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第二章 落日のエクバターナ
火焔
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アディとタリファが再会したのは一年半ほど後、アディが思いもかけない形だった。
その夜、アディは鼻を突く臭気で目を覚ました。それが油の臭いだと気付いた瞬間、視界の端が鮮やかなオレンジ色に光った。
「火事だ!」
母親に向かって叫んで外に飛び出すと、野営地のテントに次々と火の手が上がっていた。テントには皮革が使われているため元来燃えにくいのだが、火と共に油もかけられたのでひとたまりもない。野営地は一瞬で阿鼻叫喚に包まれた。燃えるテントから炎に包まれた人々が這い出してきて、地面を転げ回る。馬に乗った賊が哄笑を撒き散らしながら炎の合間を駆け抜けていく。
「母さん……?」
母親の姿が見えないことに思い至ったのは、そのときだった。てっきり自分に続いて逃げ出してくるものと思っていたのだ。
賊の目をかいくぐって野営地から離れようとしていたアディだったが、結局母親を探しながらテントに戻った。テントは既に火に包まれ、内部の様子は全くわからなかった。当然、中に入ることなど不可能だ。アディはただ燃えるテントを眺めて立ち尽くした。眺めていたって助けられないのだから、呆けてないでさっさと逃げろ、と頭の中で命じる声があったが、無視した。
アディの眼には、テントの中の母親がくっきりと映し出されていた。織物を敷いただけの簡素な寝床の上で、身悶えながら煙を吸い、焼け爛れた肺が呼吸を止め、酸素を求めて足掻く手脚が焦げて捻じれて、皮膚が焼け縮れて真っ赤に露出した肉が血を噴き出しながら焼けていく母親の姿を、アディの脳は捉えていた。テントの燃え尽きるのを見届けるのは自分の責務だと思った。母親を弔えるのは、アディしかいないのだから。
やがてテントが焼け落ち、崩れた。アディの脳内の母親もまた、黒い炭となってぐしゃりと潰れた。
「……タリファ……」
崩れ落ちたテントの向こう側に現れた景色の中に親友の姿を見つけて、アディは一瞬混乱した。はじめ、タリファが部族に戻ってきたのだと思ったのだ。だがそんなはずはない。タリファは賊と同じ色のターバンを頭に巻き、左手には松明を、右手には抜き身の短剣を手にしていた。そして、今まさにタリファの目の前で燃えるテントから這い出してきたのは、タリファの親兄弟たちだった。
よかった、とアディはぼんやりと思った。タリファが家族を助けたのだろう。自分は間に合わなかったが、タリファは間に合ったのだ。
タリファの左右には大柄な青年が立ち、タリファに銃を手渡して何事か命じた。タリファはこちらに背を向けたまま頷くと、短剣を収めて銃を受け取った。連射式の銃が、タタタタタッと乾いた音を響かせた。
「タリファ」
ほとんど呟きのようなアディの声が届いたとは到底思えない。だが確かにタリファは振り返った。その両眼は瞳孔が開ききり、どこか焦点が合っていなかった。滂沱の涙がだらだらと流れているのが、炎越しに見えた。タリファの向こうの地面には折り重なって倒れるタリファの家族の姿があった。
アディは縄で縛られて、僅かばかりの略奪品と生き残りの捕虜たちと共に荷車に乗せられた。遠ざかっていく野営地は焚き火の燃え滓のように小さくなり、やがて砂の中に消えた。
あとから聞けば、アディたちの族長はダレイ王子が要求した貢物を拒否したのだそうだ。どころか、近隣の族長たちの集会で新王とダレイ王子への批判を声高に主張して憚らなかったのだという。それに腹を立てたダレイ王子側が、見せしめとして部族を血祭りにあげたのだ。
捕虜のうち、アディを含めた少年たちは気絶するほど殴られた末に、兵士になるか処刑されるか選べ、と怒鳴られた。痛みで思考が麻痺し、死にたくない一心で兵士になることを承諾した。すると一人ずつ別室に連れて行かれ、その証拠を見せろ、忠誠心を表せと言われ、銃を渡された。目の前には、共に連れてこられた大人の捕虜が並んでいた。それは昨日まで共に生活してきた大人たちだった。少年たちを育て、導き、守ってきた大人たちだ。銃を突きつけられた少年たちは恐怖で失禁しながら、必死で命乞いをする大人たちに銃弾を浴びせた。
アディは彼らのやり口を理解した。タリファに家族を殺させたのは、忠誠心を試すというのは表向きで、罪の意識を植え付けて怨みの矛先を自分自身に向けさせるためなのだ。
「できません」
アディは静かに拒否した。
「じゃあ死ね」
兵士がアディの頭に銃弾を撃ち込もうとした時だ。別の兵士が部屋に入ってきて、それを止めた。アディはその兵士に引き渡され、砦の上層階へと連れて行かれた。
その夜、アディは鼻を突く臭気で目を覚ました。それが油の臭いだと気付いた瞬間、視界の端が鮮やかなオレンジ色に光った。
「火事だ!」
母親に向かって叫んで外に飛び出すと、野営地のテントに次々と火の手が上がっていた。テントには皮革が使われているため元来燃えにくいのだが、火と共に油もかけられたのでひとたまりもない。野営地は一瞬で阿鼻叫喚に包まれた。燃えるテントから炎に包まれた人々が這い出してきて、地面を転げ回る。馬に乗った賊が哄笑を撒き散らしながら炎の合間を駆け抜けていく。
「母さん……?」
母親の姿が見えないことに思い至ったのは、そのときだった。てっきり自分に続いて逃げ出してくるものと思っていたのだ。
賊の目をかいくぐって野営地から離れようとしていたアディだったが、結局母親を探しながらテントに戻った。テントは既に火に包まれ、内部の様子は全くわからなかった。当然、中に入ることなど不可能だ。アディはただ燃えるテントを眺めて立ち尽くした。眺めていたって助けられないのだから、呆けてないでさっさと逃げろ、と頭の中で命じる声があったが、無視した。
アディの眼には、テントの中の母親がくっきりと映し出されていた。織物を敷いただけの簡素な寝床の上で、身悶えながら煙を吸い、焼け爛れた肺が呼吸を止め、酸素を求めて足掻く手脚が焦げて捻じれて、皮膚が焼け縮れて真っ赤に露出した肉が血を噴き出しながら焼けていく母親の姿を、アディの脳は捉えていた。テントの燃え尽きるのを見届けるのは自分の責務だと思った。母親を弔えるのは、アディしかいないのだから。
やがてテントが焼け落ち、崩れた。アディの脳内の母親もまた、黒い炭となってぐしゃりと潰れた。
「……タリファ……」
崩れ落ちたテントの向こう側に現れた景色の中に親友の姿を見つけて、アディは一瞬混乱した。はじめ、タリファが部族に戻ってきたのだと思ったのだ。だがそんなはずはない。タリファは賊と同じ色のターバンを頭に巻き、左手には松明を、右手には抜き身の短剣を手にしていた。そして、今まさにタリファの目の前で燃えるテントから這い出してきたのは、タリファの親兄弟たちだった。
よかった、とアディはぼんやりと思った。タリファが家族を助けたのだろう。自分は間に合わなかったが、タリファは間に合ったのだ。
タリファの左右には大柄な青年が立ち、タリファに銃を手渡して何事か命じた。タリファはこちらに背を向けたまま頷くと、短剣を収めて銃を受け取った。連射式の銃が、タタタタタッと乾いた音を響かせた。
「タリファ」
ほとんど呟きのようなアディの声が届いたとは到底思えない。だが確かにタリファは振り返った。その両眼は瞳孔が開ききり、どこか焦点が合っていなかった。滂沱の涙がだらだらと流れているのが、炎越しに見えた。タリファの向こうの地面には折り重なって倒れるタリファの家族の姿があった。
アディは縄で縛られて、僅かばかりの略奪品と生き残りの捕虜たちと共に荷車に乗せられた。遠ざかっていく野営地は焚き火の燃え滓のように小さくなり、やがて砂の中に消えた。
あとから聞けば、アディたちの族長はダレイ王子が要求した貢物を拒否したのだそうだ。どころか、近隣の族長たちの集会で新王とダレイ王子への批判を声高に主張して憚らなかったのだという。それに腹を立てたダレイ王子側が、見せしめとして部族を血祭りにあげたのだ。
捕虜のうち、アディを含めた少年たちは気絶するほど殴られた末に、兵士になるか処刑されるか選べ、と怒鳴られた。痛みで思考が麻痺し、死にたくない一心で兵士になることを承諾した。すると一人ずつ別室に連れて行かれ、その証拠を見せろ、忠誠心を表せと言われ、銃を渡された。目の前には、共に連れてこられた大人の捕虜が並んでいた。それは昨日まで共に生活してきた大人たちだった。少年たちを育て、導き、守ってきた大人たちだ。銃を突きつけられた少年たちは恐怖で失禁しながら、必死で命乞いをする大人たちに銃弾を浴びせた。
アディは彼らのやり口を理解した。タリファに家族を殺させたのは、忠誠心を試すというのは表向きで、罪の意識を植え付けて怨みの矛先を自分自身に向けさせるためなのだ。
「できません」
アディは静かに拒否した。
「じゃあ死ね」
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