標識上のユートピア

さとう

文字の大きさ
12 / 67
一章

十一話

しおりを挟む
「岸本、屋上行かないか」
 作業が一通り終わったのを見計らい、声をかける。
「別によいが……なんなのだ?」
「ちょっと話があってさ」 
 岸本の画材を片付けるのを手伝いながら、さりげなく言う。
猜疑心こそあれど、彼に対する羨望と怒りは潮が引くように失せていた。
二人で屋上へと向かう。 
「岸本、大丈夫か?」
 先に屋上目前の踊り場までたどり着いたおれは、ゆっくりと階段を上る岸本に声をかける。片目が塞がっているせいだろう。手すりを掴もうにも、両手がぶくぶくで掴みようがない。
岸本を介助してやり、屋上のすぐ前まで連れてった。
外に繋がるドアを開ける。
夜特有の冷気が、顔に刺さる。日は暮れ、半壊のフェンスだけが月の光に照らされていた。
「寒いのう」
 岸本はがちがちと歯を震わせていた。
「用件は手短に頼むぞ、柿市よ」 
 要望に応じ、おれは一言だけ、静かに口にする。
「なぜ、怒らない?」 
「なぜ?」
 岸本はきょとんとしていた。左目の動きと口元だけで、おおよその表情が分かるのだ。
「昨日のことだよ」
 おれは、語気を鋭くする。
「昨日……? ああ」 
 岸本はようやく合点がいったようにうなずいた。
そして、どういうわけか笑いだした。
全く意図が分からない。
しばらくして、ようやく岸本は笑いを収めた。
「なんだお主、そんなことを気にしておったのか」 
「そんなこと?」
「昨日のことなら、これっぽっちも気にしておらぬぞ。ナイフを持った不審者が来たら、誰だって、一人でも逃げるに決まっておる。身どもとて例外ではない」
「…………」
 昨日の岸本を思い出す。彼は、最後までおれを引っ張っていこうと必死だった。  
「身どもとて例外ではない」? 自分だって逃げた、などという言葉は嘘だ。
あいつは一人で逃げなかった。少なくとも、おれとは違って。
その記憶に辿り着いた時、おれは気付いてしまった。
相手を気遣い、相手を馬鹿だと思い、相手に哀れみすら抱いていたのは……。 

おれではなく、岸本の方だったのだ。
 
今までおれは岸本に敗北感を感じていたが、それも違ったのだ。
本当はもう、とっくに全てにおいて敗北していたのだ。
目の前が暗くなっていく。それでも、声を振り絞る。
「指名手配ポスターの情報提供人は、お前か?」 
「そうだ」 
 岸本はあっさりと認めた。
「凛奈は? 凛奈には言ったのか?」 
岸本は左眉をしかめる。
「言うわけないだろう」  
「嘘だね。嘘だ、嘘だ嘘だ」 
 ぶちぶちと何かが引きちぎれる音がした。自分で自分の髪を引っ張っていた。
「言ったじゃないか。おれはそんなことしない。君を恨んでなんかいないと」 
 岸本の口調が、変わった。いや、元に戻ったと言うべきか。偉ぶった口調は鳴りを潜め、ごくごく普通の話し方になっていた。
余裕がなくなったということか?
「じゃあなんで指名手配ポスターの情報提供人になっているんだ?」
「だって、そうしないとまた被害者が出るかもしれないだろ? 情報は少しでも多い方がいい」 
 岸本への怒りが、熱のようにぶり返した。 
ふざけるな。いつまでお前はそうやっていい子ぶってるんだ。  
「嘘をつくなよ。はっきり言え、おれを恨んでる、見下してると」 
「なんでそんなことを言うんだ」 
 醜悪な生物は取り乱したように叫んだ。
気付くとその胸ぐらを掴み、フェンスに押し付けていた。
「善人ぶるな。おれを見下すな」
 息が苦しくなり、頭に空気が回らない。
「違う。おれは、おれは善人ぶってなんかいない」  
 胸ぐらを掴まれ、醜悪な生物は苦しそうだった。包帯がずれ、隙間から右目が覗く。左目のすぐそばから始まった創傷は、右の眼球にまで及んでいた。
苦痛で曲がった口から、掠れ声が漏れる。こちらを見据えた目から涙がこぼれた。 
「おれは、おれは……ただ、自分の信念に基づいて行動しただけだ……」
「うるさい、おれを恨んでるくせに。見下してるくせに」 
「許しに、勝るものはない……そう思ったんだ……」
 その一言で、おれは、醜悪な生物を――岸本を、解放した。
突き放された衝撃で岸本はふらつき、後ろにつんのめった。
 
 
 
 
 
鈍い、衝撃音。
 
 
 
 
 
絶望的なまでに、現実感がなかった。
「……きしもと?」 
 呼び掛けてみる。返事はない。
半壊のフェンスは更に大きく破れ、重砲を撃ち込まれたかのような風穴が空いている。
すぐそばにいって、地上を見下ろす。
岸本が仰向けに横たわっているのが見えた。僅かに動いた気もするが、よく見ていないので定かではない。
おれは岸本から目を背けた。動悸が止まらない。
いや、こうしていてもしょうがない。
下に見に行こう。歩こうとするが、視界はめまぐるしく回り、全身がふらついた。足が痙攣しているらしかった。
長い時間をかけて、校庭まで辿り着く。
岸本の首はあらぬ方向に折れ曲がり、口から出た血が包帯を侵食していた。
額には手が置かれ、目はカッと見開かれている。
既に事切れていた。
それが分かったとき、まず考えたのは自己の保身、つまり遺体の処理だった。
学校に蛙が住む池、ビオトープがあったのを思い出す。長時間は隠しきれないが、時間稼ぎくらいにはなるだろう。
岸本の遺体を引き摺る。が、重い。岸本は小柄なのに、死体はこんなにも重いのか。早くしないと、誰かに見付かってしまう。
なんとか重量を減らせないものか。その時、岸本が履いていたブーツが目に入った。脱がせてみると、思いの外重い。靴の中には傾斜がついており、ヒールもついている。歩き方が竹馬みたいになるのも納得だった。池に落としたときに脱げてしまう恐れもある。
ブーツは下駄箱に詰め、岸本をビオトープまで連れていく。側に落ちていた大きめの石と縄跳びを拾う。縄跳びを使い、岸本に石をくくりつけた。
石つきの遺体を、死力を尽くしてビオトープに放り込む。一生分の体力を使った気がした。
額に浮かんだ汗を拭い、前を見る。
咄嗟のことだった。
木々を挟んで、誰かが横切る。
その一瞬だけで、それが誰だかを悟る。今度こそ世界が真っ暗になった。
 
 
 
 
赤いパーカーを着た…………。
しおりを挟む
感想 173

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?

水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。 日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。 そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。 一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。 ◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です! ◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...