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五、苦渋塔

13、もっと素直になろう

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 妖怪の国に帰れたら――

 パールはすきっ腹をかかえてつぶやいた。

「もっと素直になろう」

 言ってから嫌な言葉だと思った。

「おなかすいたぁ」

 石造りのベッドに額をこすりつける。寒いしひもじいし、最悪だった。

 夜になると、サラムーフの街は冷えてきた。

 ミッダワーラーは妖怪の国よりかなり南に位置するが、サラムーフはちょうど同じくらいだ。そのわりに冷えるのは気候が違うせいだろう。

 妖怪の国は東に、人の国は西にある。だが東から西に直進せずに南下北上して西へ行くのは、狭間の国の北に人も妖怪も足を踏み入れられない、荒涼とした砂漠と、天を貫く山脈という厳しい自然があるからだ。だがその山の向こうには四つの海に囲まれて須弥山しゅみせんという高い高い山があり、これが世界の中心だという。

 もしそれが本当なら須弥山の向こうにも世界は広がっているはずだが、四海どころではなく山脈の手前に広がる砂漠でさえ越えた者はなかったから、誰も本当のところは分からない。妖怪の国のさらに東、狭間の国の南、人の国の西にはただ茫々ぼうぼうたる海が広がるばかり。これを越えて他へ行った者はまだいない。越えられるのは、妖怪の国と狭間の国を分ける浅い海だけだ。

 そして、サラムーフから北西へ歩き続けると人の国へ着くという。

 きっと寒いところなんだろうな。

 パールは着物の襟をかきあわせた。

 鉄格子の向こう、澄んだ夜空にはまたたく無数の星の中、丸い月が浮かんでいる。パールは正座して手を合わせると、月に向かってそっとまぶたを閉じた。

 お月様、私の思いを届けてください。人の国の金の騎士ヒノリュウ様に届けてください。妖怪の国のみんなを助けてあげて。

 パールは小さくため息をついて目を開けた。本当の願いではないからどうしても念じる思いに力がこもらない。もともとパールの妖力は戦闘向きで、こういうことには向いていないのだ。

「しゃーないな」

 と、投げやりな口調。

「お月様、ほんとのこと言ったげるから、私の願い、ちゃんと叶えてよ」

  くずしたひざを再び正し手を合わせると、瞳は開けたままでパールは声を出した。

「お月様、私をここから出してください。早く助けにこいってヒノリュウ様に伝えてください。とっとと来ないと、私飢え死にしちまうよ」

 しばらく月をじっと見つめていたが、もちろん何も起こりはしなかった。

 パールは大きなあくびをしてから固いベッドに足をあげた。替えの着物をかけ風呂敷を頭の下に敷き重いまぶたを落とす。空気は冷たいし腹はぐうぐう鳴っていたが、眠気には勝てなかった。

 パールはやがて小さな寝息を立てだした。



 ***



  夜空の下、かわいらしい赤い屋根の家々を見下ろすように教会が建っている。美しいステンドグラスが月明かりに鮮やかだ。高い塔には鐘も見える。

 小さな集落に見下ろされて、細い川とその周りに荒れ野が広がっている。

 夜空に散らばる星の数には遠く及ばないが、荒れ野にもにわかづくりのテントがいくつも散らばっていた。横に馬をつないだものが多い。

 かがり火を囲んで川の向こう岸を監視する男たちがいる。

 人の国の南西、ヴィエイユでは小さな戦が起こっていた。諸侯にかり出された騎士たちが川岸に陣営をしいている。川向こうは敵の陣営だ。

 かがり火に薪を足していた男は、人の気配を感じてふと顔を上げた。

 束ねた赤い髪を背中に垂らした若い男が、すぐそこで月を見上げている。

「ヒノリュウさん……」

 薪を投げる手を休めて、彼はその男の名を呼ぶ。
 
「見張りくらい、俺らで充分っすよ」

「いや、そうじゃなくてな、寝付けない」

 ヒノリュウは月を見上げたままだ。

「どうして。今日もあんなに活躍なすって疲れてるでしょうに」

「ああ、疲れてる、くたくたよぉ。でもなぁ、あの月が俺を呼んでる気がするんだ」

「月がぁ?」

 男のすっとんきょうな声に、ヒノリュウは少し笑ってから、

「変な話だろ? 自分でもそう思うさ。でも早く帰らなけりゃいけない気がする。誰かが俺に必死で助けを求めてる気がするんだ」

「誰でしょうねぇ」

 男は首をかしげるしかなかった。この地までは、邪神ロージャの乱心もナヒーシャの城に幽閉された少女の話も伝わっていない。

「でもヒノリュウさん、無理でしょうよ。あの方はあなたを手放しはしないでしょうから」

 あの方とは彼らの主人である諸侯のことだ。男は言葉をついだ。

「今年の任期が終わるまではね」

 諸侯に従う騎士は、年に三十日だけ戦えばよい。それ以上は契約違反になるから、諸侯といえども命令することはできない。彼らの主従関係は極めて合理的現実的であり、義理も人情もなかった。

「あと六日だ」

 ヒノリュウは苦々しく言葉を吐き出す。

「六日? すぐじゃないですか」

「いや、間に合わん。俺を待ってる奴はずっと東にいる気がする。そこまでゆくのに馬を駆っても幾日かかるか」

 苦しげに嘆息するヒノリュウに、男はなんと声をかけて良いか分からず黙ってしまった。

「たしか弟が国境の町に滞在しているはずだ。あいつが月の声に気がついて行ってくれればよいが……。この声は確実に俺を呼んでいるみたいだからな、あいつには聞こえねぇかもしれねえな」

「家族―― とかじゃないんでしょう?」

「俺の家族は弟だけだよ」

 と笑ったヒノリュウに男は額をかいた。
 
「すまねえっす」

「別に構わねぇ。両親が死んだのなんて俺が六つか七つの頃よ。もうみんな消化しちまってらあ」

 そう言ってあげた笑い声には、人をほっとさせるものがあった。国一とたたえられながら、いつも気さくで親しみやすく、誰にでも親切な彼の人柄は、まさに金の騎士の呼び名にふさわしいものだった。

「帰れねぇものは仕方ねぇ。とっととけりをつけちまおう、ってわけで、明日に備えて俺は寝るぜ。見張り、よろしくな」

 にこやかに手を振って去ってゆく。その後ろ姿――赤い裏地に金の刺繍を施したマントを見送りながら、男はひとりごちた。

「あれで、女好きでさえなけりゃなあ……」
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