人当て鬼

貴美月カムイ

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新しい命と決意

新しい命と決意2

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 車の外でパッと光り、ゴゴゴという轟音が叩きつける。すぐに窓ガラスに水の線が走るようになってくる。
「あ、こりゃ降ってきたな」
 柏田はワイパーを入れて慎重に運転をしている。
「小沢さんの部屋にあった封筒。覚えてますか? 玄関のところに山積みになっていたやつです。あの中身はほぼすべては髪の毛でした。あとは、魔よけの札。宛先はH山の原生林にも近い場所、ほとんど麓になります。なぜその場所に送り続けたのかわかりませんが、もしかしたら何かあるのかもしれません。これから正午に出発しても暗くなってしまいますので明日の早い時間に出ようかと思ってます」
 激しい雨が車の屋根やフロントガラスやボンネットを打ちつけている。窓ガラスにさえ雨のバラバラという音がするほど大粒の雨が叩きつけている。何度か閃光が走り、その後体を揺らすような雷鳴が響く。ワイパーはフロントガラスにかかった水をかき分けるが、滝のように流れてきて視界も悪い。どこを走っているのかさえ見失いそうなほどだ。
 対向車線からヘッドライトをつけて車が何台もすれ違う。そのヘッドライトの光が鬼火のように雨の中輝いている。
 和夫はぼんやりすれ違う光を見ながら思った。本当はすれ違うはずだった。違うライン上にいたはずなのに、何の関係もない魂だったのに、ちょっとした交通事故だ。紀之、お前は人を殺したのか、それとも殺されたのか。そんなことすらわからないかもしれない。ただ、俺はお前の昔の友人として、この事件に決着をつけてお前とお別れしたい。俺とお前は違う世界に住んでいるんだ。
 和夫はしばらく決意を固めるのに時間を必要とした。時間がたち、決めたつもりでも口に出すことに、また勇気が必要だった。だいぶ移動してきたはずだが雨はまだ強く降っている。和夫は空になったペットボトルを両手で握り締めながら言った。
「あの」
「はい。どうかしましたか?」
 視界不良で慎重に運転している柏田に和夫は続けた。
「明日、連れて行ってくれませんか? その場所に。自分なりに決着をつけたいんです」
 身震いしだしそうな恐怖を抑えている和夫の申し出に柏田は捜査を理由に断るかと思ったが、思いのほかすんなり了承した。
「かまいませんよ。もうこんなに滅茶苦茶になってしまって、捜査も何もあったもんじゃない。捜査しに行くんだか、除霊しに行くんだか、わからなくなりましたね」
 ははは、と柏田は笑う。きっと内心は不安でならないのだろう。いくつもの怪現象に先輩である窪田まで犠牲になってしまった。悲しみや不安を振り払うために必死に取り繕って場を和ませようとしているのだろう。和夫は自分よりも若い柏田の強さに勇気付けられる思いだった。
 柏田に家の前まで届けてもらい、明日の予定の確認をして和夫は玄関を前にした。雨の激しい音が重苦しく心を打ち付ける。きっと麻弥子は怒っているだろう。何日も無断で留守にしたのだ。会社だって連絡もせずに休んでいる。俺も、滅茶苦茶だな。和夫はそう思いながら自嘲的に笑った。
「ただいま」
 玄関に入ると家の中は静かだった。返事がない。麻弥子の靴もない。雨の音しかしてこない。実家に帰られたとか?そうだよな。そりゃそうだよな。心配かけて連絡もいれずにいたんだし。
 和夫の脳裏に志穂との出来事がふつふつと蘇ってきて罪悪感をよりいっそうわかせた。「罪な男」という志穂の言葉が心に突き刺さる。「家」という現実を目の前にして後悔の念がふつふつと湧き上がるばかりだった。紀之にさえ会わなければ。アパートにさえ行かなければ。いくつもの「もしも」が脳裏をよぎっては消えた。
 家中を見回ってみるが麻弥子はいない。連絡を入れようにも怖くてできない。人の声ひとつしない家の静寂が今の和夫にとっては拷問にも近いほど責めたててくる。錘を体にかぶせられたような疲れを感じた和夫は居間のソファーに深く腰を沈めてため息をついた。
「麻弥子、出て行っちゃったか……」
 しばらく頭が真っ白の状態で放心していた。少しずつ思考が戻ってくると和夫は明日の用意をしようと思った。決めたからにはなんとかしなきゃな。またあの呪いのような光景がちらつかれても困る。数珠は持っていったほうがいいかな。喪服は? いや、白いワイシャツでいいか。
 和夫が準備をしていると、玄関から「ただいま」という声が聞こえた。「麻弥子か?」と信じられない思いで玄関へと駆けつけると軽装の麻弥子だった。特に旅行カバンなどはない。和夫が驚きながら「麻弥子、お前、じっ……」と言い終わる前に麻弥子は瞳に涙を浮かべて抱きついてきた。
「和夫さん! よかった! 無事だった。ずっと心配してたんだから!」
 と吐き出すように言った後、麻弥子は子供のように号泣した。抱きしめてよいのか戸惑っている和夫は言う。
「俺、ずっと実家に帰っていたと思ってて……」
 すると泣き止まぬ間に麻弥子は涙声で言った。
「あのね、産婦人科に行ってたの。和夫さん、私妊娠した」
「え?」
「赤ちゃんができたの」
 和夫はあまりの驚きに言葉に詰まっていた。次第にじわじわと湧き上がるように感情が膨れ上がってくる。
「俺の子供が……」
 和夫にとって麻弥子の妊娠はすべての緊張と恐怖を浄化させるほどの喜びだった。今度は和夫が号泣する番だった。嬉しい。嬉しいとはこれほど救われるような思いなのか。
「お、俺の、俺の子供……」
「そうよ和夫さん」
 感情がとめどなく込み上げ、和夫は麻弥子を抱きしめたまま子供のように嗚咽した。「麻弥子、麻弥子」と連呼しながら泣きじゃくる和夫の姿を見て麻弥子は込み上げてくるものがあり、一緒に泣いた。家の中まで届く雨のくぐもった音が同じような涙に感じていた。
「三人で一緒に幸せになろうね。今度は赤ちゃんも一緒だよ。和夫さん」
 「うん。うん」と涙交じりの返事をしながら和夫は麻弥子をより強く抱きしめた。二人の涙が収まりつつあるとき、和夫の耳の奥で声がした。
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