黎明学園の吟遊詩人

ぱとす

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混乱と破綻、破滅のレジェンド──「七月のムスターファ」

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東京の郊外の広大な敷地は緑に溢れていた。森と清らかな水をたたえた池が美しく、木陰にはベンチや洒落たテラスがある。まるで軽井沢か清里高原のような風情なのだが、これがビルの中庭なのだからその途方もない規模に呆れ返る。

多田製薬はバイエルやファイザーと並ぶ世界最大の製薬会社であり、化学工業の会社でもある。また、毎日のように生み出される技術を管理する専門の会社まで内包し、かなり大きな規模のアウトレットモールや会社が所有する住宅街まであるのだから、会社と言うよりは「国家」と言っても差し支えないほどだ。

研究機関は恐ろしくチェックが厳しく、インターネットも専門のゲートがあるくらい徹底している。大きく門戸を開いているような部分もあるが、陽射しが強いだけ影も濃くなるように、黒い部分も存在する。外側からも、内側からも、それが見えることはない。まさに社会に於いて、その影は存在しないし、侵されることもない。そう、人間であれば。

例えば、「第二種開発部門」というセクションへのアクセスは二重三重どころか十重二十重のセキュリティに守られている。それは物理的・電子的・電気的なだけではない。実はこの企業の風変わりな権力者のために、霊的にも守られている。
ゆえに、近代的あるいは未来的と言って良い企業にも拘わらず、奇妙な場所に塩が盛られていたり、折り紙が置いてあったり、必要もないのに水が張られた盆が設置されている。
しかし、そんな万全を期していても、守れない物はある。
「第二種開発部門」は中庭を囲む楕円形のビルの北側に面した二階に位置するが、一階はボイラーや消耗品の倉庫、液体酸素や液体窒素、純水などのタンクを繋いだめまぐるしい配管が設置されており、会社にとって一種の「死角」となっている。消耗品も多いので、業者の出入りにも特に気にする問題ではない。第一液体酸素など盗みようがないし、盗む方法も非常なリスクを伴う上、盗んだとしても買い手がないし保存して置くにもコストがかかる。

しかし、いかなる「死角」とはいえ、社内に侵入するには数々のハードルがある。だが、磁気カードなどは簡単に偽造できるし、指紋認証もビットマップである限り突破できる。瞳孔確認もビットマップである。要するにほとんどのハードルは電子的に処理する限り二次元的にクラック可能なのだ。例を挙げれば、多田製薬に指紋認証システムがあったとしても、同一の本人が銀行の指紋認証システムを使用していたら銀行のサーバをクラックしてしまえば良いのだ。解像度に違いはあっても、現代のフラクタル解析はその問題を解決出来る。

そんなものは専門的な一部の特殊な技術と思われがちだが、実際には最高の研究機関出身の技術者が全く事なる分野でその技術を商業的に転用しているのが現実で、電波の解析技術者が存在するほとんどの電波が反射による干渉を受けていると知ったことによって、音響に転用したのはよく知られている。フラクタル解析もグラフィックスの分野では当たり前に販売されている。その上、それとほとんど同じ物、場合によっては製品より優れた物を作ってしまうことさえあり、それらはインターネット越しに無料で配布されているのだ。

では、最高のセキュリティとはなんだろうか。実はそれはとてもシンプルな解決方法で、「人間」なのだ。会って、挨拶をする、天気や仕事や就業時間の話をする。実物を三次元で、しかもビットマップではない──人間の皮膚は半透明なのだ──かたちで確認をする。このハードルを越えることはほとんど不可能だ。
 しかし、もし人間をクラックできるとなるとどうなるだろう? 本人が「そうであるに違いない」と確信してしまうとしたら────




そんなわけで、眼赤視と杉野は液体窒素のタンクの脇のパイプの上にいた。

「リタイア組っていうのかしらね」
「いや、あの男はかつての戦士だ。誇りある日本のな」
真っ赤な赤毛のショートカットを惜しげもなく晒した眼赤視はダメージド・ジーンズに顔を埋めて足を抱えていた。とにかく液体酸素のタンクのそばは寒い。

「おかげで「第二種開発部門」の場所も特定できたし。責任者も解ったわ」
眼赤視は頭上の天井を見上げた。そこには灰色のコンクリートと剥き出しの配管がミミズの巣のようにくねっていたが、勿論眼赤視にはそれ以外の全てが視える。その多くは白衣のような無菌対応した服に身を包んだ男女だ。

「そのクソ野郎をたっぷりと愉しませてやろう」
Tシャツのように見えるのは、実は身体中に巻いた包帯だった。しかし杉野はそんなことでベッドで休養を摂るような男ではない。

「傀儡は絶好調よ。生まれて初めて人に求められてそれに応えたのだから」
眼赤視はくすくすと笑う。
「傀儡の「指」は今はどのくらいあるんだ?」
さあ? と眼赤視は肩をすくませる。

「とにかく勘定できるような数ではない事は確かね」
「お前はどうなんだ、同士眼赤視」
「強姦のショックからは立ち直っているわよ。女は強いって事」
杉野が笑う。それは今までの酷薄な笑みとは違う、どこか無邪気な笑顔だった。

「実際、視え過ぎちゃって、その気になれば雲の上まで見渡せそうよ」
眼赤視は楽しそうに心から笑う。深紅の瞳もどこか愛らしい。
「でも、今日はさらに万全を期したいからコンタクトは外すね」
「ああ、俺もむずむずしてしょうがねえ」
眼赤視は今日は黒い瞳をしていた。俯くと瞳に指を当ててつまみ出すようにカラーコンタクトレンズを外した。その下から深紅の瞳が現れる。杉野も同じようにコンタクトレンズを外す。二人とも手にした目薬をさして瞳を瞬かせる。

「……指紋の方はいいだろう」
「しかし、どういうツテなの? 指紋や瞳孔を盗み出すなんて」
「前に頼んだことがあったろう。腕利きのクラッカーに頼んだんだ」
「ほとんど万能ね。ひょっとして「影」へもクラック出来るんじゃない?」
「じゃなきゃあ、こんな事は出来やしないさ」
「名前はなんて言うの?」
「クラッカーは視えないからこそクラッカーなんだ。少なくともハンドルネームは「電気技師」と呼ばれている。俺とタメのようだがな、解っているのはそれだけだ。銀行の振込先も聞いたこともない「茜紡績」とかいうダミー会社だよ」
杉野も寒くなってきたのか、包帯の上にいつものチェ・ゲバラのプリントされたTシャツを着た。これが彼の戦闘服だ。何枚も持っているらしい。少なくとも眼赤視はその一枚が台無しになったのを知っている。

「では、始めるか、同士眼赤視」
「マルチタスク・オート・ドライブ、リンクします」
眼赤視の意識には今までに経験が無いほど明確に金色の産毛を持つ白い腕が視える。その手を掴んだ。冷たい掌の体温までが伝わって来るようだ。

「キ…キキキ…キキキキキキ」
それは人間の声とはかけ離れた奇妙な声音だった。

同時刻、多田製薬の第二種開発部門の奥にある無表示の無菌室、「特例遺伝子解析チーム」のモニターを観察していた男が立ち上がった。マウスの動きが明らかに規定の指数関数を逸脱する複雑な数値を示し始めたからだ。
男は三重になったクリーンルームを抜けて、30メートル四方にも及ぶ巨大で精細な施設を見渡す。それはマウスが一匹通のがやっとの複雑な迷路だった。その迷路のあちこちから迷路を這い出そうとして藻掻く多数のマウスの白い頭部と前足が見える。

「なんなんだ、これは?」
男は社内LANに繋がる携帯端末のスイッチを入れて待つ。やがてFacea to Faceアプリが繋がり、金髪碧眼の若い男が画面に現れた。

「どうしました谷田君。何か異常及び劇的変化がありましたか」
「とにかく見て下さい」とFace to Faceの画面の裏面カメラをオンにする。

少しの沈黙の後、金髪碧眼の男からの声が返って来た。

「すぐ急行いたします。現状を維持の方向で善処して下さるよう強制します」
Face to Faceが沈黙した。

「どう「維持」しろと言うんですかねー」
やがて無菌室の浄化ミストの放射音が聞こえ、年の頃20半ばの長髪の金髪と深い碧眼を持ち、金に光る十字架を胸に下げた男が現れた。無表情で無愛想な、他人との協調性を欠いたような不思議な印象に慣れることはない。

「いつ始まったんですかこの事象は。速やかに報告義務の遂行を命令します」
谷田と呼ばれた男は携帯端末を確認する。

「三分と40秒ですね」
「あり得ないことが現実になっているようです。積極的かつ能動的に観察を続けましょう」
「正直、パニックですよー」
「とにかく、管制ルームに戻って頂きます。Face to Faceは起動したままの方が適正にして確実です。全帯域における誘導音源とマウスに接続したチューブの薬液注入バルブをカットする事を優先事項として実行して下さい」

「ウィ、チーフ」

谷田は再びクリーンルームをくぐる。
薫・スチュアートは眉を曇らせる。美麗な顔に本性である研究者としての渋面が浮かんだ。

「もう12段階を超えております。遺伝子操作でツリー形状で作り上げた100,000匹のマウスから100匹にまで絞り込む際に問題はありません。極めて僅かなミューティーションを除けばほぼ完璧なので完璧は条件で完全な必然なのです」
外見とは異なるどこか壊れた日本語は、元々「薫・スチュアート」は地球という『影』出身の人間ではない事による。
ごく幼少の頃に母親に連れられてこの『影』に逃げ込み、母は環境の異なる世界でごくありふれた病に倒れて死んだ。その後の薫の人生は駆け足だった。アメリカで飛び級を繰り返し、14歳でスタンフォード、16歳でMITに行き、18歳でグラスゴーで獣医の博士号をとり、ドイツのニュルンベルグのバイエル社に研究員として勤めた。22歳で多田製薬にヘッドハンティングされてからは長い。入社して部門長職に就くまで半年もかからなかった。
何事も冷静沈着に予定通りこなす反面、律儀すぎる性格がそのストレスを増幅させている。特に最近は三浦家における予定範囲外の時間の浪費によってそれが加速している事には気付いていない。
Face to Faceの振動が薫の胸を叩く。薫は無造作に手に取った。

「チーフ。えらいことです。知能指数関数曲線が予測不能の事態に突入しました」
「モニター・ルームにスタッフを全員招集。解析と対応協議に邁進する。可及的速やかな行動を期待する事を了承する結果を示して下さい」
薫も谷田に続いてクリーンルームを抜けてモニター・ルームに急行した。ただ、あくまで走るようなことはしない。薫はあらゆる下品なことが苦手であった。
モニター・ルームには「特例遺伝子解析チーム」のメンバーが既に席に着いていた。モニター・ルームは左の壁一面に16のディスプレイが並び、これがグループごとの知能指数関数曲線をリアルタイムで表示している。正面にはメイン・フレームがあり、莫大な計算を同時進行でこなしていた。右壁には体温や心拍数・呼吸数・消費酸素などの身体的データを表示するディスプレイがやはり16並んでいた。
薫は席に着くなり発言する。

「現在、正確には6分35秒前にHundredsに異変が発生発覚確認された。その解析対処体制について逐次可能性を考慮しての意見を求めこれを実行する。谷田君、説明を」
痩せた飄々とした男、谷田がアウトプットデータを手に眼鏡を直した。

「えーと、顕著なのは知能指数関数曲線のランダムな上下振動ですね。ま、秀才が天才になったり白痴になったり時間の推移と共に変化すると。こりゃ「アルジャーノン現象」と仮称します。他に例がありませんからね。それに同期するように身体的変化も顕著と。研究全体に関わる重大な問題と考えるほかありませんねー」

「ふん、「アルジャーノン現象」とは上手い思いつきだな」
「しかし、「アルジャーノンに花束を」は外科手術がトリガーになった失敗だろう?外的干渉はないぞ?」
「遺伝子操作は外科手術よりもっと重大な外的干渉だろうが」
「今回の遺伝子操作は、100,000匹に遺伝子操作に相当する薬剤投与による穏やかなものだ。効果のあったマウスを交配させての繰り返しによる絞り込みによるもので、「アルジャーノン」とは違うだろう」
「僕もそう思ったから「現象」と名付けたんですねー。知能が上下する現象自体がないのですよー。老人性痴呆とかアルツハイマーはありますけど、それは経年劣化であって成長過程には存在しないんですねー、あるのは先天性なもので、だんだんおりこうさんになってゆくのが理由もなくですねーお馬鹿になるのはないのですよー。生活的ストレスとか環境的ストレスとか外的要因が必須ですからねー」
「ひょっとして、隔離のストレスが今になって暴発した?」
「俺は自然の中に実験場を作って餌の獲得難度を徐々に上げて行く方法を提案したんだが」
「その方法では進化になってしまうので千年はかかるのですねーメインフレームの計算結果は出ているのですよ」
「やはり隔離性によるものかな」
「世代交代を何度も繰り返している。起きるなら初代で発生する」
「いや、知能が発達したからストレスが発生したんじゃないか?」

ずっと沈黙していた薫が初めて発言した。

「もし仮に知能発達によるストレスの発生だとしたなら優良遺伝子の生産研究実践自体が完璧に否定される。クライアントが望んでいるのはあの迷路のような完全に変化しない環境を構造を維持することが必須条件だからだ。知能向上に付随する確実な弊害なら研究自体が破綻する。すなわち、この実験は失敗した挫折断念遮断隠蔽で終了する」
モニター・ルームは完全に沈黙した。ディスプレイの知能指数関数曲線の波はもはや短波のレベルにまで上下していた。いくつかのモニタに示された特定の知能指数関数曲線の数が減り、身体情報のディスプレイには「Dead」の文字列が並び始めた。

「一応、全部死ぬまでかき回すわ。この際、心臓を直に止めてもいいんじゃない?」
「……そうだな、徐々に心停止を混入させろ。成功している完全体もあるはずだ。その場合は心肺同時停止か脳の血管をぶった切れ」

各種モニターが異常音を発する。緊急アラート。
絶望的な数値にスタッフ全員が凍りつく。

「………………生体ゼロ」
それは研究の全ての終焉を告げる祈りの言葉だった。



「……………これで「七月のムスターファ」は解散するのカナ?」
眼赤視はくつくつと笑う。

「馬鹿を言え」

杉野が底冷えするような不敵な笑みを浮かべる。

「ダニや蠅や蚊ってやつはそう簡単に滅亡しないんだよ」
「それもそっか」



理由もなく眼赤視は心から嬉しそうに笑った。


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