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呼んでない試合に現れたもうわけがわかりません
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シューズのゴムと床の擦れる音が、あちこちから響く。
「セッターが上がってくるから、ライトバックが手薄になる」
「長いの一本打ち込んでみるか」
バレーコートの描かれたホワイトボード上に、マグネットを滑らせる。次に前衛となる右成に指示を出して、後輩から差し出されたタオルとスクイズを受け取った。
「強打の次は軟打で揺さぶろう」
「ブロック2枚ちゃんと付いてくるもんね。構えてる分、軟打には弱……あ、」
右成が声を上げる。何かに気付いたのだろうか。ボードから相貌を上げ、右成の視線を追う。
それはどうやら、アリーナの客席に向けられているようだった。県大会準準決ともなれば、バレー部以外の学校の人間も観戦に来る。大方、ご学友を見つけたか何かだろうとは思うが────、
「あの人、アキくん先輩のお友達じゃね?」
俺はスポーツドリンクを噴き出した。
「汚ねぇ!ちょ、勘弁して!ユニフォーム替え無いんだって」
「す、すすすすすすすすすすまん」
「良いけど……。あ、タオルサンキュー」
チームメイトにタオルを受け取りながら、右成は片眉を上げる。「あの人、ゲロ目立つね」と囁き掛けて来る後輩に、白目を剥いた。
そう、彼奴は確かにゲロ目立つ。本当に目立つから、そんな顔でこっちに手を振るな。
「おみくん!」
変な渾名で呼ぶな。
「汚ねぇ!」
またスポーツドリンクを噴き出した俺を、今度こそ右成は涙目で睨む。なんだか視界の端で俺の人望が急速に損なわれている気がするが、生憎今はそれどころじゃ無いのだ。吸い寄せられるような魅力のある男だ。謎のスポットライトを、常時背負っているような男。
「おみくん頑張れ!」
そんなべらぼうに目立つ奴が無闇矢鱈に叫べば、当然視線は一斉に此方へ集まる。
「おみくん………?」と、見た事無い顔で、御影と俺を交互に指差す右成。気持ちはすごく分かる。不味いことになったと思った。何故数日前の俺は、おいそれと「今週末は試合だから」などと漏らしてしまったのだろうかと。当然俺のメンタルはいつも通りとは言えないし、チームメイトも、いつも以上に集まる衆目に気付き始めているようだ。十分なパフォーマンスが出来るかどうか。
「らしくないね、明臣」
「………っ、」
肩を叩かれ、振り返る。
我らがキャプテン、長身長セッターの相津だった。薄く微笑めば、口元の黒子が生き物みたい動く。此奴とはジュニアからの長い付き合いだが。この凪いだような笑みには、昔から人の心を落ち着かせる何かがあるようだった。
「僕たちはいつも通りだよ」
「………」
「だから、お前もいつも通り行けば良い。頼りにしてるよ、『先輩』」
掴んだ肩に、そのまま寄り掛かるみたいに。耳元に寄せられた唇が、耳障りの良いテノールを吹き込んで来る。柔らかな蓬髪が、頬に触れて擽ったい。
「…………俺はお前の先輩じゃない」
相津のムーヴメントに、キャア!と、客席の相津ファンクラブが沸き立った。実を言うと試合時のギャラリーの大半が、此奴目当てだったりする。
自らの相貌が、苦笑の形に歪むのがわかった。
「確かに、いつもとそう変わらない」
「それでこそ僕のアタッカーだよ」
身体を離し、下がって行く体温を意識で追う。落ち着いて来た心情のまま、もう一度御影へと視線を送る。一応応援してくれた人間なのだ。あれではあまりにも感じが悪い。
翠色の目が、薄暗い照明の下で獣みたいに光って居た。元々無機質な美貌が、能面のような無感情で此方を見下ろしている。明らかに異様な雰囲気を背負う彼奴は、全く知らない男のようで。一瞬たじろぐが、そう大した問題だとは思わなかった。
「ありがとう」
吐き出した言葉は、試合再開のホイッスルに掻き消される。
翠眼が見開かれる。
微笑んで見せれば、たちまち色の無い相貌に喜色が広るのがわかった。ほら、大した問題じゃない。
「明臣、集中」
嗜めるような声のまま、ヌッと伸びて来た手が、俺の相貌をコートに向かせる。何処か不満気な相津に、「ああ」と返事をして。吐き出した声音が思いの外弾んでいた物だから、少しだけ驚いた。
***
「準決勝進出おめでとう!」
「ありがとう」
トイレから出てきた俺を出迎えたのは、満面の笑みの御影だった。ミーティングも終わり、あとは荷物を纏めて帰るだけなので、そう急ぐ必要も無いだろう。
「急に来てびっくりした?」
「ああ、びっくりした」
「ふふ、どうしても君の勇姿が見たくてね。押し掛けるのもどうかと気が引けたけど───、」
「正解だったか?」
尋ねれば、御影は満面の笑みで「うん!」と頷いた。星の散った双眸が、きらきらと輝いている。その言葉が真実である事が、ひしひしと伝わってくる。困った。ここまで喜ばれてしまっては、咎めるに咎められない。
「次からは連絡くらい入れてくれ」
「ええー!どうしようかな!」
タオルで御影を小突いて、ハッと手を引っ込める。一応制汗剤を撒いた後にしか使っていないが、汗臭いのは汗臭いだろう。
「ファンサービスしてくれるなら良いよ!」
「ファンサービスって」
「俺を探して、俺だけに手振って。あとは俺だけに────、」
「言われなくても、俺が手を振る相手なんてお前くらいしかいない」
3分の2が相津目当てで、3分の1が右成目当てだ。彼奴らとはジュニアの頃からの付き合いだが、俺に目を向けるのは、スカウト目的の教員や先輩部員だけである。つまり御影は物すごい物好きだ。
「……………うん」
1トーンほど低くなった声に、意識を引き戻す。
「おみくんは鈍いね」
「は?」
「君は君が思ってるより、ずっと魅力的だよ」
「買い被りすぎだ」
そんな物好き変人は、御影くらいだろう。そこそこ会話を交わした今ですら、俺は俺の何が彼奴の琴線に触れたのか、計りかねているのだから。
しかしその勘違いを訂正する気になれないのは、御影の唯ならぬ表情からだ。喜色と、何か、得体の知れない負の感情。それらの入り混じったような表情は、チグハグで、歪で。
「おみくん」
ゆっくりと此方へと伸びてくる指先。けれど、此方を覗き込む双眸から、未だ目を離せずにいる。その目に最早星屑は無く、海底みたいに澱んだ翠色があるだけだ。見た者を引き摺り込むような虚が、ただそこには広がって居て。
「………御影?」
首元をなぞった冷たい感触に、目を瞬く。
トン、と喉仏を弾かれれば、ゾワゾワと背筋が粟立つみたいだった。
「君を見てるのが、本当に俺だけだったら良いのに」
恨みがましく吐き捨てられた言葉。急所に添えられた指先を一瞥する。喉が妙に渇いた。早く、控室に戻って何か飲みたい。
「御影」と。もう一度声を出せば、御影は漸く手を下ろす。次に俺を見下ろした翠眼には、何か、縋り、乞い願うような色が浮かんでいた。薄い唇が、歪な形に歪む。
「おみくん、俺────、」
「明臣」
同時だった。背後から肩を叩いた声に、振り返る。案の定、そこにはジャージ姿の相津が居て。
「あおい」
「早く荷物纏めな。車出しの人、待たせちゃダメだよ」
「ああ……」
どうやら、思いの外時間が経っていたようだ。長い脚を伸ばして、此方へと歩み寄ってくる相津。その後ろで、右成が此方に手を振っているのが見えた。
「………悪い御影。話はまた、」
「ほら早く。………ごめん、ミカゲ?くん。ちょっと明臣返してもらうね」
相津のしなやかな腕が、肩に回される。口元が引き攣るみたいだった。引き摺られるみたいに後ろを向かされる直前。一瞬だけ見えた御影の目が、嘘みたいに据わり切った物だったからだ。
「………なんなんだあいつ」
「昔から変な子に懐かれるね、お前は」
「いや………」
変な子呼ばわりするのはどうなんだ。いや確かに変な子ではあるが。もう一度視線だけ御影に投げれば、にこやかに手を振ってくる。先刻の殺気立ったあれは、気の所為だったのだろうか。小さく手を振りかえして、前を向いた。肩に回された手が、そのまま、先刻の焼き増しみたいに俺の喉仏を擽って。
「やめろ」
跳ね除ければ、「嫌だった?」とくすくす笑われる。
「好きくない」
「あの子には許したのに?」
「別に許してないぞ」
整えられた指先を睨んで、そのまま相津のヘーゼルアイを睨む。ぎゅう、と細められた鳶色の瞳に、内心眉を顰めた。
何が面白いんだ。
***
準決勝と決勝は来週だが、今日の反省点へ今日のうちに潰しておきたい。進出チームの偵察を終え、高校の体育館に戻り。ベンチ含めユニフォームを貰ったメンバーがまた練習を始めるのは、最早通例行事となっている。
試合終わりで少しだけ身体が重いが、思考と反応は冴え渡ったままだった。
「明臣はさ」
クールダウン用のストレッチ中。開脚し、べったりと額を床につけたまま、相津は口を開いた。俺もまた股関節を伸ばしたまま、「なんだ」と答える。湿った前髪の隙間から覗きこんでくる、鳶色の目を見返した。
「最近少し調子が悪いよね?」
「いや、自分ではわからないが───、」
「スイングが遅くなってるし、手首の使い方も鈍い」
遮るように言われて、自分の手首をまじまじと見つめる。本当に自分ではよくわからないが、相津が言うのならそうなのだろう。相津は昔から人の機微に敏感で、常に最高の人材と、最適解を選び抜く事に長けていたように思う。
例えば、ジュニアの地区大会予選の話である。
あの頃から彼奴はセッター───所謂司令塔だった。そして監督は、試合が始まってからの采配を、彼奴に一任して居た。だから、「今日はお前控えね」と、彼奴に言われれば、俺は試合には出られない。コートから引き摺り出されて、順調に勝ち進むチームを見届けて。
「箸だよ」
采配の理由について尋ねた俺に、相津は柔かに答えた。
「お前の箸使い、いつもと違ったから。何か調子悪そうだなって」
その時の俺は、そんな適当な理由で外された事に納得が行かなかった。真面目に練習して居た分、相津に怒りすら覚えた。けれど、その後も相津は、兎に角間違えなかった。機械みたいに精密な観察眼と采配で、全てを支配して居て。まるで試合の一つ一つが、簡単な盤上遊戯のようだと思った。敵も味方も、全部が此奴にとって駒でしか無く、辿った戦局は全て、此奴の脳で試行された、可能性の1つでしかない。「此奴が言うのならそうなのだ」と言う合意が内面化されるのに、そう時間は掛からなかった。
だから、今では納得している。あの日あの時だって、きっと俺は本当に調子が悪かったのだ。試合に出なくて正解だった。そうでなければきっと、チームのパフォーマンスを低下させていただろう。
「すまない?」
だから、謝っておく。分かり辛いが、相津は何処か機嫌が悪いようだから。
「謝る必要は無いよ。問題は、どうしてそうなったのかって話だ」
「………特に心当たりは無いな」
「最近ちゃんと寝てる?ランニングは?疲労が溜まってるんじゃないかな」
開脚をしながら「疲労か」と呟けば、隣で会津が立ち上がる気配がする。背後に回り込んできて、指圧するように、俺の腰を押した。
「お前が言うなら、そうなんだろうな」
言われてみれば、最近は寝る時間が前よりも遅くなった気がする。何気無く脳裏に浮かんだ御影の顔に、なるほどと納得した。彼奴との夜遊びも、当分は控えた方が良さそうだ。
「お前が間違えた事は無いから」
「あるよ。僕だって間違えた事くらい」
意外にも意外な告白だ。されるがままに腰を押されながら、ジュニアと高校入学以来の記憶を遡る。中学では彼奴は私立に行ってしまったから、そこで何か采配ミスをしたのかもしれない。あの相津蒼も、ちゃんと人間だったと言うわけだ。
「引き摺ってでも、連れて行けば良かった」
「…………?」
「僕、後悔してるんだよ。お前と中学もバレーしたかったなって」
表情は見えない。当然だ。相津は俺の背後に居るから。
「………それが、『間違い』?」
制汗剤の甘い匂いが、鼻腔を撫でる。相津が頷いたからだろう。思ったよりも、彼奴の身体が近くにある事に気付いた。
─────「『僕だったらもっと上手く活かせるのに』」
思い出すのは、妙に澄ました顔をした、右成の言葉である。その時は確か、新入生歓迎会で、右成としっかり言葉を交わしたのは実に3年ぶりだった。
「急にどうしたんだ。大丈夫か」
「いや、良かったなって」
「?」
右成は、3年の時を経て随分と表情豊かに育ったらしい。先刻までのわざとらしい澄まし顔を引っ込めて、「あおいくんの話」と答えた。何処か染み染みとした視線を追いかけて、蒼───相津を見る。けれど相津を見ても何もわからなかったので、取り敢えず「先輩をつけた方が良い」と咎めることしかできなかった。
「中学の頃、蒼くん先輩、ずっとアキくん────先輩のプレー見ながら恨み言言ってたから」
「俺の?」
「そう。『僕だったら、もっと明臣を上手く活かせるのに』って」
ここに来て合点がいく。先刻の澄まし顔は、どうやら相津の真似だったらしい。ここまで似て居ないのはもはや才能である。
相津と右成は、ジュニアを出た後同じ強豪私立に進学した。だから右成は、俺の知り得ない相津の側面を近くで見てきたのだろう。言われてみれば中学時代、試合会場で会った相津は、今に比べればかなり荒んだ印象を与える風態だった。右成の言葉から察するに、あれはどうやら、嘗てのチームメイトの落ちぶれようへの苛立ちだったようだ。
「……それは、申し訳ないな」
「何がどうなったらそうなるの?」
「いや、彼奴の望む好敵手にはなれなかったからな。実力不足だった」
「違う違う。単に蒼くんが、アキくんのこと好きすぎたってだけだから」
首を傾げれば、右成は半笑いで肩を竦める。本当に。昔から肝は座って居たが、こうも生意気に成長するとは。
「マジでアキくんが居ないせいで、俺ら大変だったんだからね」
「俺のせいか?」
「試合会場にアキくんが居なかったら、すげー不機嫌になんの。居たら居たで、『僕ならもっと』って駄々捏ねるし」
「……確かに、彼奴は拗ねたら面倒臭い」
「本当だよ。挙句、『他の奴のトスでプレーする明臣が、戦争の次に嫌い』って、乱入しようとするし」
昔から、あのナリで突拍子も無い奴だった。しかし俺が中堅チームで平和に活動していた裏で、そんな攻防が行われて居たとは。
でも、と。言葉を継いだ右成は、何処か窶れているようにも見えた。本当に大変だったのだろう。だが、何処か嬉しそうにも見えたのは気の所為だろうか。
「良かったね。また一緒にバレーできて」
「…………ああ」
「あおいくんも楽しそうだ」
「そうか?」
和かな笑顔は、いつもと変わらないように見えた。首を傾ければ、右成はまたかぶりを振る。妙に癪に触る表情だったので、「先輩と呼べ」と頭頂を小突いたら「アキ君先輩」と曇りなき笑みを向けて来る。ちゃんと呼べ。
そんなわけで、相津が少なからずスパイカーとしての俺を惜しく思ってくれて居たのは知っている。だがあの3年間が『間違い』だったかと言われれば、俺はそうだとは思えなかった。………お互いに。
曖昧に頷けば、咎めるように背に体重が乗せられる。
「……お前を1番上手く活かせるのは、僕だけだよ」
「そんなのは当たり前だ」
何ならそれは、全てのスパイカーに当て嵌まる物だろう。プロを除いて、相津は俺の知る限りで最高のセッターだ。頷けば、更にぐ、と背中に掛かる重みが増す。少しだけ息苦しくなって、「あおい」と呻いた。
「本当にわかってるのかなぁ」
「何がだ。とりあえず、退け」
「鈍いから、明臣は。そっちのが都合は良いけど」
くったりとしなだれ掛かってきた胸板の感触は厚い。ジュニアの時よりもずっと、大きくなったと思った。図体がデカいだけの子供みたいだ。ブンブンと体を揺らせば、ようやっとひっつき虫が離れる。相津の体温の残る背中が、遅れて冷えて行って。
「腰を痛めたらどうする」
立ち上がり、相津の秀麗な相貌を睨め上げる。「ごめん、つい」と笑った口元で、小さな黒子が生き物みたいに引き伸ばされた。
「セッターが上がってくるから、ライトバックが手薄になる」
「長いの一本打ち込んでみるか」
バレーコートの描かれたホワイトボード上に、マグネットを滑らせる。次に前衛となる右成に指示を出して、後輩から差し出されたタオルとスクイズを受け取った。
「強打の次は軟打で揺さぶろう」
「ブロック2枚ちゃんと付いてくるもんね。構えてる分、軟打には弱……あ、」
右成が声を上げる。何かに気付いたのだろうか。ボードから相貌を上げ、右成の視線を追う。
それはどうやら、アリーナの客席に向けられているようだった。県大会準準決ともなれば、バレー部以外の学校の人間も観戦に来る。大方、ご学友を見つけたか何かだろうとは思うが────、
「あの人、アキくん先輩のお友達じゃね?」
俺はスポーツドリンクを噴き出した。
「汚ねぇ!ちょ、勘弁して!ユニフォーム替え無いんだって」
「す、すすすすすすすすすすまん」
「良いけど……。あ、タオルサンキュー」
チームメイトにタオルを受け取りながら、右成は片眉を上げる。「あの人、ゲロ目立つね」と囁き掛けて来る後輩に、白目を剥いた。
そう、彼奴は確かにゲロ目立つ。本当に目立つから、そんな顔でこっちに手を振るな。
「おみくん!」
変な渾名で呼ぶな。
「汚ねぇ!」
またスポーツドリンクを噴き出した俺を、今度こそ右成は涙目で睨む。なんだか視界の端で俺の人望が急速に損なわれている気がするが、生憎今はそれどころじゃ無いのだ。吸い寄せられるような魅力のある男だ。謎のスポットライトを、常時背負っているような男。
「おみくん頑張れ!」
そんなべらぼうに目立つ奴が無闇矢鱈に叫べば、当然視線は一斉に此方へ集まる。
「おみくん………?」と、見た事無い顔で、御影と俺を交互に指差す右成。気持ちはすごく分かる。不味いことになったと思った。何故数日前の俺は、おいそれと「今週末は試合だから」などと漏らしてしまったのだろうかと。当然俺のメンタルはいつも通りとは言えないし、チームメイトも、いつも以上に集まる衆目に気付き始めているようだ。十分なパフォーマンスが出来るかどうか。
「らしくないね、明臣」
「………っ、」
肩を叩かれ、振り返る。
我らがキャプテン、長身長セッターの相津だった。薄く微笑めば、口元の黒子が生き物みたい動く。此奴とはジュニアからの長い付き合いだが。この凪いだような笑みには、昔から人の心を落ち着かせる何かがあるようだった。
「僕たちはいつも通りだよ」
「………」
「だから、お前もいつも通り行けば良い。頼りにしてるよ、『先輩』」
掴んだ肩に、そのまま寄り掛かるみたいに。耳元に寄せられた唇が、耳障りの良いテノールを吹き込んで来る。柔らかな蓬髪が、頬に触れて擽ったい。
「…………俺はお前の先輩じゃない」
相津のムーヴメントに、キャア!と、客席の相津ファンクラブが沸き立った。実を言うと試合時のギャラリーの大半が、此奴目当てだったりする。
自らの相貌が、苦笑の形に歪むのがわかった。
「確かに、いつもとそう変わらない」
「それでこそ僕のアタッカーだよ」
身体を離し、下がって行く体温を意識で追う。落ち着いて来た心情のまま、もう一度御影へと視線を送る。一応応援してくれた人間なのだ。あれではあまりにも感じが悪い。
翠色の目が、薄暗い照明の下で獣みたいに光って居た。元々無機質な美貌が、能面のような無感情で此方を見下ろしている。明らかに異様な雰囲気を背負う彼奴は、全く知らない男のようで。一瞬たじろぐが、そう大した問題だとは思わなかった。
「ありがとう」
吐き出した言葉は、試合再開のホイッスルに掻き消される。
翠眼が見開かれる。
微笑んで見せれば、たちまち色の無い相貌に喜色が広るのがわかった。ほら、大した問題じゃない。
「明臣、集中」
嗜めるような声のまま、ヌッと伸びて来た手が、俺の相貌をコートに向かせる。何処か不満気な相津に、「ああ」と返事をして。吐き出した声音が思いの外弾んでいた物だから、少しだけ驚いた。
***
「準決勝進出おめでとう!」
「ありがとう」
トイレから出てきた俺を出迎えたのは、満面の笑みの御影だった。ミーティングも終わり、あとは荷物を纏めて帰るだけなので、そう急ぐ必要も無いだろう。
「急に来てびっくりした?」
「ああ、びっくりした」
「ふふ、どうしても君の勇姿が見たくてね。押し掛けるのもどうかと気が引けたけど───、」
「正解だったか?」
尋ねれば、御影は満面の笑みで「うん!」と頷いた。星の散った双眸が、きらきらと輝いている。その言葉が真実である事が、ひしひしと伝わってくる。困った。ここまで喜ばれてしまっては、咎めるに咎められない。
「次からは連絡くらい入れてくれ」
「ええー!どうしようかな!」
タオルで御影を小突いて、ハッと手を引っ込める。一応制汗剤を撒いた後にしか使っていないが、汗臭いのは汗臭いだろう。
「ファンサービスしてくれるなら良いよ!」
「ファンサービスって」
「俺を探して、俺だけに手振って。あとは俺だけに────、」
「言われなくても、俺が手を振る相手なんてお前くらいしかいない」
3分の2が相津目当てで、3分の1が右成目当てだ。彼奴らとはジュニアの頃からの付き合いだが、俺に目を向けるのは、スカウト目的の教員や先輩部員だけである。つまり御影は物すごい物好きだ。
「……………うん」
1トーンほど低くなった声に、意識を引き戻す。
「おみくんは鈍いね」
「は?」
「君は君が思ってるより、ずっと魅力的だよ」
「買い被りすぎだ」
そんな物好き変人は、御影くらいだろう。そこそこ会話を交わした今ですら、俺は俺の何が彼奴の琴線に触れたのか、計りかねているのだから。
しかしその勘違いを訂正する気になれないのは、御影の唯ならぬ表情からだ。喜色と、何か、得体の知れない負の感情。それらの入り混じったような表情は、チグハグで、歪で。
「おみくん」
ゆっくりと此方へと伸びてくる指先。けれど、此方を覗き込む双眸から、未だ目を離せずにいる。その目に最早星屑は無く、海底みたいに澱んだ翠色があるだけだ。見た者を引き摺り込むような虚が、ただそこには広がって居て。
「………御影?」
首元をなぞった冷たい感触に、目を瞬く。
トン、と喉仏を弾かれれば、ゾワゾワと背筋が粟立つみたいだった。
「君を見てるのが、本当に俺だけだったら良いのに」
恨みがましく吐き捨てられた言葉。急所に添えられた指先を一瞥する。喉が妙に渇いた。早く、控室に戻って何か飲みたい。
「御影」と。もう一度声を出せば、御影は漸く手を下ろす。次に俺を見下ろした翠眼には、何か、縋り、乞い願うような色が浮かんでいた。薄い唇が、歪な形に歪む。
「おみくん、俺────、」
「明臣」
同時だった。背後から肩を叩いた声に、振り返る。案の定、そこにはジャージ姿の相津が居て。
「あおい」
「早く荷物纏めな。車出しの人、待たせちゃダメだよ」
「ああ……」
どうやら、思いの外時間が経っていたようだ。長い脚を伸ばして、此方へと歩み寄ってくる相津。その後ろで、右成が此方に手を振っているのが見えた。
「………悪い御影。話はまた、」
「ほら早く。………ごめん、ミカゲ?くん。ちょっと明臣返してもらうね」
相津のしなやかな腕が、肩に回される。口元が引き攣るみたいだった。引き摺られるみたいに後ろを向かされる直前。一瞬だけ見えた御影の目が、嘘みたいに据わり切った物だったからだ。
「………なんなんだあいつ」
「昔から変な子に懐かれるね、お前は」
「いや………」
変な子呼ばわりするのはどうなんだ。いや確かに変な子ではあるが。もう一度視線だけ御影に投げれば、にこやかに手を振ってくる。先刻の殺気立ったあれは、気の所為だったのだろうか。小さく手を振りかえして、前を向いた。肩に回された手が、そのまま、先刻の焼き増しみたいに俺の喉仏を擽って。
「やめろ」
跳ね除ければ、「嫌だった?」とくすくす笑われる。
「好きくない」
「あの子には許したのに?」
「別に許してないぞ」
整えられた指先を睨んで、そのまま相津のヘーゼルアイを睨む。ぎゅう、と細められた鳶色の瞳に、内心眉を顰めた。
何が面白いんだ。
***
準決勝と決勝は来週だが、今日の反省点へ今日のうちに潰しておきたい。進出チームの偵察を終え、高校の体育館に戻り。ベンチ含めユニフォームを貰ったメンバーがまた練習を始めるのは、最早通例行事となっている。
試合終わりで少しだけ身体が重いが、思考と反応は冴え渡ったままだった。
「明臣はさ」
クールダウン用のストレッチ中。開脚し、べったりと額を床につけたまま、相津は口を開いた。俺もまた股関節を伸ばしたまま、「なんだ」と答える。湿った前髪の隙間から覗きこんでくる、鳶色の目を見返した。
「最近少し調子が悪いよね?」
「いや、自分ではわからないが───、」
「スイングが遅くなってるし、手首の使い方も鈍い」
遮るように言われて、自分の手首をまじまじと見つめる。本当に自分ではよくわからないが、相津が言うのならそうなのだろう。相津は昔から人の機微に敏感で、常に最高の人材と、最適解を選び抜く事に長けていたように思う。
例えば、ジュニアの地区大会予選の話である。
あの頃から彼奴はセッター───所謂司令塔だった。そして監督は、試合が始まってからの采配を、彼奴に一任して居た。だから、「今日はお前控えね」と、彼奴に言われれば、俺は試合には出られない。コートから引き摺り出されて、順調に勝ち進むチームを見届けて。
「箸だよ」
采配の理由について尋ねた俺に、相津は柔かに答えた。
「お前の箸使い、いつもと違ったから。何か調子悪そうだなって」
その時の俺は、そんな適当な理由で外された事に納得が行かなかった。真面目に練習して居た分、相津に怒りすら覚えた。けれど、その後も相津は、兎に角間違えなかった。機械みたいに精密な観察眼と采配で、全てを支配して居て。まるで試合の一つ一つが、簡単な盤上遊戯のようだと思った。敵も味方も、全部が此奴にとって駒でしか無く、辿った戦局は全て、此奴の脳で試行された、可能性の1つでしかない。「此奴が言うのならそうなのだ」と言う合意が内面化されるのに、そう時間は掛からなかった。
だから、今では納得している。あの日あの時だって、きっと俺は本当に調子が悪かったのだ。試合に出なくて正解だった。そうでなければきっと、チームのパフォーマンスを低下させていただろう。
「すまない?」
だから、謝っておく。分かり辛いが、相津は何処か機嫌が悪いようだから。
「謝る必要は無いよ。問題は、どうしてそうなったのかって話だ」
「………特に心当たりは無いな」
「最近ちゃんと寝てる?ランニングは?疲労が溜まってるんじゃないかな」
開脚をしながら「疲労か」と呟けば、隣で会津が立ち上がる気配がする。背後に回り込んできて、指圧するように、俺の腰を押した。
「お前が言うなら、そうなんだろうな」
言われてみれば、最近は寝る時間が前よりも遅くなった気がする。何気無く脳裏に浮かんだ御影の顔に、なるほどと納得した。彼奴との夜遊びも、当分は控えた方が良さそうだ。
「お前が間違えた事は無いから」
「あるよ。僕だって間違えた事くらい」
意外にも意外な告白だ。されるがままに腰を押されながら、ジュニアと高校入学以来の記憶を遡る。中学では彼奴は私立に行ってしまったから、そこで何か采配ミスをしたのかもしれない。あの相津蒼も、ちゃんと人間だったと言うわけだ。
「引き摺ってでも、連れて行けば良かった」
「…………?」
「僕、後悔してるんだよ。お前と中学もバレーしたかったなって」
表情は見えない。当然だ。相津は俺の背後に居るから。
「………それが、『間違い』?」
制汗剤の甘い匂いが、鼻腔を撫でる。相津が頷いたからだろう。思ったよりも、彼奴の身体が近くにある事に気付いた。
─────「『僕だったらもっと上手く活かせるのに』」
思い出すのは、妙に澄ました顔をした、右成の言葉である。その時は確か、新入生歓迎会で、右成としっかり言葉を交わしたのは実に3年ぶりだった。
「急にどうしたんだ。大丈夫か」
「いや、良かったなって」
「?」
右成は、3年の時を経て随分と表情豊かに育ったらしい。先刻までのわざとらしい澄まし顔を引っ込めて、「あおいくんの話」と答えた。何処か染み染みとした視線を追いかけて、蒼───相津を見る。けれど相津を見ても何もわからなかったので、取り敢えず「先輩をつけた方が良い」と咎めることしかできなかった。
「中学の頃、蒼くん先輩、ずっとアキくん────先輩のプレー見ながら恨み言言ってたから」
「俺の?」
「そう。『僕だったら、もっと明臣を上手く活かせるのに』って」
ここに来て合点がいく。先刻の澄まし顔は、どうやら相津の真似だったらしい。ここまで似て居ないのはもはや才能である。
相津と右成は、ジュニアを出た後同じ強豪私立に進学した。だから右成は、俺の知り得ない相津の側面を近くで見てきたのだろう。言われてみれば中学時代、試合会場で会った相津は、今に比べればかなり荒んだ印象を与える風態だった。右成の言葉から察するに、あれはどうやら、嘗てのチームメイトの落ちぶれようへの苛立ちだったようだ。
「……それは、申し訳ないな」
「何がどうなったらそうなるの?」
「いや、彼奴の望む好敵手にはなれなかったからな。実力不足だった」
「違う違う。単に蒼くんが、アキくんのこと好きすぎたってだけだから」
首を傾げれば、右成は半笑いで肩を竦める。本当に。昔から肝は座って居たが、こうも生意気に成長するとは。
「マジでアキくんが居ないせいで、俺ら大変だったんだからね」
「俺のせいか?」
「試合会場にアキくんが居なかったら、すげー不機嫌になんの。居たら居たで、『僕ならもっと』って駄々捏ねるし」
「……確かに、彼奴は拗ねたら面倒臭い」
「本当だよ。挙句、『他の奴のトスでプレーする明臣が、戦争の次に嫌い』って、乱入しようとするし」
昔から、あのナリで突拍子も無い奴だった。しかし俺が中堅チームで平和に活動していた裏で、そんな攻防が行われて居たとは。
でも、と。言葉を継いだ右成は、何処か窶れているようにも見えた。本当に大変だったのだろう。だが、何処か嬉しそうにも見えたのは気の所為だろうか。
「良かったね。また一緒にバレーできて」
「…………ああ」
「あおいくんも楽しそうだ」
「そうか?」
和かな笑顔は、いつもと変わらないように見えた。首を傾ければ、右成はまたかぶりを振る。妙に癪に触る表情だったので、「先輩と呼べ」と頭頂を小突いたら「アキ君先輩」と曇りなき笑みを向けて来る。ちゃんと呼べ。
そんなわけで、相津が少なからずスパイカーとしての俺を惜しく思ってくれて居たのは知っている。だがあの3年間が『間違い』だったかと言われれば、俺はそうだとは思えなかった。………お互いに。
曖昧に頷けば、咎めるように背に体重が乗せられる。
「……お前を1番上手く活かせるのは、僕だけだよ」
「そんなのは当たり前だ」
何ならそれは、全てのスパイカーに当て嵌まる物だろう。プロを除いて、相津は俺の知る限りで最高のセッターだ。頷けば、更にぐ、と背中に掛かる重みが増す。少しだけ息苦しくなって、「あおい」と呻いた。
「本当にわかってるのかなぁ」
「何がだ。とりあえず、退け」
「鈍いから、明臣は。そっちのが都合は良いけど」
くったりとしなだれ掛かってきた胸板の感触は厚い。ジュニアの時よりもずっと、大きくなったと思った。図体がデカいだけの子供みたいだ。ブンブンと体を揺らせば、ようやっとひっつき虫が離れる。相津の体温の残る背中が、遅れて冷えて行って。
「腰を痛めたらどうする」
立ち上がり、相津の秀麗な相貌を睨め上げる。「ごめん、つい」と笑った口元で、小さな黒子が生き物みたいに引き伸ばされた。
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