イシュラヴァール戦記

道化の桃

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第一章 乱世到来

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 ――あんたは人質だよ。カイヤーンをおびき出すための。
 シンはそう言ったきり、そのことについて語ろうとはしなかった。
 ほとんど会話のない旅が続いていたが、それまで濃い霧がかかったようだった頭の中が、少しずつ働き始めていた。
(カイヤーンは、ユーリの仲間だった……)
 シンは自分を「国軍のアトゥイー」と呼んだ。かつてイシュラヴァール国軍にいたことを、シンは知っているのだ。しかし、それがどこでカイヤーンとつながるのか。
 当時、カイヤーンとユーリは共にアルヴィラ解放戦線の戦士だった。そのカイヤーンに、シンは恨みがあるという。
(ということは、解放戦線と敵対していた国軍側の兵士だろうか)
 これほど腕の立つ兵士が軍にいたら、それなりに目立っていてもいいはずだが、そんな兵士がいたという記憶はない。兵士でないとしたら、シンはアルヴィラ側の人間で、何かのいざこざで対立したのか。しかし、そうすると今度はなぜシンが「国軍のアトゥイー」をわざわざ人質に選んだのかがわからない。カイヤーンと「国軍のアトゥイー」との接点など数えるほどしかないし、ユーリを介してそれなりの親交があったとはいえ、それを知っているのはごく身近な人間だけのはずだった。それに――と、シンの横顔に目をやった。
(若い)
 まだ17、8だろうか。ターバンで髪の長さはわからないが、つるりとした頬やつんと尖った口元に少年らしさが残っている。
(あの頃、この男は何歳だったのだろう)
「国軍のアトゥイー」を名乗っていたのは、もう五~六年前のことだ。
 彼女自身、カイヤーンとはもう何年も会っていない。新政府についたアルヴィラ解放戦線とは袂を分かったと、風の噂で聞いていた。そのカイヤーンに、この男はどうやって接触するつもりだろうか。どこにいるかも定かではないのに、この広大な砂漠のどこで出会えるというのだろう。カイヤーンは遊牧民だ。砂漠を自由自在に駆け回る。
 周囲を見回すと、四方のどこを向いても地平線まで砂漠が続いている。
(ここは、どのあたりだろう)
 シンは街道からわずかに逸れつつも、付かず離れずに移動している。人目を避けているのだろうが、街道の要所には市場があるため、補給のためには立ち寄らざるを得ない。遊牧民の姿をしているが、生粋の遊牧民ならば街道や市場に頼らずに移動できるはずだ。何より、シンの相貌は砂漠の民のそれとは異なっていた。肌が白く、怜悧な印象の目鼻立ちは、どこか洗練された気品を感じられる。それは遊牧民の誇り高さとはまた違って、どちらかといえば王都の民を思い起こさせた。宮殿にいた誰かにも、似ていた。
 そのとき、女の視界の端で何かが動いた。
「……鳥……?」
 遠くの砂丘の陰に、大型の猛禽の羽根がちらりと見えた。その尖った嘴が咥えたものは。
「……っ!」
 女が手綱を引いて腹を蹴ると、駱駝は素直にそちらへと駆け出した。
「――おい!待て!お前!」
 騎馬のシンが後を追う。やがて、ハゲワシの群れがつついているものが見えてきた。
「人か!?」
 群れの場所に着くなり、女は転がるように駱駝から降りて、頭に巻いていた布を取った。
「っああああっ!」
 布を振り回してハゲワシを追い払う。その下からは、半分肉と化したむくろが姿を表した。その大きさから察するに、まだ幼い子供のようだ。
 うずくまるような体勢で丸まった小さな軀を、女はそっと仰向けた。身体の損傷に比すれば奇跡のように無傷に近い顔を、震える手で包み込む。
「知っているのか」
 シンが問うと、女はうつむいたまま首を振った。
「……違った」
 違っていて良かった、とはとても思えない。目の前の不運な子供の姿は、そのまま自分の子の姿に重なり、彼の運命を暗示しているかのように思えた。
 砂を少し掘るだけで、小さな体はすぐに埋められた。
 しばらく進んで振り返ると、もう埋めた場所すらわからなかった。

 その夜。
 ただならぬ気配にシンがふと目を覚ますと、女は既に目を見開いて闇を見つめていた。
 すぐ近くに感じる獣の匂いと息遣いが、皮膚を泡立たせる。
「サバクオオカミの群れだ。大きいぞ!」
 シンは女に剣を一振り投げた。自らも剣を抜き放ち、焚き火を挟んで二人背中合わせに構える。
 まず一頭が、闇の中から突進してきた。シンがそれをやり過ごすと、続いて大型の二頭が同時に高く跳ねて、シンの頭上から飛びかかってきた。
「くっ!」
 シンの剣が空を薙いだ。その瞬間、更にもう一頭がシンの足元に食らいついた。
「くそっ!」
 バランスを崩して、シンは仰向けに地面に倒れた。そこへすかさず、先程の大きい狼の一頭が首筋めがけて牙を剥いた。咄嗟に剣で受けると、ガキィン!と鈍い音を立てて牙が刃を噛んだ。視界の端では、女の方も5~6頭の狼たちに囲まれている。その時、シンの頭上から顔面めがけて大型のもう一頭がぱっくりと口を開けた。
 終わりだ、と思った瞬間、びしゃっと生温い液体が顔にかかって、シンは反射的に目を閉じた。
「ギャウ!」
 一頭を後頭部から串刺しにしたまま、シンの剣に噛み付いているもう一頭をなぎ倒す。足に喰らいついていた小さめの一頭は、女が思い切り蹴り飛ばすと逃げていった。
「アトゥイー!」
 顔面にかぶった血を袖で拭って起き上がると、女が大型の狼に止めを刺しているところだった。他にも小型の狼の死骸がいくつかあり、生き残った狼たちも逃げていった。
「怪我は?」
 女が噛みつかれたシンの足首を確認する。噛みつかれた足首は分厚い革靴に守られて、僅かに血が流れる程度だった。
「傷はそんなに深くない。でも洗わないと……立てるか?近くに水場がある」
「ああ――馬は?」
「見当たらない。逃げたらしいな」
 女に支えられて、シンは立ち上がった。
「情けないな。女に助けられるとは」
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