106 / 133
第23話 造られた私たち
第23話・4 リルはリルだから
しおりを挟む
静寂を裂いた怒声がガラスのように張りつめた空気を割いたのは、数分前のことだった。
(……また、リル)
その怒鳴り声に反応し、誰よりも早く中庭の方へ向かったのは、龍調査機関の所長──シエリ。
黒いワンピースの裾を揺らしながら、シエリは廊下の端、柱の影で足を止める。
「…………」
視線の先。
薄暮の中庭で──ひとりの青年が地に膝をついて項垂れ、少女がその傍にそっと寄り添っていた。
レイラと、リル。
ふたりだけの世界。
触れ合い、ぶつかり合い、崩れ、そしてまた繋ぎ直そうとする姿。
その光景を、シエリは静かに見守っていた。
──あの怒号を聞いたとき、シエリは一瞬だけ“龍の咆哮”を思い出していた。
人ならざる存在が、理性を断ち切られる時の叫び。
それが、あまりにも“人間の声”として発せられていたことが、小さな所長の胸に深い楔を打ち込んでいた。
(あれほど……限界が近づいているとは)
瞳を伏せる。
そのピンク色の眼差しには、怒りも哀れみも浮かばない。
ただ、冷静な分析と、決断の影。
(このままでは、リル……)
(キミの中の龍が、キミを完全に喰う)
シエリは、自分もまた“龍”である。
それ故にわかる。
リルの龍は、理性の皮を被った獣ではない。
理性の残滓の中で生きる獣だ。
(紫苑レイラ……。あの子が、辛うじてリルの龍を人として引き止めている)
遠くからでは言葉までは聞こえない。
だが、レイラの手がそっとリルの方へ伸びたのを目に入れたとき、シエリの中で何かが僅かに動いた。
「…………」
──それは希望か、それとも錯覚か。
(……これが“人”の力だというのなら……)
(私は……)
シエリは小さく息を吐くと、くるりと踵を返す。
小さな背を向けながら、その思考は既に次を見据えていた。
(……近く、国の管理局へ報告を上げなければならない。紅崎リルの精神安定状態は黄。そして、突発的危険行動の懸念……黄赤……)
(このままでは、あの子の存在そのものがリスクと判断されかねない)
シエリの足は淡々と暗くなり始める廊下を進んでいく。
(──“人”としてあの子を守るために。私は、龍であることを隠すわけにはいかない)
廊下の先、誰もいないモニター室の扉が開かれる。
そこが、小さな所長の次なる仕事場だった。
◇
夜のモニター室。
静寂な室内。
淡い照明だけが机上を照らし、壁に並ぶ複数のモニターが無音で情報を流し続けている。
──紅崎リル。
現在地、精神反応、脳波、代謝。
数十分前までの中庭の記録映像も、静かに再生されていた。
モニターに映るレイラの顔。
そして、崩れ落ち、頭を抱えるリルの姿。
「…………」
シエリは無言でそれらを見つめ、静かに端末を立ち上げる。
(……判断は、難しい)
情報の更新ウィンドウに指を添えながら、シエリの脳裏を巡っていたのは報告義務と保護者としての葛藤。
Z.EUS──ジキルが作り出した、狂気と秩序の境界を曖昧にする組織。
その存在を知った以上、彼らを管理対象として国の上層部に報告せねばならない。
だが、それに伴って“紅崎リル”という個体がどのような扱いを受けるかは──想像に難くない。
(今、あの子の存在を“危険個体”として提出すれば……彼は確実に拘束対象となる)
「……っ」
指が止まる。
画面上に浮かぶ、『レポート提出』の確定ボタン。
シエリは小さくため息を吐いた。
(……私は、所長であり、監視者であり……そして、“龍”だ)
──リルの中にある龍の気配は、以前よりも明らかに脈動を強めている。
実験によって無理矢理に埋め込まれたその龍は、眠ってなどいない。
ただ、耐えている。
本人の意思で、周囲の為に、もがきながら。
(あの子は、ずっと苦しんでいたのに……誰にも、その痛みは測れなかった)
ふと、手元のキーボードから指を離し、シエリはソファの背にもたれる。
小さく目を閉じて、静かに言葉を呟いた。
「……私は、人を管理するためにここにいるのではない。守るために……ここにいる」
淡い言葉は、誰にも届かず、ただ機械の駆動音にかき消された。
──報告文は、まだ提出されていない。
提出画面を閉じ、代わりに『観察継続・要心理支援対象』というラベルで、紅崎リルのファイルを更新する。
(あの子が“龍”であっても、“人”として扱う。それが、私の選んだ立場)
「……レイラ。彼を……まだ、繋ぎ止めてくれるだろうか」
ひとりまた呟く声には、微かな願いと、そして恐れが滲んでいた。
──誰かを人として扱うというのは、管理よりも、よほど難しい。
だが、シエリはそれを選び続ける。
たとえ、その先に、崩壊が待っているとしても。
◇
龍調査機関・観察棟の一室。
照明は殆ど落とされ、天井の非常灯がぼんやりと床を照らしている。
その部屋にいるのは──セセラ。
「…………」
片手にカップを持ち、ソファに座っていた。
カップの中は、いつも通りのブラックコーヒー。眠気は感じていない。
扉が静かに開き、シエリが入室する。
「セセラ……お疲れさま」
「……おつかれ、先生」
セセラは半分身を起こしてそう返すと、シエリは黙って頷き、セセラの前の椅子に腰を下ろした。
しばしの沈黙のあと、シエリが小さく呟く。
「……さっき、レイラとリルが中庭で話していた。……気づいていたか?」
「……あー……」
セセラは少しだけ目を細めた。
「声、聞こえた。けど……すぐ止まったから。リルのバカが手ェ出してないかだけ後で確認するつもりだった」
「…………」
「……なんかあった?」
頷くシエリ。
表情は、無い。
「リル……限界に近い。精神面の方で」
「……だろうな」
セセラは静かにコーヒーを啜ったあと、低く息を吐く。
「中庭で暴れてたわけじゃねえ。けど、あれは暴発する一歩手前だった。……もし、レイラが居なかったら、あの場にいたのが他の誰かだったら……止められなかったかもしれない」
「…………」
「……俺が止めてやるなんて、簡単には言えねえわ。今のリルにとっちゃ、誰が相手でも地雷みてえなもんだろうしな」
シエリは一瞬目を伏せ──そして少しだけ声を落とした。
「……報告するべきか、迷っている」
「上に?」
「ああ。……でも、報告すれば、リルは監視強化の対象にされる。最悪、拘束される可能性もある」
その言葉に眉間に皺を寄せるセセラ。
「……流石に……早すぎるだろ。それにリルは、まだ戻ってきてないだけだ」
「『だけ』、で済むのか?」
「…………」
セセラはしばし黙る。
その表情は、真剣で、珍しく沈んでいる。
「レイラも、今はまだ揺らいでる。でも、あいつ……ほんとに、リルのことバケモンだなんて思ってねえんだよ」
「……それが、救いになるならいいけれど」
シエリは小さく呟き、椅子から立ち上がった。
「……もう少しだけ、私の責任で保留にしておく。でも、それができる猶予は……そう長くない」
「…………」
「だから……頼む、セセラ。どうかこれからも保護者でいてくれないか。キミは、あの子たちの中で一番“人間”でいてくれる人だから」
「……俺が?」
「そうだろう。怒ったり、笑ったり、茶化したりしながら、ちゃんと見てる。だからお願いだ……。もう少しだけ、リルの中の“人”を繋いでいてあげてほしい」
「…………」
(……研究者、観察者、保護者……)
(俺は一体どこに向かってんだよ)
そこでふと、あの日ジキルに言われた言葉を思い出す。
『感情に振り回されて、研究者じゃなくて人間みたいに生きてるの、疲れない?』
「…………っ……」
(…………いや……俺は、人間だ。それでいい……)
心の中の葛藤を払いながら、セセラはコーヒーのカップを空にし、ようやく口を開いた。
「……わかった。俺のやれる範囲でな」
「それで充分だ」
小さな言葉のやり取り。
だがそれは、どこか深く張り詰めた糸のような、危うい決意の交差だった。
その糸が切れないうちに──。
何かが、届きますように。
◇
もう、どれだけ中庭にいるだろうか。
暗い空の下、夜風が冷たく吹き抜けていく。
地面に膝をついたままのリルの肩が、微かに上下している。
拳を握り締めた手の甲は震え、牙を噛み締めたまま──それでもその瞳には、確かに涙が滲んでいた。
「……っ……ごめ……」
絞り出すような声。
傍で寄り添うレイラの前で、リルはまだ泣いていた。
「……ごめん、……レイラ……、オレ、……ほんとに、……最低だ……」
「…………」
レイラは未だ胸元を押さえたまま、リルの姿を見つめている。
「怒鳴って……痛ぇことして……っ、そんなつもりなかった……オレ……、マジで……」
声が震えている。
鼻をすする音、呼吸の乱れ、ボロボロと落ちていく涙。
「なんで……こんな……! こんなこと……したくなかったのに……!」
「……っ」
レイラは思わず一歩だけ前へ出た。
だが、リルはそれに気づいて更に俯いてしまう。
「ッ、来んな……! オレに……優しくしようとすんじゃねえよ……! またっ……壊しちまうから……」
「……リル」
「…………ッ……」
掠れながらも──まっすぐなレイラの声。
「……ねえ……リル……」
「ンだよ……!! もう……こんなのおかしいって、わかってんだよ……! でも止められなかった……感情が……全部、崩れてきて……ッ……!」
リルは俯きながら震える手で自らの肩を抱いた。
自分を守るように、自分が暴れないように、そして他者が自分に介入しないように。
それでも、涙は止まらない。
「もう、全部……怖い……オレ自身が、ワケがわかんなくて、気色悪ィ……ッ……」
「…………」
レイラは静かに跪き、そっとリルの肩に手を置いた。
その震えている手も一緒に。
「……ッ」
リルはビクッと肩を揺らしたが、その手を振り払うことはしなかった。
「……リル、聞いて。怖いのは……私も一緒だよ。だけど、それでも……あなたを独りにはしない」
「……っ……でも、オレ……」
「あなたがどんなに傷ついていても、私はあなたを信じるのをやめたりしない。そんなの……したくないよ」
「…………!」
静かな中庭に、レイラの言葉だけが優しく響く。
しばらくの間、リルは何も言えなかった。
涙の音、風の音、そして──小さくすすり泣く声が、長く続いた。
しばらくして──。
「……バカだよな、オレ……」
震える声に、ほんの少しだけ笑みが混じる。
レイラはその言葉に、僅かに頷いた。
「うん。……バカだよ。でも、それが……リルなんだと思う」
「…………」
それ以上の言葉はいらなかった。
リルの心の中の嵐は、まだ完全には止まらない。
けれど今このとき、リルはようやく、誰かの前で素直に泣くことができた。
それがどれほどのことか、リル自身が一番わかっている。
(……また、リル)
その怒鳴り声に反応し、誰よりも早く中庭の方へ向かったのは、龍調査機関の所長──シエリ。
黒いワンピースの裾を揺らしながら、シエリは廊下の端、柱の影で足を止める。
「…………」
視線の先。
薄暮の中庭で──ひとりの青年が地に膝をついて項垂れ、少女がその傍にそっと寄り添っていた。
レイラと、リル。
ふたりだけの世界。
触れ合い、ぶつかり合い、崩れ、そしてまた繋ぎ直そうとする姿。
その光景を、シエリは静かに見守っていた。
──あの怒号を聞いたとき、シエリは一瞬だけ“龍の咆哮”を思い出していた。
人ならざる存在が、理性を断ち切られる時の叫び。
それが、あまりにも“人間の声”として発せられていたことが、小さな所長の胸に深い楔を打ち込んでいた。
(あれほど……限界が近づいているとは)
瞳を伏せる。
そのピンク色の眼差しには、怒りも哀れみも浮かばない。
ただ、冷静な分析と、決断の影。
(このままでは、リル……)
(キミの中の龍が、キミを完全に喰う)
シエリは、自分もまた“龍”である。
それ故にわかる。
リルの龍は、理性の皮を被った獣ではない。
理性の残滓の中で生きる獣だ。
(紫苑レイラ……。あの子が、辛うじてリルの龍を人として引き止めている)
遠くからでは言葉までは聞こえない。
だが、レイラの手がそっとリルの方へ伸びたのを目に入れたとき、シエリの中で何かが僅かに動いた。
「…………」
──それは希望か、それとも錯覚か。
(……これが“人”の力だというのなら……)
(私は……)
シエリは小さく息を吐くと、くるりと踵を返す。
小さな背を向けながら、その思考は既に次を見据えていた。
(……近く、国の管理局へ報告を上げなければならない。紅崎リルの精神安定状態は黄。そして、突発的危険行動の懸念……黄赤……)
(このままでは、あの子の存在そのものがリスクと判断されかねない)
シエリの足は淡々と暗くなり始める廊下を進んでいく。
(──“人”としてあの子を守るために。私は、龍であることを隠すわけにはいかない)
廊下の先、誰もいないモニター室の扉が開かれる。
そこが、小さな所長の次なる仕事場だった。
◇
夜のモニター室。
静寂な室内。
淡い照明だけが机上を照らし、壁に並ぶ複数のモニターが無音で情報を流し続けている。
──紅崎リル。
現在地、精神反応、脳波、代謝。
数十分前までの中庭の記録映像も、静かに再生されていた。
モニターに映るレイラの顔。
そして、崩れ落ち、頭を抱えるリルの姿。
「…………」
シエリは無言でそれらを見つめ、静かに端末を立ち上げる。
(……判断は、難しい)
情報の更新ウィンドウに指を添えながら、シエリの脳裏を巡っていたのは報告義務と保護者としての葛藤。
Z.EUS──ジキルが作り出した、狂気と秩序の境界を曖昧にする組織。
その存在を知った以上、彼らを管理対象として国の上層部に報告せねばならない。
だが、それに伴って“紅崎リル”という個体がどのような扱いを受けるかは──想像に難くない。
(今、あの子の存在を“危険個体”として提出すれば……彼は確実に拘束対象となる)
「……っ」
指が止まる。
画面上に浮かぶ、『レポート提出』の確定ボタン。
シエリは小さくため息を吐いた。
(……私は、所長であり、監視者であり……そして、“龍”だ)
──リルの中にある龍の気配は、以前よりも明らかに脈動を強めている。
実験によって無理矢理に埋め込まれたその龍は、眠ってなどいない。
ただ、耐えている。
本人の意思で、周囲の為に、もがきながら。
(あの子は、ずっと苦しんでいたのに……誰にも、その痛みは測れなかった)
ふと、手元のキーボードから指を離し、シエリはソファの背にもたれる。
小さく目を閉じて、静かに言葉を呟いた。
「……私は、人を管理するためにここにいるのではない。守るために……ここにいる」
淡い言葉は、誰にも届かず、ただ機械の駆動音にかき消された。
──報告文は、まだ提出されていない。
提出画面を閉じ、代わりに『観察継続・要心理支援対象』というラベルで、紅崎リルのファイルを更新する。
(あの子が“龍”であっても、“人”として扱う。それが、私の選んだ立場)
「……レイラ。彼を……まだ、繋ぎ止めてくれるだろうか」
ひとりまた呟く声には、微かな願いと、そして恐れが滲んでいた。
──誰かを人として扱うというのは、管理よりも、よほど難しい。
だが、シエリはそれを選び続ける。
たとえ、その先に、崩壊が待っているとしても。
◇
龍調査機関・観察棟の一室。
照明は殆ど落とされ、天井の非常灯がぼんやりと床を照らしている。
その部屋にいるのは──セセラ。
「…………」
片手にカップを持ち、ソファに座っていた。
カップの中は、いつも通りのブラックコーヒー。眠気は感じていない。
扉が静かに開き、シエリが入室する。
「セセラ……お疲れさま」
「……おつかれ、先生」
セセラは半分身を起こしてそう返すと、シエリは黙って頷き、セセラの前の椅子に腰を下ろした。
しばしの沈黙のあと、シエリが小さく呟く。
「……さっき、レイラとリルが中庭で話していた。……気づいていたか?」
「……あー……」
セセラは少しだけ目を細めた。
「声、聞こえた。けど……すぐ止まったから。リルのバカが手ェ出してないかだけ後で確認するつもりだった」
「…………」
「……なんかあった?」
頷くシエリ。
表情は、無い。
「リル……限界に近い。精神面の方で」
「……だろうな」
セセラは静かにコーヒーを啜ったあと、低く息を吐く。
「中庭で暴れてたわけじゃねえ。けど、あれは暴発する一歩手前だった。……もし、レイラが居なかったら、あの場にいたのが他の誰かだったら……止められなかったかもしれない」
「…………」
「……俺が止めてやるなんて、簡単には言えねえわ。今のリルにとっちゃ、誰が相手でも地雷みてえなもんだろうしな」
シエリは一瞬目を伏せ──そして少しだけ声を落とした。
「……報告するべきか、迷っている」
「上に?」
「ああ。……でも、報告すれば、リルは監視強化の対象にされる。最悪、拘束される可能性もある」
その言葉に眉間に皺を寄せるセセラ。
「……流石に……早すぎるだろ。それにリルは、まだ戻ってきてないだけだ」
「『だけ』、で済むのか?」
「…………」
セセラはしばし黙る。
その表情は、真剣で、珍しく沈んでいる。
「レイラも、今はまだ揺らいでる。でも、あいつ……ほんとに、リルのことバケモンだなんて思ってねえんだよ」
「……それが、救いになるならいいけれど」
シエリは小さく呟き、椅子から立ち上がった。
「……もう少しだけ、私の責任で保留にしておく。でも、それができる猶予は……そう長くない」
「…………」
「だから……頼む、セセラ。どうかこれからも保護者でいてくれないか。キミは、あの子たちの中で一番“人間”でいてくれる人だから」
「……俺が?」
「そうだろう。怒ったり、笑ったり、茶化したりしながら、ちゃんと見てる。だからお願いだ……。もう少しだけ、リルの中の“人”を繋いでいてあげてほしい」
「…………」
(……研究者、観察者、保護者……)
(俺は一体どこに向かってんだよ)
そこでふと、あの日ジキルに言われた言葉を思い出す。
『感情に振り回されて、研究者じゃなくて人間みたいに生きてるの、疲れない?』
「…………っ……」
(…………いや……俺は、人間だ。それでいい……)
心の中の葛藤を払いながら、セセラはコーヒーのカップを空にし、ようやく口を開いた。
「……わかった。俺のやれる範囲でな」
「それで充分だ」
小さな言葉のやり取り。
だがそれは、どこか深く張り詰めた糸のような、危うい決意の交差だった。
その糸が切れないうちに──。
何かが、届きますように。
◇
もう、どれだけ中庭にいるだろうか。
暗い空の下、夜風が冷たく吹き抜けていく。
地面に膝をついたままのリルの肩が、微かに上下している。
拳を握り締めた手の甲は震え、牙を噛み締めたまま──それでもその瞳には、確かに涙が滲んでいた。
「……っ……ごめ……」
絞り出すような声。
傍で寄り添うレイラの前で、リルはまだ泣いていた。
「……ごめん、……レイラ……、オレ、……ほんとに、……最低だ……」
「…………」
レイラは未だ胸元を押さえたまま、リルの姿を見つめている。
「怒鳴って……痛ぇことして……っ、そんなつもりなかった……オレ……、マジで……」
声が震えている。
鼻をすする音、呼吸の乱れ、ボロボロと落ちていく涙。
「なんで……こんな……! こんなこと……したくなかったのに……!」
「……っ」
レイラは思わず一歩だけ前へ出た。
だが、リルはそれに気づいて更に俯いてしまう。
「ッ、来んな……! オレに……優しくしようとすんじゃねえよ……! またっ……壊しちまうから……」
「……リル」
「…………ッ……」
掠れながらも──まっすぐなレイラの声。
「……ねえ……リル……」
「ンだよ……!! もう……こんなのおかしいって、わかってんだよ……! でも止められなかった……感情が……全部、崩れてきて……ッ……!」
リルは俯きながら震える手で自らの肩を抱いた。
自分を守るように、自分が暴れないように、そして他者が自分に介入しないように。
それでも、涙は止まらない。
「もう、全部……怖い……オレ自身が、ワケがわかんなくて、気色悪ィ……ッ……」
「…………」
レイラは静かに跪き、そっとリルの肩に手を置いた。
その震えている手も一緒に。
「……ッ」
リルはビクッと肩を揺らしたが、その手を振り払うことはしなかった。
「……リル、聞いて。怖いのは……私も一緒だよ。だけど、それでも……あなたを独りにはしない」
「……っ……でも、オレ……」
「あなたがどんなに傷ついていても、私はあなたを信じるのをやめたりしない。そんなの……したくないよ」
「…………!」
静かな中庭に、レイラの言葉だけが優しく響く。
しばらくの間、リルは何も言えなかった。
涙の音、風の音、そして──小さくすすり泣く声が、長く続いた。
しばらくして──。
「……バカだよな、オレ……」
震える声に、ほんの少しだけ笑みが混じる。
レイラはその言葉に、僅かに頷いた。
「うん。……バカだよ。でも、それが……リルなんだと思う」
「…………」
それ以上の言葉はいらなかった。
リルの心の中の嵐は、まだ完全には止まらない。
けれど今このとき、リルはようやく、誰かの前で素直に泣くことができた。
それがどれほどのことか、リル自身が一番わかっている。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜
深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。
処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。
なぜなら彼女は――
前世で“トップインフルエンサー”だったから。
処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。
空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。
タイトルは――
『断罪なう』。
王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。
すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、
国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。
そして宣言される、前代未聞のルール。
支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。
処刑台は舞台へ。
断罪はエンタメへ。
悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。
これは、
処刑されるはずだった悪役令嬢が、
“ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。
支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
それとも――自由か。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
『イージス艦長、インパール最前線へ。――牟田口廉也に転生した俺は、地獄の餓死作戦を「鉄壁の兵站要塞」に変える』
月神世一
SF
【あらすじ】
「補給がなければ、戦場に立つ資格すらない」
坂上真一(さかがみ しんいち)、50歳。
かつてイージス艦長として鉄壁の防空網を指揮し、現在は海上自衛隊で次世代艦の兵站システムを設計する男。
背中には若き日の過ちである「仁王」の刺青を隠し持ち、北辰一刀流の達人でもある彼は、ある日、勤務中に仮眠をとる。
目が覚めると、そこは湿気と熱気に満ちた1944年のビルマだった。
鏡に映っていたのは、小太りで口髭の男――歴史の教科書で見た、あの「牟田口廉也」。
しかも時期は、日本陸軍史上最悪の汚点とされる「インパール作戦」決行の直前。
部下たちは「必勝の精神論」を叫び、無謀な突撃を今か今かと待っている。
(……ふざけるな。俺に、部下を餓死させろと言うのか?)
現代の知識と、冷徹な計算、そして海自仕込みのロジスティクス能力。
すべてを駆使して、坂上(中身)は歴史への介入を開始する。
精神論を振りかざすふりをして上層部を欺き、現地改修で兵器を強化し、密かに撤退路を整備する。
これは、「史上最も無能な指揮官」の皮を被った「現代の有能な指揮官」が、確定した敗北の運命をねじ伏せ、数万の命を救うために戦う、逆転の戦記ドラマ。
花鳥見聞録
木野もくば
ファンタジー
花の妖精のルイは、メジロのモクの背中に乗って旅をしています。ルイは記憶喪失でした。自分が花の妖精だったことしか思い出せません。失くした記憶を探すため、さまざまな世界を冒険します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる