。体育座りした両膝の間に頭を埋めて、目を伏せた。
小学生のとき、この公園で家族四人でバドミントンをした。ちょうど金木犀が香る今頃の時期だった。人数分のラケットとシャトルを母が玄関に用意したはずなのに、弟は公園に着くなり「すっかり忘れてた」と泣き出して、母からラケットを手渡されていた。父は、私と弟がめちゃくちゃな方向に打つ羽をよく拾ってくれたし、母は、木のベンチに腰掛けて穏やかに笑っていた。
たったこれだけのことで。たかが世界に終わりが来たくらいで、私達は離れ離れになってしまった。
雨は強さを増してきて、木の葉では受け止めきれなかった粒が頭に肩に落ちてくる。
ピューイ、ピューイ。
雨の音に混じって頭上から声が聞こえて、空を見上げた。黄色い点が遠くに見えて、思わず木の陰から出て目を凝らす。点が徐々に近付いてきて、ようやく黄色い小鳥が羽ばたいているのだと分かった。こんな雨の中でも鳥は飛ぶものなのだろうか。小鳥は私の頭上まで来ると旋回を始めた。私が手の平をかかげると、待っていたかのようにそこに降り立った。
ゆっくりと胸元に引き寄せて、指先で背をなぞる。人に慣れているのか、逃げることもなくきれいな声でピピピと鳴いた。鳥を飼ったことがないからよく分からないけれど、きっとカナリアだろう。目の覚めるような鮮やかなレモンイエローの体躯は、心なしか痩せて見えた。餌を求めてこの雨の中を飛んでいたのかもしれない。飼い主もまた疫病に倒れたのだろうか。
また木陰に腰を下ろす。地面は茶色く湿っていてズボンを濡らした。もう気にする必要も無いかもしれないが。
手の中のカナリアは温かかった。確かな熱を持っていた。細くなった体でありながら、この雨の中を力強く羽ばたき、声を遠くに響かせていた。胸を何度も上下して呼吸し、目には光が宿っていた。
私はもう何もできない。この子に何もしてやれない。木から一枚一枚ひらひらと葉が落ちるように、地球から人間が一人ひとり消えていって、世界が静かに終わっていくのを黙って見届けることしかできない。
しばらく座ったままでいると雨が弱まってきた。雲が流れ、少しずつ日も顔を覗かせていた。頭から足先までずぶ濡れで、体は小刻みに震えていた。
「ほら、雨上がったよ。もう行きなよ」
唯一冷えきっていなかった手の平を持ち上げると、カナリアはすぐに飛び立った。
雲間から差した陽光に、たくましく羽ばたく双翼は金色に輝いた。ピューイと鳴いた声は凛としていて、世界の果てまで届きそうに思えた。その姿は、私にはあまりにも眩しすぎて直視できなかった。
何もかも元には戻せないし、私の罪は洗い流せないし、あのカナリアのようには羽ばたけないけれど。ここに立つ木の葉が全て散るまでは、世界から全ての灯火が消えるまでは、ほんの少し足掻いてみようと思う。
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・茶色
・金木犀
・少しだけ寒くて、
・用意したはずなのに
・「すっかり忘れてた」
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