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彼が朝ごはんを買いに近くのコンビニに行って帰ってきた時、蒼はベッドに寝そべりながら何かを読んでいた。もしかしたらもういないかも知れないと思っていたので、少し驚いたような、嬉しいような気持ちになった。
「どれが良い?」
そう言って彼は甘い菓子パンやサンドイッチや、おにぎりやスープやジュースを机に並べた。蒼はサンドイッチとジュースを手に取ると
「ベッドに寝そべって食べて良い?」
と聞いた。
「あ、う、うん。良いと思います。」
彼がそう答えると嬉しそうにベッドに飛び乗り、本を読みながら器用にサンドイッチの包みを開けて、齧った。
彼は黙って椅子に座っておにぎりを食べながらそんな蒼を眺めていたが、しばらくして徐におにぎりを持ってベッドに行き同じように寝そべりながらそれを齧った。
「ベッドでご飯を食べるのは初めてです。何だか楽しい。」
そう言って淡く笑った。
「何を読んでいるのですか?」
「地図帳。」
「ちずちょう……」
蒼は自然な仕草で彼の寝ているベッドに入ってきて、彼の隣に並んで寝そべって地図帳を見せてくれた。
「ほら。地図帳。どこに行く?海。」
「あ、地図ですか。ああ。どこが良いですか?」
「うーん、島が良いな。船なら良いんでしょ?」
「えーと、調べてみます。」
2人でベッドに寝そべって、朝食を食べながら地図を見た。蒼の地図帳と彼のスマホの情報から2人で何やかやと相談して、瀬戸内海に浮かぶ直島に行く事に決めた。海岸線にポツンとある、巨大なカボチャに2人とも惹かれたのだ。
ランドセルでは目立つからどこかコインロッカーにランドセルを預けた方が良いと言い出したのは蒼で、彼は最初ランドセルは大切だから持ち歩いた方が良いと言ったが、また取りに来るからと蒼が説得して、ホテルをチェックアウトした後2人はコインロッカーにランドセルを入れ、デパートで蒼の着替えを買った。はたから見たら2人は、歳の離れた兄弟か親戚のように見え、誰も彼らに注意を払う者はいなかった。2人はそれぞれの理由で帽子を深く被り、手を繋いで目立たないよう移動した。
駅の観光案内所で、直島までの行き方を教えてもらった。長距離バスで高松まで行き、それから連絡船に乗って行く。観光案内所の係の年配の男性は親切で、長距離バスの切符の買い方から連絡船の時間、直島のホテル、高松の美味しいうどん屋さんまで教えてくれた。回るお寿司が食べたいと蒼が言い、回転寿司でランチをした。2人とも初めての回転寿司だった。蒼は食べきれないくらい取り、彼は取るタイミングが合わず全然取れない。2人は顔を見合わせて笑い合い、寿司を分け合った。それから長距離バスに乗り、高松に向かった。バスの中で2人は手を繋いで眠った。肩にもたれる蒼の重みと体温が心地良かった。夕方遅くに高松に着き、港に近いホテルに泊まった。窓からは海が見え、2人で海だねと言い合ってはしゃいだ。夜は途中の店で買ったサンドイッチをまた2人並んでベッドに寝そべって食べ、並んで手を繋いで寝た。まだ日が昇らないうちに目が覚めた彼が窓辺のソファに座ってぼんやりと海を眺めていたら、蒼も起きてきた。
「海だね。」
静かな声で蒼が言い
「そうです。海です。」
と彼は答えた。
朝一番の高速船に、朝食も食べずに2人は乗り込み、デッキで、初めて乗る船にドキドキして火照った頬を風が優しく撫でた。蒼がまた海だねと言い、はい、と彼は答えた。
船が島に近づくと、蒼がいち早く気付いて
「カボチャだ!」
と叫んだ。
至る所にアートが点在するその島で、2人は散歩したり海で泳いだりして過ごした。蒼はデパートで彼が買った海水パンツを履いて躊躇うことなく海に飛び込んでいったが、彼は足をつけるだけで水には入らなかった。
「絶対に遠くに行ってはダメです。僕は泳げませんから。助けられませんからね。」
彼が神経質に繰り返すのを、蒼はクスクス笑いながら聞き、その態度に
「ちゃんとですよ!本当に泳げないんですからね。」
と彼はひどく心配した。
彼は毎日テレビと新聞でニュースをチェックしたが、大阪で行方不明になっている小学生がいるというニュースは出なかった。
島で借りたキッチン付きの部屋で、2人は4日過ごした。夜はその日海で拾った綺麗な石や貝殻を並べて眺め、部屋のテレビで映画を観て、2人並んで眠った。3日目の朝、蒼が美術館に行こうと言った。その島には有名な美術館があると、昨日夜ご飯のために入った島の食堂のおばさんが言っていたのだ。
「あんたら行ってないの!?何しに来たの?」
「海で遊びに。」
「海!?なーん、みんなあそこの美術館のために来るんでしょ?」
そう言われたのだ。
朝一番に行くと、昼の13時の予約が空いていると言われ、海を眺めて待った。13時に、美しい庭を通って美術館のエントランスに入り、黒い大きな石の球体や、天井に空いた窓から光が徐々に変わっていく様を、2人で観た。2人とも手をしっかり繋いで、一言も話さなかった。
最後に入った部屋で、彼は目の前に睡蓮の絵が広がっているのを目にし、恐怖で叫び出しそうになった。鞭で打たれた時のように全身が激しく痛み、その場に座り込んだ。涙が溢れて全身が震えた。
だめだ、気を失ってしまう…
そう思った時、ギュッと蒼が手を握った。
「大丈夫だよ。お兄ちゃん、大丈夫。」
蒼は、手を握り、震える彼を抱きしめた。
「僕を見て。ここにいるよ。お兄ちゃん。」
大丈夫、大丈夫、と言いながら背中をさすってくれる蒼の小さな手に、冷えていた身体が温かくなり、少しずつ震えが止まった。
「ほら、きれいな絵だよ。すごくきれい。」
「うん。」
彼は目を上げてしっかりと絵を観た。よく見ると、あの時の絵とは違っていたが、同じ作者なのだと彼にも分かった。美しい絵だった。
あの時も、僕はこの人の絵に見惚れていたんだ。溢れる色彩や光が、なんて美しいのだろうと、僕は目が離せなかった。ただもうずっと、観ていたかった。それだけだった。
「きれいだね。」
「うん。」
座り込んで涙を流す2人を、周囲は少し驚いて遠巻きにしたが、誰も何も言わなかった。そういう空気が、その美術館にはあった。
部屋に帰ると、彼はぐったりとベッドに横たわり、蒼は手を繋いで隣に寝転んだ。
蒼が静かに言った。
「お兄ちゃん、僕の本当のお兄ちゃんでしょ。」
「いつから気付いていたのですか?」
「最初から。お兄ちゃん、小学校に来る前、家の前にいたでしょう?」
「え?それも気付いていたのですか?お父さんとお母さんも?」
「いや、僕だけ。最初は週刊誌の人がまた来たのかと思ったけど、どうも違うなと思って。小学校の前で、声をかけてくれるのを待ってたのに、全然声をかけてくれないから…」
「あ…ごめん…なさ…」
「お兄ちゃん、嬉しかったよ、来てくれて。」
「知ってたの、僕の事…」
「言うことを聞かないと、僕もあんたのお兄ちゃんのように売られるって、ママはいつも言ってたから。だから…」
「そっか。」
彼はしばらくじっと寝ていたが、フッと笑って、それからベッドから離れて立ち上がった。
「ごめんなさい、嘘ついて。とても楽しかったです。あお君と会えて良かった。
ここは安全だから、ここにいて下さい。僕は警察に行きます。そうしたらじきに警察がここに来るでしょう。お家に帰してもらえます。もしくは、あの人たちが迎えに来てくれる。
さようなら。僕のことは忘れて下さい。
一目、会いたかった。それだけですから。」
「待って!置いていかないで!」
「ごめんなさい。」
「連れて行って。お兄ちゃんが行くところ、僕も連れて行って。」
「連れて行けない。ごめんなさい。」
蒼は、お兄ちゃん!と泣きながら彼に抱きついた。
「お兄ちゃん、僕を置いていかないで。お願い。お兄ちゃん。」
「だめなんだ。僕ね、僕の身体は汚くて、何もかもが汚れていて、一緒にいたらあお君まで汚してしまいそうで、だから、ごめんね。だめなんだ。もう一緒にはいられない。」
「汚くなんかない!お兄ちゃん、とってもきれいだよ。公園で僕のこと見てた時、僕のお兄ちゃんはすごくきれいだって思った。きれいで、優しくて、僕、お兄ちゃんの事、大好きになったから、どこにも行かないでよ。」
「ありがとう。でも、僕は…」
その時の蒼の顔を、彼は生涯忘れない。
蒼は、ひどく苦しそうに顔を歪めた。息ができないみたいに、まるで、溺れるみたいに、口をパクパクさせた。涙がダラダラと溢れて、それから、絞り出すように、言った。
「お兄ちゃんが汚かったら、ぼ、僕も…僕だって……」
「どういうこと?」
「僕……と、父さんに…」
「まさか!!そんな…」
彼は弟を強く抱きしめた。なんという事だろう。彼はその時初めて、地獄はひとつではなく、静かな穏やかな暮らしの中にも、地獄が潜んでいるのだと知った。この世界の限りない残酷さを知った。
「ああ、あお…あお…ごめんね。ごめん。」
2人は抱き合って声を出して泣いた。
「あお。お兄ちゃんが、絶対にあおを守るから。大丈夫です。あおは僕の大切な弟です。絶対に、もう二度と、誰にもあおを傷つけさせないから。だから……」
「一緒に、ここにずっといよう。」
「あお、よく聞いて下さい。お兄ちゃんとあおはしばらくの間離れ離れになります。でも、お兄ちゃんは必ずあおを迎えに行く。ここにいたら、そのうち見つかります。あいつらは、いつだって探しているから、獲物を。
あお、お兄ちゃんと約束して下さい。お兄ちゃんが迎えに行くまで、元気で過ごす事。誰かにまた同じ事をされそうになったら、警察に言う事。どうしても助けて欲しい時には、夏目先生っていうお医者の先生に電話して。これ、ここに、電話番号が書いてあるから。この人は信用できる人です。警察に何か聞かれたら、僕の事は知らないって言って下さい。包丁で脅されて、誘拐されたって。分かった。」
「お兄ちゃん、嫌だよ。ひとりにしないでよ。」
「あお、ひとりじゃないです。お兄ちゃんは、いつでもあおの事を思ってるから。すぐだよ。すぐに会えます。」
彼はもう一度蒼を強く抱きしめて、それからリュックを背負って部屋を出て行った。
「お兄ちゃん…」
ドアを閉める時、弟の泣き声が聞こえて、胸が苦しくなったが、彼は振り返らず歩き続けた。
「どれが良い?」
そう言って彼は甘い菓子パンやサンドイッチや、おにぎりやスープやジュースを机に並べた。蒼はサンドイッチとジュースを手に取ると
「ベッドに寝そべって食べて良い?」
と聞いた。
「あ、う、うん。良いと思います。」
彼がそう答えると嬉しそうにベッドに飛び乗り、本を読みながら器用にサンドイッチの包みを開けて、齧った。
彼は黙って椅子に座っておにぎりを食べながらそんな蒼を眺めていたが、しばらくして徐におにぎりを持ってベッドに行き同じように寝そべりながらそれを齧った。
「ベッドでご飯を食べるのは初めてです。何だか楽しい。」
そう言って淡く笑った。
「何を読んでいるのですか?」
「地図帳。」
「ちずちょう……」
蒼は自然な仕草で彼の寝ているベッドに入ってきて、彼の隣に並んで寝そべって地図帳を見せてくれた。
「ほら。地図帳。どこに行く?海。」
「あ、地図ですか。ああ。どこが良いですか?」
「うーん、島が良いな。船なら良いんでしょ?」
「えーと、調べてみます。」
2人でベッドに寝そべって、朝食を食べながら地図を見た。蒼の地図帳と彼のスマホの情報から2人で何やかやと相談して、瀬戸内海に浮かぶ直島に行く事に決めた。海岸線にポツンとある、巨大なカボチャに2人とも惹かれたのだ。
ランドセルでは目立つからどこかコインロッカーにランドセルを預けた方が良いと言い出したのは蒼で、彼は最初ランドセルは大切だから持ち歩いた方が良いと言ったが、また取りに来るからと蒼が説得して、ホテルをチェックアウトした後2人はコインロッカーにランドセルを入れ、デパートで蒼の着替えを買った。はたから見たら2人は、歳の離れた兄弟か親戚のように見え、誰も彼らに注意を払う者はいなかった。2人はそれぞれの理由で帽子を深く被り、手を繋いで目立たないよう移動した。
駅の観光案内所で、直島までの行き方を教えてもらった。長距離バスで高松まで行き、それから連絡船に乗って行く。観光案内所の係の年配の男性は親切で、長距離バスの切符の買い方から連絡船の時間、直島のホテル、高松の美味しいうどん屋さんまで教えてくれた。回るお寿司が食べたいと蒼が言い、回転寿司でランチをした。2人とも初めての回転寿司だった。蒼は食べきれないくらい取り、彼は取るタイミングが合わず全然取れない。2人は顔を見合わせて笑い合い、寿司を分け合った。それから長距離バスに乗り、高松に向かった。バスの中で2人は手を繋いで眠った。肩にもたれる蒼の重みと体温が心地良かった。夕方遅くに高松に着き、港に近いホテルに泊まった。窓からは海が見え、2人で海だねと言い合ってはしゃいだ。夜は途中の店で買ったサンドイッチをまた2人並んでベッドに寝そべって食べ、並んで手を繋いで寝た。まだ日が昇らないうちに目が覚めた彼が窓辺のソファに座ってぼんやりと海を眺めていたら、蒼も起きてきた。
「海だね。」
静かな声で蒼が言い
「そうです。海です。」
と彼は答えた。
朝一番の高速船に、朝食も食べずに2人は乗り込み、デッキで、初めて乗る船にドキドキして火照った頬を風が優しく撫でた。蒼がまた海だねと言い、はい、と彼は答えた。
船が島に近づくと、蒼がいち早く気付いて
「カボチャだ!」
と叫んだ。
至る所にアートが点在するその島で、2人は散歩したり海で泳いだりして過ごした。蒼はデパートで彼が買った海水パンツを履いて躊躇うことなく海に飛び込んでいったが、彼は足をつけるだけで水には入らなかった。
「絶対に遠くに行ってはダメです。僕は泳げませんから。助けられませんからね。」
彼が神経質に繰り返すのを、蒼はクスクス笑いながら聞き、その態度に
「ちゃんとですよ!本当に泳げないんですからね。」
と彼はひどく心配した。
彼は毎日テレビと新聞でニュースをチェックしたが、大阪で行方不明になっている小学生がいるというニュースは出なかった。
島で借りたキッチン付きの部屋で、2人は4日過ごした。夜はその日海で拾った綺麗な石や貝殻を並べて眺め、部屋のテレビで映画を観て、2人並んで眠った。3日目の朝、蒼が美術館に行こうと言った。その島には有名な美術館があると、昨日夜ご飯のために入った島の食堂のおばさんが言っていたのだ。
「あんたら行ってないの!?何しに来たの?」
「海で遊びに。」
「海!?なーん、みんなあそこの美術館のために来るんでしょ?」
そう言われたのだ。
朝一番に行くと、昼の13時の予約が空いていると言われ、海を眺めて待った。13時に、美しい庭を通って美術館のエントランスに入り、黒い大きな石の球体や、天井に空いた窓から光が徐々に変わっていく様を、2人で観た。2人とも手をしっかり繋いで、一言も話さなかった。
最後に入った部屋で、彼は目の前に睡蓮の絵が広がっているのを目にし、恐怖で叫び出しそうになった。鞭で打たれた時のように全身が激しく痛み、その場に座り込んだ。涙が溢れて全身が震えた。
だめだ、気を失ってしまう…
そう思った時、ギュッと蒼が手を握った。
「大丈夫だよ。お兄ちゃん、大丈夫。」
蒼は、手を握り、震える彼を抱きしめた。
「僕を見て。ここにいるよ。お兄ちゃん。」
大丈夫、大丈夫、と言いながら背中をさすってくれる蒼の小さな手に、冷えていた身体が温かくなり、少しずつ震えが止まった。
「ほら、きれいな絵だよ。すごくきれい。」
「うん。」
彼は目を上げてしっかりと絵を観た。よく見ると、あの時の絵とは違っていたが、同じ作者なのだと彼にも分かった。美しい絵だった。
あの時も、僕はこの人の絵に見惚れていたんだ。溢れる色彩や光が、なんて美しいのだろうと、僕は目が離せなかった。ただもうずっと、観ていたかった。それだけだった。
「きれいだね。」
「うん。」
座り込んで涙を流す2人を、周囲は少し驚いて遠巻きにしたが、誰も何も言わなかった。そういう空気が、その美術館にはあった。
部屋に帰ると、彼はぐったりとベッドに横たわり、蒼は手を繋いで隣に寝転んだ。
蒼が静かに言った。
「お兄ちゃん、僕の本当のお兄ちゃんでしょ。」
「いつから気付いていたのですか?」
「最初から。お兄ちゃん、小学校に来る前、家の前にいたでしょう?」
「え?それも気付いていたのですか?お父さんとお母さんも?」
「いや、僕だけ。最初は週刊誌の人がまた来たのかと思ったけど、どうも違うなと思って。小学校の前で、声をかけてくれるのを待ってたのに、全然声をかけてくれないから…」
「あ…ごめん…なさ…」
「お兄ちゃん、嬉しかったよ、来てくれて。」
「知ってたの、僕の事…」
「言うことを聞かないと、僕もあんたのお兄ちゃんのように売られるって、ママはいつも言ってたから。だから…」
「そっか。」
彼はしばらくじっと寝ていたが、フッと笑って、それからベッドから離れて立ち上がった。
「ごめんなさい、嘘ついて。とても楽しかったです。あお君と会えて良かった。
ここは安全だから、ここにいて下さい。僕は警察に行きます。そうしたらじきに警察がここに来るでしょう。お家に帰してもらえます。もしくは、あの人たちが迎えに来てくれる。
さようなら。僕のことは忘れて下さい。
一目、会いたかった。それだけですから。」
「待って!置いていかないで!」
「ごめんなさい。」
「連れて行って。お兄ちゃんが行くところ、僕も連れて行って。」
「連れて行けない。ごめんなさい。」
蒼は、お兄ちゃん!と泣きながら彼に抱きついた。
「お兄ちゃん、僕を置いていかないで。お願い。お兄ちゃん。」
「だめなんだ。僕ね、僕の身体は汚くて、何もかもが汚れていて、一緒にいたらあお君まで汚してしまいそうで、だから、ごめんね。だめなんだ。もう一緒にはいられない。」
「汚くなんかない!お兄ちゃん、とってもきれいだよ。公園で僕のこと見てた時、僕のお兄ちゃんはすごくきれいだって思った。きれいで、優しくて、僕、お兄ちゃんの事、大好きになったから、どこにも行かないでよ。」
「ありがとう。でも、僕は…」
その時の蒼の顔を、彼は生涯忘れない。
蒼は、ひどく苦しそうに顔を歪めた。息ができないみたいに、まるで、溺れるみたいに、口をパクパクさせた。涙がダラダラと溢れて、それから、絞り出すように、言った。
「お兄ちゃんが汚かったら、ぼ、僕も…僕だって……」
「どういうこと?」
「僕……と、父さんに…」
「まさか!!そんな…」
彼は弟を強く抱きしめた。なんという事だろう。彼はその時初めて、地獄はひとつではなく、静かな穏やかな暮らしの中にも、地獄が潜んでいるのだと知った。この世界の限りない残酷さを知った。
「ああ、あお…あお…ごめんね。ごめん。」
2人は抱き合って声を出して泣いた。
「あお。お兄ちゃんが、絶対にあおを守るから。大丈夫です。あおは僕の大切な弟です。絶対に、もう二度と、誰にもあおを傷つけさせないから。だから……」
「一緒に、ここにずっといよう。」
「あお、よく聞いて下さい。お兄ちゃんとあおはしばらくの間離れ離れになります。でも、お兄ちゃんは必ずあおを迎えに行く。ここにいたら、そのうち見つかります。あいつらは、いつだって探しているから、獲物を。
あお、お兄ちゃんと約束して下さい。お兄ちゃんが迎えに行くまで、元気で過ごす事。誰かにまた同じ事をされそうになったら、警察に言う事。どうしても助けて欲しい時には、夏目先生っていうお医者の先生に電話して。これ、ここに、電話番号が書いてあるから。この人は信用できる人です。警察に何か聞かれたら、僕の事は知らないって言って下さい。包丁で脅されて、誘拐されたって。分かった。」
「お兄ちゃん、嫌だよ。ひとりにしないでよ。」
「あお、ひとりじゃないです。お兄ちゃんは、いつでもあおの事を思ってるから。すぐだよ。すぐに会えます。」
彼はもう一度蒼を強く抱きしめて、それからリュックを背負って部屋を出て行った。
「お兄ちゃん…」
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