標識上のユートピア

さとう

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二章

五十三話

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   いいことがあっても、憂鬱なものは憂鬱だ。自宅はさながら犬鳴村だし、食卓についた際は最後の晩餐を迎えた気分になる。もちろん、紀元前に生まれたイエス=キリストの気持ちを確かめることはできないが。
だが、一番不気味な存在が父であることは最早疑う余地もなかった。
玄関を開けた時、彼は亡霊のような表情で食卓についていた。その手に新聞や携帯はなく、時が止まったかのように、まばたきすらそこにはなかった。
父はこちらを見たきり、なにも言わなかった。頬はひどく痩せこけている。俺が席に着くのを見ても、父は無反応を貫いた。
机上には、無造作にスーパーの惣菜が置かれていた。冷えきった唐揚げ、見るからにふにゃふにゃしている蟹クリームコロッケ、衣のはげかけたイカリング。
見ているだけで胃もたれしそうだ。
電子レンジで温めても食欲が湧かない。無言の食卓はお通夜のようで、咀嚼する喉元に刃物を突きつけられている気がした。
「そういえばさ、頭が痛いとか言ってたじゃん。もう治ったの?」
 自分から声をかけるつもりはなかったが、気が付けば口を開いていた。
父は箸を持つ手を止めた。
「ああ。最近は大丈夫だ」
 そう言ったきり、また父は食事に専念し始めた。静寂が食卓を包む。
「そうだ」
 今度は父が口を開いた。
「美術部の方はどうなんだ?」 
「ああ」 
 言葉を濁し、油のまわったコロッケを口にする。見た目通りふにゃふにゃした食感だった。
「……楽しいよ」
 父親の動向が読めない今、そう答えるしかなかった。
「楽しいならよかった。学校の成績にも関係するとはいえ、楽しめなきゃ意味がないからな、部活は」 
「そうだね」
 端から見れば、親子間での自然なやり取りだと思うだろう。父とまともに話すのは久しぶりだった。
「岸本くんだったか? 仲のいい友達もいるし、かなり恵まれた環境じゃないか」
 ふと違和を感じる。形があるわけではない。頭の中によぎっただけだ。
父親に岸本について話したことがあっただろうか?
「美術部も人数が少ないから、作業しやすいだろう。部員がいないのは本来困りものだが」 
 父親に美術部について話したことがあっただろうか?
たまたま母親との会話を聞いていただけかもしれない。
しかし、漠然とした思考が、今度は鮮明なイメージとなって脳裏に蘇った。
壊れたスマートフォン、消失したSDカード。SDカードには学校の写真や岸本との写真も入っていたはずだ。スマートフォンには詳しくないが、メールのデータを抽出することもできるのだろうか?
壊れたスマートフォンを片手にパソコンと向き合う父を想像してゾッとする。同時に、どこか現実的な感覚が沸き上がってきた。

自分自身に対する不信感。
 
 知らぬ間に自分も妄想に憑かれているような気がしていたのだ。父との合わせ鏡のように……。
平気だ、俺は……。
動揺して首を回すと、あるものが目に入った。
 
真新しいパーカーだった。
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