信仰の国のアリス

初田ハツ

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クイーンホテルのあぶない週末

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「変えることができるなんて、思わないことです」
彼女は、静かにそう言った。
「大人は子どもに、どんな夢でも叶えられるかのように教えるけれど、それは残酷な嘘です」
──何があなたに、そんなふうに思わせてしまったの。



菜津と霧香に、誰にも聞かれずに話ができるところはどこかと聞いた。
ぬるく重たい雨が降っている日だった。昨日のニュースで梅雨入りが発表されたばかりだ。
「ママ、ちょっと内緒話したいんだけど、いいかな?」
連れてこられたのは、ピアス屋だ。菜津が問うと、さがのママは気安く「オッケー」と言って人差し指を上に向け、2階を示す。
「えっ、いいんですか」
目を丸くする私に、ママは「こういうことのために、私はここにいるって言ったでしょう」と微笑んだ。店の奥のバックヤードにある階段を上ると、2階は居住スペースになっている。開いた扉からキッチンやダイニングが見える廊下を通り、一番奥の扉を、菜津が慣れた手つきで開く。小さな応接間のようだった。ボタニカル柄のソファと木のローテーブルの他には、ほとんど何もない部屋だ。
「ここはさがのママが学校の子たち用に作った、緊急避難用の部屋なんだ」
菜津が言った。
「一人になりたい時とか、隠れたい時とか、今日みたいに秘密の話をしたい時に使っていい部屋」
さがのママが言っていた「あなたたちを守るためにここにいる」というのが、どういう意味なのか、少しわかった気がした。子どもの生活には、緊急避難が必要な時がけっこうある。
「……で、秘密の話は何なのかな?」
ソファに落ち着くと、いたずらっぽい笑みだけれど、どこか静かな色を浮かべた瞳で菜津が聞いた。霧香はもっと明らかに、不安げな表情で私を見ている。お茶を濁しても仕方ないことはわかっているから、単刀直入に始めることにする。
「この動画のこと」
スマホの画面を二人に見せる。二人ははっと息を呑み込んだ。
「どこでこれを……」
「エイプリルさんのパソコンにハッキングした」
即答する私に、菜津は天を仰ぎ、霧香はため息をついた。実際には、塔子のパソコンのログを追跡するところから始まり、いくつかの端末へのハッキングやさまざまな非合法な手段を重ねて、情報が保存されているエイプリルさんのパソコンにやっとたどり着いたのだけれど、まあ、その辺は割愛する。
「そうだよね……天才だもんね。いつか気付くんじゃないかと思ってた」
漏らす霧香を、菜津が肘で突く。
「これが、私が記憶を失くした原因なんだね」
動画に映っているのは、体育館のステージ上で全校生徒を前に、公開処刑のようなことをされている私だ。
「あの……見て、ショックじゃなかった? 大丈夫?」
心配してくれる霧香に、微笑み返す。
「見て記憶が戻ったなら、もっとショックだったかもね。いい気分はしないけど、自分の顔した他人が出てるドラマを見てるみたいな、ヘンな感じかな」
霧香は複雑そうながら少しほっとした顔で、「そう」と頷いた。
エイプリルさんのパソコンから見つけたものは、他にもある。
この事件の動画は、様々な角度から映したものがかなりの本数あり、生徒がスマホで撮影したものをすべて回収したのだろうと思われる。
事件以前に私が受けていたいじめや嫌がらせも、報告書にまとめられていた。SNSなどに書き込まれた誹謗中傷のデータ記録も大量にあったが、それらも現在は、ネット上からは完全に消去され存在していない。
最も奇妙だったものは、「ゲーム」だ。おそらく個人制作のアプリゲームとして配布されていたもので、わざとレトロなドット画で作られている。マリオみたいな横スクロール型のアクションゲームだけれど、主人公は妙に私に似ている少女で、ゲームオーバーになると、首が吹っ飛んだり、串刺しになったりと、ゲームにしてはやたらと残酷な死に方をする。報告書によると、ある時からこのゲームが高等科の生徒たちの間で流行り出し、私に似ていると噂されていたそうだ。そして、このゲームの出所だけはどうしても解明できなかったという。ただ私は、これにはちょっと心当たりがあった。
「……事件やいじめのことを隠したのは、塔子の考えなんでしょう?」
二人は、顔を見合わせてから、諦めたように頷いた。
遠峰谷こだま家は、希望学園と特別な関係があるんだね」
「そこまでわかってるの?」
菜津が驚いた声を返す。正直それに関しては裏付けが取れているわけではなかった。学校中から動画を回収し、事件についてもいじめについても生徒に箝口令を敷くのは、いくら大資本家とはいえ、学園の権力を直接握っている者でなければ難しいだろうという想像だ。しかしここは、黙って頷いておく。
「まあ、希望学園は実質、遠峰谷グループの系列みたいなものだから」
菜津の返答は、ある程度私が予想していたものだった。つまり──学園のPR役となる生徒を欲しがっている大元の人物は、おそらく塔子の父、遠峰谷希於きお氏だ。
「……塔子はお父さんに、自分の自由を差し出して、私の自由を要求した」
霧香が苦しそうな表情で返す。
「私たちも、塔子が亜莉夢の身代わりになるつもりだなんて知らなかったんだ」
塔子は2人にも、「父とは話をつけた」としか言っていなかったらしい。しかし……私は改めて二人に切り出す。
「どうしても、わからないことがある」
突風が吹いたのか、窓に叩きつける雨音が、一瞬だけパラパラと激しく鳴った。
「どうして塔子は、そこまでするのかな。私たちは……本当は友達じゃなかったよね」
二人は、覚悟していた痛みを耐えるような表情で、私を見つめた。
「東屋での話は、全部塔子の作り話だね?」
菜津がふー、と大きくため息を吐き出した。霧香が口を開く。
「……そう。以前の私たちに接点はなかった」
ただ……と、霧香の視線は斜め下を向く。
「塔子、亜莉夢のことを『美しい』と言ってたことがあるの」
それはきっと、あのスケッチブックに描かれた集会の時だろうな、と思った。菜津が霧香に重ねる。
「正直私たちにも、塔子の考えてること全部はわかんない。でも塔子の『美しい』が普通の意味と違うのは、亜莉夢も知ってるでしょ」
たしかに私はもう知ってしまっている。塔子の「美」には、特別な意味がある。おそらくそれは、正義とか、愛とか……
「……大切なもの」
霧香がつぶやくように言った。
「大切なものを守るために、普通じゃ考えられないことをするのが、塔子なんだと思う」
まったく──そんな理屈で、納得できてしまうなんて。
一緒にいたのは1ヶ月あまりのはずなのに、私は塔子をわかりすぎていた。そしてそれはたぶん、私も時に、似たような選択をする人間だからだ。
「……私たちも、それをするのはどうかな」
私の言葉に、霧香は小首を傾げ、菜津は怪訝な顔をする。
「大切なものを守るために普通じゃないことをするのは、塔子だけの特権じゃないでしょう?」
「まさか亜莉夢……」
菜津がごくりと唾を飲んだ。上目遣いに、「乗る?」と二人に問う私は、きっと不敵な笑みを浮かべていただろう。

創立60周年記念誌の、その隣には50周年、40周年と10年刻みで続くが、ふいに25周年が現れてその前はない。それ以前は記念誌を作らなかったのか、残っていないのか。
「やっぱりここにはないか……」
図書室に幾列も並んだ本棚の、一番奥の突き当り。挟まれたインデックスには「学園史」と書いてある。周年記念誌のほかは、「希望学園沿革史」と分厚い背表紙に書かれた冊子もあったけれど、こちらは創立からの理事長や学園長の変遷、建物の建設修繕、生徒全体数の増減など、もっとざっくりとした年表っぽいものだった。あとは創立者の伝記や、有名になった卒業生に関する本など。
「さすがに卒アルとかは、個人情報があるから図書室には置かないだろうね」
菜津の言葉に頷き返す。
「たぶん、過去のすべての生徒の在籍記録を見るなら管理棟の理事長室にでも行かないと。データ化されてないものもあるだろうから、ハッキングも使えないかな。でも……」
“すべての生徒”でなければ、どうだろう。

「塔子と同じことをするなら、私たちにも切り札が必要だね」
ピアス屋で、私は二人に作戦を持ちかけた。
「亜莉夢、まさか塔子のお父さんと交渉する気?」
菜津が驚いた顔で聞くけれど、私は表情を変えずに頷く。
「希望学園と遠峰谷家の関係について……それから、特別奨学生について。二人が知ってることを教えて」
二人が塔子から聞いていたのは、希望学園がもともと遠峰谷家の血縁者を通わせるために設立された学園だということ。塔子の祖父の就学に合わせて設立された数年後、特別奨学生の制度も作られたという。
もう一つは、特別奨学生として私が入ってくる以前、塔子の父は塔子を学園のPR役にするつもりだったらしいこと。「塔子には話すなって言われてたんだけど」と菜津は気まずそうだった。しかし私も薄々、そうじゃないかとは思っていた。塔子の自己犠牲は、自分がやるはずだった役割を私に肩代わりさせた罪悪感だろうか。だとしても、やっぱりこのまま引き下がれない。
そして最後にもう一つ、私の予想にもまったくなかった事実を二人は教えてくれた。
「塔子の亡くなったお母さんが特別奨学生だった……?」
「そう。たしかお父さんの2学年下だったと思うけど、10年ほど学園のPRを務めて、卒業後は遠峰谷グループ専属の弁護士になって、美人弁護士ってワイドショーで取り上げられたりもしてたんだよ。で、そのまま塔子のお父さんと結婚」
霧香が、やけに饒舌に語る。しかし、遠峰谷希於氏の同世代に彼女がいたということは、希於氏自身はPR役はやっていなかったということだ。
「塔子はなんでPR役を求められてたんだろう? お父さん自身もやらなかったのに。遠峰谷家の人がやった例って今まであるかな?」
それとも塔子の母がPR役だったことと、何か関係があるんだろうか。
霧香は何度か瞬きした後、「うーん」と唸った。
「……とりあえず、塔子のお父さんは無理だったと思う。高校生の頃から女の子連れて遊び回って写真週刊誌に載ってたような人だし」
「そうなの!?」
と聞き返したのは私ではなく、菜津だった。
「今はビジネスパーソンのイメージで売っててあんまり知られてないけどね。昔からセレブゴシップ追ってた記者さんからしたら、『あの放蕩息子が』って感じらしいよ」
しかし、モデルの仕事で雑誌社に出入りしているとはいえ、私たちが生まれる前のことまでよく知っている。私が感心すると、霧香はパッと顔を赤らめた。
「……実は、得意分野なんだ、ゴシップ……」
思わず、自分でもよくわからない笑いが溢れた。霧香の意外な趣味。人を印象で判断してはいけないと、改めて肝に銘じる。
「あ、ゴシップついでにもう一つ……真偽不明の噂レベルだけど、聞いたことがあって」
インターネット普及前の出来事は、今学園にいるような若い世代にほとんど知られることなく、新たなイメージで塗りつぶされていく。しかし、以前の記録や記憶が何も残っていないわけではない。それはたとえば、写真週刊誌記者の、古くからの取材データだったり。
「塔子のお父さんの再婚相手、うちの理事長の娘だって噂があるの」
私と菜津は、声にならない「は!?」を顔に浮かべて固まる。
そう、遠峰谷希於氏は、塔子の母の死後再婚し、再婚相手との間の息子──つまり塔子の弟にあたる子どもも、希望学園の初等科に通っている。希於氏が茉莉花野町の遠峰谷邸に寄り付かないのは、ビジネスで忙しいこともあるが、基本的に今の妻と息子との別宅に住んでいるからだ。彼に言わせれば「塔子が意地を張って一緒に住もうとしない」ということになるらしいが、塔子にとっては茉莉花野町のあの家が小さい頃から暮らしてきた住まいで、離れるつもりはないという。
「再婚相手の母親が園城藤子えんじょうふじこなのは知ってるよね? シングルで娘を産んで、父親は明かさなかったっていう」
国内で知らない人はいない有名俳優かつ大手芸能事務所の社長でもある人物。その娘が、希於氏の今の妻だというのは、私も聞き知っていた。娘自身は芸能活動はしておらず、母の会社を手伝っているらしい。
「で、理事長が文科省時代、彼女と愛人関係だったというのはほぼ公然の秘密で。だからって父親とは断定できないけど、時期は合ってるから、何かしらの思い入れはあるんじゃないかって記者さんが言ってた」
理事長が天下りで今のポストについたのは有名な話だ。きっと役人時代から、希於氏となんらかのつながりがあったのだろう。
──その娘かもしれない再婚相手。特別奨学生だった塔子の母親。
脳の片隅に、ちり、と焦げ付くような、嫌な感じのひらめきがあった。

40周年記念誌を手に取ってパラパラとめくる。やはり半ばあたりのページに、学生代表として顔写真と文章が載っていた。大学2年生、20歳の時の、塔子の母。
姉崎莉奈あねざきりな……さん」
私の名前と同じ字が入っているな、と思った。写真の彼女からは、塔子のような野性動物っぽいしなやかさは感じられない。コンサバティブで攻撃性のない微笑みをたたえた、きれいな人だった。
「……過去に希望学園に在籍した遠峰谷家の血縁者を調べて、リストアップしたんだけど」
私はその場で菜津と霧香の携帯に、リストを送る。
遠峰谷家直系の跡継ぎは遠峰谷希於氏にあたるが、その兄弟や叔父叔母など、親戚も含めるとけっこう多い。しかしそのほとんどが会社経営者クラスになっていて、彼らのことはネットで簡単に調べられた。
「霧香、この人たちが過去にすっぱ抜かれたスキャンダルがないか、調べられる?」
「うん、仲良くしてる週刊誌の記者さんがいるの。聞いてみるよ」
「それから……」
私は40周年記念誌を元の棚に戻して、少しその背をなぞる。
「入学希望者向けの学園パンフレットのバックナンバーを、どうにかして探せないかな」
私も中等科の3年間は、パンフレット向けの写真を毎年撮った。もちろん、特別奨学生としてどれだけ学園の恩恵を受けているかのコメント付きだ。卒業アルバムをすべて調べなくても、特別奨学生だけなら過去のパンフレットでかなりわかるはずだ。こういうものは大抵、セキュリティも何もない、盲点のような場所に保存されていそうだけれど。
「あ、それなら教頭に聞いてみようか」
こともなげに菜津が言う。あまり生徒と雑談したりしない、わりと厳しい先生だったと思ったけれど。しかし菜津はにやりと笑う。
「まあ、私にはとっておきの賄賂があるから」

私と霧香は壁に貼りついて、教頭室のドアの隙間から菜津と教頭の会話を聞いていた。
「奧原さん、どうしました」
教頭は白髪交じりの髪をきちんとオールバックに撫でつけ、いつも背筋がぴんと伸びた初老の紳士だ。利権まみれの学園関係者の中でも、この人は賄賂にほだされるようなタイプではないように見えていたが。
「ちょっとお聞きしたいことがありましてー……」
菜津が、学園パンフレットのバックナンバーを探していることを教頭に話す。
「友達と、歴代の特別奨学生はみんな美男美女かっていうので論争になりまして」
「くだらない論争をする代わりに、勉強に精を出したらどうですか」
案の定手厳しい反応が返ってくるけれど、菜津は意に介さず続ける。
「オーハラ食品から来月発売のコンビニスイーツ3種、2週間早く手に入ります」
私と霧香は顔を見合わせた。しばしの沈黙に、緊張が走る。
「……ラインナップは」
「塩キャラメル生クリーム大福、ミントチョコムースプリン、桃とチーズクリームのマリトッツォ」
「授業準備室のロッカーに過去のものすべて保存されています」
呆気に取られている私と霧香の目の前で、パッとドアが開き、私たちは壁に張り付いたまま息をひそめる。「じゃあ手に入り次第お持ちします」と笑顔の菜津に、教頭は「例のごとく、お代はしっかりお支払いします」と告げた。

ほぼ物置き化している「授業準備室」のロッカーに、他に置くところがなかったからという風に並べられていた学園パンフレットは、創立9年のものから存在した。意外に昔から作っていたらしい。私たちはそれで、遠峰谷家血縁者の学園在籍期間と、特別奨学生の在籍期間を照らし合わせた。
霧香は、懇意の記者から過去のスキャンダル情報をいくつか入手した。この学園の苛烈な成績競争とはまるで無関係かのように、傍若無人に遊び回っていた遠峰谷家の人間は、歴代何人もいることがわかった。そして彼らは3分の2のふるいにかけられ脱落することはなく、皆大学まで進学している。
あとは最後の裏付けだ。全員でなくても、データが残っている何人かを調べられればいい。学校の管理データに侵入し、遠峰谷家数人の記録にアクセスして、彼らの成績データを……それらがすべて消去され空欄になっていることを、確認した。──これで十分だ。
「あとは、どうやって遠峰谷希於氏に突き付けるかだね」
誰にも知られずに、彼だけに伝えなければ取り引きにはならない。
「それなんだけど……」
いつものピアス屋の2階で膝を突き合わせている時に、霧香が口を開いた。
「実は今週末塔子のお父さん、クイーンホテルのラウンジカフェで、ビジネス誌のインタビューを受けるらしいの。昨日記者さんが教えてくれて……」
「霧香!」
「なんですぐ言わなかったの!?」
沸き立つ私と菜津に、霧香は不安げな表情を返す。
「だって……本当にやるんだよね? あんな大人の……ものすごい大物相手に……」
菜津が、霧香の肩に手を置く。
「ビビる気持ちはわかるけどさ。塔子を取り戻すためなんだよ」
霧香は「うん、わかってる」と頷く。けれどその表情にはまだ恐れの色が見えた。
「霧香。もし不安なら、決行する時は一緒じゃなくてもいいよ。ここまで霧香は十分力になってくれたんだし」
しかし霧香は首を振った。
「弱気になってごめん……私、怖がりだけど、友達のためにできることはなんでもする」

『ご注文を承ります』
イヤホンから菜津の声が聞こえる。今時は、極小サイズのBluetoothイヤホンマイクさえ手に入ればスマホにつないで簡単にスパイの通信機器のようなものになるから、便利というべきか物騒というべきか。
菜津がラウンジカフェの従業員にまぎれ込むのは、さほど難しいことではなかった。ホテルに委託で入っているカフェの大元の会社はオーハラ食品の取引先で、なにより菜津本人が社長と大の仲良しだという。社長が口を聞いてくれて、現場には本社からの出向社員が1日ホールに入ると伝えられた。他の従業員も、財界の大物のインタビューがあるからだろうと、勝手に納得してくれている。
遠峰谷希於氏に顔くらいは知られているだろう私も、おそらく記者に面が割れている霧香も、見つかるわけにいかないので別行動だ。
クイーンホテルは、茉莉花野町から電車で2回乗り換えて、約30分。都会の真ん中の地下鉄駅から、階段を上がればすぐ目の前だ。広い車寄せを渡ってエントランスに入ると、白とゴールドを基調にしたロビーの奥にフロント、フロントの右手側には絨毯敷きにソファが置いてあるスペースがあり、少し奥まったところに行き止まりの通路になったエレベーターホール。ラウンジカフェは、フロントを左側に回り込んだ裏側にある。1階ロビーはぐるりとガラス張りになっていて、梅雨の晴れ間の日の光が差し込む。午後からはまた雨の予報になっていた。
それぞれが配置にスタンバイしたら、霧香がまずエレベーターホール前で行動を開始し、それが全員の動き出す合図だ。

「ここに塔子がいるかもって!?」
菜津が驚きの声を上げたのは、決行に向けて作戦を立て始めた2日目のことだ。私は静かに頷いた。
「元々、塔子は遠峰谷グループ系列のどこかのホテルに滞在してるんじゃないかと思ってたんだ。それに雑誌の取材って、普通記者が相手の会社とかに出向くものじゃない? 希於氏自身がここを指定したなら、彼が今このホテルによく出入りする用事があるってことかなって。それで、ホテルの管理システムに入ってみたんだけど……」
「ねえ、まじでハッキングって、そんなどこへでもできちゃうもんなの?」
「大企業の情報管理って、もっと厳しいと思ってたけど」
ここのところハッキングで物事を解決することが多かったので、菜津と霧香からとうとうツッコミが入る。
「うーん……アイルランドのウォルター・オブライエンっていうIT実業家はIQ190と言われてるんだけど、13歳の時にNASAのコンピュータにハッキングしたんだって」
私の話に、二人はぽかんとした表情を返す。
「私はさすがに、NASAは無理だよ」
菜津が「天才マジ意味わかんね」と呟くのはスルーして、私は計画の話に戻る。
「この2週間ほどクイーンホテルの最上階はクローズで、従業員ですら立ち入り禁止になってる。エレベーターも最上階には行かないようにセキュリティがかかってるみたい。でも一部のパスを持ってる関係者は専用エレベーターで出入りしてて、電気や空調は稼働してるから、誰かがここを貸し切りで使ってるらしい」
「それが塔子……?」
霧香が呟くように問う。
「確実とは言えないけど、行ってみる価値はあると思う」

私はエレベーターホールの片隅で、まるで人を待っているかのようにスマホに目を落とし、壁に背中を預ける。霧香にコーディネートしてもらって、一応高級ホテル宿泊客の大人の女性に見えるように変装したつもりだ。ボウタイ付きのモスグリーンのブラウスにチャコールのワイドパンツと、肩掛けの革のバッグ。ゆるく巻いた髪もメイクも、慣れないけれど、当たり前のように振る舞うしかない。エレベーターホールに、私以外の人間がいなくなったその一瞬。
「ああっ!ごめんなさい!」
同じく大人の女性のような恰好をした──こちらはさすが、堂に入っている霧香が、通路の入口のところで派手にコーヒーをぶちまけた。大理石の床に茶色い水たまりができる。これが片付くまでは、誰もエレベーターホールに入れなくなった。私は準備していた操作をスマホから行う。エレベーターが1台、他の階に止まらずまっすぐ1階に向かって降りてくる。手際の良いホテルスタッフが水たまりをモップで拭き終えるギリギリ前に、私はその1台に乗り込んだ。このままこの箱は、他の階には止まらず最上階に向かう。
「乗ったよ」
マイクに向かって報告を入れると、霧香からは小さく「OK」、菜津からはヒュー、と口笛が返ってきた。最上階のセキュリティロックは少し厳しめで、私は鞄からノートパソコンを取り出す。あらかじめセキュリティを解除しておいたら気付かれてしまうので、今から最上の53階にたどり着くまでの間に操作を完了しなければならない。間に合わなければ、私が書き換えた「最上階へ向かう」という指示と、最上階への侵入を防ぐセキュリティの指示が矛盾して、ホテルの管理システムにエラーが出てしまう。
『ちょっと君、どうなってるのかなあ』
その時イヤホンに飛び込んできたのは、おそらく菜津のマイクの音声だった。
『このティラミスケーキって、イタリー屋のとほとんど一緒だよねえ。なんで値段は倍もするのかなあ』
菜津もこれからいよいよ遠峰谷希於氏に近づき、取引きを持ちかけるメモを服のポケットに忍ばせようとする時だった。折りもあろうに、一般客の面倒なクレーマーに足止めを食らったらしい。しかし、
『お客様、よくお気付きになりましたね!』
水を得た魚のような菜津の声が、イヤホンから聞こえてきた。
『当店と、大手チェーンのイタリー屋様は、材料の仕入れ元の食品会社が同じなんです。イタリー屋様では食品会社の工場で大量生産したものを一度冷凍し、各店へ配送されています。冷凍・解凍することでスポンジの繊維やクリームの肌理が多少潰れてしまいますが、リーズナブルで十分クオリティの高いデザートを提供されていると存じております。当店は同じ会社から材料を仕入れて、この厨房でシェフが一つ一つ手作りしております。また、素材自体もよりランクの高い厳選された小麦粉やチーズを使用しております。お客様ほどの舌をお持ちでしたら、その違いをお楽しみいただけるのではないかと……』
お見事……聞きながらほくそ笑んでしまう。これなら他のスタッフも、本社の社員と信じて疑わないはずだ。食に強いというのは、思った以上に多岐にわたって強者なのかもしれない。
しかし私も、菜津の方に気を取られてはいられない。操作盤の上の表示が45階を過ぎたところで、エレベーターは少しそのスピードを落とす。私は呼吸を整える。
非現実的だけど、「神が降りる」というんだろうか。そういう感覚になる時がある。光の道筋が見えるみたいに、最速のソリューションに導かれる。
セキュリティ解除が完了するのと、表示が51階に切り替わるのが同時だった。そのままエレベーターは止まることなく53階にたどり着き、扉が開く。

──そして最初に目に入ったのは、開いた扉に立ちふさがるような、その人の姿だった。
目の前の景色はがらんと開けた、廊下というよりは大広間のようなスペース。何組かのソファが置かれている。奥の全面ガラス張りの窓には、曇り空だけが映っていた。その光景を、手を前に組んだ、直立不動の人影が遮っている。
「ここまで来たのは大したものですが……ゲームセットです」
「……エイプリルさん」
『ごめん亜莉夢……こっちもダメみたい』
イヤホンの菜津の声が呆然としている。
『私も捕まった……』
霧香の声も、ため息とともに落ちる。エイプリルさんはその声が聞こえたかのように、
「下の二人を捕らえたのは私の部下です。危害は加えないので安心してください」
と言った。実際彼女も、部下を通じてほとんど同じ音声を聞いているのかもしれない。エイプリルさんは、ゆっくりと私に近づいた。
「どちらにしろ、塔子さんは取材のため今日ここにはいません。それに、ちょっと調べれば見つかるような過去のスキャンダルと特別奨学生の関係を照らし合わせたところで、代表との交渉材料にはならないでしょう。その程度なら簡単に握りつぶせるのが遠峰谷グループです」
私はエイプリルさんの目の奥の真意を探ろうとしていた。
「止めたのは、失敗するとわかっていたから? 私たちのためですか……?」
「変えることができるなんて、思わないことです」
彼女は、静かにそう言った。
「大人は子どもに、どんな夢でも叶えられるかのように教えるけれど、それは残酷な嘘です」
──心のどこかで期待していた。この人は理解してくれるんじゃないか。私たちの味方になってくれるんじゃないかと。だけどやはりこの人も、自分の意志よりも会社の意志で動く大人だったんだろうか。
「……ただ、ひとつだけ私に協力できることがあります」
彼女はいつものように表情を変えない。だから、どんな思いでそれを言ったのかはわからない。
「塔子さんに、会いたいですか?」
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