鬻がれた春【完結】

天川 哲

文字の大きさ
1 / 5

見えない光

しおりを挟む
 所詮、人は金で自分を売る生き物だ。時間も、心も、身体も、金となるなら何だって。
 だから僕は、今を少しでも高く売る。それはもしかすると、若さの前借りでしかないのかもしれない。
 それでもいい。僕は、僕たちは、それしか生き方を知らないから。
 今日も、明日も、見えない未来を探しながら、僕たちは生きている。

 通勤者が犇めき、足早に足を進める目黒駅から数分下った雑居ビルの地下二階。扉の外にまで漏れる低音で、その先が異世界であることを実感させた。
 神田秀が、把手に手を掛け押し開くと、音の波が全身を包み込む。
 「いらっしゃいま……って何だ、秀かよ」
 カーテンで仕切られた奥から、同じ従業員である山本が慌てた様子で出てきたが、客ではないことに安堵したのか、そのままポケットから取り出した煙草を吹かし始めた。
 「随分早い出勤だな。昼からじゃないのか?」
 「店長が早めに来て欲しいと言っていたので。見たところあまり忙しそうには思えませんが」
 カーテンをそっと捲り、フロアの様子を伺う秀の後ろで、山本は大きな溜息をつく。
 「忙しい訳ねぇだろ。連休明け、平日のイベントもないピンサロに朝から来る程目黒の住人は暇じゃねぇよ」
 それもそうか、と独り言ちた秀は、そのままフロアを横切り事務所に入った。
 秀の勤務するピンサロは、事務所と女性キャストの待機所が同じで、あっても無くても大差ないパーテーションで辛うじて区切られている。
 待機するキャストに一声掛けた後、事務所で事務作業を行う店長、田口に挨拶をした。
 「おはようございます、店長」
 「おう、悪いね、早出してもらって」
 振り向くことなくキーボードを叩き続ける田口は、左手を軽く上げて応える。
 「何か急用でもありましたか?」
 「いや、特には無いんだが、少ししたら入店希望の子の面接で抜けることになる。あいつ一人に回させるのが少し心配でな」
 「そうでしたか」
 「まぁ、とりあえず俺がいる間にゆっくり準備してくれ」
 了解、と一言返し、秀は事務所に置きっぱなしにしているスーツへと着替えた。
 インカムを装着し、準備を終えた秀は、フロアへ出た。
 大して広くもない一室に、所狭しとソファが横並びに並び、腰ほどの高さの間仕切りで一席として囲われている。
 その数、締めて十五席。その内の三分の一程が今は埋まっている。
 粘膜が擦れてたてる淫猥な音、キャストの誇張染みた嬌声が、爆音で流れるダンスミュージックの隙間からフロアに漂っていた。
 客のキャストに対する暴力、反則行為が無いか、フロアを歩き見回る秀は、そこかしこでさらけ出される欲望の塊を見るたびに、心が芯まで冷えていく感覚を味わっていた。
 勤務し始めた当初は、繰り広げられる光景に当惑し、嫌悪感すら覚えたが、今はそれすら無くなった。
 人間は誰も彼も皆醜く、卑しい。
 その事実に気付き、向き合える人はそういないと秀は思う。自分自身が、その事実に目を背を向けていることに気付いているだけ、幾分ましだというくらいだろう。
 (生きているだけで醜いなら、どうしようもないじゃないか)
 一人思考を巡らす秀の耳に、インカムから山本の声が響いた。
 「一名、6番シートな。案内」
 6番了解、と返答すると同時に、フロア入口のカーテンが開いた。
 秀は慇懃に礼をし、客を目的の場所まで導く。
 人あたりの良い笑顔を向けながらも、また一つ、欲望が買われていく様に、心が乖離していった。
 暫く客が忙しなく入出を繰り返し、接客と片付けの業務に追われていたが、昼を過ぎるとパタリと客足が途絶えた。
 「秀、休憩入っていいぞ」
 田口に後ろから声を掛けられた秀は、小さく首肯し店を出た。
 五月の大きな連休を終え、夏の訪れを感じさせる太陽が、秀の頭上を照らしていた。
 誰もが皆、どこか倦んだ表情を浮かべながら、彷徨っているように見える。
 少々うんざりした気持ちを抱え、秀は行きつけの喫茶店の入口を潜った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

フッてくれてありがとう

nanahi
恋愛
「子どもができたんだ」 ある冬の25日、突然、彼が私に告げた。 「誰の」 私の短い問いにあなたは、しばらく無言だった。 でも私は知っている。 大学生時代の元カノだ。 「じゃあ。元気で」 彼からは謝罪の一言さえなかった。 下を向き、私はひたすら涙を流した。 それから二年後、私は偶然、元彼と再会する。 過去とは全く変わった私と出会って、元彼はふたたび──

✿ 私は彼のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい 

設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀ 結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。 結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。 それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて しなかった。 呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。 それなのに、私と別れたくないなんて信じられない 世迷言を言ってくる夫。 だめだめ、信用できないからね~。 さようなら。 *******.✿..✿.******* ◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才   会社員 ◇ 日比野ひまり 32才 ◇ 石田唯    29才          滉星の同僚 ◇新堂冬也    25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社) 2025.4.11 完結 25649字 

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

〈完結〉姉と母の本当の思いを知った時、私達は父を捨てて旅に出ることを決めました。

江戸川ばた散歩
恋愛
「私」男爵令嬢ベリンダには三人のきょうだいがいる。だが母は年の離れた一番上の姉ローズにだけ冷たい。 幼いながらもそれに気付いていた私は、誕生日の晩、両親の言い争いを聞く。 しばらくして、ローズは誕生日によばれた菓子職人と駆け落ちしてしまう。 それから全寮制の学校に通うこともあり、家族はあまり集わなくなる。 母は離れで暮らす様になり、気鬱にもなる。 そしてローズが出ていった歳にベリンダがなった頃、突然ローズから手紙が来る。 そこにはベリンダがずっと持っていた疑問の答えがあった。

ワガママを繰り返してきた次女は

柚木ゆず
恋愛
 姉のヌイグルミの方が可愛いから欲しい、姉の誕生日プレゼントの方がいいから交換して、姉の婚約者を好きになったから代わりに婚約させて欲しい。ロートスアール子爵家の次女アネッサは、幼い頃からワガママを口にしてきました。  そんなアネッサを両親は毎回注意してきましたが聞く耳を持つことはなく、ついにアネッサは自分勝手に我慢の限界を迎えてしまいます。 『わたくしは酷く傷つきました! しばらく何もしたくないから療養をさせてもらいますわ! 認められないならこのお屋敷を出ていきますわよ!!』  その結果そんなことを言い出してしまい、この発言によってアネッサの日常は大きく変化してゆくこととなるのでした。 ※現在体調不良による影響で(すべてにしっかりとお返事をさせていただく余裕がないため)、最新のお話以外の感想欄を閉じさせていただいております。 ※11月23日、本編完結。後日、本編では描き切れなかったエピソードを番外編として投稿させていただく予定でございます。

ちゃんと忠告をしましたよ?

柚木ゆず
ファンタジー
 ある日の、放課後のことでした。王立リザエンドワール学院に籍を置く私フィーナは、生徒会長を務められているジュリアルス侯爵令嬢アゼット様に呼び出されました。 「生徒会の仲間である貴方様に、婚約祝いをお渡したくてこうしておりますの」  アゼット様はそのように仰られていますが、そちらは嘘ですよね? 私は最愛の方に護っていただいているので、貴方様に悪意があると気付けるのですよ。  アゼット様。まだ間に合います。  今なら、引き返せますよ? ※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。

いまさら謝罪など

あかね
ファンタジー
殿下。謝罪したところでもう遅いのです。

処理中です...