25 / 26
25.彼女に向けて
しおりを挟む
私は、迷っていた。
何を言うか、それとも何も言わないか。
満琉と彼女の様子で、この子が例の彼女だということは、すぐに分かった。
満琉との出会いは、この水族館の中から行ける、しおかぜ広場という場所だ。
そこで、泣いていた満琉に私が話しかけたのが、きっかけだった。
「大の大人がみっともなく泣いて、どうしたのよ」
癒しを求めてこの広場に来たら、辛気くさく泣いている彼を見つけて、つい当たってしまった。
満琉は、誰かに話しかけられるとは思っていなかったのだろう。驚きで目を見開いた後に、邪魔臭そうに目をそらした。
「さっき彼女に振られたんだ。ほっといてくれ」
ベンチで海を見ながらそう言う彼に、私は「そう」とだけ言って立ち去り、コーヒーを二本買って戻ってきた。
彼が、いい男だったからではない。
既婚の上司に言い寄られていて日頃むしゃくしゃしていたので、不幸そうな人の話が聞きたかっただけだ。
「迷惑なんだけど」
そういう彼に、わざとからからと笑ってみせた。
「いいじゃない、聞かせてよ。すっきりするかもよ。赤の他人になら、愚痴りやすいでしょ」
そう言って促すと、彼も頭を整理したかったのか話し始めた。
農家を営んでいる北海道から、上京を目指して大学受験したこと。
失敗して、滑り止めの愛知の大学に通ったこと。
念願のマスコミ関係の仕事に就き、イベントの開催に尽力したり、コマーシャルを作る仕事にも従事したものの、記憶を失くすまで連日飲み会で酒を飲んで身体を壊し、お金も底をついて退職したこと。
自動車学校の教官を今はしているけれど、それなら地元に帰ってこいとさんざん家族や親戚から言われていること。
それに目をつけ、連れて帰るためと言って、厄介な姉が自宅に居座っていること。
土日の休みは買い物などに、付きあわされること。
だから、彼女に家の場所も言えず、自宅にも呼べず、休日にも会えなかったこと。
「他に好きな人ができたって言ってたけど、やっぱりそれが原因だったのかな」
すっかり自分の世界に入って、たそがれている彼に、私は呆れた。
「馬鹿でしょ、あんた」
「振られて泣いている男に、それはないだろう」
「あんたそれ、既婚者だと思われてるわよ」
「え」
考えもしなかったのだろうか。
涙も止まって、呆然とした顔でこちらを見た。
「あんたの姉が嫁だったとして、不倫しようと思ったら、そういう行動になるでしょ」
「まさか……そういう……」
「まさかも何も、そうでしょ」
「い、いや、でも、結婚指輪だって、最初からしていないし」
「気になるからって、普段つけない男性も多いわよ」
「あ……」
何かに思いあたったように、口を開けたまま、しまったという顔をしている。
「なに、そんなこと言ったの?」
「ペアリングとか、気になるからって断った……」
「あらま。奥さんに、女の存在を隠そうとしてるとしか、思えないわね」
そう言うと、完全に机に顔を突っ伏してしまった。その可能性について考えなかったなんて、信じられない。
「なんで、そのこと彼女に言わなかったのよ」
「彼女は大学生なんだ。大人への憧れも壊したくなかったし、俺の家のゴタゴタにも巻き込みたくなかったんだよ。俺の姉、気が強くて喧嘩腰だしさ。万が一にも、会わせたくなかった」
「ふぅん。ま、終わったものはしょーがないわね。それより、その姉、追い出したら?」
「できるなら、そうしてるさ。本当に、厄介な姉なんだよ」
「ふーん」
聞くだけなのも悪いかと、私も自分の話をした。
その時は連絡先を交換するたけで解散し、その後、何回か会ったりと交流を深めると、私たちはお互いの問題を解決させることにした。
電気やガス、水道を止めて彼はこっそりと私の家に移る。その代わり、彼とのツーショット写真を撮らしてもらい、私のスマホの待ち受けにしたり車に飾ったりして、既婚者の上司へ牽制させてもらう。
そういう、協力だ。
上司は無人の私の車を覗きこむこともよくあったし、仕事の休み時間に上司が後ろを通る時にスマホを触って待ち受けが出るようにしたら、言い寄ってこなくなった。
満琉の姉は仕事場にも来そうだったので、その前に私が会って、実家への旅費だけ渡してさんざん罵倒してやった。
その後、仕方なく実家に戻ったらしい。
そういったやり取りや、短いつもりだった同居生活の中で仲良くなり、私たちは付きあうことになった。
結婚後はさすがに義理の姉とは親しくはなれなかったけれど、そこは仕方がない。彼の実家は北海道でほとんど行くこともないし、ほぼ会わない。何か言われても倍返しで言い返していたら、最近は帰省しても義姉とは会わないことが多い。避けられているのだろう。
満琉も帰りたがらないし、これ幸いと義両親には娘の写真だけ定期的に送るくらいだ。
後ろに座っている満琉の元彼女には、彼との出会いを作ってくれてありがたいと思っている。
そうでなければ、可愛い愛娘にも、恵まれなかった。
彼女は、既婚者と付きあっていたのではと思っているはずだ。
目の前の私と、二股だった可能性があると。
そうでなければ、あんなに気まずそうな顔にはならない。
誤解は解いてあげたい気がした。
私と二股だったと思われたままも、気分が悪い。
でも、どう話していいか分からない。
さっき彼女は、ただの教官と生徒だったと言ったばかり。
きっと、賢い女性なんだろう。
どうしたらと思っているうちに、イルカショーは終わってしまった。
「ママ、イルカ、ぴよーんだったね」
「うん、すごいジャンプだったね」
「こぉーんなに、高かったー!」
「そうだね、高かったよね」
娘と話しながら、通路を歩く。
満琉の表情も、ずっと固い。
「ママ、あれ食べたい!」
売店を娘が指差す。
「えー、しょうがないなぁ。パパ、どうする?」
「あ、あぁ。いいよ」
心、ここにあらずで満琉が言うので、何かを食べて一息つくかと、並ぶ。
彼女はまだ後ろかなと振り返ると、ベビーカーを押す旦那さんと一緒にこちらへ向かってくるところだった。
咄嗟に私は、不自然に大きい声で、満琉に話しかけた。
「あの子に会ったのって、お姉さんが家に住んでた時よね。私と出会う前に!」
ちらりともう一度後ろを見る。
驚いた顔を見せる彼女は、私と目が合うと、一礼した。
「そ、そうだな。姉と、住んでいた」
満琉も、不自然に大きな声で答える。
全ての事情は伝わらないと思うけれど、彼女の想像とは違う事情があったんだと察することだろう。
少なくとも、私との二股や不倫疑惑は解消したはずだ。
満琉と彼女の視線が交錯し、そして、彼女らは立ち去った。
2人にとっても、綺麗な思い出になったはず。
きっと、もう会わない人達。
でも、顔は忘れないと思う。
お互い、幸せになりましょう。
心の中で、そう呼び掛けた。
何を言うか、それとも何も言わないか。
満琉と彼女の様子で、この子が例の彼女だということは、すぐに分かった。
満琉との出会いは、この水族館の中から行ける、しおかぜ広場という場所だ。
そこで、泣いていた満琉に私が話しかけたのが、きっかけだった。
「大の大人がみっともなく泣いて、どうしたのよ」
癒しを求めてこの広場に来たら、辛気くさく泣いている彼を見つけて、つい当たってしまった。
満琉は、誰かに話しかけられるとは思っていなかったのだろう。驚きで目を見開いた後に、邪魔臭そうに目をそらした。
「さっき彼女に振られたんだ。ほっといてくれ」
ベンチで海を見ながらそう言う彼に、私は「そう」とだけ言って立ち去り、コーヒーを二本買って戻ってきた。
彼が、いい男だったからではない。
既婚の上司に言い寄られていて日頃むしゃくしゃしていたので、不幸そうな人の話が聞きたかっただけだ。
「迷惑なんだけど」
そういう彼に、わざとからからと笑ってみせた。
「いいじゃない、聞かせてよ。すっきりするかもよ。赤の他人になら、愚痴りやすいでしょ」
そう言って促すと、彼も頭を整理したかったのか話し始めた。
農家を営んでいる北海道から、上京を目指して大学受験したこと。
失敗して、滑り止めの愛知の大学に通ったこと。
念願のマスコミ関係の仕事に就き、イベントの開催に尽力したり、コマーシャルを作る仕事にも従事したものの、記憶を失くすまで連日飲み会で酒を飲んで身体を壊し、お金も底をついて退職したこと。
自動車学校の教官を今はしているけれど、それなら地元に帰ってこいとさんざん家族や親戚から言われていること。
それに目をつけ、連れて帰るためと言って、厄介な姉が自宅に居座っていること。
土日の休みは買い物などに、付きあわされること。
だから、彼女に家の場所も言えず、自宅にも呼べず、休日にも会えなかったこと。
「他に好きな人ができたって言ってたけど、やっぱりそれが原因だったのかな」
すっかり自分の世界に入って、たそがれている彼に、私は呆れた。
「馬鹿でしょ、あんた」
「振られて泣いている男に、それはないだろう」
「あんたそれ、既婚者だと思われてるわよ」
「え」
考えもしなかったのだろうか。
涙も止まって、呆然とした顔でこちらを見た。
「あんたの姉が嫁だったとして、不倫しようと思ったら、そういう行動になるでしょ」
「まさか……そういう……」
「まさかも何も、そうでしょ」
「い、いや、でも、結婚指輪だって、最初からしていないし」
「気になるからって、普段つけない男性も多いわよ」
「あ……」
何かに思いあたったように、口を開けたまま、しまったという顔をしている。
「なに、そんなこと言ったの?」
「ペアリングとか、気になるからって断った……」
「あらま。奥さんに、女の存在を隠そうとしてるとしか、思えないわね」
そう言うと、完全に机に顔を突っ伏してしまった。その可能性について考えなかったなんて、信じられない。
「なんで、そのこと彼女に言わなかったのよ」
「彼女は大学生なんだ。大人への憧れも壊したくなかったし、俺の家のゴタゴタにも巻き込みたくなかったんだよ。俺の姉、気が強くて喧嘩腰だしさ。万が一にも、会わせたくなかった」
「ふぅん。ま、終わったものはしょーがないわね。それより、その姉、追い出したら?」
「できるなら、そうしてるさ。本当に、厄介な姉なんだよ」
「ふーん」
聞くだけなのも悪いかと、私も自分の話をした。
その時は連絡先を交換するたけで解散し、その後、何回か会ったりと交流を深めると、私たちはお互いの問題を解決させることにした。
電気やガス、水道を止めて彼はこっそりと私の家に移る。その代わり、彼とのツーショット写真を撮らしてもらい、私のスマホの待ち受けにしたり車に飾ったりして、既婚者の上司へ牽制させてもらう。
そういう、協力だ。
上司は無人の私の車を覗きこむこともよくあったし、仕事の休み時間に上司が後ろを通る時にスマホを触って待ち受けが出るようにしたら、言い寄ってこなくなった。
満琉の姉は仕事場にも来そうだったので、その前に私が会って、実家への旅費だけ渡してさんざん罵倒してやった。
その後、仕方なく実家に戻ったらしい。
そういったやり取りや、短いつもりだった同居生活の中で仲良くなり、私たちは付きあうことになった。
結婚後はさすがに義理の姉とは親しくはなれなかったけれど、そこは仕方がない。彼の実家は北海道でほとんど行くこともないし、ほぼ会わない。何か言われても倍返しで言い返していたら、最近は帰省しても義姉とは会わないことが多い。避けられているのだろう。
満琉も帰りたがらないし、これ幸いと義両親には娘の写真だけ定期的に送るくらいだ。
後ろに座っている満琉の元彼女には、彼との出会いを作ってくれてありがたいと思っている。
そうでなければ、可愛い愛娘にも、恵まれなかった。
彼女は、既婚者と付きあっていたのではと思っているはずだ。
目の前の私と、二股だった可能性があると。
そうでなければ、あんなに気まずそうな顔にはならない。
誤解は解いてあげたい気がした。
私と二股だったと思われたままも、気分が悪い。
でも、どう話していいか分からない。
さっき彼女は、ただの教官と生徒だったと言ったばかり。
きっと、賢い女性なんだろう。
どうしたらと思っているうちに、イルカショーは終わってしまった。
「ママ、イルカ、ぴよーんだったね」
「うん、すごいジャンプだったね」
「こぉーんなに、高かったー!」
「そうだね、高かったよね」
娘と話しながら、通路を歩く。
満琉の表情も、ずっと固い。
「ママ、あれ食べたい!」
売店を娘が指差す。
「えー、しょうがないなぁ。パパ、どうする?」
「あ、あぁ。いいよ」
心、ここにあらずで満琉が言うので、何かを食べて一息つくかと、並ぶ。
彼女はまだ後ろかなと振り返ると、ベビーカーを押す旦那さんと一緒にこちらへ向かってくるところだった。
咄嗟に私は、不自然に大きい声で、満琉に話しかけた。
「あの子に会ったのって、お姉さんが家に住んでた時よね。私と出会う前に!」
ちらりともう一度後ろを見る。
驚いた顔を見せる彼女は、私と目が合うと、一礼した。
「そ、そうだな。姉と、住んでいた」
満琉も、不自然に大きな声で答える。
全ての事情は伝わらないと思うけれど、彼女の想像とは違う事情があったんだと察することだろう。
少なくとも、私との二股や不倫疑惑は解消したはずだ。
満琉と彼女の視線が交錯し、そして、彼女らは立ち去った。
2人にとっても、綺麗な思い出になったはず。
きっと、もう会わない人達。
でも、顔は忘れないと思う。
お互い、幸せになりましょう。
心の中で、そう呼び掛けた。
0
あなたにおすすめの小説
遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜
小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。
でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。
就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。
そこには玲央がいる。
それなのに、私は玲央に選ばれない……
そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。
瀬川真冬 25歳
一ノ瀬玲央 25歳
ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。
表紙は簡単表紙メーカーにて作成。
アルファポリス公開日 2024/10/21
作品の無断転載はご遠慮ください。
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
嘘をつく唇に優しいキスを
松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。
桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。
だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。
麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。
そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。
【完結】結婚式の隣の席
山田森湖
恋愛
親友の結婚式、隣の席に座ったのは——かつて同じ人を想っていた男性だった。
ふとした共感から始まった、ふたりの一夜とその先の関係。
「幸せになってやろう」
過去の想いを超えて、新たな恋に踏み出すラブストーリー。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
読んでくださり感謝いたします。
すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。
会社のイケメン先輩がなぜか夜な夜な私のアパートにやって来る件について(※付き合っていません)
久留茶
恋愛
地味で陰キャでぽっちゃり体型の小森菜乃(24)は、会社の飲み会で女子一番人気のイケメン社員・五十嵐大和(26)を、ひょんなことから自分のアパートに泊めることに。
しかし五十嵐は表の顔とは別に、腹黒でひと癖もふた癖もある男だった。
「お前は俺の恋愛対象外。ヤル気も全く起きない安全地帯」
――酷い言葉に、菜乃は呆然。二度と関わるまいと決める。
なのに、それを境に彼は夜な夜な菜乃のもとへ現れるようになり……?
溺愛×性格に難ありの執着男子 × 冴えない自分から変身する健気ヒロイン。
王道と刺激が詰まったオフィスラブコメディ!
*全28話完結
*辛口で過激な発言あり。苦手な方はご注意ください。
*他誌にも掲載中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる