イシュラヴァール放浪記

道化の桃

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第十章 王都編

願い

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 もう思い残すことはない、などと思うことは、自分の人生で起きるはずがない。
 それは何かを切望し、それを成し遂げた者だけが言える言葉だ。
 マルスは多くのものを持って生まれ、更に多くのものを自ら手に入れてきたが、元々何かを強く切望したことなどなかった。手に入れることができるから、手に入れてきただけだ。だから飢えもなければ満たされもしない。満たされはしないが、役割はある。王としてのそれを全うする。人生とはそういうものだと思っていた。
 馬の振動が傷口に響く。ユーリに斬られた傷は肋骨で止まり、肺にまでは達していないが、それでもかなり深かった。肋骨にひびも入っているようで、呼吸するたびに痛む。
 地形はゆるやかな起伏を繰り返し、岩屋はまもなく見えなくなった。
 マルスは何度も振り返った。振り返るたびに、追ってくる兵士が近付いてくる。国軍兵士の制服だが、その顔ぶれに見覚えがない。恐らくアトラスが抱き込んだ私兵だろう。
「これまでか……」
 思い残すことがないとは、アトラスにこそ相応しいだろうと思えた。幼い頃に復讐を誓い、長い年月をかけてそれを成し遂げたのだ。さぞかし満足だろう。
 マルスは手に入れるばかりで、失ったことがなかった。だから知らなかった。失うことが、奪われることが、どういうことか。怒りと後悔と屈辱と絶望と。あらゆる負の感情が自分の中にもあったと知る。
 すぐ背後に、蹄の音が迫る。ヒュン、と空気を掠めて、背後から矢が飛んできた。
 マルスは剣を抜き、大きく弧を描くように馬を駆った。
 そのマルスの周囲を、敵の騎馬がぐるりと取り囲む。
 マルスは馬を止めた。円状に囲んだ兵士たちが、キリリ、と弓を引き絞った。
 一頭、マルスの正面の馬が進み出た。
「恐れながら、前王。王宮へお戻りください。譲位と戴冠の儀を執り行っていただく」
「――はッ!」
 マルスは一笑し、自分を囲んだ兵士たちを見回した。
「戴冠だと?ふざけるな。貴様ら、簒奪者に味方する恥を知れ」
「新王の御慈悲により、前王におかれましては塔にてご隠居いただけます」
「慈悲とは笑わせる。私は譲位も隠居もせぬ。今ここで殺すが良いわ」
 言いながら、あらためて敵の数を数える。
(数騎、分かれたな)
 ユーリの目を信じれば、追手は二十五騎いたはずだ。王都に報告に戻ったか、岩屋を確認しに行ったか。
 マルスは剣を構えた。二十対一。怪我をしていなければ、或いは勝機があったかもしれない。だが王宮で終生幽閉される屈辱を受けるくらいならば、ここで戦って死んだほうがましだと思えた。
「シャルナクへ留学中の第一王子並びに王女のお身柄も、確保してございます、前王」
「なんだと……」
 第一王子と王女。それは、若い日に愛し合ったヤスミン妃の忘れ形見だった。
「王子たちを、人質に取ったと申すか?」
ていに言えば。さあ、お戻りくださいますね?」
 マルスはぎり、と奥歯を噛んだが、結局、剣を下ろした。
 正面の男の合図で、二頭の騎馬がマルスの馬を挟んだ。
「失礼します、陛下」
 兵士の一人がマルスの手から剣を取り上げ、もう一人がマルスの両手を後ろ手に縛り上げた。
「戻るぞ」
 先程の正面の男がくるりと馬の首を王都へと向けた。マルスを囲んだ兵士たちが弓を下ろした。
 その時、風が鳴った。
 ヒュン――ヒュンヒュンヒュン――
「……ぐあっ!」
「ぎゃっ!」
「何……!?」
 空から矢が降ってきたかと思うと、取り囲んでいた兵士たちが次々に射抜かれて落馬した。
「陛下――!」
 先程マルスの剣を取り上げた兵士が、マルスの縄を切った。そのまま剣をマルスに手渡す。
「何の茶番かと思ったぞ」
 マルスが兵士を睨みつけた。
「すみません、風上の高台に回り込ませるのに時間が掛かったんですよ」
 兵士がターバンを取ると、見事な金髪が風に舞った。屈託のない笑顔がこぼれる。
 その男――スカイが剣を高く上げると、赤茶けた丘陵の上から数十名の兵が姿を現した。それは近衛兵を中心に組織され、アトラスが差し向けた兵士のざっと倍以上はいた。
「一人も逃がすな!王に弓引く大逆者どもだ!」
 スカイの号令で、兵士たちが一斉に丘陵を駆け下りた。その場は乱戦となった。
 しかし、戦いは長くはかからなかった。
 更に数百の軍がどこからともなく現れたのだ。軍、といっても年齢も性別も服装もばらばらで、手にしている武器も統一されていない。
「これは――まさか、レーの奴隷軍か……!」
 さすがのマルスも予想だにしていなかった。
 アトラスの兵は、怪我人も含めて全員降伏した。
「ああ、敵じゃありませんからご安心ください。――まあ、完全に味方ってわけでもなさそうですけど」
 スカイが軽く手を挙げると、長槍を手にした大柄な男が進み出てきた。
「奴隷軍、というのはちょっと、国王殿。俺らはもう奴隷じゃないんでね……カナン自由民のイランだ」
 イランが手を差し出したので、マルスは剣を収めてその手を握り返した。
「……マルスだ」
「我々は王都から撤退した。アルヴィラ軍とはカナンの奪還のために一時的に手を組んだだけで、今はもう同盟関係はない。王宮は昨夜遅く新政府の発表をしたが、それも我々とは関わりがない。もっとはっきり言えば、カナン自由民は王都に興味はない」
 イランは言葉を選んで説明した。マルスは手をひらりと振って話の先を促した。
「我々はレーを拠点に、奴隷解放運動を行っている。我々の目的は奴隷の解放と再出発の土台作りだ。いくさは我々の望むところではない。なので、マルス殿、今後あなたがたに加担することも、敵対することもないだろう。困っていれば手助けはするが、政争に巻き込まれるのは御免だ。今回あなたを助けに来たのは、レーの海運業組合の幹部に頼まれたからだ」
「海運業組合……?」
 そんな役職があっただろうか、とマルスが首を傾げたところに、人混みを掻き分けて一人の女が現れた。
「マルス=ミカ・イシュラヴァール!」
「――スラジャ!」
 マルスは駆けてきたルビーを抱き止めた。
「マルス、怪我を?」
 マルスが僅かに眉を歪めたのを見て、ルビーは息を呑んだ。
「ああ、ちょっとな」
「詳しい話はおいおい説明するわ。一旦わたしの船へ行きましょう。傷の手当をしないと」
「しかし……」
「甘えさせてもらいましょうよ、陛下。僕らも王都を飛び出してきちゃって、今のところ行くとこないですし」
 スカイに背中を押され、マルスは嘆息した。
「――どうやら私に決定権はないようだ」
「ええ、怪我人ですからね」
 スカイはにっこりと笑って、そして小声で続けた。
「まさか怪我をしたくらいであんなに弱気になるとは思っていませんでしたけど」
「……スカイ、そなたは……」
 マルスはスカイを睨みつけた。スカイはマルスが、自分をここで殺せ、と言ったことを揶揄しているのだ。それでふとマルスは思い出した。
「――シハーブは?」
「ご無事ですよ。シハーブ家の領地に避難されているはずです」
 アルサーシャの名家シハーブ家は国内に広大な領地を保有していた。それはスカイの養父アブドラも同様で、アルサーシャの上流階級の人々の多くは争乱を避けて地方の領地へと逃れていた。
「王宮を攻撃した市民はごく一部で、大半は暴動を避けて一時的に周辺の街へ避難しています。西街道を守っていた兵たちが、カナン自由民の撤退と同時に五街道に分散して、避難する市民の警護に当たっています。王都では、陸軍の半数以上が新政府に反発して軍部に立て籠もっています。アルサーシャ市内はアルヴィラの反乱軍が占拠していますから、これが軍部と衝突したらちょっと面倒ですね……。それと、アルヴィラと新政府が前々から繋がっていたとしたら、21ポイントのイスマイル軍は諦めたほうがいいかもしれません。――まあ、国軍も一枚岩で弟君に寝返ったわけじゃないですよ」
「そのようだな」
 マルスは空を仰ぎ、それから砂漠を見渡した。カナン自由民の中には、まだあどけなさの残る少年も混じっている。
 思い残すこと。やり残したこと。
 美しいララ=アルサーシャをこの手に取り戻すこと。
 そして、豊かで平和な王国を、今度こそ、築き上げる。
 子供たちが、生まれたばかりの命が、笑って過ごせるように。
「……まだ、死ねぬか」
 マルスはぽつりと呟いた。
「当たり前ですよおー」
 スカイが朗らかに笑った。
「そうだ――イランとやら」
 マルスがイランを呼び止めた。
「カナンはこの先の岩屋にいる。無事だ」
「……感謝する、マルス殿」
 イランはマルスに向き直り、軽く頭を下げた。カナンは王の愛人だったと聞いた。では、いつぞやカナンが「裏切った」としきりに後悔していたのはこの男のことだろうか……そんな考えが頭を過ぎったが、勿論口には出さなかった。
 マルスはイランに背を向け、ルビーとその手下たちと共に西へと向かった。イランは手勢をまとめて、東の岩屋を目指した。



ーーーーーーーーーーーーー

地平線までの距離は4~5Kmくらい。
サラブレッドの全速力が時速60~80Kmくらいらしいので、仮にそれを基準とすると、地平線に見えた馬が自分のところまで到達するのは5分前後。
ただこれは自分が立ち止まっている前提なので、仮に自分が追手よりも遅いスピードで進んでいたとすると、追い付かれるまでの時間は……えっと、ちょっとどなたか計算式を……
そして馬は(というか馬に限らず)そんなに何十分も全速力では走れないらしいですから、そこそこ時間はかかっていると思われます。
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