標識上のユートピア

さとう

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二章

四十六話

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板垣と二人で、屋上へと向かう。もちろん、看護師には許可をもらった。
古い病院とだけあり、屋上もそれなりの年季を感じさせるものだろうと覚悟していた。が、幸い懸念に終わった。
屋上には真新しいベンチがいくつも並べられ、高くそびえるフェンスは威圧感のないティファニー・ブルーに彩られていた。リハビリ中だろうか。患者や看護師の姿もたくさん見られる。
「…………」 
 注意しなければ聞き取れないくらいの音量だった。板垣が小さくため息をついたのだ。
それが何を意味するのか容易に察せられた。
「綺麗だな」 
 彼女の意思を誤魔化すように、あるいは覆い隠すようにして、俺は言葉を吐き出した。綺麗だと思ったのは嘘ではない。青空は澄み渡り、遠くに見える飛行機雲はさながら鰯の稚魚だった。病院特有の鬱屈とした雰囲気もここなら晴れる。
「そうだね」 
 板垣は小さく首肯して、フェンスに歩み寄った。当然ながら、そこから飛び降りることはできない。だいぶ怪我も治ってきたとはいえ、彼女の腕力ではフェンスに敵わない。
俺たちは、黙って地面を見下ろした。自然の象徴ともいえる大空とは裏腹に、下は世俗に満ち満ちていた。車。道路。ビル群。自分の世界を、高みから眺望できる。
なんの面白味もなかった。「高いなあ」というごく平凡な感想しか浮かんでこない。
「面白くない光景だね」
 板垣も全く同じことを述べた。
「そうだな」
「下にいる人たちも、きっと退屈なんだろうね」
 板垣はそんなことを言った。予想だにしなかった発言だったので、俺は内心驚いた。
「そんなもんかな。習慣化しているから、もう退屈とかは感じないかもしれないぞ」
「でも、大きなビルをいっぺんに見下ろすのは楽しいかも」 
 板垣は、唐突に話題を変えた。しかし、言葉のわりに楽しそうな響きは伺えない。抑揚のない声だった。
不意に恐ろしくなった。
板垣がここから飛び降りるのは不可能だ。そう分かっていても、彼女が不意にビル群の中に消えていくようで、幻想が頭から離れなかった。
「やめろよ」
 軽くたしなめるつもりだった。しかし、出てきた言葉は自分でも驚くほど冷たく尖っていた。
板垣がこちらを見た。形容し難い感情が、俺に向けられている。あるいは虚無かもしれなかった。複雑な感情が波に飲まれ、虚無感だけが彼女の渦に蓋をしているのかもしれなかった。
俺はどうすればいいのだろう。深刻な顔をつくって、薄っぺらい言葉で彼女を慰めればいいのか? それは板垣のためになるのだろうか? 俺の自己満足に過ぎないのでは? 自己満足ほど醜いものはそうそうない。
思考が奈落の底で渦巻いている。
青空に視点を当て、大きく息を吸い込んだ。キャンバスを塗りつぶすように、頭の中をまっさらにしていく。
微笑み、板垣の肩を叩く。フランクな口調を心がける。 
「ビル群を見るのはマンハッタンポーテージだけで十分だよ」
 悲しいくらいにセンスがないのは自覚していた。数秒の沈黙の後、板垣の表情が変わる。
彼女は声を出して笑っていた。
「馬鹿みたい」
 可愛くないセリフだが、いつもの嘲りとは決定的に違う。彼女が声を出して笑うのを初めて見た。
「馬鹿で悪かったな」
 今度こそ、無心で返すことができた。
しばらく、互いにくだらない冗談を言って笑いあった。見舞いで初めてよかったと思える出来事だった。
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