標識上のユートピア

さとう

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一章

十話

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 口元と左目を残して、包帯が顔全体に巻かれている。包帯にはうっすらと血が滲み、左目のすぐそばには裂傷が走っていた。手袋をしているので定かではないが、その両手はぶくぶくに膨れ上がっていた。
それが岸本陸であることに気付いたのは、数秒後であった。
呆然と立ち尽くすおれを見かねたのか、彼は言った。  
「変な生き物を見るような目は止めるのだ」
 至極明るい声だったが、どことなくくぐもっている。
「さ、早く作品を完成させないとな」
 岸本は手を打つと、自らの席に座り、作業を開始した。
岸本が、生きていた。
おれは誰も殺していない。
なにもかもが安心できるはずだった。
同時に、猜疑心がじわじわと胸の奥に広がっていく。
例の指名手配ポスター。情報を提供したのはおそらく岸本で間違いない。
だが、問題はそこではないのだ。
岸本は、凛奈と会ったのだろうか。そしておれのことを話したのではないだろうか。
(『大丈夫。あなたは悪くない。悪い夢を見たの』)  
 彼女は何も聞かなかった。
それは凛奈が何も知らなかったからではない。知っていながら、あえて聞かなかったのではないか?
再び岸本に目を移す。彼は、作品の仕上げにとりかかっていた。いつもにまして上手くいってない様子だ。両手がろくに使えないのだから、それも当然と言えるだろう。悪戦苦闘する様はさながら芋虫だった。  
「あっ」
 岸本が声を上げる。机からパレットが落ちたのだ。
赤い絵の具が、勢いよく四散する。
「あーあ……」 
 珍しく岸本は落胆していた。
哀れな光景だった。それでも彼は、おれに文句ひとつ言わなかった。
仕方がないのでパレットを拾ってやり、床についた絵の具も綺麗に拭いてやった。
何故か少しだけ気が軽くなった。
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