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コヨタ

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第23話 造られた私たち

第23話・4 リルはリルだから

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 静寂を裂いた怒声がガラスのように張りつめた空気を割いたのは、数分前のことだった。

(……また、リル)

 その怒鳴り声に反応し、誰よりも早く中庭の方へ向かったのは、龍調査機関の所長──シエリ。

 黒いワンピースの裾を揺らしながら、シエリは廊下の端、柱の影で足を止める。

「…………」

 視線の先。
 薄暮の中庭で──ひとりの青年が地に膝をついて項垂れ、少女がその傍にそっと寄り添っていた。

 レイラと、リル。

 ふたりだけの世界。

 触れ合い、ぶつかり合い、崩れ、そしてまた繋ぎ直そうとする姿。

 その光景を、シエリは静かに見守っていた。

 ──あの怒号を聞いたとき、シエリは一瞬だけ“龍の咆哮”を思い出していた。

 人ならざる存在が、理性を断ち切られる時の叫び。
 それが、あまりにも“人間の声”として発せられていたことが、小さな所長の胸に深い楔を打ち込んでいた。

(あれほど……限界が近づいているとは)

 瞳を伏せる。
 そのピンク色の眼差しには、怒りも哀れみも浮かばない。

 ただ、冷静な分析と、決断の影。

(このままでは、リル……)

(キミの中の龍が、キミを完全に喰う)

 シエリは、自分もまた“龍”である。
 それ故にわかる。

 リルの龍は、理性の皮を被った獣ではない。
 理性の残滓の中で生きる獣だ。

(紫苑レイラ……。あの子が、辛うじてリルの龍を人として引き止めている)

 遠くからでは言葉までは聞こえない。

 だが、レイラの手がそっとリルの方へ伸びたのを目に入れたとき、シエリの中で何かが僅かに動いた。

「…………」

 ──それは希望か、それとも錯覚か。

(……これが“人”の力だというのなら……)

(私は……)

 シエリは小さく息を吐くと、くるりと踵を返す。

 小さな背を向けながら、その思考は既に次を見据えていた。

(……近く、国の管理局へ報告を上げなければならない。紅崎リルの精神安定状態はイエロー。そして、突発的危険行動の懸念……黄赤オレンジ……)

(このままでは、あの子の存在そのものがリスクと判断されかねない)

 シエリの足は淡々と暗くなり始める廊下を進んでいく。

(──“人”としてあの子を守るために。私は、龍であることを隠すわけにはいかない)

 廊下の先、誰もいないモニター室の扉が開かれる。

 そこが、小さな所長の次なる仕事場だった。


 ◇


 夜のモニター室。

 静寂な室内。
 淡い照明だけが机上を照らし、壁に並ぶ複数のモニターが無音で情報を流し続けている。

 ──紅崎リル。
 現在地、精神反応、脳波、代謝。
 数十分前までの中庭の記録映像も、静かに再生されていた。

 モニターに映るレイラの顔。
 そして、崩れ落ち、頭を抱えるリルの姿。

「…………」

 シエリは無言でそれらを見つめ、静かに端末を立ち上げる。

(……判断は、難しい)

 情報の更新ウィンドウに指を添えながら、シエリの脳裏を巡っていたのは

 Z.EUSゼウス──ジキルが作り出した、狂気と秩序の境界を曖昧にする組織。
 その存在を知った以上、彼らを管理対象として国の上層部に報告せねばならない。

 だが、それに伴って“紅崎リル”という個体がどのような扱いを受けるかは──想像に難くない。

(今、あの子の存在を“危険個体”として提出すれば……彼は確実に拘束対象となる)

「……っ」

 指が止まる。
 画面上に浮かぶ、『レポート提出』の確定ボタン。

 シエリは小さくため息を吐いた。

(……私は、所長であり、監視者であり……そして、“龍”だ)

 ──リルの中にある龍の気配は、以前よりも明らかに脈動を強めている。
 実験によって無理矢理に埋め込まれたその龍は、眠ってなどいない。

 ただ、耐えている。

 本人の意思で、周囲の為に、もがきながら。

(あの子は、ずっと苦しんでいたのに……誰にも、その痛みは測れなかった)

 ふと、手元のキーボードから指を離し、シエリはソファの背にもたれる。

 小さく目を閉じて、静かに言葉を呟いた。

「……私は、人を管理するためにここにいるのではない。守るために……ここにいる」

 淡い言葉は、誰にも届かず、ただ機械の駆動音にかき消された。

 ──報告文は、まだ提出されていない。

 提出画面を閉じ、代わりに『観察継続・要心理支援対象』というラベルで、紅崎リルのファイルを更新する。

(あの子が“龍”であっても、“人”として扱う。それが、私の選んだ立場)

「……レイラ。彼を……まだ、繋ぎ止めてくれるだろうか」

 ひとりまた呟く声には、微かな願いと、そして恐れが滲んでいた。

 ──誰かを人として扱うというのは、管理よりも、よほど難しい。

 だが、シエリはそれを選び続ける。

 たとえ、その先に、崩壊が待っているとしても。


 ◇


 龍調査機関・観察棟の一室。

 照明は殆ど落とされ、天井の非常灯がぼんやりと床を照らしている。

 その部屋にいるのは──セセラ。

「…………」

 片手にカップを持ち、ソファに座っていた。
 カップの中は、いつも通りのブラックコーヒー。眠気は感じていない。

 扉が静かに開き、シエリが入室する。

「セセラ……お疲れさま」

「……おつかれ、先生」

 セセラは半分身を起こしてそう返すと、シエリは黙って頷き、セセラの前の椅子に腰を下ろした。

 しばしの沈黙のあと、シエリが小さく呟く。

「……さっき、レイラとリルが中庭で話していた。……気づいていたか?」

「……あー……」

 セセラは少しだけ目を細めた。

「声、聞こえた。けど……すぐ止まったから。リルのバカが手ェ出してないかだけ後で確認するつもりだった」

「…………」

「……なんかあった?」

 頷くシエリ。
 表情は、無い。

「リル……限界に近い。精神面の方で」

「……だろうな」

 セセラは静かにコーヒーを啜ったあと、低く息を吐く。

「中庭で暴れてたわけじゃねえ。けど、あれは暴発する一歩手前だった。……もし、レイラが居なかったら、あの場にいたのが他の誰かだったら……止められなかったかもしれない」

「…………」

「……俺が止めてやるなんて、簡単には言えねえわ。今のリルにとっちゃ、誰が相手でも地雷みてえなもんだろうしな」

 シエリは一瞬目を伏せ──そして少しだけ声を落とした。

「……報告するべきか、迷っている」

「上に?」

「ああ。……でも、報告すれば、リルは監視強化の対象にされる。最悪、拘束される可能性もある」

 その言葉に眉間に皺を寄せるセセラ。

「……流石に……早すぎるだろ。それにリルは、まだ戻ってきてないだけだ」

「『だけ』、で済むのか?」

「…………」

 セセラはしばし黙る。
 その表情は、真剣で、珍しく沈んでいる。

「レイラも、今はまだ揺らいでる。でも、あいつ……ほんとに、リルのことバケモンだなんて思ってねえんだよ」

「……それが、救いになるならいいけれど」

 シエリは小さく呟き、椅子から立ち上がった。

「……もう少しだけ、私の責任で保留にしておく。でも、それができる猶予は……そう長くない」

「…………」

「だから……頼む、セセラ。どうかこれからも保護者でいてくれないか。キミは、あの子たちの中で一番“人間”でいてくれる人だから」

「……俺が?」

「そうだろう。怒ったり、笑ったり、茶化したりしながら、ちゃんと見てる。だからお願いだ……。もう少しだけ、リルの中の“人”を繋いでいてあげてほしい」

「…………」

(……研究者、観察者、保護者……)

(俺は一体どこに向かってんだよ)

 そこでふと、あの日ジキルに言われた言葉を思い出す。

『感情に振り回されて、研究者じゃなくてみたいに生きてるの、疲れない?』

「…………っ……」

(…………いや……俺は、人間だ。それでいい……)

 心の中の葛藤を払いながら、セセラはコーヒーのカップを空にし、ようやく口を開いた。

「……わかった。俺のやれる範囲でな」

「それで充分だ」

 小さな言葉のやり取り。
 だがそれは、どこか深く張り詰めた糸のような、危うい決意の交差だった。

 その糸が切れないうちに──。
 何かが、届きますように。


 ◇


 もう、どれだけ中庭ここにいるだろうか。

 暗い空の下、夜風が冷たく吹き抜けていく。

 地面に膝をついたままのリルの肩が、微かに上下している。
 拳を握り締めた手の甲は震え、牙を噛み締めたまま──それでもその瞳には、確かに涙が滲んでいた。

「……っ……ごめ……」

 絞り出すような声。

 傍で寄り添うレイラの前で、リルはまだ泣いていた。

「……ごめん、……レイラ……、オレ、……ほんとに、……最低だ……」

「…………」

 レイラは未だ胸元を押さえたまま、リルの姿を見つめている。

「怒鳴って……いてぇことして……っ、そんなつもりなかった……オレ……、マジで……」

 声が震えている。
 鼻をすする音、呼吸の乱れ、ボロボロと落ちていく涙。

「なんで……こんな……! こんなこと……したくなかったのに……!」

「……っ」

 レイラは思わず一歩だけ前へ出た。
 だが、リルはそれに気づいて更に俯いてしまう。

「ッ、来んな……! オレに……優しくしようとすんじゃねえよ……! またっ……壊しちまうから……」

「……リル」

「…………ッ……」

 掠れながらも──まっすぐなレイラの声。

「……ねえ……リル……」

「ンだよ……!! もう……こんなのおかしいって、わかってんだよ……! でも止められなかった……感情が……全部、崩れてきて……ッ……!」

 リルは俯きながら震える手で自らの肩を抱いた。
 自分を守るように、自分が暴れないように、そして他者が自分に介入しないように。

 それでも、涙は止まらない。

「もう、全部……怖い……オレ自身が、ワケがわかんなくて、気色わりィ……ッ……」

「…………」

 レイラは静かに跪き、そっとリルの肩に手を置いた。
 その震えている手も一緒に。

「……ッ」

 リルはビクッと肩を揺らしたが、その手を振り払うことはしなかった。

「……リル、聞いて。怖いのは……私も一緒だよ。だけど、それでも……あなたを独りにはしない」

「……っ……でも、オレ……」

「あなたがどんなに傷ついていても、私はあなたを信じるのをやめたりしない。そんなの……したくないよ」

「…………!」

 静かな中庭に、レイラの言葉だけが優しく響く。

 しばらくの間、リルは何も言えなかった。

 涙の音、風の音、そして──小さくすすり泣く声が、長く続いた。

 しばらくして──。

「……バカだよな、オレ……」

 震える声に、ほんの少しだけ笑みが混じる。

 レイラはその言葉に、僅かに頷いた。

「うん。……バカだよ。でも、それが……リルなんだと思う」

「…………」

 それ以上の言葉はいらなかった。

 リルの心の中の嵐は、まだ完全には止まらない。
 けれど今このとき、リルはようやく、誰かの前でことができた。

 それがどれほどのことか、リル自身が一番わかっている。



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