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(9)迷い犬の飼い主、現れる②
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「ありがとうございます」
駅前にある広場のベンチに座って、藤本は缶コーヒーを受け取った。
迷い犬だったコムギを保護したことで飼い主の立永がどうしてもお礼がしたいと言うので、缶コーヒーを奢ってもらうことにしたのだ。
蓋を開けると、うっすら漂う香ばしい匂いが緩い夜風に溶けていった。
「本当にこれだけで良いんですか?」
「はい」
コーヒーに口を付ける藤本の隣に立永も腰を下ろす。
彼の手には、コムギを繋いでいるリードがしっかりと握られていた。
「藤本さん、でしたか。本当にありがとうございました」
「はい。もう充分ですから」
何度もお礼を言われ、さすがに藤本も困り顔で苦笑する。
「えーと……コムギくん、脱走でもしたんですか?」
「いやあ、日課の夜の散歩に出ようとした時に私がちょっとぼーっとしてまして。
それで、リードを付けないままコムギを外に出してしまったんです。
気が付いた時にはもうその辺には見当たらなくて」
「2時間ほど探してたんですよね」
「はい。あちこち走り回って探してました。
見当はずれなところにも行ってたんだと思います。
でも、ここの交番に辿り着けて良かった」
「そうですね」
頷いて藤本はちびちびとコーヒーを飲む。
そんな彼を見ながら、ふと立永が話しかけた。
「藤本さん、失礼ですが年齢は?」
「24です」
「そうですか。24歳……」
立永が遠くの方を見ながら呟く。
何かに思いを馳せているようだった。
「どうかしましたか?」
「私の息子もね、生きていたらそんな年齢だったなあと思いまして」
立永の言葉に藤本が眉を顰める。
「実は私、7年前に息子を亡くしたんです。事件に巻き込まれてしまって」
「あ、その件は……」
「神里先生から聞きましたか?」
「はい。すみません」
立永留一の息子・大悟が殺害された事件のことは既に神里から聞いている。
それ以上に、立永に心の傷を抉らせるような真似をさせたくなくて、藤本は彼の話を遮った。
「そうか、貴方はあの先生の助手だから知っていて当然ですね」
「なんというか、その……すみません」
「いえ、いいんです」
「……」
少し苦味を帯びたコーヒーを飲みながら藤本は話題を探す。
俄かに漂い始めた気まずい空気を緩和してくれる話題を。
「あの」
「はい?」
「先生のことですが」
少し間を置いて、藤本が口を開く。
「先生は喜んでました。立永さんと再会できたことを、とても喜んでましたよ」
「はは……先生にお会いするのは4年ぶりですかね。
色々とお世話になったのに、挨拶のひとつも無く私は姿を消してしまった。
不誠実なことをしてしまったのに、そんな私との再会を喜んでくれるなんて
先生は優しいお方だ」
「僕には何かと理不尽ですけどね」
「え?」
「いえ、何でもないです」
思わず口を突いて出た言葉を誤魔化しつつ、藤本は話を戻した。
「先生は立永さんのことをずっと心配していたんだと思います。
だから、再会できて嬉しかったんですよ」
「そうですか。心配を」
「はい」
頷いて藤本はコーヒーを飲む。
立永は少し目を伏せて、右手で左の手首の辺りをさすった。
少しばかり間を置いてから、立永はポツポツと話し始める。
「4年前……息子に続いて妻も亡くした時、
私にはもう生きる気力が残ってなかったんです」
「……」
「店を畳み自宅も処分して、誰にも何も言わずに千葉の町から消えました。
どこか人目のつかない場所に行って、ひっそりと首を吊るつもりでした」
ひたすら遠いところを見て話す立永の顔に、あからさまな悲愴感は見て取れない。
だが、それゆえに感情として言葉では表現できない深い絶望を感じた。
「その日の夜、どこかの雑木林に入ったんです。
それで、用意していたロープを木に掛けた時のことでした」
立永は遠くの方を見るのを止める。
そして、足元でお座りをしていたコムギに手を伸ばした。
「この子がね、現れたんですよ」
「コムギくんが?」
「ええ。暗がりから現れて、私の足元に縋り付いてきたんです」
言いながら、立永は切なげに眉を顰めてコムギの頭を撫でる。
「やせ細って、黒く汚れてて、あちこちに傷がありました。
首輪もしていなかったので野良犬かと思ったんですが、
やたら人慣れしていて『クーン、クーン』って鳴きながら
私の足に頭を擦り寄せてきたんですよ。飼い主に甘えるみたいにしてね。
その時、思ったんです。きっとこの子も人間の理不尽に振り回されて、
こんな事になっているんだ、とね」
「……」
かける言葉が見つからず、藤本は黙って立永の話に耳を傾ける。
彼は更に続けた。
「哀れに思いました。
それと同時に、この子を助けなければならないって思ったんです。
私がこの子を幸せにしてあげなければならいって」
そう言って立永はもう一度コムギの頭を優しく撫でた。
「この子が私にもう一度生きる気力を与えてくれたんですよ」
力強くそう言って、立永は微笑んだ。
コムギへの愛情だけを湛えた優しい笑みだった。
「それから私はコムギと共に東京に移りました。
色々ありましたが、3年前に個人経営の配送業を始めて……今に至るんです」
話し終えた立永は、少し疲れたように大きく息を吐き出す。
それから、照れ臭そうに笑って頭を下げた。
「すみません、面白くもない話を長々と」
「いえ……」
立永に対して何と言葉を返そうかと藤本は考えあぐねる。
そうしている内に、立永が先に立ち上がった。
「ああ、すみません。お礼をするだけのつもりが
すっかり時間をとらせてしまいました」
そう言って腕時計を見るような仕草をする。
が、あいにく彼の左手首には何も巻かれていなかった。
本人もすぐに気付いて、広場の中央に立つ大きな時計を見遣る。
「もう11時過ぎでしたか。本当にすみません、こんな遅くまで」
残っていたコーヒーを飲み干して、藤本もベンチから立ち上がる。
「いいえ。立永さんこそ大丈夫ですか? お疲れならタクシーを呼びますが」
「大丈夫ですよ。家は練馬の方ですが、
ここからなら30分か40分ほど歩けば着きますから。
ちょっと遅めの夜の散歩だと思うことにします」
「そうですか。では、お気を付けて」
「藤本さんも」
今一度お互いに頭を下げ合い、立永はコムギと共に去っていった。
その背中を見送り、藤本もまた自身のアパートへ向かって歩き出した。
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