【完結】誓いの指輪〜彼のことは家族として愛する。と、心に決めたはずでした〜

山乃山子

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29 悪魔の声②

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朝。
澄んだ青空の中で太陽が眩しい光を放つ。
それは、雨上がりの街並みをキラキラと輝かせていた。


「…………」

カーテンの隙間から差し込む朝陽を受けて、康介は目を覚ます。
目の前には、まだ眠っている楓の姿があった。
穏やかな寝顔だった。

(久しぶりに見ることができたような気がする)

悪夢に魘されていない。
薬で強制的に眠らされているわけでもない。
静かに穏やかに眠る楓は、いつになくあどけない顔をしていた。
そっと頬に手を置くと、柔らかくて温かい感触が伝わってきた。

(良かった)

昨夜の出来事を思い出して、今ここにある温もりに安堵する。
その時、楓も目を覚ましたのか、ゆっくりと瞼を開いた。
ぼんやりとした目の焦点が合わさり、康介の姿を映し出す。

「よう、おはよう」
「お、おはよう」

今までとは違う目覚めの光景に、まだ少し戸惑っているようだった。

「…………」
「どうした?」
「何か、不思議な感じ」
「直ぐに慣れるよ」
「そう?」
「ああ」
「…………」

楓は不安そうに瞳を揺らした。
康介の優しさを嬉しく思うと同時に、横井祐子の存在が脳裏によぎるのだ。
そして、耳に響く声。

──お前は邪魔な存在だ──
──お前がいると迷惑なんだ──

(僕が康介さんに心配をかけている限り、あの声の言う通りでもあるんだよなあ)

早く元気にならないと康介に心配と迷惑をかける一方だと思い、辛くなる。

「どうした? また何か聞こえるのか?」

不安そうな顔で急に黙り込んだ楓を、康介が心配そうな目で見つめる。
咄嗟に笑顔を繕って、楓は首を横に振った。

「ううん。違うよ。今のは本当にぼーっとしてただけ」
「そうか。それなら良いけど」

その言葉を確かめるように、康介は何度も楓の頬を手で撫でる。
嬉しいのに辛くなる気持ちを堪えて、楓はその手を止めさせた。

「心配してくれてありがとう。朝ご飯の用意をしてくるね」

ニコリと笑って見せて楓はベッドから降りようとした。
が、伸びてきた康介の腕によってその体を抱え込まれてしまう。

「もう少し、ここにいろ」
「でも、遅くなっちゃうよ」
「良いじゃないか。時間ならたっぷりある」
「今日、病院なのに」
「昼ぐらいだろ? 余裕余裕」
「うーん」
「俺がこうしていたいんだよ」
「…………」

やや強引に抱き寄せられつつも、楓は嫌がらなかった。
むしろ、心の奥では幸せすら感じていた。
それを、意志の力で懸命に抑え込んでいた。

(心地良い……けど、甘えちゃダメ。依存しちゃダメ。迷惑かけちゃダメ。でも……)

躊躇いがちに、康介の服の裾を掴む。

(今だけ。どうかこのひとときだけ、甘えることを許して下さい)

康介に髪を撫でられながら、楓は再び目を閉じた。





午前9時。
食卓に手作りのサンドイッチとスープが並んでいる。
遅い朝食になってしまった為、手早く出来るものにしたのだった。
尚、康介には熱々の卵焼きが付いていた。

「体調、昨日よりはマシっぽい?」
「うん。多分」
「そうか。それは何よりだな」

昨日と違い、まともに食事を取っている楓を見て、康介が目を細める。
それでも、一般的な男子高校生が食べるべき量には遠く及ばないが。
少しずつでも回復傾向にあるのは結構なことだ。

「病院って何時ぐらいだったっけ?」
「昼の1時だよ」
「そうか。じゃあ、診察が終わったらカフェにでも寄らないか?」
「ああ、うん。良さそう」
「だろ? あの病院の近くにチーズケーキがやたら美味い店があるらしくてな。
 平日の昼過ぎならそんなに混んでないだろうし」
「へえ。楽しみ」
「そうだよな。じゃあ、今日の検査も頑張ろうな」
「うん」

少し先に小さな楽しみを置いておくのは良いことだ。
楓が笑顔で頷くと、康介も嬉しくて堪らない気持ちになった。



午後2時
病院での診察を終えて、康介と楓は約束通りにカフェを訪れた。
裏通りに佇む、レトロな雰囲気の落ち着いた店だった。

二人の前にチーズケーキと紅茶が提供される。
表面の琥珀色と内側の白いクリームチーズのコントラストが美しい。
ふわふわとした食感のままに、濃厚なチーズの風味が口の中で甘く溶けた。

「美味しい」
「うん、いけるな。これ」

美味しいケーキを味わい、二人とも自然と笑顔になる。
食べながら、軽い雑談を楽しんだ。

「検査結果、悪くなさそうで良かったな」
「うん」
「栄養失調気味なのは気になるけどな」
「う……」
「最初の頃は内臓の損傷もあったし、本当にどうなるか分からなかったから、
 その頃を思えば全然マシだな」
「うん。歩くことにも大分慣れてきたし」
「じゃあ、今できることは、とにかく栄養を取ることだな。
 どうだ? もう一個ぐらい何か食べておくか?」
「いやいや、もう充分」
「そうか? じゃあ、このアップルパイは次に来た時のお楽しみにしておくか」

楓が追加注文を断ると、康介は残念そうにメニューを閉じた。
一息ついて紅茶を飲む。

「そうそう。この近辺にあるイベントホールで現代アートの展示とかやってるらしいな」
「え? そうなの? 行ってみたいなあ」
「だよな。楓は昔から美術館とか博物館を見て回るのが好きだったもんな」
「偶に凄く好きな作品に出会えるのが楽しくて」
「お前も何か描いてみれば良いのに」
「僕は見るのが好きなだけ。描く方の才能は無いから」
「そうか? そこそこ上手いと思うけどな」
「本当に才能のある人とは違うの」
「うーん。まあ良いか。お前の体が辛くないようなら、行ってみるか?」
「うん、行きたい。康介さんと一緒に行けるのって珍しいし嬉しい」
「よし、じゃあ行こう」

楓の笑顔に押されて店を出る。
外に出ると、ほんのり薄暗った。
見上げると、空が鉛色の分厚い雲に覆われていた。
今にも雨が降ってきそうだと思った。

「えーと、イベントホールの方向は……」

辺りをキョロキョロと見回していると、不意に電話の呼び出し音が鳴った。
「ちょっとごめん」と言って康介は携帯端末の通話に出る。
事務的な会話が続く。どうやら仕事の連絡のようだ。
話をしながら康介の顔がどんどん曇ってゆく。
通話を切ると、大きなため息をついた。

「すまん、楓。急遽、仕事が入っちまった」
「あ、そうなの」
「全体会議でな。捜査関係者は絶対に全員参加なんだと」
「そっか。じゃあ、仕方ないね」
「ごめんな。せっかく楽しみにしてくれてたのに」
「良いよ。お仕事頑張ってね」

何でも無さそうに笑う楓を見て、康介は胸を痛める。
今までに何回、こんなやり取りをしてきただろう。

「展示会、また今度一緒に行こう。今日はタクシーで先に帰っておいてくれ」
「分かった」
「ごめんな、本当に」
「良いよ。気にしないで」

「また今度」と言って、そのまま無かったことになってしまったことは、過去に何度もある。
楓はそのことで怒ったり拗ねたりしたことは一度も無い。
いつも、「良いよ。気にしないで」と言って笑うのだ。

(こんな時まで……)

尚の事、康介は罪悪感に苛まれた。

表通りにに出てタクシーを掴まえる。
康介は楓にタクシー代を渡して直帰するように指示した。
今の段階で楓が一人で出歩くのはまだ危なっかしいのだ。
康介が傍に付いてやれない以上は、自宅で安静に過ごしてもらうのが最適だった。

「じゃあ、気を付けて帰るんだぞ」
「うん。大丈夫だから」

楓が微笑んで頷くと、康介は楓の肩をポンと叩き、そして背を向けた。
急いで警察署に向かわなければならなかったのだろう。
そうしてタクシーに乗り込む直前、楓は何となくもう一度康介の方を振り向いた。
本当に何となく振り向いただけだった。

「あ……」

楓の目に映ったのは、少し離れた所にいる康介の後ろ姿。
そして、彼を迎えに来たらしい横井祐子の姿だった。
笑顔で挨拶を交わしたかと思うと、祐子は康介の腕を取り自分の腕と絡めた。
その仕草はまるで恋人のようだった。

「えっ……?」

ポカンと口を開けて二人の様子を見ていた楓に、突如緊張が走る。
祐子と目が合ったのだ。
まさかと思ったが、祐子は間違いなく楓を見ていた。
そして康介に腕を絡めたまま、楓に向かって意味ありげに微笑んで見せた。

「…………」

祐子の意図が、その微笑みの意味が分からず、楓は呆然とする。
楓と祐子のことに、康介は全く気付いていないようだった。
彼は楓にずっと背を向けたまま、祐子が用意した車に乗り込む。
続いて祐子も乗り込んで、二人を乗せた車は警察署へ向かって走っていった。

待たされていたタクシーの運転手が軽くクラクションを鳴らす。
その音で我に返った楓は、慌ててその車に乗り込んだ。
流れる景色をぼんやりと眺めながら、楓はひとり自宅マンションに帰っていった。
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