好きな人は、3人

秋風いろは

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24.あれから10年

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 あれから十年の月日が経った。

 水族館はずっとお気に入りのままだったけれど、イルカショーをプールサイドで見るのは十年ぶりだ。

 今日は家族三人で来た。
 息子にとっては初めての水族館であり、イルカショーだ。

「あの辺に座るから」

 夫に言うと、彼は通路の隅でベビーカーから息子をおろし、置き場へ向かう。私は息子を抱き上げると、ゆっくりと下りていく。

 席は、観客側の舞台の隣だ。お気に入りだった席はもう埋まっている。
 今日は前から五列目にしよう。

「座ろうね」

 夫の座る場所を考えて、息子をベンチに座らせる。

 後からベビーカーに引っ掛けていた荷物を持って下りてきた夫に、タッパを出すように頼んだ。

 何が始まるんだろうと緊張ぎみの顔を見せる息子に、大丈夫と話しかけ、膝の上に移動させた。

 手持ち無沙汰だと泣いてしまう。
 機嫌を維持するために、タッパから一口サイズの小さなおにぎりを一つ取ると、息子の口に入れてあげた。

 嬉しそうに私の顔を見て、にこにこと頬張る。

「おにぎり、美味しいね」

 まだわずかな言葉しか話せない息子に、ゆっくりと聞き取りやすいように話しかける。その声に反応したのか、前に座っている男性が、こちらを振り向いた。

「あ」

 すんでのところで耐えた驚きの声を、彼があげた。それと同時に、彼の隣に座っていた小さな女の子と女性もこちらを振り向いた。

 呼びそうになった名前を、訝しげにこちらを見る奥さんを視界に入れながら噛み殺す。

「昔、自動車学校でお会いした教官さんに似てますが、そうですか?」

 少し慌てたようなそぶりの満琉に、静かに聞いた。

「あ、ああ。そっか、いや、そうだったな。生徒だったよな。そうだった」

 しどろもどろな返答に、やっぱりそうでしたかと笑うと、隣に座ってじっと息子を見つめていた三歳ぐらいの女の子が私に話しかけた。

「ちっちゃい。何歳?」
「一歳だよ」
「あのね、愛梨沙ありさは三歳。ちょうちょさんなの。初めて来たの。それでね、あのね、イルカ見たくて来たの」
「そっかぁ、大きいね。お名前も言えて、すごいね。イルカさん楽しみだね」

 保育園か幼稚園のちょうちょ組ということだろう。
 隣の奥さんが、えへへと笑う女の子を撫でながら礼をするので、私もおじぎを返した。

「君がさ、昔、この水族館の手前の舞台の隣四列目がいいって言ってただろう? だからここに座ったんだけど、まさか会うとは思わなかったよ」

 落ち着きを取り戻した満琉にまた話しかけられる。十年経っても印象は変わらない。むしろ幼くなったように見えるのは、私が歳をとったということか。

「よく覚えていますね。私は、あまりに下手な運転に心の底から呆れている教官が印象的だったくらいなんですが」

 あー、と手を頭にやる満琉に、奥さんが話しかける。

「あなた、生徒さんを指導する立場で呆れてどうするのよ。来る前に言ってた、この席を教えてもらった生徒さんって、こちらの方だったのね」

 そして私を見ると、可愛い女の子だったって言ってたのよと、ころころ笑った。
 ショートボブの髪の下からピアスがちらちらと見える。エレガントで上品な雰囲気の女性だ。

「もう、おばちゃんですが」

 と言うと、まだ若いわよと苦笑された。

 何となくその顔が満琉に似ている気がして、長い付きあいなのかなと思った。

 自分と別れた後に出会ったのだと信じたい。
 いつごろ結婚されたんですかと、聞いたら答えてくれるだろうかと思いながらも、罪と向かい合う勇気はなかった。

 息子がおにぎりを食べ終わったので、口元を簡単にスタイで拭うと、タッパから次のおにぎりを取り出して、待ち構えて開いたままの口の中に入れる。

 その一連の作業のうちに、彼らも振り返っていた姿勢を元に戻して、前を向いていた。

 やっと肩の力が抜ける。
 息子を挟んで座っている夫が、意味深な顔を向けるので、コクンと頷く。

 相変わらずのアップテンポの曲を聞きながら、何となく計算をしてしまう。

 娘さんが三歳何ヶ月なのかは分からないけれど、四年弱と考えて、妊娠期間を入れると少なくとも五年前に奥さんとは、いい仲だったはず。
 私と別れたのは十年前。
 同時進行ではなかった可能性は、十分ある。

 目の前の娘さんが、小さくてよかったとほっとする。

 若かったな、とイルカの紹介映像を見ながら思い出す。

 ちょっとした冒険心と憧れから始めた、小さな恋というには少しばかり濁っている十代最後の思い出だ。

 当時の満琉の年齢は、もう越えているのかもしれない。
 そういえば、年齢すら聞いていなかった。

 今の私から見れば、かつての彼は遠い世界の格好いい社会人ではない。ただの、若造だ。

 今の私のまま過去に戻ったなら、きっと彼を問い詰めている。
 でも、それではあんなに甘酸っぱい思い出にはならなかったはずだ。

 ショー開始の秒読みから、音楽に合わせてイルカが勢いよく現れ、華麗なジャンプを見せた。

 大歓声の中、司会のお姉さんが元気よく挨拶して始まる。息子が膝の上で身を乗り出し、「あ!」と言ってイルカを指差した。

 イルカさんだよ、と言って髪をなでる。

 見たことのない世界への憧れは、もう消えた。

 安全の保障のない場所なんて、行きたくはない。息子にもこの世界で、輝く何かを見つけてほしいなと願う。

 ショーが終わると、半数以上の人が退席し、混雑がなくなってから立ち上がる。

 満琉たち家族も、一礼して出口へと向かった。

 何となく、ベビーカーを押して歩く夫を、パパでもなく、あなたでもなく、久しぶりにあだ名で呼んだ。

「ね、岩ちゃん」

 相変わらずいつもと同じ顔で、毎日呼ばれ慣れているような様子でこちらを見る。

「なんだ?」

 彼が「車校の人」だったということは、きっと気づいているはずだ。でも、私が何か言わない限り、何も聞かないだろう。

「この子が大きくなって手が離れて、いつかまた二人で歩けるようになったらさ。次のネックレス買って。前のはちょっと錆びついてきたし。タイガーアイのね」

 今は、何もつけていない。息子を抱っこする時に当たってしまうからだ。

「はいはい。先の長い話だな」

 ヘーゼルの瞳に太陽の光が差し込み、黄金色に輝いている。

 別世界を見てみたければ、彼の瞳を覗き込めばいい。
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