好きな人は、3人

秋風いろは

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26.宝物のような思い出

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 まさか、また会えるとは思わなかった。
 ましてや、誤解をしていたかどうかは分からないとはいえ、それを解く機会があるとは、思いもよらなかった。

 車の後部座席のチャイルドシートの上で、娘の愛梨沙がすやすやと寝息をたてているのに気づき、起こさないように小さな声で、妻にお礼を言った。

「さっきは、ありがとな。やっぱり、分かったんだな」

 妻の有希ゆきは、ふふっと笑い声を漏らすと、

「当たり前じゃない。自動車学校の教官の顔なんて、普通覚えてないわよ。特別な関係でない限りね」

 と、楽しそうに言った。

 自分たちの出会いのきっかけにはなったとはいえ、夫の元彼女だ。気分がいいわけがないと思っていたけれど、なぜか機嫌がよさそうだ。

「ごめん。まさか、会うとは思わなくて」

 一応、謝っておく。
 あの席が彼女のお気に入りだとは、分かっていた。避けていれば、鉢合わせずに済んだはずだ。

「あら、よかったわよ。いいことしたわーって、気分爽快よ」
「さすが有希だな、かなわない。本当に、ありがとな」
「ふふっ、どういたしまして。あなたも、胸のつかえが取れたんじゃない?」
「ああ。有希のおかげだ」
「綺麗なだけの思い出になって、よかったわね」

 運転しながらだから、しっかりと妻の顔は見れない。でも、その声は澄んでいて、心の底からそう思っているようだ。

「そうだな」

 そう言って、彼女との遠い記憶を思い出す。

 教官としては、彼女の運転は少し怖かった。
 初心者だから仕方ないとはいえ、車幅を実際よりも狭くとらえていて、路上教習では、事故でもあったのか道路側にぐにゃりと曲がった標識と一センチ程度の隙間で真横を通りすぎた時もあった。

 女子大生はよく自動車学校に来るし、吊り橋効果で好きになったのかと、自問したものだ。

 彼女のころころと変わる表情や、鈴の音のように軽やかな声に魅了された。

 どのゼミにするか、今から講義を受けながら先生を見て考えているんだという話や、将来どんな仕事に就こうか悩んでいるといった話も、少しだけ彼女がしていた。

 それは、俺がもう失くしてしまった、未来への可能性の話で。彼女にとっての雑談は、俺には全部眩しくて羨ましくてたまらない、もう手には入らない輝きそのものだった。

 かつての俺にも、思い描いていた将来があった。
 上京を夢見ていたのに、失敗して。
 憧れた東京ではなかったけれど、夢に近い学部の大学には入れた。
 学生でありながら起業した友人の手伝いをしたのも、よかったんだと思う。
 やりたかった仕事に、就くことができた。

 それが、転落の始まりだ。

 仕事仲間は、飲むのが好きだった。それも仕事、のようなところもあった。
 飲み会のたびに俺は「今日は俺の奢りだ!」なんて、言っていたらしい。毎回記憶を失くすまで飲むものだから、いつの間にか財布からお金が消えていた。

 気づいたら、ボロボロだ。

 若かったお陰か大きな病気にはならなかったものの、不眠は酷くなり、頻繁な発熱や倦怠感やストレスで会社にも迷惑をかけ、居場所がなくなった。
 その日の食費すらままならなくなり、実家に会社を退職するからと、まとまったお金を送ってもらい、友人の勧めてくれたこの仕事に転職した。

 絶望的な気分のまま、研修を受けたり勉強をするのは辛かったけれど、何とか形になり、惰性で生きていた時に出会ったのが彼女だ。

 失ってしまった輝きをまとう彼女に強く惹かれて、気づいたら連絡先を渡していた。

 明確な夢に向かっている女性だったら、気後れしていたかもしれない。
 可能性にあふれてはいるものの、確たる目標をもっていなかったところが、自分が入り込む隙のように見えた。

 彼女が憧れてくれるような、格好いい大人を、ずっと演じていた。

 家にいる姉のせいで、制約はあった。
 以前の自分の不摂生のせいで、あまりお金も持っていなかった。

 そういうのを全部、誤魔化しながら付きあっていた。

 なんて子どもだったんだろうと、思う。

 駄目なところを全部さらけだして、それでやっと信頼関係を築いていくスタート地点に立てる。
 そんな簡単なことに、有希と出会うまで気づきもしなかった。

「あの子との別れ話でさ、他に好きな人ができたって言われたって、ずっと昔に言ったと思うんだけどさ」
「あー……そうだっけ。既婚者と別れるための、断り文句として認識してたから、内容までは覚えてないわね。それも完全に嘘ではないと思うけど」
「そうなのか?」
「何かしらの別れるきっかけは、あったと思うけどね。付きあうにも別れるにも、エネルギーは必要でしょ。で、それがどうしたの?」
「あー……、あ、うん。それで、その言葉のすぐ後にさ、俺に足りないものって何かあったかなって聞いたんだ」
「そうだったの。それは初めて聞いたわ。彼女は、何て答えたの?」

 さっきまでいた、イルカショーのステージを思い出す。

 人のいない、ひんやりとしたベンチで冷たい風に吹かれて、二人並んで最後の時を過ごした、かつての日を。

「覚悟って、言われた」
「へーぇ?」
「何を自分に隠していたのかは分からないけど、中途半端な覚悟で自分の心が手に入ると思うな、みたいなことを言われたよ。細かい部分はもう、覚えてないけどな」
「あっはは、いいわね彼女。今からでもママ友になりたいわ。あっ、とと」

 大きい声を出したせいか、娘が身じろぎをした。起きはしなかったようだ。

「それはちょっと、勘弁してほしいな」
「まぁ、実際には気まずいわよね。でも、そんな言葉が最後に出てくるってことは、やっぱり疑われていたんじゃない。誤解を解いてよかったと、心から思ったわ。あなたも彼女も、ついでに私もスッキリして、いい幕引きになったわね。ちょっと遅かったけど」
「嫌じゃないのか?」
「何が?」
「いや、夫の過去に、違う女性との思い出が残ってるって」

 そう言うと、有希は鼻で笑った。

「小さな少女じゃあるまいし。可愛らしくて、いいと思うわよ」
「う……」
「男って、そうよねー。私は上書き保存派だから。今まで通り、いい夫で、いいパパであれば、何の文句もないわ」
「そこで、プレッシャーをかけてくるところが、さすがだな」
「お褒めの言葉、どうもありがと」

 いい夫で、いいパパ。
 少し耳が痛い。
 子どもができてからは、なかなかそのハードルは高かった。
 有希の教育があって、今に至る。

「有希も、素敵なママで最高の妻だよ。俺は幸せ者だな」
「私もよ」
「あの子も、幸せかな。可愛い男の子もいたしな」
「そうだと思うわよ」
「分かるのか?」
「旦那さんが、ベビーカー押してたもの。少なくとも、旦那さんは全部妻に押しつけるタイプではないわね」
「はは。目のつけどころが、違うな」

 別れてしまったけれど、幸せであってほしい女性だ。
 人生、楽しいことばかりではないし、辛いことばかりでもない。
 俺の好きだった、あの曇りのない笑顔で、ずっと元気に過ごしてくれたらと、思う。

 彼女との思い出の物は、捨てられずにとってある。
 木製のボールペンもそうだけれど、無理を言ってスマホに送ってもらったイラストもだ。
 別れた後に迷惑だと思ったけれど、あの水族館で会った後に、お願いしてしまった。
 女々しい男だと、呆れられたかもしれない。

 送られてきたのは、年賀状ではないイラストだった。こっちのが出来がいいからと、書いてあった。

 里見らしい絵だな、と思った。
 綺麗な星空の下に扉があって、花が咲き乱れる淡いタッチの綺麗な景色がその向こうに見えていた。

 当時は、その絵を見て、俺にとっての彼女みたいだなと思った。暗い場所から、もう手に入らない輝きを夢見ているような。
 それから、たまに絵を見るようになって。彼女のようだなと思うようになった。未知の可能性に飛び込む前の、少女のようで。そんな自分を絵にしたのかな、と。

 久しぶりにまた、あの絵を思い出した。
 最近は見ていなかったけれど、すぐに思い出せる。

 今はあの絵に対する思いも、少し違う。

 あの絵の中の少女は、星の降る空の下にいた。
 扉の中も、扉の外も。
 どちらもきっと、素敵な場所だ。

「なぁ、有希」
「なぁに?」
「愛梨沙はどんな女の子になるんだろうな。ちょっと辛いけど、いつか結婚して、孫の顔も見れるのかな」
「なぁにいきなり、遠い先の話してるのよ。そういえば、今日はパパも一緒だって、昨日大喜びしてたわよ。パパの似顔絵も一生懸命書いてたから、後でもらえるんじゃない?」
「え、そうなのか。あー、やっぱり嫁にやりたくないな」
「早すぎるって、もー」

 頭を傾けながら、有希が笑う。
 俺の居場所は有希の隣で、もうそれ以外は考えられない。

 もう会わないだろう、彼女。
 でも、同じ空の下にいる。
 
 大切にしたい宝物のような思い出を、ありがとう。
 これからも、それぞれの場所で幸せになろう。

 フロントガラス越しの抜けるような青空に向かって、そう呼びかけた。
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