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イシュラヴァール拾遺
番外編 誓い 後編
しおりを挟むマルスはシハーブのことが気に入ったらしく、本当に毎日のように宮殿に呼びつけた。
おかげでシハーブの家庭教師は暇を出されてしまった。シハーブはマルスの遊び相手だけでなく、勉強時間にも付き合わされたからだ。
マルスは新しい遊び相手を「シハーブ」と姓で呼んだ。「アフマドなんて平凡すぎて覚えられない」というのがその理由だ。
授業が終わると、二人は宮殿の中を遊び回った。マルスは宮殿のあらゆる通路について、とてもよく知っていた。役人の中でも高位の者しか入れない部屋も、図書館の非公開文書が収められている保管庫の鍵の在り処も、使用人の休憩所も、厨房の屋根伝いに馬屋に出られることも。
そして、一日に一度は、あの王宮の西の端に佇む塔の下へ行った。
「母上はあそこに閉じ込められていた。一度もあの塔を出ないまま、死んでしまった」
シハーブがマルスと会ってひと月が経った頃、マルスがぽつりぽつりと話しだした。
マルスが言うには、マルスの母は何か重い罪に問われて、塔に幽閉されていたというのだ。それを子供の妄想だと切り捨てるには、マルスはあまりに理性的だったし、宮殿の中の様々な事情に通じていた。
宮殿から帰った夜、たまたま屋敷で顔を合わせた父に、シハーブはそれとなくマルスの母について尋ねたことがある。父はしばらく無言でシハーブを見つめた後、
「殿下はお寂しいお方だ。お前は殿下のお心の、一番そばにいなさい。これから先、いつも、何があっても、殿下のお味方でいなさい」
と言った。シハーブの父は、たとえそれが幼い息子であっても、相手を子供扱いしない男だった。その顔は真剣そのもので、どこか哀しげだった。
「シハーブ、今日は町へ出るぞ」
ある日、授業が終わるなりマルスはそう言った。
マルスとシハーブは宮殿の中の普通なら入れないような場所まで散々入り込んでいたので、シハーブは、守役に内緒で町に出ることなど今更何の問題もないような気がしていた。今日の冒険はそれか、と思った程度だった。
いつもの通りまんまと守役の女達をまいて、二人は出入りの業者の荷車に潜り込んで門を出た。
「マルス様、どちらへ?」
荷車から飛び降りて、シハーブはマルスに尋ねた。
「ウラ川はどっちだ?」
そう訊かれて、シハーブは目を瞬いた。
「知らないんですか?」
ウラ川は、アルサーシャを横切る川で、王都に住むものなら知らない者はいない。
「地図では頭に入っていたのだが」
「マルス様……もしかして、王宮の外に出たことって……」
「三度目だ。一度目は赤ん坊の頃だったから覚えていない。二度目は、去年の花祭に、広場に出た」
つまりマルスは、地図上の川の場所は知っているが、荷車の中に隠れていた間の道順を知らないので、自分が今どこにいるかわからないのだった。
一方シハーブは母や乳母に連れられて町を出歩くことも珍しくなかったので、王宮の周辺であればだいたいの地理は分かっていた。
「こっちです」
ウラ川はイシュラヴァールを蛇行しながら横切っている。ひとまずシハーブは一番近い川辺へとマルスを案内した。
「ウラ川、といっても、広いからな……」
川岸に立ったシハーブが呟いた。アネモネの花がそよ風に揺れている。
「工事をしているだろう。そこへ行きたい」
マルスが言った。シハーブは「ああ」と得心した。ウラ川の護岸工事の指揮を、シハーブの父が執っていたのだ。
「それじゃもう少し下流ですね」
アネモネの花が咲く川岸を、二人は連れ立って歩いた。マルスが丈の高い草に足元を取られそうになると、シハーブはその腕をとって支えた。
徐々に日が傾いてきた。
(そろそろ帰らないと……)
シハーブは少し焦った。振り向くと、マルスが頬を上気させ、真剣な目で草を漕いでついてくる。
「もう、すぐです……」
帰らなければと思う心とは真逆のことを、シハーブは口にしていた。
(この人の願いを叶えるんだ)
シハーブもまた、必死で先へ進んだ。マルスが見たいと思うものを、見せたかった。いやむしろ、マルスの見るものをシハーブは見たかった。たとえそれが面白くもなんともない工事現場だろうが、マルスが見たがったという事実が、その風景を特別なものにするだろう。
太陽はどんどん地平線へと落ちていき、空は真っ赤に染まっていった。さすがに日が暮れて出歩くのは危険だ。子供をさらって売り飛ばす輩もいる。だが、シハーブは覚悟を決めていた。
(何があっても、この人を守る)
精一杯の誓いを小さな胸に抱いて、見上げた西の空に宵の明星が輝いた。
「――着いた……あそこです……!」
シハーブが指差した先をマルスが見つめる。その額には、汗の粒がきらきらと浮かんでいた。
「ありがとう、シハーブ」
オレンジ色の残照を背に、マルスは輝くような笑顔で言った。
国王の寵愛を受けていた側室が、王子殺害の容疑をかけられて息子共々追放されたのは、そのひと月ほど後のことである。
聞いた話では、ウラ川の工事現場から側室のものと思しき首飾りが見つかった、という。それは四年前に第二王子が命を落とした場所と、奇しくも同じであった。
この一件により、既に戦死していた第一王子、殺害された第二王子、追放された第三王子に続いて、母の疑惑が晴れたマルスが王位継承権の第一位となった。それはしかし、血塗られた玉座――そう、人々に噂された。
マルスが十五の歳に、国王はマルスに王位を譲って隠居した。間もなくマルスは、その血塗られた運命に相応しく、砂漠に住む異民族――遊牧民たちの掃討戦を開始したのである。
砂漠は血の色に染まっていった。
シハーブがあのアカシアの樹の下の出会いについて疑いを持ったのも、その頃のことである。
マルスは自分と出会う前から父の仕事を知っていたのではないか――シハーブの父が仕切っていた護岸工事の詳細を把握するために、シハーブを側近くに仕えさせるよう仕向けたのではないか。
「まさか……な」
シハーブは数歩先を行くマルスの銀の髪を追いながら、小さく呟いた。
首飾りが果たして本当に四年間も川岸の泥地に眠っていたのかは、誰も知らない。
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