浅い法華経 改

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サムシンググレイト

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「ここで書けない話」と言っていた話を、何度か書き直して隣に上げた。
この話はここで話していることと少しは関係している。
それは「腐る」という単語でだ。いずれはっきりして来るだろう。

さてもし私が日蓮宗の信者じゃなくて、浄土宗・真言宗・曹洞宗、あるいは天理教に金光教、またはキリスト教にユダヤ教、はたまたイスラム教にチベット仏教の信者だったとしたら、ここの話はどう推移しただろうか?

たぶん、たいした差はなかったと思う。
信じるという上では。

祈りにはいろんな形があるけど、そのいくつかは合言葉のようなキーワードがある。
私が信じる日蓮宗では
「南無妙法蓮華経」
キリスト教なら
「アーメン」
浄土宗なら
「南無阿弥陀仏」
ほかにも
「天にまします〇〇」とか「南無観世音菩薩」とか「母なる〇〇」などなど、まるでおまじないみたいな言葉がたくさんある。
そしてこれらのキーワードは、それぞれの宗派の思想のエッセンスだと思う。
私のような末端の信仰者は、たいがいこのエッセンスだけを唱えればいいと言われていると思う。少なくとも、日蓮宗では「南無妙法蓮華経」の七文字に釈迦の悟りが込められているからただ一心に、これを唱えればよいと言われている。これが宗教宗教した宗教らしいところだが、この七文字になぜ、釈迦の悟りが込められているかを研究したのは日蓮で、日蓮が学んだ仏教はインドから中国を経て日本に来る間にいろんな人の解釈が入ったものだ。つまりそこに仏の介入はない。
肝心の仏は、とっくの昔に姿を消したと法華経は書いているし、キリストも十字架にかけられて死んでしまったし、マホメットの写真はないし、アラーの映像もない。
要するに元になった神仏の姿は当初から消えたり隠れたりして無く、今に至ってはもちろん、この世のどこにもないのだ。そしてその思想だけが歴史の中を流れて今に至っている。ここで出て来るひとつの大事な言葉は「今」だ。

姿なき教祖の教えを伝えて来たのはやはり人間だ。
だから私は、十界の中の「仏界」と「菩薩界」は超常者の世界だからこれは無く、
「声聞界」と「縁覚界」は僧侶の世界だから普通は無く、「天界」から下だけ、普通の人間が関係出来る「天」「人」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」の六界だけがこの世にあるだけなんだなと病気で倒れる前後に感じ始めていた。特に病気で倒れた瞬間、自己中心的にあがく自分の中にそれを強く感じた。

ならば信仰なんてやめたらいいと思うのだが、それをしたらなんか違うんだな思いがまだまだある。
なんだかこの前再発未遂してから妙に悟ったようなことばかり喋ってる。

そんな中で私の禁煙と病状はどうなったかだけど、別に今のところおかしいところはない。
なんとか仕事もしている。
ただ昨日あたりから何も考えなくなっている。
タバコは少しだが吸っている。結局1日数本まで吸っていいや今のところ、というやり方に落ち着いている。
2~3吸いで消すように意識はしている。
右手の痺れも相変わらず波を持ちながら続いている。
点火不可のシケモクは捨てた。あんまり切り詰めすぎて吸ってもなんの味もしなかったからだ。
とりあえず、今手許に残っている数本が無くなったらどうなるだろうなとぼんやり考えている程度だ。
投げているのか何か悟ったのか、よく分からない平穏な気持ちだ。

と、入浴中に身体の何ヶ所かに内出血があるのを見つけた。打ち身ではない。たぶん、硬化した血管が破れたんだろう。硬くなった血管は脆いから破けやすいんだろう。そこへ血液をサラサラにする薬を飲んでいるから、血が固まりにくくて内出血も大きいものになっている。(脳梗塞になる1年くらい前から、やたら身体に「青タン」があるなと思っていたが、その頃はこんなに広く内出血してなかった)
間ぁこれが脳で起こったら、脳出血か脳梗塞なんだなと穏やかに考えてしまっている。
ひょっとして個々の交信はその時、途絶えるかも知れない。だから今のうちに考えていることを吐き出しているのかな?
どこかで「これは論文じゃない」と言ったけど、確かに論文のような立派なもんじゃない。でも「教祖なき今」を生きる信者にどんな運命の動きがあるのかを伝える「生きてる論」にはなると思う。

ここからは宗派とかに拘らない「信じる」ことを推理して行こうと思う。
信じるという行為には、発達した知能が要る。
ならば人はなんで知能が発達したか、それをした者がいるとしたらそれはは誰か?
そして信じることは人にどんな作用を及ぼすのか?
そんなあたりを考えてみたい。
今のところ「生きてる論」はそんなふうに進んでいる。
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