センス・オブ・ワンダー

イグサコウジ

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part.4

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 一月△日

 今日、やっと津出さんとまともに話すことができた。
 本当にこれでよかったのかは、僕自身にもわからない。
 ただ、どこに向かってかはわからないけど、一歩踏み出せた。
 それだけは確かだと思いたい。



 結論から言うと、男子は数日後に再びわたしを訪ねてきた。ただし、厳密には訪ねてきていないのかもしれない。男子は以前と同じように、わたしだけが残った放課後の教室にやってきた。

 しかし、彼がわたしに話しかけてくることはなかった。

 彼はおもむろにわたしの隣の席に座ると、自分の用事を始めるのだ。再び訪ねてきた日は勉強をしていたし、その次の日は本を読んでいた。そして、自分の用事が終わるとふらりと帰っていく。わたしに随分とご執心だった初対面のときとは、まるで別人のような振る舞いだった。
 その奇妙な行動が、気味が悪くて仕方がなかった。さらに言うなら、無言というのが気味悪さに拍車をかけていた。どうにも男子のいる側が気になって、勉強にも詩にも集中できなかった。

 今日も男子は、わたしの隣の席で本を読んでいる。
 様子をうかがうと、本を片手に持ったまま、広げたメモ帳に熱心に何かを書き込んでいた。
 この習慣が始まってから、今日でちょうど一週間になる。ほとんど白紙の数学のノートを眺め、ため息をついた。

 若干だけど慣れ始めてしまった自分に、呆れてしまった。とはいえ、横を確認する回数が減った程度だ。
 男子のいる側から、かすかな物音がすればそちらを向いてしまう。思考はまとまらず、ここ一週間、教室では何もろくにできていない。
 やはり、この状況を打破するには、男子に話しかけるしかないのだろう。身の危険は感じるが、校内にはまだたくさんの生徒が残っている。いざとなれば、大きな声を出せば誰かが来てくれるはずだ。

 意を決して、静かに、深く息を吸い。
 隣の男子へと顔を向け、吐き出した。

「……ねえ」

 校庭から聞こえる運動部のかけ声の隙間を縫って、わたしの声が教室に響いた。男子がページをめくろうとした手を止め、持っていた本を乱暴に置く。
 男子はこちらを向くと、わたしの後ろから射す夕日に目を細めた。にわかに緊張が走る。聞こうとしていたことが頭の中で混ざり始める。完全に混乱する前にすべて吐き出してしまおうと、もう一度口を開いた。

「ここに……何をしに来ているの?」

「何、って……」

 短いやり取りをしたきり、会話が途切れた。
 男子は小さく唸って何か考え事をしている。次の言葉を探しているようだ。すんなり返事が来ないということは、わたしには言えない考えがあるのかもしれない。
 最悪の事態が脳裏をよぎり、気休めまでにシャーペンを逆手に持ってみる。

「勉強、とか」

「じゃあ、どうしてわざわざここに来るの?」

「……」

 間髪入れずに次の質問をぶつける。男子は視線を落とし、再び黙り込んでしまった。
 廊下を歩く誰かの足音が近付いてきて、そして遠ざかっていく。音が聞こえなくなってもまだ、沈黙はわたし達の間に横たわったままだった。
 やがて、男子が大げさなくらいに大きく息を吸い込んだ。

「邪魔、って言われたけど、諦めきれなくて」

「……だから、こんなことしていたの?」

「そばにいれば、何かつかめるものもあるかと思ったから……」

 理由があまりに馬鹿馬鹿しくて、ついシャーペンを机の上に軽く放り投げてしまう。全身からどっと力が抜けて、肩ががくりと落ちる。

「邪魔はしないし、話かけもしません。だから、せめてそばにいさせてください……」

 こんな回りくどい手段なんて使わず、最初からその旨を伝えてくれればよかったのに。そうすれば、無駄な考え事や緊張もせずに済んだと思うと苛立ってくる。
 けれど、初対面で一方的に突っぱねられたら、無理もないだろう。
 事実、わたしに何度も積極的に話しかけてくるような人間はいままでいなかった。利益や実績が目的の人間ばかりが寄ってきたからだ。わたしにはそんな輩しか寄ってこない、といつの間にか自分で決めつけていた。

 でも、この男子は違うのかもしれない。彼の表情や態度からは、『本物』の息遣いが感じ取れた。いままで、嫌でも見てきた、貼り付けたような『偽物』の笑顔とは、決定的に違う。
 なぜだろう。
 なぜ、彼はここまでしてわたしにこだわるのだろう。

 技術を磨くなら、他にいくらでも手段はあるのに。
 わたしは戸惑っていた。切実に、本気で求められるなんて、初めてのことだった。
 初めて、わたしのほうが男子から視線を逸らした。焦りで霧散しそうな意識を慌ててかき集め、いまやるべきことを考える。詩を考えているときよりもずっと速く、思考が浮かんでは消えていく。

「……あの」

 やがて考えがまとまり、わたしは再び男子に向き直った。どんなに呼吸しても息苦しくて、やたらと喉が渇く。柄にもなく緊張しているのが、はっきりと自覚できた。
 男子の体がびくりと跳ねる。また悪態をつかれるとでも思ったのだろうか。わたしだって、自分の非を認めないほど性格が悪いわけじゃない。少なくとも、自分ではそう思っている。

「……ごめんなさい。話も聞かずに突っぱねたりして」

 思っていたよりも、言葉がうまく喉を通っていかない。見えない栓が詰まっているように感じた。

「だから……その……」

 あとは了承すればいい。教えてあげると言えばいいだけだ。なのに、そのための言葉を忘れてしまったように、次の言葉が出てこない。吐息が喉を震わせることなく、半端に開いた口から漏れていく。

「……か」

 脳裏をよぎった言葉の最初の文字が、つい口をついて出てしまう。
 この言葉では駄目だ。すぐに違う言葉を探さないと。それは分かっている。分かっていても。

「……勝手に、したら」

 一度動き出した唇は、止まってはくれなかった。
 男子から返事はなく、ただただ目を丸くしていた。当たり前だ。こんな言い方、意味が分からないにもほどがある。発言を訂正しようとしても、緊張の糸が切れた頭ではすぐにできるわけがなかった。

「……分かった、僕は内藤地平! よろしく、津出さん!」

 しかし、わたしの心配をよそに男子、改め内藤は満面の笑みを浮かべてそう言った。そして、いそいそと席に座りなおすと、机に置いていた本をまた読み始めた。
 何が分かった、なのだろう。わたしが言いたかったことが、分かったというのか。
 なのに、この内藤という男子は、また回りくどいことをわざわざやろうというのか。その行動こそ、意味が分からなかった。
 ただ、いつの間にか安堵のため息をついている自分に気付き。それから、締まりのない笑顔をしている内藤を見て、少し苛立って。わたしは自分で思っているより、性格が悪い気がした。
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