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第47話、帰り道は水の城に浮かぶ湖の奥

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「どうやって帰るんだ?」

 俺は空をあおぎ見た。この空間につながっていた木のほらはどこにも見当たらない。

「こっちじゃよ。城の中を通ってゆくのじゃ」

 くもぎりちゃんの小さな手に引かれて、夏風にゆれる雲の橋をわたる。流れ落ちる水のあいだに大きな城門が開いていた。

「城の中から元の世界に帰れるのか?」

 空の上なのに絶え間なく水音が聞こえる。まるで滝に囲まれているように。

「中庭に船溜ふなだまりがあってのぅ、『太古の泉』につながっておる」

船溜ふなだまりってこたぁ、雲の上に海があるのか?」

「湖じゃの」

 いや、海でも湖でも雲海うんかいの上にあるってことが不思議なんだが―― 考えるのはよそう。

「雲の上なのに緑豊かなんだな」

 水の柱でできた透明な回廊を歩きながら、横目に生い茂る草をながめる。

「わらわが眠りにつく前は、ここも多くの神々や高位の精霊たちでにぎわっていたのじゃが…… 草木もすっかり伸び放題じゃの」

 くもぎりちゃんは悲し気に言葉を吐き出した。「ここは『太古の泉』とつながっておるから、かつては神聖なる者たちと人間ひとの交差する地だったのじゃよ」

 くもぎりちゃんの言う「かつて」は、俺たち人間にとっちゃあ大昔のことなんだろう。俺もつられてしんみりした気持ちになって、口をつぐんだ。 

 回廊の先には一回り小さな水の門があった。それをくぐるとくもぎりちゃんは水晶みたいに透明な階段を下りてゆく。

「さて、この湖じゃよ。飛び込めば、ぬしさまのいた世界に戻れるのじゃ」

 透き通った城壁に囲まれて、鏡面のように静かな湖が広がっていた。湖面は青みがかった明るい緑色にきらめいている。

「ぬしさまの瞳の色みたいじゃな」

 俺を見上げる愛らしい笑顔にも、水面みなもの光が反射している。「それではの。わらわはぬしさまが大好きじゃよ」

 今生こんじょうの別れみたいな雰囲気はやめてほしい。寂しくなっちまう。

「きみは俺と一緒には来られないんだよな」

 くもぎりちゃんはここに残ると思うと、後ろ髪を引かれる思いだ。

「なにをおっしゃるやら。これからこの神剣・雲斬を使ってくださるのじゃろ?」

「そうだけどさ――」

 みなまで言い終わらぬうちに、くもぎりちゃんは子供らしく抱きついてきた。「なら、わらわはいつでもぬしさまと一緒じゃ!」

「でもあっちに戻ったら、きみのかわいらしい姿は見えないじゃんか」

 俺の言葉にくもぎりちゃんはふかぶかとうなずいた。「やはりこの姿は受けが良いのじゃな」

 くっ…… 過去の幼女趣味な男どもと同列に見られたくないぜ。

 俺は湖畔にひざをついて湖の中をのぞきこんだ。玲萌レモたちのいる泉の風景が見えるかと期待したが、水の奥には雲が浮かんでいるだけ。

「ぬしさまは水龍のうろことヒレが生えているというのに、水が怖いのかえ?」

 くもぎりちゃんがうしろでくすっと笑う。

「ち、ちげーよ!」

「安心なされ。一瞬息を止めていればすぐに着く。ぬしさまはこの雲斬を握って『太古の泉』の中に立っておるじゃろう」

 実は俺、ヒレから酸素を取り込めるらしくて水の中に長時間いられるんだけどな、ここだけの話。

「姿は見えなくとも、わらわはいつでも見守っておる。ぬしさまが持つ精霊の力なら、まぶたの裏にわらわの姿が浮かび声も聞こえるじゃろう」

 見上げる俺を安心させるように、くもぎりちゃんは小さな手を俺の頭に乗せた。

「わらわは神剣じゃから、たいてい屈強な僧兵やたくましいさむらいたちに使われてきたのじゃ。それがこたび、うつろう時の中でまどろむわらわを起こす者があらわれたと思ったら、まだ童部わらんべのような声をした華奢きゃしゃ男子おのこで――」

 いやいや比較対象がおかしいだろ。魔術が発展する前の時代は基本、筋肉で戦うからごっついんだ。俺は当世風のいきな色男なのさ。

「こんな繊細な雰囲気の子は初めてで心配しておったが、さきほどはよく動けておったぞ」

 弟子を見守る師匠のようなまなざしで、俺の頬にかかるおくれ毛に指先をすべらせた。

「つるぎの扱いに自信がなかったようじゃが、ぬしさまの神聖な気の力があれば無敵じゃよ」

 その微笑には、姿に似合わぬ包容力がある。

「時をこえてめぐりあったのが素直でかわいいあるじさんで、わらわはうれしいのじゃ。結界を張らずともわらわがぬしさまを守るから、この雲斬くもぎりを信じてたもれ」

 俺は感謝をこめて、精一杯の笑顔で彼女を見上げた。

「ありがとう、くもぎりさん。幼い姿をしていても、やっぱりあんたは長い時を生きてきた精霊さんなんだな」

「し、しまった!」

 くもぎりさんは焦った。「中身ババアがバレる発言はつつしまねばと思っておったのに! せっかく幼女の姿をしているのが台無しじゃ!」

 騒いで両手で顔を覆うのを見ると、よしよししてあげたくなる。

「ぬしさま、いまのは忘れてたもれ。さあさ、はよお帰りなされ」

「おう。じゃあな――ってのもおかしいか。これからよろしくなっ」

 俺はニッと笑って片手をあげると、水面に上半身を近づけた。湖の中から、女の子と見まごうほどきれいな顔立ちの少年がこちらをみつめている。俺は生まれてこの方、誰からも一度として美形と言われたことねぇんだけど、世間のやつらどこ見てんだろーな?

 髪を束ねた紐をするりとほどくと、銀髪がきらきらと光のつぶをまといながら、肩に胸にとこぼれおちる。真っ白い羽とあいまって、湖面に映る姿はこの世のものとは思えぬほど美しかった。

 ――玲萌レモに見せたかったな。「樹葵ジュキ、かっこいいね」って言ってくれたかな? 惠簾エレンならきっと「たちばなさま、なんてきれいなんでしょう!」って感激してくれるだろうな。みんなのところへ早く帰ろう。

 俺はまぶたを閉じると、湖の底へ吸い込まれていった。
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