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二章
二十八話
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自宅である一軒家からは明かりが漏れていた。父が先に帰ってきているのだ。
「ただいま」
今や返事がないことにも慣れていた。母が入院して以来、「おかえり」の言葉が返ってきたことはない。
父は食卓に居座り、延々とスマホに指を侍らせていた。そんなに調べたいことがあるのだろうか。テーブルにはプラスチック容器入りの惣菜が並んでいる。スーパーで売っている出来合いの品だ。
「先に食べてくれればよかったのに」
惣菜を皿に移し替えながら言うが、曖昧にうなずかれただけに終わった。これにも慣れている。
食卓を囲んでいる間も、変わらず会話はなかった。これだけは慣れない。母がいれば、少なくともこんなことにはならないのに。手作りの晩御飯。他愛ない会話。当たり前だと思っていたことが、本当は当たり前ではなかったことを身に沁みて痛感する。
「翼」
黙々と口を動かしていた父が、ようやく語りかけてきた。
「……なんだよ」
我知らずキツい口調になる。
「志望大学は決まったのか? そろそろ決めないとまずいぞ」
進路の話か。型にはまった質問で気が重くなる。
だが、何も決めてないわけではない。行きたいところはある。やりたいことも。それは…………。
思い切って口を開いた。
「俺は美大に行きたい。画家をやりたいんだ」
「……画家?」
父は片方の眉をつり上げ、噛み締めるようにして単語を繰り返す。苦い果実を口に含んだかのような、ひどく歪な復唱。
やがて彼は、乾いた笑い声を漏らした。
「画家? そんなの職業と呼べるのか。翼、冗談だろう」
決心を足蹴りにされる。だが、さした失望もなかった。元々、この人は俺にとって最も敬意を払えない人間だ。
だが、憧れと夢を馬鹿にされるのは許せなかった。
「本気だよ。美大に行って勉強する。そんなの職業と呼べるのかだって? 当たり前だ。美術作品を見たことがないのか?」
「現実を見ろ。絵で食っていけるヤツなんて運のいい一握りだけだ。絵描きなんて目指す時間が無駄だ。すぐに挫折するに決まってる。才能もないのに馬鹿なことを言うな」
言葉の応酬が、何倍にも膨れ上がって返ってくる。
頭が熱くなり、怒りが燃え上がった。
理性の二文字が真っ黒に塗り潰される。
「ろくに俺の作品を見たこともないくせに。現実を見ろ、だって? 一番現実を見られてなかったのはあんただろ」
その言葉を放った途端、脳髄から脊椎まで氷柱のように冷えた気がした。
理性が戻ってきた。まずいと思った時には、手遅れだった。
「……おい、どういう意味だ」
沸き立つような低い声。すっかり怒らせたらしい。
まずいとは思ったものの、俺とて引く気はさらさらなかった。
「そのままの意味だ。俺はあんたを父親だとは思ってないし、認められなくてもいい。勝手に出ていってやる……」
鈍い衝撃。
言葉が途絶える。昼ドラみたいに、なにかが割れる音がした。
耳元をつたい、冷たい液体が頬をなでる。指でなぞると、血がべっとりついていた。
床を見て状況を把握する。父が、俺にガラスのコップを投げつけたのだ。
親子の仲はよくなかったが、直接暴力を振るわれるのは初めてだった。
別段痛みはなかった。
呆然と自らの両手を眺める父をよそに、俺はカバンを拾う。そのまま家を飛び出した。
「ただいま」
今や返事がないことにも慣れていた。母が入院して以来、「おかえり」の言葉が返ってきたことはない。
父は食卓に居座り、延々とスマホに指を侍らせていた。そんなに調べたいことがあるのだろうか。テーブルにはプラスチック容器入りの惣菜が並んでいる。スーパーで売っている出来合いの品だ。
「先に食べてくれればよかったのに」
惣菜を皿に移し替えながら言うが、曖昧にうなずかれただけに終わった。これにも慣れている。
食卓を囲んでいる間も、変わらず会話はなかった。これだけは慣れない。母がいれば、少なくともこんなことにはならないのに。手作りの晩御飯。他愛ない会話。当たり前だと思っていたことが、本当は当たり前ではなかったことを身に沁みて痛感する。
「翼」
黙々と口を動かしていた父が、ようやく語りかけてきた。
「……なんだよ」
我知らずキツい口調になる。
「志望大学は決まったのか? そろそろ決めないとまずいぞ」
進路の話か。型にはまった質問で気が重くなる。
だが、何も決めてないわけではない。行きたいところはある。やりたいことも。それは…………。
思い切って口を開いた。
「俺は美大に行きたい。画家をやりたいんだ」
「……画家?」
父は片方の眉をつり上げ、噛み締めるようにして単語を繰り返す。苦い果実を口に含んだかのような、ひどく歪な復唱。
やがて彼は、乾いた笑い声を漏らした。
「画家? そんなの職業と呼べるのか。翼、冗談だろう」
決心を足蹴りにされる。だが、さした失望もなかった。元々、この人は俺にとって最も敬意を払えない人間だ。
だが、憧れと夢を馬鹿にされるのは許せなかった。
「本気だよ。美大に行って勉強する。そんなの職業と呼べるのかだって? 当たり前だ。美術作品を見たことがないのか?」
「現実を見ろ。絵で食っていけるヤツなんて運のいい一握りだけだ。絵描きなんて目指す時間が無駄だ。すぐに挫折するに決まってる。才能もないのに馬鹿なことを言うな」
言葉の応酬が、何倍にも膨れ上がって返ってくる。
頭が熱くなり、怒りが燃え上がった。
理性の二文字が真っ黒に塗り潰される。
「ろくに俺の作品を見たこともないくせに。現実を見ろ、だって? 一番現実を見られてなかったのはあんただろ」
その言葉を放った途端、脳髄から脊椎まで氷柱のように冷えた気がした。
理性が戻ってきた。まずいと思った時には、手遅れだった。
「……おい、どういう意味だ」
沸き立つような低い声。すっかり怒らせたらしい。
まずいとは思ったものの、俺とて引く気はさらさらなかった。
「そのままの意味だ。俺はあんたを父親だとは思ってないし、認められなくてもいい。勝手に出ていってやる……」
鈍い衝撃。
言葉が途絶える。昼ドラみたいに、なにかが割れる音がした。
耳元をつたい、冷たい液体が頬をなでる。指でなぞると、血がべっとりついていた。
床を見て状況を把握する。父が、俺にガラスのコップを投げつけたのだ。
親子の仲はよくなかったが、直接暴力を振るわれるのは初めてだった。
別段痛みはなかった。
呆然と自らの両手を眺める父をよそに、俺はカバンを拾う。そのまま家を飛び出した。
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