楽園遊記

紅創花優雷

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後編

◆念は虚となり魔に溺れる。

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 良くある話、子どものちょっとしたからかいとして人を貶す。
「やーい女男ー! ひ弱すぎるんだよお前はー!」
「こら! 兄ちゃんにそんな事言っちゃダメでしょ! 謝りなさい」
「やーだーねーだっ!」
 ベーっと舌を出し母親に反抗するが、一時間程経てば、母親の説教を食らった弟は泣きながら謝って来る。しかし、子どもと言うのは中々にしぶとい物、次の日に成ればいつも通りに馬鹿にしてくる。
 いい気持では無かったが、日々それが繰り返されれば慣れるってものだ。それに、弟の言う事は正しく、二つ下の弟の方が力強い。腕相撲も負けるし、体系も既に弟の方が男らしい。それもそのはず、弟は父親似で自分は母親似だ。
 しかし、それで良かった。別に男らしくある事を望んではいない、だって世の中多種多様な人間がいるから。弟はまだ世間を見えてないだけ、何かを虐めてみたい、それがたまらなく愉しい、そうしたら大人に構って貰える、そう考えている。そういう年頃なのだ。
「念虚、いつも我慢してくれてありがとうね。だけど、本当に嫌なら抵抗してもいいんだよ? あの子も、懲りない子だから」
「ううん。大丈夫だよ、ママ」
 微笑んでそう答えた少年は、何も無理してそう言っている訳ではなかった。そんな小生意気な弟も可愛らしいと思っていたから。それに、今だけだろう。
 そう考えていた通り、そんな弟も大きくなっていくにつれ大人しくなって行き、その頃には笑い話になっていた。そんな事もあったと、逆に自分が弟をからかっている。
「お前は生意気な子どもだったよな、ホント」
「もう、あの時は悪かったって、もう許してくれよ兄さん」
「なんだっけか、女男だったかね。どうだ、今の俺は女に見えるかぁ?」
「見える訳ないだろ! か弱いのは変わりないけど」
「おー、そんな事言うのはこの口かぁ? お兄様に向かってどんな言い草だぁ、このこの」
「うみゅ、やめてよにいひゃん」
 ほっぺをつまんで伸ばすと、弟は笑いながら抵抗を見せる。互いに大きくなって大人になり始めた兄弟の、ちょっとした戯れだ。
 そんな様子を父と母は微笑ましそうに眺めている。一時はどうなる事かと思ったが、大きく成長してみれば、兄弟仲良さげで安心できた。
 生意気な子どもも、成長すれば大人となる。そんなものだろう。
 そんな時、家の戸がとんとんと叩かれる。
「はーい、今出ますー」
 母がそう答え扉を開けると、そこには見た事ない服装をしている男がいた。黒いフードを深く被る、怪しい男。
「どうかしましたか?」
 尋ねると、男はフードを外す。その瞬間、確かに男には顔が無かった。それに気が付くが、危ないと察知した途端に家の中が黒い霧に満ち、家族全員が苦しみだす。
 弟と父は嘔吐き、直撃だった母に至ってはもう息が無い。
「ま、まさか、魔の者が……」
 怯えて後退る。家から出ていけば逃げられる、しかし、何時の間に入って来ていたのか、出入り口には顔のない男が何もせずにそこに立っていた。
 顔が無いと言うのに、それは確かに自分を見つめているように見えた。そして確かに、声を発している。
「に ろ、 こ  はき ん 。 やく、  く……」
「な、なんだよ、何言ってるかわかんねぇよ……」
 本能的恐怖に怯えながら言うと、次の瞬間に父と弟の肉体から血が噴き出す。何が起こったのか分からない、ただ、指先で触れていた弟の手は、段々と冷たくなっていった。
 間違いなく言える事は一つ、こいつは人間ではない。世間一般で言う、魔の者だ。この時、正解となる行動は、真っ先に逃げて助けを求める事だ。しかし、突然の事に脳みそは処理を追いつかせる事が出来ずに、判断を見誤る。
 手に触れた刃物、先程まで母親がこれで果物を剥いていた。
 ここからとった行動は、簡単なモノ。効く訳ないのに、手に取ったそれを、突き立てる。
 その瞬間、目の前のそれから血が溢れ、倒れたそれの姿が見える。
 人間だ。しっかりと肉体を持った、生きている人間だった。
「え……な、んで……」
 唖然として、握っていた刃物が床に落ちる。その音と同時に、誰もいなかったその背後に、ぶかぶかの白衣を着た子どもがいた。
 子どもは彼を見て、物珍しい物を発見したような表情を見せる。
「へぇー、今の生き残れたんだぁ。それにぃ、それを殺したのぉ? 凄いねぇ」
「副産物ってやつだねぇ。ねぇおにぃーさん、願いはあるぅ? 特別にぃ、叶えてあげちゃう」
 にこにこと愛想よくそんな事を言っているが、その相手はそれどころではない。この短時間で事が重なり、混乱しているのだろう。
「無視は嫌だなぁ。ねーえ、念虚くん」
 強制的に意識を呼び戻すと、彼はハッとして顔をあげる。
「っ……なんで、俺の……」
「んー、企業秘密ってやつぅ? それで、教えてよ。君の願い事」
「俺の、願い……」
 願いか、何かあったっけ。
 念虚は床に転がる家族の死体を目にして、ぽつりと呟く。
「ははっ、そうだなぁ……強く、強くなりたいかなぁ……」
 ほんのちょっとした願い。もし自分に力があれば、家族は死ななかったかもなんて言う、ちょっとした希望。
 かつて弟が口にしたように、自分は女のように弱い。どちらの意味での力も、全く無かったのだ。それでいいと思っていた。世の中には、色々な人間がいるから。
 子どもは笑う。幼い笑みに、狂気を含ませて。
「あはは、そっかそっかぁ。いいよぉ、この寝心サマが叶えてあげるぅ。じゃあ手始めにぃ、人、殺してみよっか」
「ころ、す? それは、つまり」
「君の思っている通りだよぉ。さっきしたでしょ、それと同じ。ただそれを、刺せばいいんだ」
 指さしたのは、床に転がる血が付いた刃物。命を奪うのは簡単だ、これを指すだけ。魂の宿る核に突き立てるだけ。
 手を伸ばしかけた所で、思いとどまる。本当に、そんな事をしていいのか? 良い訳がない。そんなの、人間として間違っている。
 手を引っ込めると、眼の先で子どもが不気味に首を傾げる。
「なぁに? もしかしてぇ、そんな事しちゃダメだ、なんて思ってるぅ?」
 目と鼻の先に、その顔が近寄った。その紫色の瞳がぼんやりと光を持ち、自然とそこに目が行ってしまう。
「君は既に殺した。魔に染まり切っていない、まだ救えるかもしれない一人の人間を、その手で殺めた……この時点で、君はもう真っ当な人としての道を外れたんだ」
「毒を食らわば皿まで、ってね」
 そうすると、彼は刃物を手に持ち、走り出す。
 残念な事に、今ここで一人の人間が魔に魅入られ、真っ当な心を忘れてしまった。
「あははっ! ほぉんと、人間って簡単だなぁ」
「うーん、どうしよっかなぁ。あの子にはぁ、陰壁崩壊の指揮でも執ってもらうかぁ。けどお、まだそれにはちょっと早いなぁ……もう少し経ってからだなぁ」
 赤が付着した白衣、ぶかぶかの袖を揺らしてその場から姿を消す。

「ままぁ、だっこ」
「随分と甘えたさんだね、鏡月。おねむかな?」
「ぅん……」
「ははっ、可愛いな。こういう所はお前に似ているんじゃないか、幻映」
「え? そ、そうなの?」
「そうだったんですね。わたしも幻映様の小さい頃、見てみたかったです。花水様が羨ましい」
「お、それなら写真なら取ってあるけど。緑陽くん、見たい?」
「見たいです!」
「ちょっと、止めてよ兄さん。恥ずかしいよ……」
 事が起こるまであと四年。今日という日はとても平和で、暖かかった。
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