抜けるような青空

笠原久

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第六章

決着3

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 旅そのものはとても順調だった。

 ほかの空挺手と――ほとんどは一期一会で二度と会うことはなかった――積極的に情報交換をして、地上で生きるための知恵を得ていった。

 その甲斐あって、初めて登山して浮遊島へ戻ったときは、これといった問題に遭遇することもなく、拍子抜けするほどあっさりと行けた。

 馬鹿みたいに準備に準備を重ねてきたのが、馬鹿馬鹿しく思えてしまうほどだった。

 もちろん、だからといって次から手を抜くような愚を彼女は犯さなかった。

 二度目に下山するときも、登山するときも、彼女は常に全力で事に当たった。だからこそ、彼女は最初の下山時のようなひどい目に遭ったことはない。

 彼女は神童、天才と讃えられていた能力を存分に発揮して、空挺手として生きていた。

 最初に浮遊島へ戻るとき、ひょっとしたらシャルリエ島へ行ってしまうのではないかと危惧し、彼女は一年以上も地上をうろうろしていた。

 しかし、浮遊島はとんでもなく数が多い。

 同じ島へ行く確率など、何十年も空挺手をやっている者でさえ稀だと彼女は聞いていた。それでも決心がつかなかったが、いつまでも戻らないわけにもいかない。

 空挺手は浮遊島と地上を行き来するものだ。

 彼女は意を決して浮遊島へおもむき、そして今に至るまでシャルリエ島へ行ったことはなかった。

 ベテラン空挺手が言っていたとおり、狙った島へ行くのはまず不可能なのだ。浮遊島の航路は誰にも予測できない。

 ゆえにいつ、どこの降下大山を登れば目当ての島へ行けるかなど誰にもわからないのだ。

「どうしても行きたい島があるなら、魔女に頼るしかないぞ」

 と、空挺手たちはシュゼットにむかって言ったものだった。

 しかし、彼女は別にシャルリエ島へ戻りたいわけではない。確かに父や母、弟や妹がどうなったのかは気になる。

 自分がいなくなって心配しているのか、それとも気にしていないのか……だが、彼女は逃げ出した身だ。

 今さらのこのこ舞い戻る資格などないし、なにより地上で何年過ごしても決断することはできなかった。

 父母を告発する勇気も、見て見ぬふりをすることも、どちらを選ぶことも、シュゼットにはできない。

 彼女は自分の問題に背を向けたまま、ずっと生きてきた。リックを見かけたときもそうだった。

 久々に浮遊島へ戻ってきて、そこの空挺宿にたまたま訪れた男の子。

 彼女は最初、リックは何かから逃げているのだと思っていた――かつての自分と同じように。

 いや、逃げているという点では同じかもしれない。魔女の夜会から、リックとロゼールは逃げまわっているのだから。

 しかし、リックが空挺宿へ来たのは逃げるためではなかった。

 地上へ降りるために、大切なロゼールを助けるために来たのだ。ただただ故郷から逃げてきただけの自分とは、決定的に違っていた。
 
 決定的? いや、そうではない。

 リックと自分の最大の違いはそこではない。

 旅の途上、リックはいつもシュゼットを手助けしてきた。そもそも浮遊島にいた頃からそうだった。特に移動についてはリックに任せっきりだった。

 シュゼットはリックに抱き上げられて進む。

 浮遊島を逃げまわっているときも、下山のときも、地上を走るときも、いつもそうだ。違ったのはパラグライダーで飛んだときくらいか。

 リックの体は小さい。まだ十一歳なのだから当然だが、見た目は完全にフェーレースの子供だ。腕だって細いし、足だって細い。体全体もほっそりとしていて華奢だ。

 背も――歳相応ではあるのだろうが、平均的な背丈のシュゼットよりも、さらに小柄だ。

 あんな体で、どうしてあれほどの怪力を出せるのかと不思議に思えてしまうほどだが、種族差というのは絶対的なものだ。

 見た目に反して、リックの力はすさまじい。自分よりも大きなシュゼットを軽々と持ち上げる。しかも少しも危なげがない。

 シュゼットは今までに一度も――それこそどんなに激しい動きをしているときでも、自分が振り落とされるかも……などと不安に思ったことはなかった。

 それほど安定していたのだ。

 まるで自分の体がリックにくっついてしまったかのような錯覚をすることさえあった。決して離れず、まさしく一体になっているかのような不可思議な感覚。

 ゆえに本来なら、シュゼットはリックの体にぎゅっと抱きつく必要などないのだった。そんなことをしなくとも振り落とされることなどないだろうし、リックも決して離したりはしないだろう。

 リックは本当に頼りがいのある男だった。

 本人は謙遜していたが、きっとシュゼットが手助けしなくても、きちんと自分の力で地上まで到達して――そして、ここまで来ていたに違いない。

 かつての、十三歳のシュゼットとは違うのだ。

 十三の自分は、こんなに頼りがいのある存在ではなかった。もし逆の立場だったら、自分はリックの足を引っ張って、困らせて、たくさん迷惑をかけていただろう。

 いたたまれなくなって、泣いてしまったかもしれない。

 リックは弱音を吐かない。あきらめることもない。足を引っ張るどころか、先ほどのような窮地に、とんでもない早さで的確な判断を下し、行動できる男だ。

 シュゼットに迷惑をかけるなどとんでもない。逆にシュゼットのほうが守られていた。

 いつかのぬくもりを思い出しながら、シュゼットはリックの体にしがみついていた。

 地下を疾走するリックは、ものすごい速度で進み、行きと違って激しく上下に跳びまわっていた。

 本来なら振り落とされる恐怖にでも駆られているところだろうが、シュゼットはこのうえなく、世界で一番安全な場所にいるかのように安らかな気持ちでいた。

 そして――待っていた。光が来るのを。

 しっかりと目を閉じ、リックが地上へ到達するのを待つ。無理だとは思わない。逃げられないかも、という考えすらシュゼットの頭には浮かばなかった。

 リックが「ちゃんと外まで連れていく」と宣言した以上、シュゼットはふたたび太陽の下に帰る。それは変わることのない決定事項だった。

 やがて、まぶた越しに光が入ってきた。

 シュゼットは魔術を発動させ、即座に光に目が慣れるように細工をする。

 シュゼットがまぶたを開けた途端、枝葉が視界に入り、一瞬の浮遊感ののち、鮮やかな青色を見た――雲間から見える、抜けるような青空を。

 彼女は一瞬、自分が子供に戻ったように感じられた。

 あたたかな日の光と、すずやかな風の感触を思い出していた。あの日見たのと同じ、青い青い空を見上げながら。

 リックは空中に飛び上がっていた。

 勢い余ってか、それとも計算ずくだったのかはわからない。

 驚異的な跳躍力で樹上まで上がり、ふたりは空中で一瞬静止したあと、ゆっくりと落下していった。

 落ちる速度が加速し始める頃、リックは太い枝に着地し、蹴るように樹上を走った。

 少しずつ低い枝に飛び移って高度を下げていく。

 そうして砦の端っこにある屋根に降り立ち、一気に逃げ切ろうとした――が、目の前に突如として変異種の大群が現れて足を止めた。

 変異種たちは突然湧いて出たように見えた。リックの進行方向に敵はおらず、また空から降ってきたわけでも、砦のなかから飛び出してきたわけでもない。

 出てきた変異種は熊と同じくらいの大きさだ。そんなやつらが空中を飛びまわるなり、砦のなかを駆けまわるなりしていたら、リックでなくても気づいたはずだ。

 まさかあの呪言種が瞬間移動を……? とシュゼットは一瞬考えたが、すぐに否定した。呪言種は賢い個体が多い。

 だが、自分の能力を秘匿して、敵に一泡吹かせるほどの知恵はないはずだ。

 なにより呪言種の能力から考えても理窟に合わない。自分以外の個体も自由自在に移動させられるのなら、地下の時点で使っているだろう。

 となると――シュゼットがそこまで思考を進めたところで、空中から羽音が聞こえた。

 上を見やると、いつの間にか空を覆い尽くすほどの変異種が出現していた。どれもそれほど大きな個体ではなかったが、数が圧倒的に多かった。

 彼らは威嚇するようにときおり、砦の屋根にいるシュゼットたちにむかって咆哮を上げていた。

 リックは立ち止まり、まわりを見まわしていた。完全に包囲されている。前後左右、上空はもちろんのこと、砦のなかにも多数の変異種がいるようだ。

 シュゼットは、解除していた探知結界をふたたび発動させ、敵の位置と数を探ろうとした。

 しかし無駄だった。多すぎた。

 一〇〇や二〇〇という数ではなかった。いったいどこにいたのか、と叫びたくなるほどの数だった。

 素早く周囲に目を走らせていたリックが、動き出す気配を見せた瞬間だった。

 音が聞こえた、揺れも。

 リックは一瞬、戸惑いを浮かべたが、すぐさま背後へ跳んだ。

 いきなり屋根を突き破って、樹木が生えてきたからだ。砦の樹木はさらに巨大になっていき、リックは慌ててその木に飛び移った。

 四方八方から同じように木が生えてきて、さらに生長していったからだ。

 ある程度まで大きくなったところで、木々の生長はいきなり止まった。止まるどころか、今度は小さくなった。

 慌ててリックは飛び降りるが、今度は砦のうえへ着地することはできなかった。木々が壁や床や天井をすべて突き破っていたため、砦そのものが破壊されてしまったのだ。

 リックは崩れた瓦礫のうえに着地した。

 何事かと思っているあいだに、今度は森の様子が一変した。

 大きかった木がさらに巨大化し、まさしく天をつくような巨樹になった。幹も太く大きくなり、枝同士がぶつかり合って折れ曲がり、そうして巨大な木の壁が出来上がっていた。

 巨樹の壁は山のようにそびえ立っていた。そうして崩れた砦を囲んでいる。

 辺りを見まわせば、変異種が群れをなして、シュゼットたちをにらみつけている。砦がないため、もはや隠れられる場所はない。

 辺り一面、瓦礫だらけだ。

 ふたりは少しばかり高いところにいるため、敵から丸見えだった――もともと土に埋まっていた砦の一階部分に、崩れた瓦礫が重なったことで、より高くなってしまったのだ。

 シュゼットとリックは、ちょうど小高い丘のうえにいるかのように、大量の変異種たちにじろりじろりとにらみつけられていた。

 そして、かたむいて小さくなっていた砦中央の大樹が、噴出するように吹っ飛んでいく。地下へ続く穴から、這い出すようにして、あの呪言種が現れた。

 呪術によって自らの身体を巨大化させ、シュゼットたちが地下に逃げられないように威圧してくる。とんでもない巨体になっていた。

「どうやら、ものの大きさを変えるのは離れていても可能みたいね」

 ここが巨人の森と呼ばれるようになったのも、あの呪術のおかげというわけだ。

 もともと普通の大きさだったものを呪術によって巨大化させていたのだろう。森だけではない、変異種たちもそうだ。

 おそらく普段は縮小させて、探知結界が及ばない高空にでも待機させておいたに違いない。

 あるいは変異種たちはすべて地下の神殿付近か、その奥を住処にしていたのかもしれない。ロゼールがやられたのも地下の神殿だ。

 敵を排除しようとしての行動なら、神殿に入るまで襲ってこなかったことにも納得がいく。

 前回、ロゼールたちに逃げられた経験から、呪言種も警戒していたのだろう。

 地下で仕留められなかったときのことを考え、別働隊として変異種たちを砦の外に先回りさせておいたのかもしれない。

「どちらにせよ、これじゃ逃げられないわね」

 まわりは敵だらけだ。それだけならばまだしも、砦周辺の木々が巨大化したせいで閉じ込められている。隙間のない巨大な壁だ。

「僕がシュゼットを抱きかかえたまま、なんとか木の壁を――」

 シュゼットはリックの唇に人差し指を当てた。

「わたしがどうにかするわ。その代わり、あとの判断はリックに託すから」

 シュゼットのまわりを、いくつもの赤光石が浮遊する。

 素早く反応した変異種たちが突っ込んでくるが、シュゼットの強大な魔力によって弾かれてしまう。

 大気を歪ませ、地鳴りが起きるほどのすさまじい力だった。

 間近にいたリックの猫耳や尻尾の毛が大きく逆立つ。リックは仰天した顔でシュゼットを見つめた。

「残りの赤光石は三十六個。これらを全部使って……三十七倍に増幅した魔術で、わたしがまとめてふっ飛ばすわ」

 変異種も、巨樹の壁も、何もかもをだ。

「そ、そんなことして大丈夫なの?」

「大丈夫じゃないわね」

 シュゼットは苦笑した。

「さすがのわたしでも、増幅は十二、三倍が限界だからね」

 普通は三、四倍……熟練者でも八倍から九倍ぐらいが関の山と言われている。

「わたしは間違いなく気絶するか、意識があっても動けなくなるわ。死にはしないと思うけど、確実に行動不能になる。雑魚はまとめて吹き飛ばすけど、呪言種を倒せるかどうかはわからない。倒せれば御の字ね。けど倒しきれなかったときは……」

「逃げる?」

「逃げるでも仕留めるでも、どっちでもいいわ。あなたの判断に従う……いえ、違うわね。どっちにせよ、増幅後のわたしに選択権なんてないんだから」

 シュゼットはちょっと困った顔でほほえんで、

「状況によっては、見捨ててもいいわ」

「そんなことしないよ!」

 リックは怒った顔で言った。

「ありがと。でも、本当にどうするかは任せるから。あとはよろしく!」

 シュゼットは笑って、高め続けた圧倒的な魔力を放出した。中心部は――シュゼットとリックがいる空間だけは、何事もなかった。だが、その周囲は真っ白な閃光に満たされた。

 まぶしさで何も見えない。

 音も聞こえず、これといった振動も、衝撃も、リックとシュゼットのいるところまではやって来なかった。奇妙な穏やかささえ感じさせるほど、周囲は静寂に包まれていた。

 まるで何事も起こらなかったかのように。

 そのせいでリックが、あれ、ひょっとして失敗? と不安になってしまうほど、真っ白い光以外は何も感じられなかった。だが、シュゼットの魔術に失敗の二文字は存在しない。
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