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出逢いの森には秘密がふたつ
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絵を描けと言われた。
学園の名声のために、私の得意なことを利用するのは、たしかに効率的な手段だ。一冊だけ手元にあったスケッチブックは美術教師に引き渡されて、鳩ヶ谷さんを描いたスケッチを油絵として仕上げるのはどうかと提案された。美術コンクールに出すためだという。描けないと言ったらあっさり他のテーマでもいいと言われたけれど、私は実感し始めていた。自分自身を売り渡すということは、自分にとどまらないのだと。やがて自分の周りの人間も、売り渡し、冒涜することにつながっていく。自由を差し出すことは、自分の信じるものを差し出すということだった。
だけど──私だけだろうか。大切なものを守るためには自分を捨てねばならず、けれど自分を捨てることは大切なものを売り渡すことになる……こういう矛盾は、世の中にありふれているんじゃないだろうか。私たちはいつの間に、こんなに意地の悪い世界に来てしまったのだろう。
私がいっこうにコンクール用の絵を描けないので、父はリルさんに相談したらしい。そして、どういう話し合いがなされたのかわからないが、私は1日だけ休日を与えられリルさんに連れ出されることとなった。私が絵を描く気になれるような場所へ。いくらリルさんでも、魔法が使えるわけじゃないのに。
海沿いを走る車のフロントガラスに、霧のような雨粒がついてはワイパーに回収されていく。リルさんの車は、他の運転手に乗せてもらう時のようなやたら黒光りする座席の広い車じゃなくて、オレンジ色のコンパクトカーだった。
「やっぱり茉莉花野町に向かってる?」
出かける時、リルさんは行き先を教えなかった。それどころか何の警戒態勢なのか、スマホまでリルさんに預けるように言われた。だけど今は、バックミラー越しに眉を動かしてあっけらかんと肯定する。
「まあ、気晴らしくらいにはなるでしょう。一番行きたい場所ですよね?」
「そうだね」
私は単純にそう返す。あの町には帰れるけれど、亜莉夢にも、霧香にも菜津にも会えない。そこで自分がどんな気持ちになるのか、自分自身でも想像がつかない。
湾岸道路と平行に走る鉄道のまりかの駅を通り過ぎ、海に突き出た防波堤のそばの、駐車場を兼ねた広場に停車する。リルさんはシートベルトを外しながら、私にも降りるよう促した。小雨はいつの間にか上がって、白い曇り空の下に生温い湿った空気が滞留している。
「灯台には行ったことがありますか」
防波堤の先に建つ、その白い塔を指差してリルさんが言う。
「近くまでは行ったけど、中には管理の人しか入れないでしょ」
「今日は特別に中に入れる鍵をお借りしています」
「は?」
リルさんは数本の鍵が束ねてある小さな輪っかをじゃらりと取り出して見せた。わざわざ今日のために灯台を貸し切ったのか? 別に私が行きたがったわけでもないのに。リルさんの考えていることがわからない。しかし彼はもう、灯台に向かって歩き出していた。
白い扉の通用口から入ると、がらんとした空間に螺旋階段が伸びている。リルさんの後をついて上っていく。穴から抜け出るように上階に出れば、ぐるりとガラス窓に囲まれた円形の小さな部屋の真ん中に、大きめのスポットライトのようなものがある。今は灯りがついていないけれど、いつの間にか雲間から差していた陽光が、レンズに反射して一瞬の眩しさに目を細めた。その眩しい光の向こうに──誰か、いる。
低い位置でひとつ結びにした長い髪には、ゆるく自然なウェーブがかかっている。カーキ色のフーディに、白いショートパンツ。振り返らないその後ろ姿がはっきり目に映った時、もう私には、わかっていた。
「今日を限り、こんなことは二度とないと思ってください」
リルさんが言って、踵を返し階段を降りて行く。
「……亜莉夢」
私の声に、やっと振り返ってこちらを見る顔は、呆れたような視線。
「久しぶり。世界一バカな私の友達」
その言葉で、亜莉夢はすでに真実にたどり着いたんだとわかった。
「聞きたいことはたくさんあるけど、まずは私から話すわ」
私と亜莉夢は、窓ガラスを格子状に走る手すりみたいに太い桟にもたれ、並んで海を眺める。横顔をちらりと見ると、今日はいつもの緑のピアスじゃなくて、私と同じ紫の丸いピアスをしていた。
「塔子がいなくなってから、いろいろ調べたよ」
私がリルさんに集めさせた、亜莉夢へのいじめや嫌がらせの証拠データを見つけ出したこと。私の嘘に気付いたこと。遠峰谷家と特別奨学生の関係についても調べたこと。亜莉夢は淡々と話す。
「遠峰谷家の血縁者だけがどんなに成績が悪くても脱落を免れてるのは、学園にいれば誰でも気付く。だから、特別奨学生制度を作ったのね」
そもそも、希望学園の設立目的自体がそうなのだ。遠峰谷家に優秀でない跡継ぎが生まれても、学歴に箔を付けられるように、“遠峰谷一族のみが特別待遇される優秀な学校”を作ってしまった。それだけのために学校を作るなんて馬鹿馬鹿しいほど大掛かりだけれど、この国の学制改革直後、新規の学校経営で儲けようとする資産家も多かった時代には、さほど非現実的な計画でもなかったようだ。実際似たような意図で作られた「名門校」は他にもあるという。
「私も、亜莉夢が入学した頃くらいから疑問に思い始めてた」
特別奨学生が学園のPR役として、遠峰谷家にとっても有益な存在だということはわかる。けれど気になったのは、私に無理やりにでもPR役をやらせようとしたのち、亜莉夢が見つかるとあっさりそちらにシフトした流れだ。学園の歴史上、特別奨学生がいなかった期間もある。このタイミングでどうしてもPR役が欲しかった理由が何かあるはずだ。
とはいえ、それほど本格的に調べていたわけではなく、遠峰谷家やグループ会社の関係者に会うたびに、関連の話題やヒントはないかと目を光らせていた程度。状況が変わったのは、中3の冬だ。内部進学用の願書に保護者のサインをもらおうと父のオフィスを訪ねた時、エレベーターですれ違った重役の一人が私の肘にぶつかって書類を取り落とした。そこに、木下亜莉夢の名があった。
おそらく会社にとってそれは、さほど機密性の高いものではなかっただろう。しかし私にとっては求めていた情報だった。落とした紙をさっとかき集めて彼が去った後、記憶の中の書類を、コピーを見るようにつぶさに確かめた。
──精神状態、自傷やストレス反応、学園への反抗的な態度や逸脱行動──箇条書きにされたいくつかの項目に、どれも「異常なし」の結果が記されている。異常がないのなら、なぜ木下亜莉夢はこんなことを調査されているのだろう? まるで、精神を病むことが想定内であるかのように。そしてこの階の父のオフィスから出てきたであろう重役が、あんな書類を持っていたのはなぜか。遠峰谷グループの代表がそこまで特別奨学生に深く関わっているのか。
しかしそのことを詳しく調べようとし始めた時、養育係がリルさんに替わった。リルさんはそれまでの養育係よりも、私に自由を与え、霧香や菜津と過ごす時間を増やしてくれた。けれど、特別奨学生制度と遠峰谷家の関係についての情報には、それ以降ほとんどアクセスできなくなった。おそらく彼は、私の調査活動をストップさせるために送り込まれたのだろう。
「私も……エイプリルさんに止められた」
亜莉夢は特別奨学生制度の裏の目的を霧香と菜津とともに突き止め、それをネタに父と交渉しようとした、と話した。しかし、リルさんが亜莉夢の怪しい動きに気付いて、部下に動向を探らせていたのだという。
「私もコンピュータが得意なだけで、スパイ活動のプロじゃないからね。物理で後をつけられたら全然気付けなかったわ」
「やっぱり亜莉夢ってやることハンパないな」
「……塔子にだけは言われたくない」
亜莉夢は私が勝手に去ったことにまだ結構怒っているのか、三白眼で睨む。
「でも……亜莉夢も真相にたどり着いたんだね」
「まあね」と呟いて、亜莉夢は視線を海へ戻す。
「私は──私たちは、スケープゴートだったわけね」
そう……優遇されている遠峰谷一族へ、生徒たちの敵意が集まらないように、その矛先を他に差し向けるための。私は口を開く。
「気持悪いけど、人って、もともと金や権力を持ってる人間に対してよりも、持ってなかった人間がちょっとでも与えられることに嫉妬や敵意を燃やすんだよね」
亜莉夢に起こった事件は、まさにその顕著な事例だっただろう。彼らが「特権を受けるべき者」と「受ける資格のない者」をどこで切り分けているのか、基準は不明瞭だ。あの時は、亜莉夢の母の過去という、亜莉夢自身にはどうしようもないものが、最終的に彼らの怒りに火をつけた。
遠峰谷家の人間がどれだけ不正に利益を得ていようと、それを霞ませるほどに、彼らの「持たざる者が持たざる者であり続けない」ことへの怒りは大きい。そして支配者側の人間は、そういう心理を利用することには、異常に長けているのだ。
そして……私はといえば、遠峰谷家の人間ながらスケープゴートに回されるという、ちょっと特異な立場だったようだ。
「弟が生まれた時父は、特別奨学生になってくれる優秀な子どもを他から探すより、私を使った方が手っ取り早いと気付いたんだろうな。母譲りの映像記憶があるのもバレてたし」
同じ父の子でも、貧しい出自の母から生まれた娘と、さまざまな権力とのつながりがある母を持つ息子。家父長制の男系一族で後継者から外されている私と、次の代表取締役と目されている弟。その差に学園の生徒たちが注目すれば、私に敵意を集中させることは、他の特別奨学生たちと同じく可能だと踏んだのだろう。
「まあ、弟も不憫だけどね……生まれた時から権力とのつながりなんてものにばかり注目されて」
とはいえ、全然好きになれないクソガキだけど。それを言うと、亜莉夢はふふ、とニヒルに鼻で笑った。
雲はだんだんとちぎれて、陽の光が海面や、防波堤のコンクリートに届く。波頭がきらめき、濡れた地面は乾いていく。
「なんでわざわざ友達だったふりをしたの」
亜莉夢の質問に、私はその横顔を見つめる。
「……時間がなかったから。父から与えられた猶予は1ヶ月だけで焦ってた。一から友達になるより、元々友達だったことにする方が早いと思ったんだ」
しかし亜莉夢は、首を振る。
「最初のきっかけさえ作れば、霧香と菜津は、塔子がいなくなった後も私を見放したりしないってわかってるでしょ。どうせいなくなるつもりなら、塔子自身が私と友達になる必要あった?」
まったくそれは、亜莉夢の言う通りだ。過去を丸ごと捏造するなんて、事実と矛盾し疑われるリスクも高くなるのに、なぜわざわざそれを選んだのか。……それはきっと、私自身が、その思い出がほしかったからだ。自分でも心の片隅で気付いていたこと──亜莉夢と、友達になりたかった。
「……タイムスリップして、亜莉夢の過去に入りたかった。本当はもっと前から友達になりたかったのに、それができなかった過去を、塗り替えたかった……」
去らなければならないのがわかっていたのに、自分のエゴで亜莉夢の心に近づこうとした私を、亜莉夢は責めるだろうか。そう思ったけれど、亜莉夢は予想外の言葉を口にした。
「塗り替えようか」
窓に向かっていた体ごとくるりと向き直って、亜莉夢は私を真っ直ぐ見つめる。
「私と東屋で出会った時のこと、もっと詳しく教えてよ」
亜莉夢は何を言っているんだろう? あれはすべて嘘だったと、亜莉夢自身が解き明かしたばかりだというのに。
「塔子の頭の中にはあるでしょ……思い描いてた風景が」
虚構のディテールを、亜莉夢は知りたいというのか。それは不思議な要求だったけれど、嘘をついた私に、拒否権はないような気もした。
「……高等科から商店街に出る時は、森の一本道を通ってくよね。でももう一つ、中等科と高等科をつなぐ細い道が東屋の裏側に伸びてるんだ。私たちはその細い道を通って中等科の方から歩いてくる。行き止まりにあの東屋があって、そこに亜莉夢がいる……」
「私は勉強してるんだっけ」
「そう……最初はノートと参考書を開いてるイメージだったけど、今考えたらノートパソコンを開いてるかもね」
「勉強してるふりで、何か別の悪だくみをしてたかも」
私たちはくすくすと笑う。
「亜莉夢からしたら、森の奥から突然出てきた私たちは、獣みたいに見えたかもね」
「森で塔子みたいなしなやかな獣に出会ったら、きっといい気分だろうな」
歌うように亜莉夢が言う。
「東屋にいる亜莉夢は、たぶん宝箱の中の宝石みたいだったよ」
私も亜莉夢を真っ直ぐ見つめて言う。
「……美しかったって言ってたね。東屋にいる私を。どうしてそう思ったんだろう」
それは、私にとっては、問うまでもないことだ。
「亜莉夢はずっと美しいんだよ。ワンシーンだけを切り取って美しいと思う人や物はたくさんあるけど、亜莉夢は初めて美しいと思った時から、ずっと、いつも美しい」
「塔子」
と呼ばれたと思ったら、亜莉夢の両手が私の首を引き寄せて、私のおでこに、亜莉夢のおでこがくっついた。
「……私、信じるよ。東屋の思い出は本当だって。二人が同じ思い出を共有しているなら、それは真実じゃない?」
「真実……」
一番近い距離で、亜莉夢の視線が私の目の奥を見通す。なぜか言葉がなくても互いにそれがわかった。あまりにも自然に唇が重なった。
永遠にも感じられた時間が途切れるのは、オフボタンの効かなくなった機械の電源を引っこ抜いて無理やり止めるのに似ている。だけど伝えなきゃならないことがある。唇が離れたその一瞬に、私はささやく。
「エニシさんたちに、話を聞いて」
たぶん盗聴くらいはされているだろうから、今伝えられるのはこれだけ。私だって、すべて諦めていたわけじゃない。1ミリの突破口でもこじ開けるつもりでチャンスを窺っていたけれど、ほかでもない亜莉夢が、それを作り出してくれた。
亜莉夢は黙ったまま、自分のピアスを外す。それから私のピアスも外して、自分のものと着け替えた。亜莉夢自身も、私の外したピアスを着ける。見た目はまったく変わらない紫の丸い粒。これが何を意味するのかはわからないけれど、やはり亜莉夢も、ここに来て何も用意していないはずがなかった。だから私も何も言わない。
下階でドアを開ける音がする。リルさんがタイムリミットを告げにきて、私は亜莉夢を残しその場を去る。最後に振り返ると、少しだけ淋しそうな目で亜莉夢が見つめていた。
その夜、ホテルの寝室に入った私の耳に、プツッという小さな破裂音に続いてその声が届いた。
『塔子』
まったく、こんなものどうやって作ったんだろう。
『片方が受信機、片方が振動型イヤホンになってる。そちらの声を拾うものはさすがにこの短期間じゃ作れなかった。盗聴器も長距離では使えないし』
短期間じゃなかったら発明してしまったんだろうか、この人は。
『そっちからコンタクトを取りたい時のために、一応身元が特定できないメッセージアプリのアカウントを作ったけど、それも怪しまれるだろうから何度もは使えないと思って』
亜莉夢が伝えるアカウントのIDを、私はとっさに、ベッドサイドに添えられたビスケットにペンで書き込む。私の方でも、身元のわからないアカウントに証拠を残さずログインするなんて芸当ができたら、問題なく連絡が取れたんだろうけど、まあそんなことできる人間が何人もいるわけじゃないので仕方ない。
『明日の放課後、霧香と菜津と、山頂の展望台に行くことになった。そこにみんな集まる』
考えたな、と思った。ピアス屋はすでにマークされているし、せっかくリルさんがおそらくまだ知らないであろうエニシさんの名前だけを出したのに、カフェに集まったら誰のことかわかってしまう。ロープウェーでしか行けない山頂の展望台は、気付かれずに尾行することが困難な場所だ。
『塔子にも聴こえるようにしておく』
そう言い残して音声は切れた。私はIDをメモしたビスケットを脳のカメラに収め、コーヒーといっしょに美味しくいただいた。
『塔子が私たちの前からいなくなったのはお二人も知っての通りです』
夕方、5時6分。突然その音声は始まった。私は絵を描く気になったと言って、用意されたアトリエに一人でいた。
『それには塔子のお父さんが関わっているんだけど……とにかく塔子は、“エニシさんたちに話を聞いて”と言っていました』
『何の話を聞くかは、塔子ちゃんは言ってなかったのね』
エニシさんの声。
『おそらく盗聴されていたので言えなかったんでしょう。なので、塔子に関しての心当たりの話をすべて教えてほしいんです』
しばしの沈黙。
『私たちが知ってるのは、塔子ちゃんじゃなく、塔子ちゃんのお母さん……姉崎さんのことよ』
さがのママの声。
『私たちは、希望学園の同級生で、親友だった』
私が中等科に上がったくらいの時、さがのママがこっそり見せてくれた写真がある。高校生の頃の、さがのママとエニシさんと、私の母の写真。エニシさんはまだ男子の制服を着させられていて、でも3人とも、なんだかとても可愛かった。
3人は茉莉花野の森で出会ったのだという──東屋ではなく、初等科近くにある森の小さなお社、「茉莉花野神社」で。母は勉強と学園PRの合間のわずかな息抜きにいつもそこに来ていて、偶然はみ出し者の2人と出会った。特別奨学生の母と2人に接点があることは、他の誰にも言わず、秘密にしていた。
『なるほど、“東屋”はそのアレンジね』
にやりと笑う顔が見えるような亜莉夢の声に、私もばつの悪い笑いを浮かべる。あの話に、さがのママから聞いたイメージが影響していたのは否めない。
『卒業してからはなかなか会えなくなったけど、私が店を始めてからは、たまに訪ねてきてくれたりもしてたのよ』
『もう少しつっこんで聞いてもいいですか』
亜莉夢の声。
『お二人は、塔子のお母さんから何か聞いていたんじゃないですか。遠峰谷家にとって──もしくは遠峰谷希於氏にとって不都合な何かを』
再びの沈黙。
『莉奈は……裁判を起こそうとしてた』
『エニシさん……!』
さがのママの止めようとする声がしたけれど、エニシさんが「塔子ちゃんが今こんな状況になってるのに、隠しておけないでしょ」と言うと、それ以上何も言わなかった。母がこういうことを相談していただろう友達は、私の知る限りこの二人しかいないと思ったけれど、当たりのようだ。
『……遠峰谷希於と不倫相手との間に子どもが出来て、離婚を言い渡されたって。莉奈は弁護士だったし、自分はともかく塔子を捨てるのは許さないって、出るとこに出て戦ってやるって言ってたわ』
弟の誕生日から逆算して、母の死よりも再婚相手の妊娠が先になることは気付いていた。父は弟が3歳になってから、再婚していたことや長男が生まれたことを公表した。
『だけどそのすぐ後に、運転中の事故で……煽り運転されて、スリップして、相手は逮捕されたけど……』
エニシさんが何かを言おうとして言い淀む。
『疑ってるんですね。遠峰谷希於氏の関与を』
亜莉夢が問う。私自身も長年疑い続けてきたことだ。まだ母と結婚していたはずの時期にできた、今の妻との子。そして、煽り運転による自動車事故。
『だけど、それ以上は何もわからない。証明できるものは何もないわ』
エニシさんとさがのママは重く黙り込むけれど……亜莉夢たちの腹は、すでに決まっていることだろう。
音声が切れたところで、さて、私も取り掛からなければとキャンバスに向かう。
3週間後は私の16歳の誕生日パーティー。これまで父はプレゼント一つよこしたことがなかったのに、PR役となった途端に仰々しいことだ。けれど、勝負をかけるチャンスはその時かもしれない。
──まずはこの絵を、交渉材料になる程度に仕上げなければ。
学園の名声のために、私の得意なことを利用するのは、たしかに効率的な手段だ。一冊だけ手元にあったスケッチブックは美術教師に引き渡されて、鳩ヶ谷さんを描いたスケッチを油絵として仕上げるのはどうかと提案された。美術コンクールに出すためだという。描けないと言ったらあっさり他のテーマでもいいと言われたけれど、私は実感し始めていた。自分自身を売り渡すということは、自分にとどまらないのだと。やがて自分の周りの人間も、売り渡し、冒涜することにつながっていく。自由を差し出すことは、自分の信じるものを差し出すということだった。
だけど──私だけだろうか。大切なものを守るためには自分を捨てねばならず、けれど自分を捨てることは大切なものを売り渡すことになる……こういう矛盾は、世の中にありふれているんじゃないだろうか。私たちはいつの間に、こんなに意地の悪い世界に来てしまったのだろう。
私がいっこうにコンクール用の絵を描けないので、父はリルさんに相談したらしい。そして、どういう話し合いがなされたのかわからないが、私は1日だけ休日を与えられリルさんに連れ出されることとなった。私が絵を描く気になれるような場所へ。いくらリルさんでも、魔法が使えるわけじゃないのに。
海沿いを走る車のフロントガラスに、霧のような雨粒がついてはワイパーに回収されていく。リルさんの車は、他の運転手に乗せてもらう時のようなやたら黒光りする座席の広い車じゃなくて、オレンジ色のコンパクトカーだった。
「やっぱり茉莉花野町に向かってる?」
出かける時、リルさんは行き先を教えなかった。それどころか何の警戒態勢なのか、スマホまでリルさんに預けるように言われた。だけど今は、バックミラー越しに眉を動かしてあっけらかんと肯定する。
「まあ、気晴らしくらいにはなるでしょう。一番行きたい場所ですよね?」
「そうだね」
私は単純にそう返す。あの町には帰れるけれど、亜莉夢にも、霧香にも菜津にも会えない。そこで自分がどんな気持ちになるのか、自分自身でも想像がつかない。
湾岸道路と平行に走る鉄道のまりかの駅を通り過ぎ、海に突き出た防波堤のそばの、駐車場を兼ねた広場に停車する。リルさんはシートベルトを外しながら、私にも降りるよう促した。小雨はいつの間にか上がって、白い曇り空の下に生温い湿った空気が滞留している。
「灯台には行ったことがありますか」
防波堤の先に建つ、その白い塔を指差してリルさんが言う。
「近くまでは行ったけど、中には管理の人しか入れないでしょ」
「今日は特別に中に入れる鍵をお借りしています」
「は?」
リルさんは数本の鍵が束ねてある小さな輪っかをじゃらりと取り出して見せた。わざわざ今日のために灯台を貸し切ったのか? 別に私が行きたがったわけでもないのに。リルさんの考えていることがわからない。しかし彼はもう、灯台に向かって歩き出していた。
白い扉の通用口から入ると、がらんとした空間に螺旋階段が伸びている。リルさんの後をついて上っていく。穴から抜け出るように上階に出れば、ぐるりとガラス窓に囲まれた円形の小さな部屋の真ん中に、大きめのスポットライトのようなものがある。今は灯りがついていないけれど、いつの間にか雲間から差していた陽光が、レンズに反射して一瞬の眩しさに目を細めた。その眩しい光の向こうに──誰か、いる。
低い位置でひとつ結びにした長い髪には、ゆるく自然なウェーブがかかっている。カーキ色のフーディに、白いショートパンツ。振り返らないその後ろ姿がはっきり目に映った時、もう私には、わかっていた。
「今日を限り、こんなことは二度とないと思ってください」
リルさんが言って、踵を返し階段を降りて行く。
「……亜莉夢」
私の声に、やっと振り返ってこちらを見る顔は、呆れたような視線。
「久しぶり。世界一バカな私の友達」
その言葉で、亜莉夢はすでに真実にたどり着いたんだとわかった。
「聞きたいことはたくさんあるけど、まずは私から話すわ」
私と亜莉夢は、窓ガラスを格子状に走る手すりみたいに太い桟にもたれ、並んで海を眺める。横顔をちらりと見ると、今日はいつもの緑のピアスじゃなくて、私と同じ紫の丸いピアスをしていた。
「塔子がいなくなってから、いろいろ調べたよ」
私がリルさんに集めさせた、亜莉夢へのいじめや嫌がらせの証拠データを見つけ出したこと。私の嘘に気付いたこと。遠峰谷家と特別奨学生の関係についても調べたこと。亜莉夢は淡々と話す。
「遠峰谷家の血縁者だけがどんなに成績が悪くても脱落を免れてるのは、学園にいれば誰でも気付く。だから、特別奨学生制度を作ったのね」
そもそも、希望学園の設立目的自体がそうなのだ。遠峰谷家に優秀でない跡継ぎが生まれても、学歴に箔を付けられるように、“遠峰谷一族のみが特別待遇される優秀な学校”を作ってしまった。それだけのために学校を作るなんて馬鹿馬鹿しいほど大掛かりだけれど、この国の学制改革直後、新規の学校経営で儲けようとする資産家も多かった時代には、さほど非現実的な計画でもなかったようだ。実際似たような意図で作られた「名門校」は他にもあるという。
「私も、亜莉夢が入学した頃くらいから疑問に思い始めてた」
特別奨学生が学園のPR役として、遠峰谷家にとっても有益な存在だということはわかる。けれど気になったのは、私に無理やりにでもPR役をやらせようとしたのち、亜莉夢が見つかるとあっさりそちらにシフトした流れだ。学園の歴史上、特別奨学生がいなかった期間もある。このタイミングでどうしてもPR役が欲しかった理由が何かあるはずだ。
とはいえ、それほど本格的に調べていたわけではなく、遠峰谷家やグループ会社の関係者に会うたびに、関連の話題やヒントはないかと目を光らせていた程度。状況が変わったのは、中3の冬だ。内部進学用の願書に保護者のサインをもらおうと父のオフィスを訪ねた時、エレベーターですれ違った重役の一人が私の肘にぶつかって書類を取り落とした。そこに、木下亜莉夢の名があった。
おそらく会社にとってそれは、さほど機密性の高いものではなかっただろう。しかし私にとっては求めていた情報だった。落とした紙をさっとかき集めて彼が去った後、記憶の中の書類を、コピーを見るようにつぶさに確かめた。
──精神状態、自傷やストレス反応、学園への反抗的な態度や逸脱行動──箇条書きにされたいくつかの項目に、どれも「異常なし」の結果が記されている。異常がないのなら、なぜ木下亜莉夢はこんなことを調査されているのだろう? まるで、精神を病むことが想定内であるかのように。そしてこの階の父のオフィスから出てきたであろう重役が、あんな書類を持っていたのはなぜか。遠峰谷グループの代表がそこまで特別奨学生に深く関わっているのか。
しかしそのことを詳しく調べようとし始めた時、養育係がリルさんに替わった。リルさんはそれまでの養育係よりも、私に自由を与え、霧香や菜津と過ごす時間を増やしてくれた。けれど、特別奨学生制度と遠峰谷家の関係についての情報には、それ以降ほとんどアクセスできなくなった。おそらく彼は、私の調査活動をストップさせるために送り込まれたのだろう。
「私も……エイプリルさんに止められた」
亜莉夢は特別奨学生制度の裏の目的を霧香と菜津とともに突き止め、それをネタに父と交渉しようとした、と話した。しかし、リルさんが亜莉夢の怪しい動きに気付いて、部下に動向を探らせていたのだという。
「私もコンピュータが得意なだけで、スパイ活動のプロじゃないからね。物理で後をつけられたら全然気付けなかったわ」
「やっぱり亜莉夢ってやることハンパないな」
「……塔子にだけは言われたくない」
亜莉夢は私が勝手に去ったことにまだ結構怒っているのか、三白眼で睨む。
「でも……亜莉夢も真相にたどり着いたんだね」
「まあね」と呟いて、亜莉夢は視線を海へ戻す。
「私は──私たちは、スケープゴートだったわけね」
そう……優遇されている遠峰谷一族へ、生徒たちの敵意が集まらないように、その矛先を他に差し向けるための。私は口を開く。
「気持悪いけど、人って、もともと金や権力を持ってる人間に対してよりも、持ってなかった人間がちょっとでも与えられることに嫉妬や敵意を燃やすんだよね」
亜莉夢に起こった事件は、まさにその顕著な事例だっただろう。彼らが「特権を受けるべき者」と「受ける資格のない者」をどこで切り分けているのか、基準は不明瞭だ。あの時は、亜莉夢の母の過去という、亜莉夢自身にはどうしようもないものが、最終的に彼らの怒りに火をつけた。
遠峰谷家の人間がどれだけ不正に利益を得ていようと、それを霞ませるほどに、彼らの「持たざる者が持たざる者であり続けない」ことへの怒りは大きい。そして支配者側の人間は、そういう心理を利用することには、異常に長けているのだ。
そして……私はといえば、遠峰谷家の人間ながらスケープゴートに回されるという、ちょっと特異な立場だったようだ。
「弟が生まれた時父は、特別奨学生になってくれる優秀な子どもを他から探すより、私を使った方が手っ取り早いと気付いたんだろうな。母譲りの映像記憶があるのもバレてたし」
同じ父の子でも、貧しい出自の母から生まれた娘と、さまざまな権力とのつながりがある母を持つ息子。家父長制の男系一族で後継者から外されている私と、次の代表取締役と目されている弟。その差に学園の生徒たちが注目すれば、私に敵意を集中させることは、他の特別奨学生たちと同じく可能だと踏んだのだろう。
「まあ、弟も不憫だけどね……生まれた時から権力とのつながりなんてものにばかり注目されて」
とはいえ、全然好きになれないクソガキだけど。それを言うと、亜莉夢はふふ、とニヒルに鼻で笑った。
雲はだんだんとちぎれて、陽の光が海面や、防波堤のコンクリートに届く。波頭がきらめき、濡れた地面は乾いていく。
「なんでわざわざ友達だったふりをしたの」
亜莉夢の質問に、私はその横顔を見つめる。
「……時間がなかったから。父から与えられた猶予は1ヶ月だけで焦ってた。一から友達になるより、元々友達だったことにする方が早いと思ったんだ」
しかし亜莉夢は、首を振る。
「最初のきっかけさえ作れば、霧香と菜津は、塔子がいなくなった後も私を見放したりしないってわかってるでしょ。どうせいなくなるつもりなら、塔子自身が私と友達になる必要あった?」
まったくそれは、亜莉夢の言う通りだ。過去を丸ごと捏造するなんて、事実と矛盾し疑われるリスクも高くなるのに、なぜわざわざそれを選んだのか。……それはきっと、私自身が、その思い出がほしかったからだ。自分でも心の片隅で気付いていたこと──亜莉夢と、友達になりたかった。
「……タイムスリップして、亜莉夢の過去に入りたかった。本当はもっと前から友達になりたかったのに、それができなかった過去を、塗り替えたかった……」
去らなければならないのがわかっていたのに、自分のエゴで亜莉夢の心に近づこうとした私を、亜莉夢は責めるだろうか。そう思ったけれど、亜莉夢は予想外の言葉を口にした。
「塗り替えようか」
窓に向かっていた体ごとくるりと向き直って、亜莉夢は私を真っ直ぐ見つめる。
「私と東屋で出会った時のこと、もっと詳しく教えてよ」
亜莉夢は何を言っているんだろう? あれはすべて嘘だったと、亜莉夢自身が解き明かしたばかりだというのに。
「塔子の頭の中にはあるでしょ……思い描いてた風景が」
虚構のディテールを、亜莉夢は知りたいというのか。それは不思議な要求だったけれど、嘘をついた私に、拒否権はないような気もした。
「……高等科から商店街に出る時は、森の一本道を通ってくよね。でももう一つ、中等科と高等科をつなぐ細い道が東屋の裏側に伸びてるんだ。私たちはその細い道を通って中等科の方から歩いてくる。行き止まりにあの東屋があって、そこに亜莉夢がいる……」
「私は勉強してるんだっけ」
「そう……最初はノートと参考書を開いてるイメージだったけど、今考えたらノートパソコンを開いてるかもね」
「勉強してるふりで、何か別の悪だくみをしてたかも」
私たちはくすくすと笑う。
「亜莉夢からしたら、森の奥から突然出てきた私たちは、獣みたいに見えたかもね」
「森で塔子みたいなしなやかな獣に出会ったら、きっといい気分だろうな」
歌うように亜莉夢が言う。
「東屋にいる亜莉夢は、たぶん宝箱の中の宝石みたいだったよ」
私も亜莉夢を真っ直ぐ見つめて言う。
「……美しかったって言ってたね。東屋にいる私を。どうしてそう思ったんだろう」
それは、私にとっては、問うまでもないことだ。
「亜莉夢はずっと美しいんだよ。ワンシーンだけを切り取って美しいと思う人や物はたくさんあるけど、亜莉夢は初めて美しいと思った時から、ずっと、いつも美しい」
「塔子」
と呼ばれたと思ったら、亜莉夢の両手が私の首を引き寄せて、私のおでこに、亜莉夢のおでこがくっついた。
「……私、信じるよ。東屋の思い出は本当だって。二人が同じ思い出を共有しているなら、それは真実じゃない?」
「真実……」
一番近い距離で、亜莉夢の視線が私の目の奥を見通す。なぜか言葉がなくても互いにそれがわかった。あまりにも自然に唇が重なった。
永遠にも感じられた時間が途切れるのは、オフボタンの効かなくなった機械の電源を引っこ抜いて無理やり止めるのに似ている。だけど伝えなきゃならないことがある。唇が離れたその一瞬に、私はささやく。
「エニシさんたちに、話を聞いて」
たぶん盗聴くらいはされているだろうから、今伝えられるのはこれだけ。私だって、すべて諦めていたわけじゃない。1ミリの突破口でもこじ開けるつもりでチャンスを窺っていたけれど、ほかでもない亜莉夢が、それを作り出してくれた。
亜莉夢は黙ったまま、自分のピアスを外す。それから私のピアスも外して、自分のものと着け替えた。亜莉夢自身も、私の外したピアスを着ける。見た目はまったく変わらない紫の丸い粒。これが何を意味するのかはわからないけれど、やはり亜莉夢も、ここに来て何も用意していないはずがなかった。だから私も何も言わない。
下階でドアを開ける音がする。リルさんがタイムリミットを告げにきて、私は亜莉夢を残しその場を去る。最後に振り返ると、少しだけ淋しそうな目で亜莉夢が見つめていた。
その夜、ホテルの寝室に入った私の耳に、プツッという小さな破裂音に続いてその声が届いた。
『塔子』
まったく、こんなものどうやって作ったんだろう。
『片方が受信機、片方が振動型イヤホンになってる。そちらの声を拾うものはさすがにこの短期間じゃ作れなかった。盗聴器も長距離では使えないし』
短期間じゃなかったら発明してしまったんだろうか、この人は。
『そっちからコンタクトを取りたい時のために、一応身元が特定できないメッセージアプリのアカウントを作ったけど、それも怪しまれるだろうから何度もは使えないと思って』
亜莉夢が伝えるアカウントのIDを、私はとっさに、ベッドサイドに添えられたビスケットにペンで書き込む。私の方でも、身元のわからないアカウントに証拠を残さずログインするなんて芸当ができたら、問題なく連絡が取れたんだろうけど、まあそんなことできる人間が何人もいるわけじゃないので仕方ない。
『明日の放課後、霧香と菜津と、山頂の展望台に行くことになった。そこにみんな集まる』
考えたな、と思った。ピアス屋はすでにマークされているし、せっかくリルさんがおそらくまだ知らないであろうエニシさんの名前だけを出したのに、カフェに集まったら誰のことかわかってしまう。ロープウェーでしか行けない山頂の展望台は、気付かれずに尾行することが困難な場所だ。
『塔子にも聴こえるようにしておく』
そう言い残して音声は切れた。私はIDをメモしたビスケットを脳のカメラに収め、コーヒーといっしょに美味しくいただいた。
『塔子が私たちの前からいなくなったのはお二人も知っての通りです』
夕方、5時6分。突然その音声は始まった。私は絵を描く気になったと言って、用意されたアトリエに一人でいた。
『それには塔子のお父さんが関わっているんだけど……とにかく塔子は、“エニシさんたちに話を聞いて”と言っていました』
『何の話を聞くかは、塔子ちゃんは言ってなかったのね』
エニシさんの声。
『おそらく盗聴されていたので言えなかったんでしょう。なので、塔子に関しての心当たりの話をすべて教えてほしいんです』
しばしの沈黙。
『私たちが知ってるのは、塔子ちゃんじゃなく、塔子ちゃんのお母さん……姉崎さんのことよ』
さがのママの声。
『私たちは、希望学園の同級生で、親友だった』
私が中等科に上がったくらいの時、さがのママがこっそり見せてくれた写真がある。高校生の頃の、さがのママとエニシさんと、私の母の写真。エニシさんはまだ男子の制服を着させられていて、でも3人とも、なんだかとても可愛かった。
3人は茉莉花野の森で出会ったのだという──東屋ではなく、初等科近くにある森の小さなお社、「茉莉花野神社」で。母は勉強と学園PRの合間のわずかな息抜きにいつもそこに来ていて、偶然はみ出し者の2人と出会った。特別奨学生の母と2人に接点があることは、他の誰にも言わず、秘密にしていた。
『なるほど、“東屋”はそのアレンジね』
にやりと笑う顔が見えるような亜莉夢の声に、私もばつの悪い笑いを浮かべる。あの話に、さがのママから聞いたイメージが影響していたのは否めない。
『卒業してからはなかなか会えなくなったけど、私が店を始めてからは、たまに訪ねてきてくれたりもしてたのよ』
『もう少しつっこんで聞いてもいいですか』
亜莉夢の声。
『お二人は、塔子のお母さんから何か聞いていたんじゃないですか。遠峰谷家にとって──もしくは遠峰谷希於氏にとって不都合な何かを』
再びの沈黙。
『莉奈は……裁判を起こそうとしてた』
『エニシさん……!』
さがのママの止めようとする声がしたけれど、エニシさんが「塔子ちゃんが今こんな状況になってるのに、隠しておけないでしょ」と言うと、それ以上何も言わなかった。母がこういうことを相談していただろう友達は、私の知る限りこの二人しかいないと思ったけれど、当たりのようだ。
『……遠峰谷希於と不倫相手との間に子どもが出来て、離婚を言い渡されたって。莉奈は弁護士だったし、自分はともかく塔子を捨てるのは許さないって、出るとこに出て戦ってやるって言ってたわ』
弟の誕生日から逆算して、母の死よりも再婚相手の妊娠が先になることは気付いていた。父は弟が3歳になってから、再婚していたことや長男が生まれたことを公表した。
『だけどそのすぐ後に、運転中の事故で……煽り運転されて、スリップして、相手は逮捕されたけど……』
エニシさんが何かを言おうとして言い淀む。
『疑ってるんですね。遠峰谷希於氏の関与を』
亜莉夢が問う。私自身も長年疑い続けてきたことだ。まだ母と結婚していたはずの時期にできた、今の妻との子。そして、煽り運転による自動車事故。
『だけど、それ以上は何もわからない。証明できるものは何もないわ』
エニシさんとさがのママは重く黙り込むけれど……亜莉夢たちの腹は、すでに決まっていることだろう。
音声が切れたところで、さて、私も取り掛からなければとキャンバスに向かう。
3週間後は私の16歳の誕生日パーティー。これまで父はプレゼント一つよこしたことがなかったのに、PR役となった途端に仰々しいことだ。けれど、勝負をかけるチャンスはその時かもしれない。
──まずはこの絵を、交渉材料になる程度に仕上げなければ。
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