ほどけるくらい、愛して

上原緒弥

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本編

中編(02)

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 彩瑛が俯いて動けないまま立ち尽くしていると、ギルベルトの手にあった紙袋は、いつの間にか玄関と廊下とを繋ぐ段差のところに置かれていた。
 背後で、がちゃりと玄関の鍵が施錠される音がした。彩瑛のあとに部屋に入ったギルベルトが鍵を閉めたらしい。……鍵の構造は、あの世界とよく似ていた。

「サエ」

 名前を呼ばれて、彩瑛の体が震えた。目を瞑って、沙汰を待つ。
 けれどそのあと訪れたのは、体を包み込んでくる温もりだった。思わず彩瑛は息を飲む。
 腰を抱く腕が、離すまいと彼女の体を抱き締めていた。細身にも関わらず、ギルベルトが引き寄せる腕は強い。
 ふわりと彼の匂いが鼻を擽り、あの日抱き締められた記憶が頭を過ぎった。途端に、彩瑛の頬に熱が集中する。

「ギ、ルベルト……さま……?」

 名前を呼ぶけれど、ギルベルトの腕が緩まることはなかった。
 代わりにため息をひとつ吐いて、口を開いた。

「……術が完成して報告も後回しにして一番に会いに行ったのに、故郷に帰ったって言われた僕の気持ちを、サエは考えたことがある?」
「そ、れは、」
「あの日の様子がおかしかったから気になってはいたけど、まさか帰る方法を知ってたなんて思わなかった。もし知ってたら遠回りなことはしないで、純潔を奪って屋敷に閉じこめて……僕がいないと生きられないようにすれば良かったって、本気で思ったぐらいだ」
「どういう……っぁ」

 その言葉の真意を問いかけようとしたけれど、その前に耳朶を甘噛みされて言葉は甘い吐息に変わってしまった。
 ぺろりと、耳殻を温かい舌が這う。
 先ほどは恐ろしさで震えた背中が、違う感覚でぞくりと疼く。
 身動きしようと身を捩り、後ろ手に触れた壁に縋ろうとする。だがそのまま押し付けられて、彩瑛は本格的に逃げ場を失ったことに気付いた。
 肩に掛けたままのショップバッグが、がさりと音を立てた。

「だからサエ、今度は誤魔化さずに、ちゃんと教えて」

 壁に押し付けられ、手首を掴まれて、覗き込んでくる琥珀色が追い詰めてくる。腰を抱いていた手が伸びてきて、細くて骨張った指先が彩瑛の頬を撫でた。

「──王子に、何を言われたの」

 ひゅ、と彩瑛の喉が鳴った。その反応に、ギルベルトの瞳が細まる。
 嫌な汗が背中を伝う。
 王太子と会ったことは、誰にも言っていなかった。だが彼が知っていると言うことは、どこかから漏れてしまったということだろう。
 会ったことはもう誤魔化せない。けれど話の内容なら、まだ誤魔化せる。
 出掛かった言葉をすべて飲み込んで、彩瑛は問いの答えを口にした。

「……ギルベルト様が王族の血を引いていたことと、王太子様はギルベルト様には幸せになって欲しいと思っているというお話を、しました」
「それから?」
「それだけ、です」

 掴まれていない方の手のひらを、ぎゅっと握り締める。
 だが、彩瑛の答えはギルベルトのお気に召すものではなかったらしい。

「なら、聞き方を変えようか」

 前髪が揺れて、普段は隠れている紅色の瞳が彩瑛を見つめていた。左右で色彩の違う色に、魅入られる。

「僕には、相応しい女性と結婚して欲しい。そう聞かされて、サエはどう思った?」

 ──この人はすべて知っていて、その上で彩瑛の答えを待っている。
 動揺で彩瑛の瞳が揺れる。ギルベルトがそのことに気付かないはずがなかった。
 喉が渇いて、うまく声が出てこない。だが、必死に絞り出して問いに答える。

「結婚されたら、もしかしたらもう会えないのかなって思ったら寂しい気持ちはありました、けど、それ以上は何、も……あと、お兄さん想いの良い弟さんですね。王家ってギスギスしてるイメージがあったので、少し意外でした」
「……」
「ただまさか釘を刺されるなんて思わなくて、びっくりしましたけど。そもそも身分が違うし、わたしとギルベルト様じゃお客さんと店員以上にはなり得な、」

 すべてを言葉にする前に、彩瑛の口は塞がれてしまった。──ギルベルトのくちびるによって。

「ん……っ」

 彩瑛に喋らせないとでも言いように、何度も啄むようにくちびるを奪われる。
 次第に触れるだけではなく、僅かに開いたくちびるの間から舌を差し入れ、口内を蹂躙してくる。頭を掻き抱かれて、引き寄せられる。
 鼻で呼吸をすることは恋愛小説や漫画を読んでいて知っているが、いざその場面になったら、動揺のあまりに呼吸の仕方がわからなってしまった。けれど息苦しさを感じ始めるとギルベルトが息継ぎをする隙を与えてくれて、そのお陰で窒息せずには済む。
 どうして口付けられているのか、彩瑛にはわからない。
 だけど確かに言えるのは、くちびるを触れ合うことが気持ちよくて、そして心が満たされたような感覚を覚える、ということだった。

「──僕は、身分の差なんて関係なく、君と男女の仲になるつもりだった」
「え……?」

 腰が砕けて立てなくなった彩瑛の腰を抱きながら、ギルベルトはそう呟いた。

「身分のことはどうにでもなる。養子縁組でもすればいいんだから。だけど生きる世界が違うことは、きっとサエを悩ませる。その上でこちらの世界を選ぶことも、わかっていた。だけど諦めきれなくて、会う時間を削って転移術の研究をして、完成したら告白しようと思っていたのに、」

 ギルベルトの目がだんだんと据わってくる。

「弟が余計なことをしてサエには逃げられるし、あの魔女に話を聞いたらひとりで元の世界に帰ったって言う。本当はもっと早くに会いに来たかったのに横槍は入るし、やっと会えたと思ったら、また逃げられそうになるし」
「ご、ごめんなさい」
「会ったら会ったでこんな胸元の開いた服と短いスカート履いてて、簡単に部屋には上げるし、……僕だって好きな人を前にしたら触れたいとか、抱きたいとか思うよ」

 額同士をくっつけて、ギルベルトが彩瑛の瞳を覗き込んでくる。その瞳があまりに甘い熱をたたえていて、彩瑛は動揺する。
 そんなことを言われたのが初めてで、どんな反応をすればいいのかわからない。
 けれど確実に言えるのは、顔が熱くて、どうしようもないことだった。

「――好きだよ、サエ」

 大好きな声で囁かれた告白に、彩瑛は瞳を見開いた。
 予想外の言葉過ぎて、思考が追い付かない。
 やっとのことでその言葉の意味を理解したときには、こみ上げてきた涙で頬が濡れていた。ギルベルトの指先が、そっとその涙を掬ってくれる。

「怒ってたんじゃ、ないんですか……?」
「約束破って勝手に帰ってこられたことに対しては、怒ってる。だけど、それ以上に悲しかった。僕の存在はサエにとって、その程度だったのか。相談ぐらいしてくれれば良かったのにって」

 責めるような口調なのに、そっと落とされた口付けは、ひどく優しい。

「だけど、それでも好きだった。どうしても忘れられなくて、夢にまで見て。──今度こそは逃がさないって決めて、会いに来たんだ」
「ギル、ベルト、さま……」

 妖艶に、ギルベルトが微笑む。
 心臓に悪いぐらいにその笑みは美しくて、彩瑛の心臓が高鳴った。

「僕を本気にさせたサエが悪いよ。だから、観念して僕のところに堕ちてきて」

 そう言って落とされた口付けは甘くて、そしてひどく熱かった。
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