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第23話 造られた私たち
第23話・3 奴もオレも気色悪い
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西城兄妹の父・リョウラとの時間も終わった午後。
柔らかな光がリハビリルームに射し込む中、レイラは部屋の隅に設置された鏡の前に立っていた。
右腕にはまだ支えのベルトが残されている。
だが今日からは、軽い可動域の訓練が解禁される──。
医療班所属の理学療法士の指導を受けながら、ゆっくりと腕を持ち上げた。
「……ッ、く……ぅ……」
少し動かすだけで、肩の奥からじわりとした痛みが滲んでくる。
「無理しないで。そこまで。……十分ですよ! 紫苑さん」
「……はい……」
レイラは眉を寄せながらも、唇をぎゅっと噛みしめ、決して下を向かなかった。
(怖くない……。あのときの痛みに比べたら、こんな痛み……)
そうして何度か動きを繰り返すうちに、腕の筋肉がじんわりと熱を帯びてくる。
少しだけ、汗ばんだ額に手をやって。
「ふぅ……」
短く息を吐いたその表情は、数日前とは違っていた。
微かに、凛とした気配がレイラに戻り始めていた。
◇
リハビリを終えたレイラが廊下を歩いていると、曲がり角の先から人影が見えた。
「……え……」
姿を見せたのは、少し俯き加減で歩く赤髪の青年。
「……リル……?」
「あ……お前か」
目を合わせたリルは、相変わらずどこか覇気の抜けた声で応じる。
口元には小さな呼気が漏れるが、笑ってはいない。
レイラは歩み寄り、少し躊躇いながらも隣に並ぶ。
「お屋敷……帰ってたんだって?」
「ん。……まあ、しばらく静かにしてろってさ」
「そう……」
「……今日は忘れもん取りに来た」
会話が止まり、ふたりの間に一瞬の沈黙が落ちた。
「…………」
リルの目は、何も見ていないように遠い。
焦点が定まっていないわけではない。
けれど心が、ここにいないように見えた。
「……っ」
レイラはそっと、自分の右腕をリルに見せる。
「ね、見て……。動くようになってきたよ。まだちょっと痛いけど」
「……そっか。よかったな」
声に力は無いが、それでもリルの視線は少しだけレイラの腕に向いていた。
「リハビリ……つらいけどさ。こうして回復していくのって、ちょっとだけ希望になるっていうか……」
「……へぇ」
「……っ……」
レイラは少しだけ唇を尖らせる。
「……何その反応。もっと素直に『すげぇ』とか『よくやった』とか言ってくれてもいいのに」
「お前、そういうタイプだったっけ?」
ぽつりと返すリル。
そこにようやく、ほんの僅かに……ほんの、僅かに、微かな笑みの形がリルの口元に戻った気がした。
「……!」
レイラは目を伏せて、小さく呟く。
「……また並んで歩けるって、思ってなかったから」
「…………」
リルの肩が、小さく揺れた。
レイラは何も言わず、それ以上追い詰めるようなことはしなかった。
ただただ、隣に。
しばらく、ふたりで静かに廊下を歩く。
足音だけが、響く。
「…………」
──まだ、完全には戻れない。
並んで歩いていたふたりの足音が、ふと止まった。
レイラは一歩後ろに引き、そっとリルを見上げる。
「……ねえ、リル」
その声に、リルは無言で振り返った。
赤い瞳がゆっくりとレイラに向けられる。
「……私が、どうして……腕を怪我したかって……知ってる?」
「…………」
声は微かに震えていた。
だが、それは弱さではない。
──怖いけど、聞かなきゃいけないと思ったから。
リルの表情が少しだけ硬くなると、レイラは急いで付け足した。
「べ、べつに、心配されたいとか……そういうのじゃないの。ただ、……あなたが、どこまで知ってるのかが気になっただけ」
(……私のせいで、苦しんでるんじゃないかって……)
「…………」
沈黙──。
リルは立ち止まったまま、僅かに視線を逸らす。
長い沈黙のあと、低く、しかし確かに答えが返ってきた。
「……知ってる。色々、聞いた」
その声は、どこか遠い。
けれど心做しか、優しくもあった。
「……っ……」
レイラの喉が、ごくりと鳴る。
「そっか……」
それだけを言って、レイラもまた前を向いた。
リルは横目でその横顔を見る。
──お互い表情が、見えない。
だが、リルは思う。
レイラはきっと今も苦しんでいる。
あのときの痛みだけじゃない。
誰かを信じて裏切られた心の痛みは、骨よりもずっと折れやすくて、治りにくい。
「……悪い。お前を庇えなくて」
その一言が、リルの口から小さく漏れる。
「……!」
レイラの足が──止まった。
「……違う」
「え?」
「違うよ……あれは、私の選択だった。あの人に近付いたのも、話をしたのも、自分で決めたこと。リルは、何も悪くない」
その瞳は、はっきりとリルを見ている。
「私、ずっと考えてたの。……誰かのせいにすれば、少しはラクになれるかもって。でも、違った」
「…………」
「自分で信じて、自分で騙された。それだけ。だから、もう誰のことも……責めないって決めたんだよ」
リルはその言葉を、静かに受け止めた。
ただ一度、ほんの少しだけ瞼を閉じて──そしてまた、前を向く。
「……お前は、強ぇな」
「……ふふっ、今のは褒めたの?」
「んー……どうだろな」
小さく、肩が触れる距離。
その空気の中に、ほんの微かな、しかし確かな温もりが漂った。
歩き出したふたりの影が、廊下に並んで伸びていく。
◇
一緒に中庭に出たふたりは、しばし無言のままベンチに並んで腰掛けていた。
夕方の空は高く、涼しい風が静かに草木を揺らしている。
「…………」
吹く風は心地よいが、リルの表情には未だ陰りがあった。
何かを聞こうとして、しかし躊躇って聞き出せていない葛藤を孕んだような暗さ。
レイラはそっと右腕をさすっている。まだぎこちない動作ではあるが、痛みは少しずつ引いてきている。
そんな中──ふと、隣のリルが口を開いた。
「……なあ……」
「……ん?」
「オレのこと──」
絞り出され、ぽとりと落とされた声。
どこか空気が変わったように感じて、レイラはピクリと肩を震わせる。
「……何か、聞いてんのか」
「えっ……?」
思わず聞き返した。
「…………ッ」
心臓が跳ねるような感覚。
先程までの穏やかさが突然に、まるで霧のように掻き消えていく。
「『何か』……って、なに?」
やや萎縮しながらレイラが問い返すと、リルは目を伏せて──。
「……っ…………」
唇を強く結ぶ。
答えを出すまでに、少し時間がかかった。
「……会ってたんだろ、あいつに」
「……!」
その一言で、一瞬で察したレイラの息が止まりそうになる。
「……オレのこと、なんか言ってたりしてなかったかって……お前に、余計なこと……言ったんじゃねえかって」
喉がヒリつく感覚を覚えるレイラ。
胸の奥で、自分の鼓動の音がうるさいほどに響いていた。
「…………ッ……」
(……どうしよう、リルに、伝えていいの……?)
(でも……)
「……い、言って……いいのかわかんない、けど」
絞り出すように言ったその瞬間──。
「言え」
──重たい声。
視線だけをレイラに向けるリルの赤い瞳は、まるで刃のように鋭く光っていた。
「……ッ……!」
レイラの体が一瞬だけ硬直する。
その声には強制や怒りではない、だが明らかに逃げ場の無さが含まれていた。
──怖い。
でも、ここで何も言わなかったら、きっともっと怖くなる。
「……き、……っ、聞いた……」
「……あの人が……リルのこと、じ、実験に使った……って、本人から……聞いた」
声が震える。
だが、嘘は無かった。
「…………」
リルは無言のまましばらく俯き──。
そのまま、少し笑ったようにも見えた。
「……じゃあ、話は早いな」
その言葉の温度は、恐ろしく低いものだった。
「オレは、あいつを心底憎んでる。……殺したいとすら思う」
呟くような声なのに、空気が震えたように感じられる。
「…………っ……」
レイラの喉がつっと鳴った。
「レイラ──」
名前を呼ばれ、条件反射のように目を向ける。
リルの顔が、真正面から向けられていた。
「……あいつのことも、オレのことも……気味が悪いって、思わねえか?」
「…………!!」
見開かれるレイラの目。
目の前のリルの瞳には、一切の光が無かった。
まるで、自分自身の存在にすら価値を見出せていないかのように、真っ黒な虚無が揺れているだけ。
「……穢れてるって、思わねえか?」
リルは俯くようにしてレイラから視線を外し、自分自身を抱擁するように自らの腕をぎゅっと掴む。
静かだった風が止まり、レイラの耳から中庭の音が遠のいた。
レイラは、その言葉に何と返せばいいのか、すぐにはわからなかった。
だが、リルがこんなふうに言葉を紡いだのは、もしかしたら……初めてかもしれない。
「…………っ……」
今、リルの心は、崩れ始めている。
次第に、話すだけのつもりだったはずのリルの精神が、不安定に傾いていく。
「……オレは、……もう……ほとんど人間じゃねえんだ」
その赤い瞳は地面を見つめたまま、虚ろに染まっていた。
「姿だけ……辛うじて人間。けど目も、歯も、爪も……もう素の状態で普通の人間と違う」
リルは腕から離した手をじっと見つめ、指先を僅かに丸める。
細く縦に裂けた瞳孔。鋭く伸びた犬歯。黒く染まった爪──。
「暴れれば止まらないこともある。理性が、いつまで持つかもわかんねえ……」
淡々と語られる事実。
それは、彼自身の告解のようでもあった。
「……気持ちわりいだろ、そんな奴。そしてそれを作る奴も」
「……!!」
その言葉に、レイラは食い入るようにリルを見る。
「違う、違うよリル……! 私、リルのことを穢れてるなんて……っ、そんなこと、思ってるわけない……!」
必死だった。
震える声を押し殺し、何とかまっすぐに言葉を届けようとする。
だが──。
その言葉を、リルは──。
「……嘘つくな」
受け止めなかった。
「……!!」
次の瞬間。
──ガッ……!!
固定された右腕に鋭い衝撃が走る。
「ッ!!」
リルが、レイラの胸ぐらを掴んだのだ。
「……っ、リル……!? やめ──ッ」
「……オレは……ッ、あいつのことも、オレ自身のことも……気色悪ィって思ってんだよッ!!」
そう怒鳴りつけると、レイラを掴み上げながら立ち上がるリル。
引き上げられるように、レイラの足も一瞬浮いた。
「普通なわけねえだろオレみてえな奴!!!」
声が、完全に荒れていた。
それでもリルは止まらない。
「周りの奴らもオレと友好的に接してるつもりでも結局ッ、意見したら襲われる、逆らったら殺されるってどっかで思ってんだろッ!!」
「……ッ……!!」
レイラの背に冷たい汗が伝う。
牙を剥き出しにして叫ぶ目の前のリルは、まるで誰か別人のように見えた。
「皆オレのことバケモンだと思いながら──仕方なく人間扱いしてるだけだろうがッ!!!」
その叫びは、深い憎しみと、同じだけの絶望でできているように聞こえた。
「痛い……リル……やめて……!」
掴まれた襟元が、右肩にずきりとした刺激を伝える。
レイラはキツく目を瞑りながら、痛みを必死に訴えた。
だがリルは──。
「あ゙ァ!? オレの方が普段から死ぬほど痛え思いしてんだよッッ!!!」
更に声を荒げて吠える。
「……ッ!!」
──その瞬間、レイラは確信した。
(……リル……おかしくなっちゃってる……)
壊れかけている。
いや、もう壊れているのかもしれない。
怒りでも、恨みでもない。
その瞳に宿っているのは──深い絶望。
(私のせいだ……)
(あの人に、関わったから……)
「……っ……」
レイラは唇を噛んだ。
声を上げれば、怒りを煽るだけかもしれない。
だが──。
レイラは心の奥底で確かに感じていた。
今ここでリルを否定したら、本当にもう戻ってこられなくなる──と。
「…………ッ……!」
掴まれた胸元。熱を帯びた指。荒くなる呼吸。
目の前で震えるリルの体。
(この人は……今、必死で自分を止めてる)
「……リル」
名前を、そっと呼ぶ。
まるで、祈るように。
「……リル……!」
もう一度、呼ぶ。
それは悲鳴ではなく、拒絶でもなく──。
ただただ、想いの詰まった一言。
「リル……私……、ちゃんといるから……」
「……ッ、はァ……!!?」
ぐっと、リルの手に力がこもる。
胸元を掴まれた布からギチッ……と引き絞られる音。
だが──。
その直後だった。
「…………ッ……!!」
レイラを掴み上げるリルのその指先から、力が抜けていく。
「……っ、クソが……!」
リルはレイラの体を突き放すように手を離した。
レイラの体は僅かによろめくが、左手でバランスを取る。
「…………っ」
視線を上げたレイラの前で──。
「…………!!」
リルは、膝から崩れるように地面に座り込んだ。
両手で頭を抱え、掠れた声を漏らす。
「……オレ、何やってんだよ……ッ……」
怒りも、苛立ちも、呪詛も、全てが瓦解したように。
その肩が、小さく震えていた。
レイラは右肩をさすりながら、ゆっくりとリルの隣にしゃがむ。
地面に座るリルの横顔にはもはや怒りの影は無く──。
ただ、自分を壊してしまいそうな程の罪悪感と、深い苦しみが浮かんでいた。
「……ごめん」
怒鳴り声から一転。か細く落とされたその一言に、レイラは驚く。
「オレ……、最低だな……マジで」
唇が震え、目元には涙の気配。
「……怖かった。……お前まで……オレを、バケモノだって思うんじゃねえかって」
「……!」
レイラはゆっくりと首を横に振った。
「私は、リルのことを……怖いなんて思ってない」
「……でも、さっき……お前怯えてただろ……」
「……うん、さっきはね。……怖かったよ」
「…………」
「でも、それは……リルが壊れそうだったから。あなたじゃなくなってしまいそうで、それが怖かっただけ」
そこで小さく息を吸い込み、レイラは意を決したように続ける。
「リルがリルでいてくれるなら、私はずっと……一緒にいるよ」
それは、レイラなりの最大限の言葉だった。
「…………ッ」
リルは俯いたまま、何も返さない。
だが──肩の震えは、ほんの少しだけ止まっていた。
夜の頃合いに差しかかろうとする空気の静けさが、ふたりを包み込む。
壊れそうだった心と、守ろうとした手。
何も解決はしていない。
けれどその小さな一歩が、ふたりの絆をまた少しだけ繋ぎ止めていた。
──中庭の風は、優しく枝葉を揺らしている。
柔らかな光がリハビリルームに射し込む中、レイラは部屋の隅に設置された鏡の前に立っていた。
右腕にはまだ支えのベルトが残されている。
だが今日からは、軽い可動域の訓練が解禁される──。
医療班所属の理学療法士の指導を受けながら、ゆっくりと腕を持ち上げた。
「……ッ、く……ぅ……」
少し動かすだけで、肩の奥からじわりとした痛みが滲んでくる。
「無理しないで。そこまで。……十分ですよ! 紫苑さん」
「……はい……」
レイラは眉を寄せながらも、唇をぎゅっと噛みしめ、決して下を向かなかった。
(怖くない……。あのときの痛みに比べたら、こんな痛み……)
そうして何度か動きを繰り返すうちに、腕の筋肉がじんわりと熱を帯びてくる。
少しだけ、汗ばんだ額に手をやって。
「ふぅ……」
短く息を吐いたその表情は、数日前とは違っていた。
微かに、凛とした気配がレイラに戻り始めていた。
◇
リハビリを終えたレイラが廊下を歩いていると、曲がり角の先から人影が見えた。
「……え……」
姿を見せたのは、少し俯き加減で歩く赤髪の青年。
「……リル……?」
「あ……お前か」
目を合わせたリルは、相変わらずどこか覇気の抜けた声で応じる。
口元には小さな呼気が漏れるが、笑ってはいない。
レイラは歩み寄り、少し躊躇いながらも隣に並ぶ。
「お屋敷……帰ってたんだって?」
「ん。……まあ、しばらく静かにしてろってさ」
「そう……」
「……今日は忘れもん取りに来た」
会話が止まり、ふたりの間に一瞬の沈黙が落ちた。
「…………」
リルの目は、何も見ていないように遠い。
焦点が定まっていないわけではない。
けれど心が、ここにいないように見えた。
「……っ」
レイラはそっと、自分の右腕をリルに見せる。
「ね、見て……。動くようになってきたよ。まだちょっと痛いけど」
「……そっか。よかったな」
声に力は無いが、それでもリルの視線は少しだけレイラの腕に向いていた。
「リハビリ……つらいけどさ。こうして回復していくのって、ちょっとだけ希望になるっていうか……」
「……へぇ」
「……っ……」
レイラは少しだけ唇を尖らせる。
「……何その反応。もっと素直に『すげぇ』とか『よくやった』とか言ってくれてもいいのに」
「お前、そういうタイプだったっけ?」
ぽつりと返すリル。
そこにようやく、ほんの僅かに……ほんの、僅かに、微かな笑みの形がリルの口元に戻った気がした。
「……!」
レイラは目を伏せて、小さく呟く。
「……また並んで歩けるって、思ってなかったから」
「…………」
リルの肩が、小さく揺れた。
レイラは何も言わず、それ以上追い詰めるようなことはしなかった。
ただただ、隣に。
しばらく、ふたりで静かに廊下を歩く。
足音だけが、響く。
「…………」
──まだ、完全には戻れない。
並んで歩いていたふたりの足音が、ふと止まった。
レイラは一歩後ろに引き、そっとリルを見上げる。
「……ねえ、リル」
その声に、リルは無言で振り返った。
赤い瞳がゆっくりとレイラに向けられる。
「……私が、どうして……腕を怪我したかって……知ってる?」
「…………」
声は微かに震えていた。
だが、それは弱さではない。
──怖いけど、聞かなきゃいけないと思ったから。
リルの表情が少しだけ硬くなると、レイラは急いで付け足した。
「べ、べつに、心配されたいとか……そういうのじゃないの。ただ、……あなたが、どこまで知ってるのかが気になっただけ」
(……私のせいで、苦しんでるんじゃないかって……)
「…………」
沈黙──。
リルは立ち止まったまま、僅かに視線を逸らす。
長い沈黙のあと、低く、しかし確かに答えが返ってきた。
「……知ってる。色々、聞いた」
その声は、どこか遠い。
けれど心做しか、優しくもあった。
「……っ……」
レイラの喉が、ごくりと鳴る。
「そっか……」
それだけを言って、レイラもまた前を向いた。
リルは横目でその横顔を見る。
──お互い表情が、見えない。
だが、リルは思う。
レイラはきっと今も苦しんでいる。
あのときの痛みだけじゃない。
誰かを信じて裏切られた心の痛みは、骨よりもずっと折れやすくて、治りにくい。
「……悪い。お前を庇えなくて」
その一言が、リルの口から小さく漏れる。
「……!」
レイラの足が──止まった。
「……違う」
「え?」
「違うよ……あれは、私の選択だった。あの人に近付いたのも、話をしたのも、自分で決めたこと。リルは、何も悪くない」
その瞳は、はっきりとリルを見ている。
「私、ずっと考えてたの。……誰かのせいにすれば、少しはラクになれるかもって。でも、違った」
「…………」
「自分で信じて、自分で騙された。それだけ。だから、もう誰のことも……責めないって決めたんだよ」
リルはその言葉を、静かに受け止めた。
ただ一度、ほんの少しだけ瞼を閉じて──そしてまた、前を向く。
「……お前は、強ぇな」
「……ふふっ、今のは褒めたの?」
「んー……どうだろな」
小さく、肩が触れる距離。
その空気の中に、ほんの微かな、しかし確かな温もりが漂った。
歩き出したふたりの影が、廊下に並んで伸びていく。
◇
一緒に中庭に出たふたりは、しばし無言のままベンチに並んで腰掛けていた。
夕方の空は高く、涼しい風が静かに草木を揺らしている。
「…………」
吹く風は心地よいが、リルの表情には未だ陰りがあった。
何かを聞こうとして、しかし躊躇って聞き出せていない葛藤を孕んだような暗さ。
レイラはそっと右腕をさすっている。まだぎこちない動作ではあるが、痛みは少しずつ引いてきている。
そんな中──ふと、隣のリルが口を開いた。
「……なあ……」
「……ん?」
「オレのこと──」
絞り出され、ぽとりと落とされた声。
どこか空気が変わったように感じて、レイラはピクリと肩を震わせる。
「……何か、聞いてんのか」
「えっ……?」
思わず聞き返した。
「…………ッ」
心臓が跳ねるような感覚。
先程までの穏やかさが突然に、まるで霧のように掻き消えていく。
「『何か』……って、なに?」
やや萎縮しながらレイラが問い返すと、リルは目を伏せて──。
「……っ…………」
唇を強く結ぶ。
答えを出すまでに、少し時間がかかった。
「……会ってたんだろ、あいつに」
「……!」
その一言で、一瞬で察したレイラの息が止まりそうになる。
「……オレのこと、なんか言ってたりしてなかったかって……お前に、余計なこと……言ったんじゃねえかって」
喉がヒリつく感覚を覚えるレイラ。
胸の奥で、自分の鼓動の音がうるさいほどに響いていた。
「…………ッ……」
(……どうしよう、リルに、伝えていいの……?)
(でも……)
「……い、言って……いいのかわかんない、けど」
絞り出すように言ったその瞬間──。
「言え」
──重たい声。
視線だけをレイラに向けるリルの赤い瞳は、まるで刃のように鋭く光っていた。
「……ッ……!」
レイラの体が一瞬だけ硬直する。
その声には強制や怒りではない、だが明らかに逃げ場の無さが含まれていた。
──怖い。
でも、ここで何も言わなかったら、きっともっと怖くなる。
「……き、……っ、聞いた……」
「……あの人が……リルのこと、じ、実験に使った……って、本人から……聞いた」
声が震える。
だが、嘘は無かった。
「…………」
リルは無言のまましばらく俯き──。
そのまま、少し笑ったようにも見えた。
「……じゃあ、話は早いな」
その言葉の温度は、恐ろしく低いものだった。
「オレは、あいつを心底憎んでる。……殺したいとすら思う」
呟くような声なのに、空気が震えたように感じられる。
「…………っ……」
レイラの喉がつっと鳴った。
「レイラ──」
名前を呼ばれ、条件反射のように目を向ける。
リルの顔が、真正面から向けられていた。
「……あいつのことも、オレのことも……気味が悪いって、思わねえか?」
「…………!!」
見開かれるレイラの目。
目の前のリルの瞳には、一切の光が無かった。
まるで、自分自身の存在にすら価値を見出せていないかのように、真っ黒な虚無が揺れているだけ。
「……穢れてるって、思わねえか?」
リルは俯くようにしてレイラから視線を外し、自分自身を抱擁するように自らの腕をぎゅっと掴む。
静かだった風が止まり、レイラの耳から中庭の音が遠のいた。
レイラは、その言葉に何と返せばいいのか、すぐにはわからなかった。
だが、リルがこんなふうに言葉を紡いだのは、もしかしたら……初めてかもしれない。
「…………っ……」
今、リルの心は、崩れ始めている。
次第に、話すだけのつもりだったはずのリルの精神が、不安定に傾いていく。
「……オレは、……もう……ほとんど人間じゃねえんだ」
その赤い瞳は地面を見つめたまま、虚ろに染まっていた。
「姿だけ……辛うじて人間。けど目も、歯も、爪も……もう素の状態で普通の人間と違う」
リルは腕から離した手をじっと見つめ、指先を僅かに丸める。
細く縦に裂けた瞳孔。鋭く伸びた犬歯。黒く染まった爪──。
「暴れれば止まらないこともある。理性が、いつまで持つかもわかんねえ……」
淡々と語られる事実。
それは、彼自身の告解のようでもあった。
「……気持ちわりいだろ、そんな奴。そしてそれを作る奴も」
「……!!」
その言葉に、レイラは食い入るようにリルを見る。
「違う、違うよリル……! 私、リルのことを穢れてるなんて……っ、そんなこと、思ってるわけない……!」
必死だった。
震える声を押し殺し、何とかまっすぐに言葉を届けようとする。
だが──。
その言葉を、リルは──。
「……嘘つくな」
受け止めなかった。
「……!!」
次の瞬間。
──ガッ……!!
固定された右腕に鋭い衝撃が走る。
「ッ!!」
リルが、レイラの胸ぐらを掴んだのだ。
「……っ、リル……!? やめ──ッ」
「……オレは……ッ、あいつのことも、オレ自身のことも……気色悪ィって思ってんだよッ!!」
そう怒鳴りつけると、レイラを掴み上げながら立ち上がるリル。
引き上げられるように、レイラの足も一瞬浮いた。
「普通なわけねえだろオレみてえな奴!!!」
声が、完全に荒れていた。
それでもリルは止まらない。
「周りの奴らもオレと友好的に接してるつもりでも結局ッ、意見したら襲われる、逆らったら殺されるってどっかで思ってんだろッ!!」
「……ッ……!!」
レイラの背に冷たい汗が伝う。
牙を剥き出しにして叫ぶ目の前のリルは、まるで誰か別人のように見えた。
「皆オレのことバケモンだと思いながら──仕方なく人間扱いしてるだけだろうがッ!!!」
その叫びは、深い憎しみと、同じだけの絶望でできているように聞こえた。
「痛い……リル……やめて……!」
掴まれた襟元が、右肩にずきりとした刺激を伝える。
レイラはキツく目を瞑りながら、痛みを必死に訴えた。
だがリルは──。
「あ゙ァ!? オレの方が普段から死ぬほど痛え思いしてんだよッッ!!!」
更に声を荒げて吠える。
「……ッ!!」
──その瞬間、レイラは確信した。
(……リル……おかしくなっちゃってる……)
壊れかけている。
いや、もう壊れているのかもしれない。
怒りでも、恨みでもない。
その瞳に宿っているのは──深い絶望。
(私のせいだ……)
(あの人に、関わったから……)
「……っ……」
レイラは唇を噛んだ。
声を上げれば、怒りを煽るだけかもしれない。
だが──。
レイラは心の奥底で確かに感じていた。
今ここでリルを否定したら、本当にもう戻ってこられなくなる──と。
「…………ッ……!」
掴まれた胸元。熱を帯びた指。荒くなる呼吸。
目の前で震えるリルの体。
(この人は……今、必死で自分を止めてる)
「……リル」
名前を、そっと呼ぶ。
まるで、祈るように。
「……リル……!」
もう一度、呼ぶ。
それは悲鳴ではなく、拒絶でもなく──。
ただただ、想いの詰まった一言。
「リル……私……、ちゃんといるから……」
「……ッ、はァ……!!?」
ぐっと、リルの手に力がこもる。
胸元を掴まれた布からギチッ……と引き絞られる音。
だが──。
その直後だった。
「…………ッ……!!」
レイラを掴み上げるリルのその指先から、力が抜けていく。
「……っ、クソが……!」
リルはレイラの体を突き放すように手を離した。
レイラの体は僅かによろめくが、左手でバランスを取る。
「…………っ」
視線を上げたレイラの前で──。
「…………!!」
リルは、膝から崩れるように地面に座り込んだ。
両手で頭を抱え、掠れた声を漏らす。
「……オレ、何やってんだよ……ッ……」
怒りも、苛立ちも、呪詛も、全てが瓦解したように。
その肩が、小さく震えていた。
レイラは右肩をさすりながら、ゆっくりとリルの隣にしゃがむ。
地面に座るリルの横顔にはもはや怒りの影は無く──。
ただ、自分を壊してしまいそうな程の罪悪感と、深い苦しみが浮かんでいた。
「……ごめん」
怒鳴り声から一転。か細く落とされたその一言に、レイラは驚く。
「オレ……、最低だな……マジで」
唇が震え、目元には涙の気配。
「……怖かった。……お前まで……オレを、バケモノだって思うんじゃねえかって」
「……!」
レイラはゆっくりと首を横に振った。
「私は、リルのことを……怖いなんて思ってない」
「……でも、さっき……お前怯えてただろ……」
「……うん、さっきはね。……怖かったよ」
「…………」
「でも、それは……リルが壊れそうだったから。あなたじゃなくなってしまいそうで、それが怖かっただけ」
そこで小さく息を吸い込み、レイラは意を決したように続ける。
「リルがリルでいてくれるなら、私はずっと……一緒にいるよ」
それは、レイラなりの最大限の言葉だった。
「…………ッ」
リルは俯いたまま、何も返さない。
だが──肩の震えは、ほんの少しだけ止まっていた。
夜の頃合いに差しかかろうとする空気の静けさが、ふたりを包み込む。
壊れそうだった心と、守ろうとした手。
何も解決はしていない。
けれどその小さな一歩が、ふたりの絆をまた少しだけ繋ぎ止めていた。
──中庭の風は、優しく枝葉を揺らしている。
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