イシュラヴァール戦記

道化の桃

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第二章 落日のエクバターナ

アディとタリファ

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 記憶にあるのは、頭をやさしく撫でる母の手の温度。
 そして、迫りくる砂塵に立ちはだかる父の背中。
 あれは現実だったのだろうか。それともやはり、鬱屈した日々に抱いた願望が見せた夢なのだろうか。


 砂嵐に流されて、気付けば砂漠の中に二人きりだった。
 どちらを向いても砂の平原。見覚えのある地形はおろか、目印になる木の一本も見当たらない。当然水場もない。
 戦場で殺される危険は去ったらしい。だが、だからといって生き延びられるということではない。砂漠に無防備に放り出された者は、ときに戦場よりも簡単に命を失う。
 黙って動かずにいても死を待つだけだと悟ったアディは、負傷したタリファを背負って歩き出した。向かう先に水場がある保証など無い。なんなら今まさに水場から遠ざかっている可能性もある。
「ア……ディ……」
 アディの背中で、タリファが言った。
「喋るなよ」
 ひとこと言葉を発するだけで、身体から水分が失われるような気がした。だが、聞こえていないのか、タリファは言葉を続けた。話しかけているというより、熱にうなされているように支離滅裂に言い募る。
「アディ、ごめんよお……俺、俺、お前に来てほしかったんだよ……俺と同じになってほしかったんだよ」
「謝るなよ。俺は気にしてないから」
「たのむよ、友達でいてくれよぉ……アディ……」
「友達だよ」
「ああ……アディ……友達だよな?俺たち……友達……」
 タリファは夢とうつつの境目にいるようで、何事かぶつぶつと口の中で繰り返した。

 アディとタリファはもともと同じ部族の出身で、幼馴染だった。
 遊牧生活は決して豊かではないが、慎ましく穏やかな日々だった。だが、内戦がすべてを変えた。良くも悪くも砂漠を監視していた陸軍と辺境警備兵が解体され、砂漠の秩序は崩壊した。割を食うのは真っ当な暮らしをしている者たちだ。夜となく昼となく盗賊が跋扈し、市場は荒らされ、自治権は匪賊・侠客の類に取って代わられた。
 世の中が変化すれば人も変化する。侠客らの存在は、恐ろしく忌み嫌われるばかり入りする者たちは当然高額な通行量や場所代を請求されたが、背に腹は代えられない。物価は上昇し、元々余裕のなかった遊牧民の生活はいよいよ困窮した。しかし、ここにきて侠客らの存在は、恐ろしく忌み嫌われるばかりではなくなっていった。彼らに媚びへつらいながら陰で悪口を言い募る大人を見て育った少年たちは、力を持ち堂々と振る舞い、いざとなれば盗賊と戦って市場の平和を守る侠客らに、少なからず憧れを抱くようになったのだ。部族にいても貧しさばかりだが、侠客らは金に不自由せず、女たちも寄っていく。タリファもまた、そんな彼らを眩しく見つめる少年の一人だった。
 タリファは兄弟が大勢いた。両親は子供たちを育てるのにいつも苦労していた。タリファは家を出て侠客になれば、稼いだ金を家に入れられると考えた。だが、両親らは侠客を良く思っていない。当然の反対に遭ったタリファは憤った。食い扶持が減り、金が入ってくる。何故こんなに簡単なことがわからないのだろう。
 そんなタリファに、友人の一人が「稼ぎのいい仕事」があると囁いた。砂漠の北寄りにある砦で、兵士を募集していると。その砦の主は新王と盟約を結んだ異国の王子で、兵士たちは国軍兵ではないものの、それに準じる待遇が期待できる。タリファは両親を説得し、友人ら数名と共にダレイ軍の兵士となった。
「お前も行こうぜ。ここに残っても未来なんてねえよ」
 タリファは当然のようにアディを誘った。
「うん……そうなんだけど」
 だが、アディの返事はタリファの思いに反して歯切れの悪いものだった。
 アディに兄弟はいない。正確には姉が一人いたが、幼い頃に病死している。父親ははじめからいなかった。母親は父親について多くを語らない。アディが生まれる前に死んだように話すこともあれば、勝手に出ていって行方知れず、今はどこでどうしているのやら、と話すこともある。しかし、どんな出自のどんな人物で、見た目や性格、好物など、そういった一切の人間としての輪郭が語られることはなかった。
「あんただけよ。あたしのところに残ってくれたのは」
 事ある毎にそう言って、母親はアディを溺愛した。
「あたしはアディさえ元気でいてくれたらいいのさ。他には何にもいらない。貧しくたって幸せだ。あんたがいないなら、あたしが生きてる意味なんかないんだよ」
 だから、アディは母親を置いて部族を離れることはできなかった。
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