30 / 41
二章、加速 ――Tumbling Down――
09.いとおしい少女と二人、自由に世界の果てまで飛べたなら
しおりを挟む
額にまた、ぽつんと冷たいものを感じて広松は、雨かな、と空を仰いだ。だが夏空はからりと晴れて、その下を行き交う人々はタオルこそ手にすれ、傘など差す気配はない。すぐ近くで忍び笑いを聞いた気がして、眉をひそめて立ち止まったところで、通りの向こうから大きなビデオカメラやマイクが、ざわめきを背負って走って来るのが見えた。
(何の収録だ)
答えはすぐに出た。
「オニを見ませんでした?」
「夜響が今、こっちへ飛んできたでしょう」
問われた通行人は、さあ、とあっけにとられている。
(成る程)
見上げた街路樹の上に、ひらりと白い裾が見えた。
「私を追いかけてたな、この雨雲が」
広松にみつけられた夜響は、片手にたっぷりと水の入った湯飲み茶碗を乗せたまま、にっといたずらっ子の笑みを見せた。
「あ、あそこの木の上」
女子高生の一団が叫ぶのより早く、取材陣が駆けつける。巻き込まれぬよう慌てて身を引くと、夜響は木の上でくるりと反転した。
「来ないでよ」
空中で呼びかけ、湯飲み茶碗を放り投げる。弧を描くしぶきは虹に変わり、茶碗は地に触れ割れる前に、ひとひらの花弁になった。
広松は腰をかがめ、赤い花びらを指先に乗せる。どういうわけか見覚えがある。記憶を辿るが答えへ行きつく前に、
「広松さん!」
と声をかけられた。若いリポーターは逃げ腰の広松にマイクを向け、
「また会いましたね! いつも夜響を追っていますよね?」
「はあ、まあ」
「夜響について分かったことは」
「はっきりとしたことは――」
「オニとは何でしょうね」
「感情の一種ではないかと」
「感情?」
痩せぎすなリポーターは、眉のあたりに困惑と軽蔑を浮かべた。「感情は空飛んだり喋ったりしませんよ」
「空を飛ぶのも人を喋らせるのも、心、すなわち感情ですよ」
にこりともしない広松に、男は薄笑いを浮かべ更に尋ねようとしたが、別のリポーターが割って入った。
「夜響がどこへ行ったか分かりますか」
せわしない言葉に、
「夜へ帰ったのでは? 日の光やフラッシュ、雑誌の見出しが届かぬところへ」
「つい先日まで夜響は、よろこんで我々の取材に応じていましたが」
「固定化されたイメージは、最早イメージですらない、それに気付いたのでしょう」
向こうの通りの、夜響だ、という声に、取材陣は餌に群がる鶏と化す。通学帰りの中学生も連れだって駆け出した。
溜息ひとつ、彼は再び歩き出す。誰も本当のことは言わない。月に座れるとか、雲を食べられるとか、本当かも知れないのに、誰も口にはしない。誰かの冷笑が怖いから? だがだからこそ、夜響に憧れる。
(夢は叶ったか?)
遠くの夜響へ問う。ただ自由を謳歌したい――彼も同じ望みを抱いている。だが、愛しい我が子を捨てて、無邪気な誘いに乗ることは出来ず、だからといって、自分の中の「鬼」すら克服できぬのに、甘えん坊な夜響を苦しめることも出来ない。例え笑った姿が不気味でも、湯の中で抱いた少女の肌はやわらかく、夜響の魅せる夢に救いを求めている。憎めないし、つらい目になど遭わせたくない。ずっと隣ではしゃいでいて欲しい。くるくると表情を変える夜響を助手席に乗せて、海を越え空を越えて走ってゆきたい。
(俺は本当は、夜響を封じたくないんだな)
夜響のため、と自分を嗾けて、なんとかここまで動いてきた。だが織江との不和の理由さえ分からず、心の奥でつながっていた信頼さえ絶ち切れて、全てに疲れきった今、どこか遠くへ行けたらと強く願う。
(あいつの減らず口が聞きたいな)
記憶の中の夜響は、どんな表情でもいとおしい。
自由を求める夜響は、イメージを限定されるのを嫌い、この頃人々の前に姿を見せたがらない。子供たちが熱狂し、マスコミが書き立てる夜響は、彼らひとりひとりが描いた理想に過ぎない。だが人を愛するとは、己の心の中に作り上げた、その人の虚像を愛すること、真の自由を求めるならば、夜響は愛されることすら放棄せねばならない。
(この説得に乗ってくれるかな)
愛されたかった夜響を思い出す。だがあの頃と、今の彼女とは違うだろう。みんなに知ってもらいたくて、注目されたがっていた子供とは。夜響は今、新たな自由を模索している。
(その自由の雲に二人並んで、世界の果てまでゆけたなら)
(何の収録だ)
答えはすぐに出た。
「オニを見ませんでした?」
「夜響が今、こっちへ飛んできたでしょう」
問われた通行人は、さあ、とあっけにとられている。
(成る程)
見上げた街路樹の上に、ひらりと白い裾が見えた。
「私を追いかけてたな、この雨雲が」
広松にみつけられた夜響は、片手にたっぷりと水の入った湯飲み茶碗を乗せたまま、にっといたずらっ子の笑みを見せた。
「あ、あそこの木の上」
女子高生の一団が叫ぶのより早く、取材陣が駆けつける。巻き込まれぬよう慌てて身を引くと、夜響は木の上でくるりと反転した。
「来ないでよ」
空中で呼びかけ、湯飲み茶碗を放り投げる。弧を描くしぶきは虹に変わり、茶碗は地に触れ割れる前に、ひとひらの花弁になった。
広松は腰をかがめ、赤い花びらを指先に乗せる。どういうわけか見覚えがある。記憶を辿るが答えへ行きつく前に、
「広松さん!」
と声をかけられた。若いリポーターは逃げ腰の広松にマイクを向け、
「また会いましたね! いつも夜響を追っていますよね?」
「はあ、まあ」
「夜響について分かったことは」
「はっきりとしたことは――」
「オニとは何でしょうね」
「感情の一種ではないかと」
「感情?」
痩せぎすなリポーターは、眉のあたりに困惑と軽蔑を浮かべた。「感情は空飛んだり喋ったりしませんよ」
「空を飛ぶのも人を喋らせるのも、心、すなわち感情ですよ」
にこりともしない広松に、男は薄笑いを浮かべ更に尋ねようとしたが、別のリポーターが割って入った。
「夜響がどこへ行ったか分かりますか」
せわしない言葉に、
「夜へ帰ったのでは? 日の光やフラッシュ、雑誌の見出しが届かぬところへ」
「つい先日まで夜響は、よろこんで我々の取材に応じていましたが」
「固定化されたイメージは、最早イメージですらない、それに気付いたのでしょう」
向こうの通りの、夜響だ、という声に、取材陣は餌に群がる鶏と化す。通学帰りの中学生も連れだって駆け出した。
溜息ひとつ、彼は再び歩き出す。誰も本当のことは言わない。月に座れるとか、雲を食べられるとか、本当かも知れないのに、誰も口にはしない。誰かの冷笑が怖いから? だがだからこそ、夜響に憧れる。
(夢は叶ったか?)
遠くの夜響へ問う。ただ自由を謳歌したい――彼も同じ望みを抱いている。だが、愛しい我が子を捨てて、無邪気な誘いに乗ることは出来ず、だからといって、自分の中の「鬼」すら克服できぬのに、甘えん坊な夜響を苦しめることも出来ない。例え笑った姿が不気味でも、湯の中で抱いた少女の肌はやわらかく、夜響の魅せる夢に救いを求めている。憎めないし、つらい目になど遭わせたくない。ずっと隣ではしゃいでいて欲しい。くるくると表情を変える夜響を助手席に乗せて、海を越え空を越えて走ってゆきたい。
(俺は本当は、夜響を封じたくないんだな)
夜響のため、と自分を嗾けて、なんとかここまで動いてきた。だが織江との不和の理由さえ分からず、心の奥でつながっていた信頼さえ絶ち切れて、全てに疲れきった今、どこか遠くへ行けたらと強く願う。
(あいつの減らず口が聞きたいな)
記憶の中の夜響は、どんな表情でもいとおしい。
自由を求める夜響は、イメージを限定されるのを嫌い、この頃人々の前に姿を見せたがらない。子供たちが熱狂し、マスコミが書き立てる夜響は、彼らひとりひとりが描いた理想に過ぎない。だが人を愛するとは、己の心の中に作り上げた、その人の虚像を愛すること、真の自由を求めるならば、夜響は愛されることすら放棄せねばならない。
(この説得に乗ってくれるかな)
愛されたかった夜響を思い出す。だがあの頃と、今の彼女とは違うだろう。みんなに知ってもらいたくて、注目されたがっていた子供とは。夜響は今、新たな自由を模索している。
(その自由の雲に二人並んで、世界の果てまでゆけたなら)
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件
こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる