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赤い眼の猛獣に見つかる
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「おい、大丈夫か」
そう低い声が慎重に肩をさすり、リュシアンは思わず眉根を寄せて手を振り払った。
(いいにおいがする)
それにかなり、気分がいい。
体の中で何かが暴れるような不快感がない。いつも胃が重たくてじくじくと痛むというのに、それが少しばかり軽かった。
その眠りを邪魔されたくなくて、リュシアンはそのにおいのそばにうずくまった。
「……まいったな……おい、おーい」
起きたほうがいいぞ、と肩をゆすられ、いやいやと首を振った。
(久しぶりの、安眠……)
不快なにおいはしない。
「眠っているのか……」
自分を襲うオメガの香りがしない。
このにおいは明らかに自分よりも強いオスのにおいだ。
だからこそ安全で、このオスの庇護にいればこわいこともない。
はっきりとはしないおぼろげな意識でそう思う。
「……ずいぶんひどいオメガのにおいだが、お前」
ぼそぼそとした低い声が心地よく聞こえてくる。
「おぼえがあるにおいだな」
耳元でつぶやかれた声がくすぐったくなり、リュシアンは身をよじった。
(起きないと)
起きなくてはと思うのに、疲れ切った体が安心できる場所での睡眠を確保したがる。
なかなか意識が覚醒しきらず、リュシアンは起き上がれなかった。
ゆさゆさと揺さぶられ、うーん、とリュシアンは唸った。
「おーい、起きないのか?起きないなら、」
はっきりと耳元で聞こえて、リュシアンは重たい瞼を持ち上げた。
「連れ帰ってしまうぞ?」
びり、と体が動きを止めそうになった。
低い声はどこか甘く、まあいいかと思わせるような力がある。
このまま連れ帰られてもいい。
そう思わせるような力があった。
(いや、だめだろう、それは)
リュシアンはまあいいかと思わずに重たいまぶたを持ち上げた。
水色の瞳を開くと、視界いっぱいに大きな男が広がった。
どうやらリュシアンに覆いかぶさるように顔の横に手をついて覗き込んでいるらしい。
リュシアンはぼやぼやとした頭で覆いかぶさっている男を見返した。
「こんなところで倒れていて、心配したぞ」
彼はリュシアンが起きたことに満足そうに笑った。
(……なんでここに)
その笑顔を見た瞬間、リュシアンははっきりと目が覚めた。
リュシアンはすぐさまうっすらと愛想笑いを浮かべた。
(なんでだ?)
にっこりと作られた顔に浮かぶ赤い眼光が、まったく笑っていない。
なぜか機嫌があまりよくないように見える。
まるで獲物を見つけた獣が、森の奥から覗くように至近距離からリュシアンを伺っていた。
太陽をはじく金色の髪は鬣のようだ。髪の間から覗く血のように赤い瞳は獰猛なようにも見える。
だというのに気品のある顔立ちのせいか、恐ろしくは見えない。
軍人といっても差し支えないほどにがっしりとした体格のせいか、誰もが跪きたくなるような圧倒的な上位存在としての風格があった。
普段から吐き気と胃痛に悩まされているせいでひょろりとした体格のリュシアンなど吹っ飛ばされてしまいそうだ。
このまま潰されたら抗いようがないだろうなと、リュシアンは彼を見上げた。
正直、この男を前にすると、第二王子は次の王たる資格があるようには見えない。
「……ご心配をおかけしました、殿下」
聞くまでもなく、リュシアンは目の前の男が誰かわかった。
視線を伏せると、彼はふうん、と面白がるように小首を傾げた。
金色の髪がさらりと揺れ、にいと広がった口元から鋭い犬歯がのぞく。
オメガを番にするため、アルファには鋭い犬歯が備わっている。鋭く強い歯こそ、オメガに存在を強く刻み込むときに必要なものだ。
その鋭さはすこし恐ろしく、リュシアンはわずかに後ずさった。
「ずいぶん調子が悪そうだな。リュシアン・ティレル」
さすがに何度か挨拶をしているせいか、リュシアンのことを覚えているらしい。
名前を呼ばれると、びりびりと体がしびれる気がした。
アルウェン・フェアクロフ。
この国の第一王子で、史上最も強いと言われる最高位アルファだ。
「お目汚しを。離れていただけますでしょうか」
どいてくれ、と微笑むと、アルウェンはにっこりと微笑み返した。
「そう固くなるな。お前と俺の仲ではないか」
な、と気安く同意を求められるが、どんな仲だ、と言いたいのをこらえた。
(いやべつにそんな仲ではないですよね?)
リュシアンとアルウェンは夜会で数回あいさつした程度だ。
特別仲がいいわけではない。
ティレル家は中立派で、第一王子派でもなければ第二王子派でもなかった。
中立でいることは家、ひいては父の方針だ。
リュシアンは父をどうかと思うときがあるが、それでも貴族としてはそれなりにまっとうな人間だと思っている。
王宮で宰相補佐として勤めながら中立の立場を守っていくのはそこそこ大変だろう。
どちらかに偏ることはしないように、第二王子とライモントが仲良くなれば、リュシアンに第一王子派とも交流を持つようにと指示を出す。
だからこの王子とも夜会で会えば、リュシアンは挨拶をしたことがある。
しかしその程度だ。
こんな至近距離にいるのも初めてだし、こんなに長く話したことすら初めてかもしれない。
「……離れていただけますか?」
アルウェンはようやく気付いたように上体を持ち上げた。
覆いかぶさっていた大きな体がどいてようやくリュシアンも体を起こすと、ぐい、と引っ張られた。
「え、ちょ、」
ずる、とバランスを崩しかけたリュシアンは、大きな体の中に抱き込まれた。
(え、)
ぎゅ、と自分よりもしっかりとした大きな体に抱き込まれ、思わず目を丸くする。
「うん、やはりな」
すん、と耳の下に鼻先をうずめられる。においをかぐ犬のような動作に、くすぐったさと羞恥でリュシアンはがーっと体温が上がったのが分かった。
「ちょ、な」
反射的に腕を突っ張り、離れようとするが、太い腕にがっちりと抱き込まれていて離れることができない。
逃れたくてのけぞろうとしても、背中に回った大きな手がすこしも態勢を崩させてくれない。
「……っ、あの、殿下?な、ん、でしょうかっ」
離せ、と言いたいのをこらえて睨みつけるものの、金髪は首筋に頭を埋めたまま動きもしない。
ぐいぐいと押しているのにびくともしない体に、リュシアンはすこし悲しくなってくる。
(おんなじ、アルファ、だよな……?)
たしかにリュシアンは欠陥品アルファであるが、それにしてもあまりにも力が違いすぎるのではないだろうか。
リュシアンは最近なおのこと体調が悪く、吐き気と気持ち悪さでろくに食事もしていない。
そのせいで肌は青白く、細いのもわかっているが、そういうことを考慮してもあまりにも生き物として何かが違う気がする。
「……なあ、シア」
「だからっなんなんですか!殿下!」
急に愛称で呼び始めた男に、リュシアンはとうとう叫ぶように問いかけた。
ゆっくりと顔を上げたアルウェンは、不可解そうな顔をしている。
「お前、もしかしてアルファなのか?」
「……本当になんなんですか、殿下?いくら王族といえど、限度があるのではないですか?」
貧弱すぎて、あるいは欠陥品すぎてアルファとしての性能を疑われているのだろうか。
(たしかにそうだけど)
リュシアンは異母弟のオメガフェロモンがどうしようもなく気持ち悪い。
異母弟に限らず、夜会にでるときにうっかりオメガフェロモンのにおいをかぐと吐き気を催すほどだ。
だから外出が嫌いで、あまり外にも出ない。
両親は何も言わないし、母に至っては、調子が悪いなら家にいたほうがいいと積極的に言ってくれるが、長子としての意地もある。
長子で夜会に出られず社交ができないなどありえないし、勉学は人一倍努力し、成績も学年の3位以内には入っている。
(俺は、最大限……)
欠陥品であることが悟られないようにしている。
けれどそのすべてが否定されたようで、リュシアンは唇を嚙み締めた。
あまりにも人を馬鹿にしすぎではないかと、リュシアンは苛立ちを隠さずに顔をしかめた。
「え、シア?すまん……」
慌てたようにリュシアンを覗き込んでくるアルウェンから顔を背け、離してください、と小さくつぶやく。
腕の拘束が緩み、リュシアンは膝の上に乗せられる。
「シア、俺が悪かった。だからそう唇を噛むな。傷になってしまうぞ……」
親指が咎めるように唇をなぞるので、リュシアンは小さく口を開く。
「……殿下、いきなりなんなんですか?答えてください」
「もしかして、覚えてないのか?」
なにを、と睨めつけると、アルウェンは困ったように眉根を下げた。
「シア、俺だ。ルゥだ」
な、とあからさまに媚びるように首を傾げる。
そんな表情で窺われても自分よりも頭一つは大きい男に可愛さなど少しもない。
「……誰ですか、それ」
そんな人は知らない、と顔を背けると、アルウェンは肩口に頭をうずめた。
「シアぁ……おい、うそだろ。俺はずっと探してたんだぞ。お前が俺のシアだ。間違いない」
ぎゅ、とすがるように背中に回った指に力が籠められる。
拘束は緩んでも一向に離そうとしないアルウェンに、リュシアンは困ったように肩を叩いた。
「別人です」
「本当だ。お前がシアだ。間違いない」
どうやらアルウェンは誰かを探していたらしい。
それがリュシアンだと主張しているようだが、リュシアンには覚えがない。
(困ったな……)
リュシアンは本当に覚えがない。
アルウェンと交流した記憶はないし、挨拶程度しかしたことがないのだ。
「……何度かご挨拶しておりますが、その時にはそのようなお話はなかったでしょう」
今更一体どうしてと困惑しながら言うと、アルウェンはがばりと顔を上げた。
「だってお前、あんなに別人のくさいオメガのにおいをさせて、それでは俺だってわかるはずがないだろう!」
その指摘にリュシアンは顔をしかめそうになりながら、引きつった笑みを浮かべてごまかした。
「人違いです、殿下」
「いや、間違えるはずがない。お前が俺のシアだ!」
話が通じない、と遠い眼をしてしまった。
(殿下ってここまで話が通じなかったっけ……?)
そう疑問に思ってしまうくらい、今のアルウェンには話が通じない。
挨拶をした際にはこんなことはなく、むしろ昨今の情勢について穏やかに話していたくらいだったというのに。
(……とりあえず、)
この抱きしめられている状態をなんとかしないと、とリュシアンは穏やかに微笑んだ。
「殿下、時間と場所を改めませんか?」
今は学園の裏庭で、しかもガゼボの裏側。
草が生えているが、地面に座り込んでいるのだ。
このまま話を続けていい場所ではないのはたしかで、アルウェンはその言葉にうなずいた。
「そうだな。お前がシアだとしても、俺も色々しないといけないことがあるし」
「あいにく、私には覚えがありませんので」
「いいや、お前はシアだ」
赤い眼が、肉を前にした猛獣のように細められ、リュシアンは目を見張った。
「おれの、シア」
「……ひとまず、今度お茶会にでも呼んでいただけませんか。交流を深めるということで」
こんな提案を通常していたら不敬であるが、今のアルウェンから離れるためにはそう言うしかない。
「もちろん」
にこ、と嬉しそうに笑うアルウェンになぜか体がしびれてびりびりとする。
赤い眼が宝石のように無邪気に輝き、太陽のように燃えている。
(きれいだな)
寒気のような、恐怖のような気持ちがわずかに生まれるものの、その瞳に縫い付けられたようにリュシアンは動けなくなった。
その気持ちを振り払うように、今日は帰ります、と腕から逃れる。
このあとまだ授業があるが、今日のことを少なくとも母には報告しなくてはいけないし、母と父で対応について相談してもらわねばならないかもしれない。
授業どころではなくなったのはたしかだった。
「ああ、それがいい。送ろうか?シア」
「けっこうです」
そう言って立ち上がろうとすると、腕に力を込められ、立ち上がることができなかった。
「殿下?」
場を改めることに了承したはずでは、というリュシアンの困惑した声にも取り合わず、アルウェンはリュシアンの耳に触れた。
「……送られないなら、ひとつ、お願いを聞いてほしい」
え、とリュシアンが思った瞬間。
『氷針』
ぶつり、と耳から直接音がした。
耳の奥から聞こえてくるものではなく、耳たぶに何かが触れているような違和感があった。
「これは俺がシアに再会した時のために作ったものだ。シア、つけてくれるな?」
かちり、と音がして、左耳に何かが付けられた、ということだけリュシアンはわかった。
明らかにすこし重くなり、何かがぶら下がっているという感覚だけあったからだ。
「傷を治すのは今度にしよう。今日の再会を忘れないために痛みを残しておくから」
赤い眼が嬉しそうに細められ、ちゃり、と耳元で金属音がした。
耳元で何かを弄る指先のせいでじく、と鈍い痛みを発し始め、リュシアンは何をされたのか理解して、アルウェンから逃げるように立ち上がった。
今度はあっさりとリュシアンを離したアルウェンは、嬉しそうに頬を緩めていた。
「ああ、それと、その傷を治そうとしても無駄だからな」
リュシアンはそっと、左の耳に触れる。
案の定、ぶつりとピアスが開けられ、あまり大きくはない飾りがぶら下がっていた。
指先だけでは形まではわからないが、かなり強い魔法が宿っていることは感じ取れる。
「俺の魔力濃度は濃い。教会へ行ってもどうにもならないぞ。神官ですらその傷は治せない。魔法で作ったその傷は、俺以外治せない」
(信じられない!)
そう叫びたいのをこらえ、リュシアンは思わず座ったままのアルウェンを見下ろした。
信じられない。
ありえない。
だが、それ以上に、やはりこの第一王子は噂通りなのだと、恐ろしさも身に染みた。
目の前の男は、やはり生き物として何かが違っている。
赤い眼をした獰猛な猛獣が、獲物を見つけて喜んでいるようでリュシアンは身震いした。
(なんで、笑ってるんだ?)
アルウェンはリュシアンを傷つけて痛めつけて、それなお笑っている。
しかもひどく、嬉しそうに。
「また、今日の夜会でな。俺のシア」
そう言ってうっとりと笑うアルウェンを睨みつけ、リュシアンは失礼しますとその場を後にした。
なぜか吐き気は収まり体調は良くなっていたが、それ以上に恐ろしさで気分は最悪だった。
そう低い声が慎重に肩をさすり、リュシアンは思わず眉根を寄せて手を振り払った。
(いいにおいがする)
それにかなり、気分がいい。
体の中で何かが暴れるような不快感がない。いつも胃が重たくてじくじくと痛むというのに、それが少しばかり軽かった。
その眠りを邪魔されたくなくて、リュシアンはそのにおいのそばにうずくまった。
「……まいったな……おい、おーい」
起きたほうがいいぞ、と肩をゆすられ、いやいやと首を振った。
(久しぶりの、安眠……)
不快なにおいはしない。
「眠っているのか……」
自分を襲うオメガの香りがしない。
このにおいは明らかに自分よりも強いオスのにおいだ。
だからこそ安全で、このオスの庇護にいればこわいこともない。
はっきりとはしないおぼろげな意識でそう思う。
「……ずいぶんひどいオメガのにおいだが、お前」
ぼそぼそとした低い声が心地よく聞こえてくる。
「おぼえがあるにおいだな」
耳元でつぶやかれた声がくすぐったくなり、リュシアンは身をよじった。
(起きないと)
起きなくてはと思うのに、疲れ切った体が安心できる場所での睡眠を確保したがる。
なかなか意識が覚醒しきらず、リュシアンは起き上がれなかった。
ゆさゆさと揺さぶられ、うーん、とリュシアンは唸った。
「おーい、起きないのか?起きないなら、」
はっきりと耳元で聞こえて、リュシアンは重たい瞼を持ち上げた。
「連れ帰ってしまうぞ?」
びり、と体が動きを止めそうになった。
低い声はどこか甘く、まあいいかと思わせるような力がある。
このまま連れ帰られてもいい。
そう思わせるような力があった。
(いや、だめだろう、それは)
リュシアンはまあいいかと思わずに重たいまぶたを持ち上げた。
水色の瞳を開くと、視界いっぱいに大きな男が広がった。
どうやらリュシアンに覆いかぶさるように顔の横に手をついて覗き込んでいるらしい。
リュシアンはぼやぼやとした頭で覆いかぶさっている男を見返した。
「こんなところで倒れていて、心配したぞ」
彼はリュシアンが起きたことに満足そうに笑った。
(……なんでここに)
その笑顔を見た瞬間、リュシアンははっきりと目が覚めた。
リュシアンはすぐさまうっすらと愛想笑いを浮かべた。
(なんでだ?)
にっこりと作られた顔に浮かぶ赤い眼光が、まったく笑っていない。
なぜか機嫌があまりよくないように見える。
まるで獲物を見つけた獣が、森の奥から覗くように至近距離からリュシアンを伺っていた。
太陽をはじく金色の髪は鬣のようだ。髪の間から覗く血のように赤い瞳は獰猛なようにも見える。
だというのに気品のある顔立ちのせいか、恐ろしくは見えない。
軍人といっても差し支えないほどにがっしりとした体格のせいか、誰もが跪きたくなるような圧倒的な上位存在としての風格があった。
普段から吐き気と胃痛に悩まされているせいでひょろりとした体格のリュシアンなど吹っ飛ばされてしまいそうだ。
このまま潰されたら抗いようがないだろうなと、リュシアンは彼を見上げた。
正直、この男を前にすると、第二王子は次の王たる資格があるようには見えない。
「……ご心配をおかけしました、殿下」
聞くまでもなく、リュシアンは目の前の男が誰かわかった。
視線を伏せると、彼はふうん、と面白がるように小首を傾げた。
金色の髪がさらりと揺れ、にいと広がった口元から鋭い犬歯がのぞく。
オメガを番にするため、アルファには鋭い犬歯が備わっている。鋭く強い歯こそ、オメガに存在を強く刻み込むときに必要なものだ。
その鋭さはすこし恐ろしく、リュシアンはわずかに後ずさった。
「ずいぶん調子が悪そうだな。リュシアン・ティレル」
さすがに何度か挨拶をしているせいか、リュシアンのことを覚えているらしい。
名前を呼ばれると、びりびりと体がしびれる気がした。
アルウェン・フェアクロフ。
この国の第一王子で、史上最も強いと言われる最高位アルファだ。
「お目汚しを。離れていただけますでしょうか」
どいてくれ、と微笑むと、アルウェンはにっこりと微笑み返した。
「そう固くなるな。お前と俺の仲ではないか」
な、と気安く同意を求められるが、どんな仲だ、と言いたいのをこらえた。
(いやべつにそんな仲ではないですよね?)
リュシアンとアルウェンは夜会で数回あいさつした程度だ。
特別仲がいいわけではない。
ティレル家は中立派で、第一王子派でもなければ第二王子派でもなかった。
中立でいることは家、ひいては父の方針だ。
リュシアンは父をどうかと思うときがあるが、それでも貴族としてはそれなりにまっとうな人間だと思っている。
王宮で宰相補佐として勤めながら中立の立場を守っていくのはそこそこ大変だろう。
どちらかに偏ることはしないように、第二王子とライモントが仲良くなれば、リュシアンに第一王子派とも交流を持つようにと指示を出す。
だからこの王子とも夜会で会えば、リュシアンは挨拶をしたことがある。
しかしその程度だ。
こんな至近距離にいるのも初めてだし、こんなに長く話したことすら初めてかもしれない。
「……離れていただけますか?」
アルウェンはようやく気付いたように上体を持ち上げた。
覆いかぶさっていた大きな体がどいてようやくリュシアンも体を起こすと、ぐい、と引っ張られた。
「え、ちょ、」
ずる、とバランスを崩しかけたリュシアンは、大きな体の中に抱き込まれた。
(え、)
ぎゅ、と自分よりもしっかりとした大きな体に抱き込まれ、思わず目を丸くする。
「うん、やはりな」
すん、と耳の下に鼻先をうずめられる。においをかぐ犬のような動作に、くすぐったさと羞恥でリュシアンはがーっと体温が上がったのが分かった。
「ちょ、な」
反射的に腕を突っ張り、離れようとするが、太い腕にがっちりと抱き込まれていて離れることができない。
逃れたくてのけぞろうとしても、背中に回った大きな手がすこしも態勢を崩させてくれない。
「……っ、あの、殿下?な、ん、でしょうかっ」
離せ、と言いたいのをこらえて睨みつけるものの、金髪は首筋に頭を埋めたまま動きもしない。
ぐいぐいと押しているのにびくともしない体に、リュシアンはすこし悲しくなってくる。
(おんなじ、アルファ、だよな……?)
たしかにリュシアンは欠陥品アルファであるが、それにしてもあまりにも力が違いすぎるのではないだろうか。
リュシアンは最近なおのこと体調が悪く、吐き気と気持ち悪さでろくに食事もしていない。
そのせいで肌は青白く、細いのもわかっているが、そういうことを考慮してもあまりにも生き物として何かが違う気がする。
「……なあ、シア」
「だからっなんなんですか!殿下!」
急に愛称で呼び始めた男に、リュシアンはとうとう叫ぶように問いかけた。
ゆっくりと顔を上げたアルウェンは、不可解そうな顔をしている。
「お前、もしかしてアルファなのか?」
「……本当になんなんですか、殿下?いくら王族といえど、限度があるのではないですか?」
貧弱すぎて、あるいは欠陥品すぎてアルファとしての性能を疑われているのだろうか。
(たしかにそうだけど)
リュシアンは異母弟のオメガフェロモンがどうしようもなく気持ち悪い。
異母弟に限らず、夜会にでるときにうっかりオメガフェロモンのにおいをかぐと吐き気を催すほどだ。
だから外出が嫌いで、あまり外にも出ない。
両親は何も言わないし、母に至っては、調子が悪いなら家にいたほうがいいと積極的に言ってくれるが、長子としての意地もある。
長子で夜会に出られず社交ができないなどありえないし、勉学は人一倍努力し、成績も学年の3位以内には入っている。
(俺は、最大限……)
欠陥品であることが悟られないようにしている。
けれどそのすべてが否定されたようで、リュシアンは唇を嚙み締めた。
あまりにも人を馬鹿にしすぎではないかと、リュシアンは苛立ちを隠さずに顔をしかめた。
「え、シア?すまん……」
慌てたようにリュシアンを覗き込んでくるアルウェンから顔を背け、離してください、と小さくつぶやく。
腕の拘束が緩み、リュシアンは膝の上に乗せられる。
「シア、俺が悪かった。だからそう唇を噛むな。傷になってしまうぞ……」
親指が咎めるように唇をなぞるので、リュシアンは小さく口を開く。
「……殿下、いきなりなんなんですか?答えてください」
「もしかして、覚えてないのか?」
なにを、と睨めつけると、アルウェンは困ったように眉根を下げた。
「シア、俺だ。ルゥだ」
な、とあからさまに媚びるように首を傾げる。
そんな表情で窺われても自分よりも頭一つは大きい男に可愛さなど少しもない。
「……誰ですか、それ」
そんな人は知らない、と顔を背けると、アルウェンは肩口に頭をうずめた。
「シアぁ……おい、うそだろ。俺はずっと探してたんだぞ。お前が俺のシアだ。間違いない」
ぎゅ、とすがるように背中に回った指に力が籠められる。
拘束は緩んでも一向に離そうとしないアルウェンに、リュシアンは困ったように肩を叩いた。
「別人です」
「本当だ。お前がシアだ。間違いない」
どうやらアルウェンは誰かを探していたらしい。
それがリュシアンだと主張しているようだが、リュシアンには覚えがない。
(困ったな……)
リュシアンは本当に覚えがない。
アルウェンと交流した記憶はないし、挨拶程度しかしたことがないのだ。
「……何度かご挨拶しておりますが、その時にはそのようなお話はなかったでしょう」
今更一体どうしてと困惑しながら言うと、アルウェンはがばりと顔を上げた。
「だってお前、あんなに別人のくさいオメガのにおいをさせて、それでは俺だってわかるはずがないだろう!」
その指摘にリュシアンは顔をしかめそうになりながら、引きつった笑みを浮かべてごまかした。
「人違いです、殿下」
「いや、間違えるはずがない。お前が俺のシアだ!」
話が通じない、と遠い眼をしてしまった。
(殿下ってここまで話が通じなかったっけ……?)
そう疑問に思ってしまうくらい、今のアルウェンには話が通じない。
挨拶をした際にはこんなことはなく、むしろ昨今の情勢について穏やかに話していたくらいだったというのに。
(……とりあえず、)
この抱きしめられている状態をなんとかしないと、とリュシアンは穏やかに微笑んだ。
「殿下、時間と場所を改めませんか?」
今は学園の裏庭で、しかもガゼボの裏側。
草が生えているが、地面に座り込んでいるのだ。
このまま話を続けていい場所ではないのはたしかで、アルウェンはその言葉にうなずいた。
「そうだな。お前がシアだとしても、俺も色々しないといけないことがあるし」
「あいにく、私には覚えがありませんので」
「いいや、お前はシアだ」
赤い眼が、肉を前にした猛獣のように細められ、リュシアンは目を見張った。
「おれの、シア」
「……ひとまず、今度お茶会にでも呼んでいただけませんか。交流を深めるということで」
こんな提案を通常していたら不敬であるが、今のアルウェンから離れるためにはそう言うしかない。
「もちろん」
にこ、と嬉しそうに笑うアルウェンになぜか体がしびれてびりびりとする。
赤い眼が宝石のように無邪気に輝き、太陽のように燃えている。
(きれいだな)
寒気のような、恐怖のような気持ちがわずかに生まれるものの、その瞳に縫い付けられたようにリュシアンは動けなくなった。
その気持ちを振り払うように、今日は帰ります、と腕から逃れる。
このあとまだ授業があるが、今日のことを少なくとも母には報告しなくてはいけないし、母と父で対応について相談してもらわねばならないかもしれない。
授業どころではなくなったのはたしかだった。
「ああ、それがいい。送ろうか?シア」
「けっこうです」
そう言って立ち上がろうとすると、腕に力を込められ、立ち上がることができなかった。
「殿下?」
場を改めることに了承したはずでは、というリュシアンの困惑した声にも取り合わず、アルウェンはリュシアンの耳に触れた。
「……送られないなら、ひとつ、お願いを聞いてほしい」
え、とリュシアンが思った瞬間。
『氷針』
ぶつり、と耳から直接音がした。
耳の奥から聞こえてくるものではなく、耳たぶに何かが触れているような違和感があった。
「これは俺がシアに再会した時のために作ったものだ。シア、つけてくれるな?」
かちり、と音がして、左耳に何かが付けられた、ということだけリュシアンはわかった。
明らかにすこし重くなり、何かがぶら下がっているという感覚だけあったからだ。
「傷を治すのは今度にしよう。今日の再会を忘れないために痛みを残しておくから」
赤い眼が嬉しそうに細められ、ちゃり、と耳元で金属音がした。
耳元で何かを弄る指先のせいでじく、と鈍い痛みを発し始め、リュシアンは何をされたのか理解して、アルウェンから逃げるように立ち上がった。
今度はあっさりとリュシアンを離したアルウェンは、嬉しそうに頬を緩めていた。
「ああ、それと、その傷を治そうとしても無駄だからな」
リュシアンはそっと、左の耳に触れる。
案の定、ぶつりとピアスが開けられ、あまり大きくはない飾りがぶら下がっていた。
指先だけでは形まではわからないが、かなり強い魔法が宿っていることは感じ取れる。
「俺の魔力濃度は濃い。教会へ行ってもどうにもならないぞ。神官ですらその傷は治せない。魔法で作ったその傷は、俺以外治せない」
(信じられない!)
そう叫びたいのをこらえ、リュシアンは思わず座ったままのアルウェンを見下ろした。
信じられない。
ありえない。
だが、それ以上に、やはりこの第一王子は噂通りなのだと、恐ろしさも身に染みた。
目の前の男は、やはり生き物として何かが違っている。
赤い眼をした獰猛な猛獣が、獲物を見つけて喜んでいるようでリュシアンは身震いした。
(なんで、笑ってるんだ?)
アルウェンはリュシアンを傷つけて痛めつけて、それなお笑っている。
しかもひどく、嬉しそうに。
「また、今日の夜会でな。俺のシア」
そう言ってうっとりと笑うアルウェンを睨みつけ、リュシアンは失礼しますとその場を後にした。
なぜか吐き気は収まり体調は良くなっていたが、それ以上に恐ろしさで気分は最悪だった。
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BLゲームの悪役に転生したら攻略対象者が全員ヒロインに洗脳されてた
さ
BL
主人公のレオンは、幼少期に前世の記憶を思い出し、この世界がBLゲームで、自身は断罪される悪役だと気づく。
断罪を回避するため、極力攻略対象者たちと関わらないように生きてきた。
ーーそれなのに。
婚約者に婚約は破棄され、
気づけば断罪寸前の立場に。
しかも理由もわからないまま、
何もしていないはずの攻略対象者達に嫌悪を向けられてーー。
※最終的にハッピーエンド
※愛され悪役令息
平凡なぼくが男子校でイケメンたちに囲まれています
七瀬
BL
あらすじ
春の空の下、名門私立蒼嶺(そうれい)学園に入学した柊凛音(ひいらぎ りおん)。全寮制男子校という新しい環境で、彼の無自覚な美しさと天然な魅力が、周囲の男たちを次々と虜にしていく——。
政治家や実業家の子息が通う格式高い学園で、凛音は完璧な兄・蒼真(そうま)への憧れを胸に、新たな青春を歩み始める。しかし、彼の純粋で愛らしい存在は、学園の秩序を静かに揺るがしていく。
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初投稿なので優しい目で見守ってくださると助かります‼️ご指摘などございましたら、気軽にコメントよろしくお願いしますm(_ _)m
塩対応だった旦那様の溺愛
詩河とんぼ
BL
貧乏伯爵家の子息・ノアは家を救うことを条件に、援助をしてくれるレオンハート公爵家の当主・スターチスに嫁ぐこととなる。
塩対応で愛人がいるという噂のスターチスやノアを嫌う義母の前夫人を見て、ほとんどの使用人たちはノアに嫌がらせをしていた。
ある時、スターチスが階段から誰かに押されて落ち、スターチスは記憶を失ってしまう。するとーー
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