〈円環〉を歩む者達

笠原久

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第4話

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 大男の視線の先を見ると子供が立って居た。明りに照らされた地面の真ん中に無表情で突っ立って居た。照明で出来た影が目線と一緒に此方に向って伸びて居る。黒い帽子に黒い服を着た、恐らく少年。

 恐らく、と云うのは情報が全く取得出来ないからだった。婀娜やかな女と全く同じだった――いや同じでは無い。

 婀娜やかな女の場合、直接触らずとも何処に居るかは分った。然しあの少年は違う。其処に立って居るのかすら分らない。

 いや、自分の能力を信頼するならあの場所には誰も立って居ない筈なのだ。あそこは無人であり、そして何も無い空間の筈なのだ。然し少年は慥かに立って居た。これは幻覚かとも考えたが違う。大男も婀娜やかな女も少年を見て居たからだ。

「実はな、あんたが姐さんと話し始めてから直ぐに現れたんだ。いやいや現れたってのは正しくねぇか。いつからか知らねぇがよ、不図見たら『そいつ』が立ってたんだ。直ぐに報せようとも思ったんだが、どうも視線を外すのはやばい気がしてな……で? 『あいつ』は何なんだ? 先刻からずっと俺達を見てやがるんだ。その癖、見て居る丈で特にこれと云って何も言って来ねぇし遣って来ねぇ……。只『あいつ』が無茶苦茶やばい奴ってのは言われなくても分るぜ? 気配ってか雰囲気ってか、明白地な迄に尋常じゃねぇ」

「一往訊くんだけど、あの子の身体的特徴とか服装とか言って呉れるか?」

「あん……? 普通の餓鬼だろ? 髪短いから多分男だろうな。それに上下共に黒い服なんて着てやがる。帽子まで黒ってのは流石にどうかと思うがな」

「ああ、其れはあたしも同意だね……。此の状況であの恰好は流石に気味が悪いねぇ」

「と云う事は幻覚じゃない訣だ……まさか三人一緒に同じ幻覚見てるなんて事は流石に考えられない物な。間違い無くあそこには黒服の子供が立って居る訣だ」

「……一往訊くんだが、其れはどう云う意味だ?」

「はは、そのまんまの意味だよ。僕の能力に依るとあの場には誰も立って居ない。分るか? あそこは無人なんだよ。誰も居ない筈なんだ。子供なんて立って居る訣が無い」

「でも実際に立ってるぜ? んでじっとこっちを見てるんだぜ、先刻から」

「嘘を吐いて居る……訣じゃない様ね」

「どうした? 先刻から随分と顔色が悪い様だが」

「言っただろ? 生憎とあたしは普通の人間でねぇ……ああ云う如何にもやばそうなのと遭遇すれば冷汗ぐらい出るさ。其れにくどい様だけど、あたしの勘は万能じゃないのさ。あたしに分るのは飽くまで『何か』と接触するだろうって事だけでね、まさかあんな異様なのが遣って来るとは思わなかったのさ。で、どうする? 言っとくけど、あたしに何とかして呉れとか言われてもどうにも出来ないよ。固よりあんなのの相手なんてあたしは真っ平だかんね。そんな訣だから、あんた達で何とかして頂戴」

「そりゃ無いぜ姐さん。俺だってあんなやばそうなのの相手は――っておい!」

 年若い男はゆっくりと少年に近附いて行った。少年の居る位置まで大凡十一米。

 少年は相変らず此方を見詰めた儘で全く動かない。静止し続けて居る。もう十米。

「近附いてどうする気だよ。大体兄ちゃんは荒事にゃ不向きだろ?」

「凝として居ても仕方が無いだろう。直接触れれば何らかの情報が収集出来るかも知れない。試して見る価値は有る。其れに……未だ敵か味方かは分らない」

 更に近附いて行く。残り約八米。少年は動かない。変らず其の儘の姿勢で此方を凝視して居た。

 年若い男は一歩一歩地面を踏締めながら少年に向って行く。背後から「絶対に敵だぞ、あれ。いや仮に敵じゃ無かったとしても味方って事は有り得ねぇ。逃げたほうが絶対に好いぞ。な? そうする事にしよう」と言う大男の言葉が有った。

 立ち止らなかった。年若い男は一直線に少年に接近して行く。後五米。依然少年は瞬き一つしない。視線を逸らさず微動だにせず石の如く固まって居る。

 四米迄来た。少年の顔は相変らず見えない。帽子の鍔が陰を作り素顔を明かさない。光の当り加減がもう少し丈変れば見える様に為りそうだった。然し少年が全く動かない為に其れは望めなかった。

 三米。年若い男はどれだけ近附いても少年を感知する事が出来ない事に気附いた。此の少年に実体は無いのかも知れない。不図そんな思いに駆られた。触れる事が出来なければ、今して居る此の行為は全くの無意味と云う事に為る。

 だが触れる事さえ出来れば――其処まで考えて、男は気附いた。若しも触れて猶、情報を取得出来なかったら?

 二米。いやそんな事は有り得ない。男は幽かに頭を振った。どんな人間だろうと直接に触れさえすれば何か攫める筈だ。だが相手が人間で無かったとしたら?

 一米。少年は目の前に居た。年若い男は一度立ち止ってから、もう一度歩き出した。足を一歩前へ踏み出す。少年の表情は窺えない。年若い男が目前に来ても、少年は変らなかった。

 もう一歩、踏み出した。其れで男は完全に立ち止る。手を伸せば届く距離に少年は居た。動かない。手を、伸ばす。少しずつ少しずつ伸びて行く。少年に届きそうに為った瞬間、「何度目?」と言う言葉が聞えた。手が止った。

 年若い男は最初、其れが少年の声だと気附くのに少し時間が掛った。話し掛けて来るとは思わなかった。だからどう返辞をしたら好いのかも分らなかった。

 黙って居ると、「君達はここに来るのは何度目なんだい?」と少年は又言った。判切とした口調だった。

 年若い男は答えず「君は……何だ?」と返した。少年が顔を挙げた。陰翳が消えて、初めて表情が窺えた。少し許り意外そうな顔をして居た。

「ふぅん、成程ね。何度目とかそう言う事を言われても分らない訣か。こんな所まで来る程なんだから、てっきりもっと廻って居るのかと思ったよ。でもまぁ始めた許りじゃ仕方が無い。精々頑張って呉れ給えよ。優秀な仲間が揃って居る様だからそう簡単には終らないだろうし」

 其れだけ言って少年は歩み始めた。否、一歩踏み出したと同時に消えて居た。直ぐに周囲の情報を収集しようとして、止めた。年若い男は己れの行為の不毛さを理解した。

 あれだけ近附いて居て猶、あの少年に就いては全く分らなかった。今更調べようとした所で手遅れだった。

 年若い男は振り返って大男と婀娜やかな女に両手を挙げて首を振って見せた。二人は小走りに年若い男の所まで遣って来た。

「で? 結局あいつは何だったんだ? 冷やかしか?」

「何度目とか何とか言って居たねぇ……ありゃ一体どう云う意味だい?」

「僕に訊かれても答えようが無い。取敢えず好く分らない存在だった」

「いや、そいつぁ言われんでも分るぜ? ってかな、もうさっさと別の所に行こうぜ。此の際、何処でも好いっつーか、もっと明るくて賑やかで人が一杯居る様な所に」

「何処でも好いと云う割には註文が多いな……正直同感では有るが」

 年若い男は婀娜やかな女を見た。女は目を閉じて頭を振った。

「直ぐに別の所に移りたいのは山々なんだけどねぇ……此の辺には無いのさ、残念ながらね。其れにあたしの勘に依ると、もう一つ許り波瀾が起る様だよ。気を抜かずに居る事だね。此の辺りに水場は無いみたいだから、あたしを戦力として計上すると痛い目を見るよ。気を附けな」

「其れ、自分で言うか?」と年若い男は呆れて言った。

「……これ以上どんな波瀾が起きると云うんだ。正直もう一度対峙しろと言われたら僕は遠慮願いたい。そんな訣だから次は君が行って呉れ」

 そう言って大男を見ると、ぎょっとした表情を浮べて辯解し始めた。

「いやいやいや、まぁまぁまぁ落ち着けって。あれだよ、あれ。こう云う時はだな、冷静に為るのが一番大切なんだ。つまりだな、どう云う事か? 先刻の少年を見て見ろよ。いや思い出して見ろ。決して俺達にゃあ手を出して来なかっただろう? そうさ。あいつは別に敵って訣じゃ無かったのさ。だが俺達ぁ敵か味方か分らなかったから警戒した。当然だよな。其れでも対峙したあんたの勇気は素晴しいの一言だ。そして、もう一度同じ様な事が起ったら人はどう行動すべきか? 今回の少年は敵じゃ無かった。だが次も又同じとは限らねぇ。ならば矢張り俺ぁ経験者が行くのが最良だと思うんだ。そうだろう?」

「其れじゃ、次は此の大男が敵と対峙するって事で好い訣だね?」

「ああ、矢張りああ云う好く分らない存在は先手必勝で斃すのが一番だと思うんだ」

「いやあの……待って呉れ、俺の提案は完全無視なのか? っつか荒くれもん相手にするんなら別に好いんだが、流石に先刻みたいなのは鳥渡俺の管轄外と云うか、出来れば関り合いに為りたくないと云うか……」

「随分と嫌われて了った様だね。悲しい限りだよ」

 突然少年の声が響いた。直ぐに周囲に目を向けたが発見出来なかった。

「僕の姿を探そうとしても無意味だよ。姿は今そっちには無いから。ああ心配しなくても其の内君達も出来る様に為るよ。終らなければだけどね。いや仲間が居ると云うのは好いね。僕も一人で遣るんじゃなくて誰かと組めば好かったと心底後悔して居るよ。出来る事なら君達の仲間に入れて欲しい所だけど僕と君達では違い過ぎるからね、残念だよ本当に。さて、一往僕はここの先輩だから忠告して置くけれど、其処は中々難しいよ。気を附けないと終って了うからね。僕は既に通過して了って居るからどうって事は無いけれど、君達は初めて来たんだろう? だったら気を附けたほうが好い。其処は本来もっと慣れた人間が来るべき場所だ。尤も、君達三人は其処を突破出来る丈の力を有するがゆえに其処に来たのだろうから、要らぬ世話だったのかも知れないけれどね」

 声は唐突に跡切れ無音が戻って来た。暫くは誰も喋らなかった。少年の声は又聞えて来る様な気がした。

 然し何時まで経っても無言の儘だった。静かな場所だと年若い男は思った。静か過ぎるのも問題だと、男は初めて実感した。

 人の声がせず、動物が草を踏み締める音も虫の声も風の音さえも茲には存在しなかった。無音の状態だった。其れはつまり今茲で動いて居る存在が無いと、然う云う事を意味して居た。

 年若い男は強いて音を出す様に心掛けた。彼方此方を歩き廻って靴音を響かせた。大男と婀娜やかな女も附いて来て工場の中を無目的にぶらついた。

「先刻の、何う思う?」と婀娜やかな女は言った。

「『既に通過して了った』とか言ってたねぇ……其れってつまり、一度通った所は自由に出入り出来るって事なのかねぇ? 何うも胡散臭いと云うか怪しいと云うか」

「僕は其れより突破出来る云々の件りの方が気に為ったが。若しかして何らかの課題でも用意されて居るんじゃ有るまいな」

「課題って之も何かの試験って事かぁ? 今更んな事を遣るのか?」

「有り得ない話じゃないだろう? 可能性としては有り得る。現にあの少年も誰かと組んで置けば好かったと言って居る。と云う事は何らかの試験で有る可能性も……」

「そりゃ無いさ」と婀娜やかな女が口を挟んだ。

「あたしの勘が然う言って居るし、其れにあの少年は『優秀だから終らない』とか言って居たんだよ。仮に何かの試験だとしたら、優秀なら早く終るもんじゃないのかい? 優秀で有れば有る程終らないなんて普通は無いだろう? 之が試験とか然う言う生っちょろい物じゃない事の証拠だよ、あの少年は」

 ほんの少し考える素振りを見せてから年若い男は言った。

「ならば、之は何だと思う?」

「さてね? 本当の所はあたしにも分らないさ。まぁ普通に考えれば〈円環〉からの脱出って事に為るだろうねぇ……。孰れにしてもあの少年の忠告は有難く受取って置いたほうが好い。あたしの勘と似た様な事を言って居るしね。兎に角、今は一刻も早く脱出出来る地点を見附けたほうが好い。然も無いと死ぬ事に為る」

「あ、姐さん……行き成り人をびびらせる様な事、言わんで下さいよ」

「多分、冗談じゃないと思うぞ」と年若い男は言った。

「あの少年の言ってた『終って了う』っての、まさかとは思って居たが、矢っ張り死ぬ事を指して居るのか」

「ふふっ、僅かな希望を打ち砕いちゃったかい? あんたも薄々感附いては居たんだろう?」

「さぁね。僕としては、単なる試験である可能性も有ると思った丈だ――で? 何処に行けば好いんだ? 出る為には先ず何処に向えば好い? あの少年の科白から考えると、何うも然う簡単には出られない様だが」

「基本的には、街灯を道なりに進むしか無いよ。尤も――其れ丈じゃ出られないだろうけどねぇ」

「お前等さ」と大男が口を挟んだ。

「鳥渡可笑しいぞ? もう少し慌てるとか動揺するとか普通有ると思うんだが……」

「そんな事をした所で意味は無い。生延びたければ平静で居るしか無い。君も死にたくなければ慌てない事だ。特に戦闘では其れが命取りに為る――と云う事は君が一番知って居る筈だ」

 大男は少し怯んだ様な表情を見せた後、「分ってるよ」と言った。それから三人は工場を出て街灯の下に向う。道路は潰滅状態に為って居た。

 アスファルトで出来た道は既に原形を留めて居らず、砕けて単なる石の塊と為って彼方此方に散乱して居る。下の土が剥き出しに為り雑草が生い茂って居た。其処から街灯が真っ直ぐに点々と続いて居る。

 光は弱く、然程遠く迄は照らす事が出来なかった。工場内の照明と異なり、精々足許を照らす程度が関の山で、後の光は周囲の闇に飲込まれて行った。

 自然の光たる月光が無いが故に、人工物の光では目が暗闇に慣れても周囲の様子は窺い知る事が出来なかった。年若い男が婀娜やかな女を見ると、女は躊躇なく進み始めた。男二人は其れに附いて行った。

 街灯と街灯の距離は凡そ一〇米程度で、時折不意に二〇米程離れて居る事が有る。野原を越えると先には森が拡がって居る。森の中も街灯が立ち並んで居た。木々に照明が反射して、森の中のほうが却って明るい様に感じた。

 街灯と街灯の間は相変らず正確に一〇米毎で時々二〇米に為った。道は最早無くアスファルトの塊すら転がって居なかった。

 真っ直ぐに立ち並んで居た街灯に変化が有った。森に這入って暫くしてから急に前方に明りが見えなくなり、探して見ると向って左側の木々に光が反射して居た。

 其の反対側にも明りが見えた。道が左右に割れて居た。婀娜やかな女は躊躇う事無く左に進む。三人は黙って歩き続けた。

 進めば進む程に真っ直ぐに続いて居た街灯が複雑に折れ曲って行った。左に、或いは右に曲って居る事も有れば、左右の両方に存在して居る事も有り、又左右に加えて前方にも伸びて居る事さえ有った。

 分れ道に来る度に婀娜やかな女が先導して道を選んで進む。目的地に着く迄未だ未だ掛りそうだった。
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