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23.最後のデート
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大学は春休みに入り、二月になった。
震えるような寒さの中で、イルカショーが始まる一時間も前に、プールサイドに一人で座った。
場所は、観客側のステージのすぐ横で、前から四列目だ。他にまだ観客はほとんどいない。
満琉への返事は悩んだ末、こんなメッセージを送った。
『どこかの公園か、水族館か、どちらかはどう? 日程や時間が合う日に、偶然そこにいることにします』
完全に二人きりには、もうなる気にはなれなかった。
ホテルはもちろん、車もだ。
デートのように、普段行かない場所で待ち合わせもしたくもない。
二人きりではなく、しゃべってもいい場所という条件だけであれば、飲食店になる。
でも、別れた人と飲食する気にはあまりならないし、会計を別にしても一緒にしても味が悪い。
そもそもデート感はもう、出したくはない。
多少の人の目があって、引き止められにくいところがいいとも考えた。
どうしようかと悩み、私が一人で行ってもおかしくない場所へ行って、たまたまそこで会う形がいいなと思った。
公園だけを提案しようかと思ったけれど、味気ないかと水族館も付け足した。
結果、満琉は水族館を選んだ。
待ち合わせは、イルカショーが始まる五十分前のプールサイド。誰かと話していても、迷惑にならない場所と時間だ。
ゆったりと泳ぐイルカを見ていると、すぐに誰かが隣に座った。
「水族館、好きなんだな」
「うん。ぼーっとしたい時に、来るの」
顔をお互いに見合わせて、微笑みあう。ずっと大人っぽくてスマートだと思っていた彼が、少し寂しそうな笑顔を向けるから、可愛く見えてしまった。
ピアノを前にした彼を、思い出す。
何かが違っていたら、これからも彼と歩む人生があったのかもしれない。
「この席はお気に入りなんだよ。正面に近いし、ギリギリ水しぶきがかからないの。私の前のベンチを見て。足下が濡れてるでしょ。ギリギリすぎて、たまにはかかるんだけどね」
「本当によく来てるんだな」
小さく満琉が笑う。別れたなんて、まるで嘘のようだ。
「ごめんね。ものすごく好きになっちゃった人がいるの。満琉さんのことも、変わらず格好いいなとは思うけど、突然その人しか見えなくなって」
私はこの人の前だと、嘘ばかりだ。
最初についた嘘は何だったか。カフェサークルに入っていると言ったことだったかもしれない。
趣味も、読書では暗いかと思って違うことを言った気がする。雑貨屋巡りだったか、音楽鑑賞だったか思い出せない。
嘘をつけば、つき続けるか、正直に嘘だったと告白するかの二択しかなくなる。
それが嫌なら、関係を絶ってなかったことにするしかない。
ずっと一緒にいたいのなら、嘘なんてついてはいけなかった。
私は最初から、いつか別れることを前提にしていたんだ。
「ああ。他の奴にとられちゃうのは、やっぱり悔しいな。里美は今日も可愛くて、辛いけど。でも、受け入れるよ。最後に話す機会をくれて、ありがとな」
「うん。今までありがとね」
落ち込んでいる顔を見ると、慰めたくなる。
だからこそ、もう二度と会わないようにしなくては。
「こんな日が来るかなって、実は思ってはいたんだ。里美は、俺のこと好きだって言ってくれなかったからさ。もっと好きな奴とかできて、離れちゃうのかなって」
少し驚いた。確かに、言ってはいなかったかもしれない。二股しておいて、好きだと言うことに抵抗があったからだろう。
「好きより憧れのが強かったかも。自覚はなかったけど」
「里美は、誠実だな」
今度こそ、顔が引きつった。誠実だと思われているうちに、別れられてよかったと思う。
「そう、ありたいけど」
これからは、意識して誠実で正直になろう。
嘘を自然につけるのが大人に近づいた証拠のように感じて、背伸びした自分に酔っていたのかもしれない。
自分をよく見せたい誘惑を必死に抑えて正直であるほうが、ずっと大人なんだ。
「俺に足りないところって、何だったかな。今後のためにもさ、正直に教えてくれ」
正直に生きようと思ったところで、そのワードを出されて、心臓が飛び跳ねる。
誤魔化すこともできた。
全部素敵だったと言って、でももっと好きな人ができたからと逃げることもできた。
でも、正直にあろうと決意したばかりだ。
少し緊張しながら、口を開ける。
誤魔化すよりも、本当のことを言う方が、ずっと怖い。
「覚悟、かな」
揺れる水面と優雅に泳ぐイルカを見ながら、そう答えた。
「覚悟?」
満琉が、切れ長の目を大きく見開いてこちらを見た。
「自分のこと、ほとんど教えてくれなかった自覚はあるでしょ? 満琉さんが何を守ろうとしていたのかは知らない。見栄、恥、保身、どんな感情で何を私から隠そうとしていたのか、もう探ろうとは思わないけど。でも、その程度の覚悟で女子大生の心が手に入るとは思わないでね」
最後は茶化して、わざとらしく目配せをした。
「覚悟、か。そうだな。その通りかもな」
遠い目をしながら彼が前を見るので、私も前を見る。
まだ、心臓がバクバクしている。
生意気だと、思われたかな。
何も知らないくせに知ったことを言って、と腹が立ったりしていないかな。
でも、最後の最後に、思っていたことを言えて、よかったと思う。
音楽がいつしか流れ出し、イルカの紹介の映像が映し出され、会場内の注意アナウンスが聞こえ始める。お客さんは、平日だというのに続々と入り始めている。
「一緒に見ていっていいかな」
「もちろん」
客席は埋まっていき、アップテンポの曲が流れる。
あっという間の一年だった。
連絡先を渡されて、数字の羅列を何日もドキドキしながら見つめた。
大人との恋の予感に胸が高鳴って、まるで異世界への扉を目の前にしている気分だった。
今日で終わりだ。
扉の先に広がっていたのは、どこまでも現実で、竜宮城が待っていたわけではなかったけれど。
私たちは、まるで今日恋人同士になったかのように、歓声をあげてショーを楽しんだ。
震えるような寒さの中で、イルカショーが始まる一時間も前に、プールサイドに一人で座った。
場所は、観客側のステージのすぐ横で、前から四列目だ。他にまだ観客はほとんどいない。
満琉への返事は悩んだ末、こんなメッセージを送った。
『どこかの公園か、水族館か、どちらかはどう? 日程や時間が合う日に、偶然そこにいることにします』
完全に二人きりには、もうなる気にはなれなかった。
ホテルはもちろん、車もだ。
デートのように、普段行かない場所で待ち合わせもしたくもない。
二人きりではなく、しゃべってもいい場所という条件だけであれば、飲食店になる。
でも、別れた人と飲食する気にはあまりならないし、会計を別にしても一緒にしても味が悪い。
そもそもデート感はもう、出したくはない。
多少の人の目があって、引き止められにくいところがいいとも考えた。
どうしようかと悩み、私が一人で行ってもおかしくない場所へ行って、たまたまそこで会う形がいいなと思った。
公園だけを提案しようかと思ったけれど、味気ないかと水族館も付け足した。
結果、満琉は水族館を選んだ。
待ち合わせは、イルカショーが始まる五十分前のプールサイド。誰かと話していても、迷惑にならない場所と時間だ。
ゆったりと泳ぐイルカを見ていると、すぐに誰かが隣に座った。
「水族館、好きなんだな」
「うん。ぼーっとしたい時に、来るの」
顔をお互いに見合わせて、微笑みあう。ずっと大人っぽくてスマートだと思っていた彼が、少し寂しそうな笑顔を向けるから、可愛く見えてしまった。
ピアノを前にした彼を、思い出す。
何かが違っていたら、これからも彼と歩む人生があったのかもしれない。
「この席はお気に入りなんだよ。正面に近いし、ギリギリ水しぶきがかからないの。私の前のベンチを見て。足下が濡れてるでしょ。ギリギリすぎて、たまにはかかるんだけどね」
「本当によく来てるんだな」
小さく満琉が笑う。別れたなんて、まるで嘘のようだ。
「ごめんね。ものすごく好きになっちゃった人がいるの。満琉さんのことも、変わらず格好いいなとは思うけど、突然その人しか見えなくなって」
私はこの人の前だと、嘘ばかりだ。
最初についた嘘は何だったか。カフェサークルに入っていると言ったことだったかもしれない。
趣味も、読書では暗いかと思って違うことを言った気がする。雑貨屋巡りだったか、音楽鑑賞だったか思い出せない。
嘘をつけば、つき続けるか、正直に嘘だったと告白するかの二択しかなくなる。
それが嫌なら、関係を絶ってなかったことにするしかない。
ずっと一緒にいたいのなら、嘘なんてついてはいけなかった。
私は最初から、いつか別れることを前提にしていたんだ。
「ああ。他の奴にとられちゃうのは、やっぱり悔しいな。里美は今日も可愛くて、辛いけど。でも、受け入れるよ。最後に話す機会をくれて、ありがとな」
「うん。今までありがとね」
落ち込んでいる顔を見ると、慰めたくなる。
だからこそ、もう二度と会わないようにしなくては。
「こんな日が来るかなって、実は思ってはいたんだ。里美は、俺のこと好きだって言ってくれなかったからさ。もっと好きな奴とかできて、離れちゃうのかなって」
少し驚いた。確かに、言ってはいなかったかもしれない。二股しておいて、好きだと言うことに抵抗があったからだろう。
「好きより憧れのが強かったかも。自覚はなかったけど」
「里美は、誠実だな」
今度こそ、顔が引きつった。誠実だと思われているうちに、別れられてよかったと思う。
「そう、ありたいけど」
これからは、意識して誠実で正直になろう。
嘘を自然につけるのが大人に近づいた証拠のように感じて、背伸びした自分に酔っていたのかもしれない。
自分をよく見せたい誘惑を必死に抑えて正直であるほうが、ずっと大人なんだ。
「俺に足りないところって、何だったかな。今後のためにもさ、正直に教えてくれ」
正直に生きようと思ったところで、そのワードを出されて、心臓が飛び跳ねる。
誤魔化すこともできた。
全部素敵だったと言って、でももっと好きな人ができたからと逃げることもできた。
でも、正直にあろうと決意したばかりだ。
少し緊張しながら、口を開ける。
誤魔化すよりも、本当のことを言う方が、ずっと怖い。
「覚悟、かな」
揺れる水面と優雅に泳ぐイルカを見ながら、そう答えた。
「覚悟?」
満琉が、切れ長の目を大きく見開いてこちらを見た。
「自分のこと、ほとんど教えてくれなかった自覚はあるでしょ? 満琉さんが何を守ろうとしていたのかは知らない。見栄、恥、保身、どんな感情で何を私から隠そうとしていたのか、もう探ろうとは思わないけど。でも、その程度の覚悟で女子大生の心が手に入るとは思わないでね」
最後は茶化して、わざとらしく目配せをした。
「覚悟、か。そうだな。その通りかもな」
遠い目をしながら彼が前を見るので、私も前を見る。
まだ、心臓がバクバクしている。
生意気だと、思われたかな。
何も知らないくせに知ったことを言って、と腹が立ったりしていないかな。
でも、最後の最後に、思っていたことを言えて、よかったと思う。
音楽がいつしか流れ出し、イルカの紹介の映像が映し出され、会場内の注意アナウンスが聞こえ始める。お客さんは、平日だというのに続々と入り始めている。
「一緒に見ていっていいかな」
「もちろん」
客席は埋まっていき、アップテンポの曲が流れる。
あっという間の一年だった。
連絡先を渡されて、数字の羅列を何日もドキドキしながら見つめた。
大人との恋の予感に胸が高鳴って、まるで異世界への扉を目の前にしている気分だった。
今日で終わりだ。
扉の先に広がっていたのは、どこまでも現実で、竜宮城が待っていたわけではなかったけれど。
私たちは、まるで今日恋人同士になったかのように、歓声をあげてショーを楽しんだ。
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