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終幕
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エルの結婚前夜のことだった。
「アーノルド」
ノックの音と共にエルの声がする。アーノルドは無視し続けた。
「ねぇ、アーノルド。話があるの」
何を話すというのだ。明日になれば、彼女は結婚相手の元へ行ってしまう。今更、こんな時間に使用人の男などと話すことなんてないはずだ。
「私ね、アーノルドに言いたいことがあるの」
「明日は大事な日です。早く寝た方がいいですよ」
「お願い。今日で最後だから……」
「……」
「庭の、あの場所で待ってるから」
エルの気配が遠くなる。
行くつもりなんてなかった。それでも、あの愚かなお嬢様は自分が来るまで待っているだろう。そう思うと、アーノルドは部屋を出ざるを得なかった。
明日の主役が、身体を冷やして風邪を引いてしまってはいけない。
庭に出て、空を見上げる。星が綺麗だ。月明かりのおかげで辺りはよく見える。
エルは既にそこに居て、ベンチに座っていた。アーノルドが来たことに気づくと嬉しそうに笑った。
「来てくれないかと思った」
アーノルドは無言でエルの隣に座る。
「月も星も綺麗だね」
エルが夜空を見上げながら言う。アーノルドは同意するように、そうですね、と返した。
しばらく沈黙が続いたが、おもむろにエルはアーノルドの手を握った。
「どうしたんですか?」
エルは俯いたままだった。
アーノルドはエルの手に優しく触れて、指を絡める。
エルは何も言わずに、アーノルドの肩にもたれかかった。
「明日が来なければいいのにな」
エルは呟くように言った。アーノルドは黙っていた。代わりに、繋いだ手に少し力を入れた。
俺も、そう思ってるよ。アーノルドは心の中で答えた。
「……結婚、したくないなぁ」
「お嬢様」
嗜めるようなアーノルドの口調にエルは首を縦に振った。
「わかっているんだよ。私は貴族だもん。家のための政略結婚は当たり前だから」
でもね、とエルは続ける。
「アーノルドと一緒にいたかったの」
アーノルドは言葉に詰まった。
エルの気持ちは痛いほどわかった。だが、それを叶えることはできない。
エルはアーノルドの頬に触れた。
「でも、私のことは気にせず、アーノルドは好きな人と幸せになってね」
エルは笑顔で言う。
ああ、残酷な人だ、とアーノルドは思う。俺の気持ちを知っていてそんなことを言うのか……いや、違う。残酷だったのは俺の方か、とアーノルドは小さく笑った。
アーノルドが好きな人と幸せになれることはない。だって、彼女は明日、別の人の花嫁になるのだから。
「私、アーノルドと出会えてよかった。たくさん迷惑かけてごめんね」
聞きたくない。別れの言葉なんて、聞きたくない。
「アーノルドには感謝してもしきれない。本当にありがとう」
お願いだから、それ以上何も言わないでくれ。
「アーノルドといられて、本当に楽しかった。アーノルドのおかげだよ。アーノルドがいてくれたから、いつも支えてくれたから、私、頑張れた」
もう、いいから。
「アーノルド。大好きだよ。誰よりも、アーノルドのことを愛してる」
エルの目尻に涙が溜まる。それでも、懸命に耐えているようだった。
「私のこと、忘れないでね」
エルは笑った。
「…………じゃないか」
アーノルドは震える声で言った。
「俺はただの使用人で、あなたに相応しくなくて、身分だって釣り合わないのに、なんで、こんな……たかが使用人にそんなに入れ込んで、あなたは、馬鹿じゃないのか。いくら、入れ込んでも、その気持ちに応じて貰えないのに」
エルは目を丸くした後、眉を下げて微笑んだ。
「バカでもいいよ。応じて貰えなくてもいい。アーノルドが傍にいて、笑ってくれるなら、それで十分だったから」
アーノルドは奥歯を噛み締めて、握った手を引き寄せてエルを抱き寄せて、エルの肩口に顔を埋めて、声を押し殺すように泣いた。
「バカだ……ほんとうに……」
エルもアーノルドの背中に手を伸ばし、ぎゅっと抱きつく。
「うん、そうだね。馬鹿かもしれない。だけど、アーノルドが好きだという気持ちだけは誰にも負けないもの」
アーノルドは嗚咽を漏らしながら、何度も、バカだと繰り返す。
「だから、アーノルドが私に恋してくれて、とても嬉しかった。アーノルドの笑顔が、声が、手が、優しさが、全部、私に向けられていることが、たまらなく嬉しかった」
エルの声が段々と掠れていく。それでも、言葉を紡ぐことをやめなかった。
「アーノルドと過ごした時間は宝物みたいにキラキラしてた。毎日が楽しくて、幸せで、このままずっと一緒にいれたらって思ったけど……」
エルはアーノルドの胸に手を当てた。
「アーノルド。これで最後だから、答えて欲しいの」
潤んだ瞳がアーノルドを見つめる。
「アーノルドは、私のことを好き?」
アーノルドは唇を引き結んで、目を伏せた。
「私は……」
「召使いの貴方じゃなくて、アーノルド・イーノックに聞いているの」
アーノルドは目を開いた。そして、一度、深く息を吸い、真っ直ぐにエルを見据える。
「俺も、好きだ」
言ってしまえば、今まで抑えていた感情が全て溢れ出した。堰を切ったように想いが口から零れる。
「初めて会った時からずっと、好きだよ。誰よりも愛してる。俺も、あなたといる時間が、何より大切で、幸せだった。他の人なんて目に入らないくらい、あなたしか見えなかった。結ばれないと、報われないとわかっていても、気持ちは止められなかった。でも、身分違いの恋だって諦めていた。お嬢様は貴族の令嬢だし、それに……」
アーノルドはエルの頬に触れた。
「あなたには、俺なんかよりもっと良い人が居るはずだから」
それを聞いて、泣き顔なんて見せるつもりはなかったのに、エルはポロポロと涙を流した。
「エル」
初めてアーノルドはエルの名前を呼び捨てにする。その声は掠れていた。名前を呼ばれただけでこんなにも嬉しいなんて。
「大好きだ。愛してる。愛してるよ……エル……」
ずっと口にしなかった言葉を吐き出す。許されない想い。決して結ばれない想い。それでも、アーノルドはエルを想わずにはいられなかった。
「……やっと、言ってくれた」
エルはアーノルドの首に手を回すと、自分の方へ引き寄せる。
「……ごめん」
「謝らないで。わかってる、わかってるから……」
抱き締める腕に力を入れると、エルも同じように力を込めた。お互いの鼓動を感じることができるほど密着する。
この温もりも、匂いも、感触も、全て忘れないように。
「アーノルドと一緒に居たい。アーノルドじゃないと嫌だ。私、アーノルド以外の人のものになんてなりたくなかった」
涙が溢れる。エルは、アーノルドの胸に額をつけた。
俺もだ。俺だって同じだ。アーノルドは心の中で答える。
他の男のものにならないでくれ。頼むから、俺を選んで。どうか、俺のそばにいて。
そう言いたかったけれど、言えなかった。
エルさえ良ければ、結婚したかった。エルを幸せにしたかった。エルと一緒にいたかった。
だが、それは叶わない夢なのだ。身分が違うから。身分の差は埋まらないから。
けれど、今だけは、この瞬間だけは、許されるだろうか。
エルが望んでいる。エルが求めている。エルがアーノルドを求めている。
アーノルドはエルを引き寄せて、その唇にキスをした。
初めて触れた彼女の唇は柔らかくて、温かくて、とても愛おしくて、名残惜しむようにゆっくりと離れた。エルは涙で濡れた顔を綻ばせて、ふわりと笑う。
「アーノルド」
「なに?」
「もう一回、して欲しい」
アーノルドは返事の代わりにもう一度口づけた。
エルは幸せそうな笑みを浮かべたまま目を閉じて、静かに受け入れる。
これが最初で最後。二度と味わうことのできない幸せな時間。
永遠に続くことはない。明日になればエルは別の男と結婚し、アーノルドはただの使用人に戻る。どれ程愛しあっても変わらない事実。それでも、確かに幸せだった。
エルの唇を何度も啄ばむように口付ける。何度も何度も繰り返し、最後に強く抱きしめた後、アーノルドはエルから体を離した。
「愛してる」
これ以上の言葉はいらなかった。言葉では足りないほどの想いがあったからだ。
「私も」
エルはそっとアーノルドの手を取った。
「私も、愛してる」
アーノルドはその手を握り返す。二人は見つめ合い、どちらともなく微笑んだ。
「エル。君の幸せをただ、願ってる」
「……うん……」
エルは悲しげに笑ってうなずく。
「アーノルドもいつか、素敵な人と幸せになってね」
「俺は……」
アーノルドは言葉に詰まったが、すぐに笑顔を作った。
「大丈夫だよ。心配しないで」
「……わかった」
エルはアーノルドの手に頬ずりをして、手を解く。
「さようなら、アーノルド」
「さよなら、エル。俺の大好きな人」
アーノルドはエルを優しく抱きしめた。
最後に触れるだけのキスをして、見つめ合う。
そして、どちらともなく離れた。つかの間のひとときは終わった。
「じゃあ、屋敷に戻りましょうか。お嬢様」
アーノルドは使用人の顔に戻って言った。
「えぇ、そうね」
エルもいつもの顔を作って、返事をする。
「明日は忙しいんですから、できるだけ早く寝るんですよ」
「わかっているわよ」
「本当ですか?明日の主役が体調崩したら大変ですからね」
「わかってる!」
エルは不満げな顔をして歩き出した。アーノルドは苦笑いしながら後を追う。
「お嬢様。伯爵家に行ったら、そんな態度取ってたらダメですよ」
「……わかっているわよ……」
「ちゃんとしないと、旦那様に叱られますよ」
「……だから、わかってるって言ってるでしょ……」
「本当に?」
「……もうっ!しつこい!!」
「私はお嬢様のことが心配で言っているのに……」
アーノルドは軽く息を吐く。屋敷に戻り、彼女を部屋まで送り届けるまで、あと少し。
「ねぇ、アーノルド」
「なんでしょう?」
「……やっぱり、何でもない」
エルの部屋の前に着いて、エルは立ち止まった。
「おやすみ、アーノルド」
「はい。ゆっくり休んでください」
エルはドアノブに手をかけたまま振り返ったが、何も言わずにそのまま部屋の中へ入っていった。
「……?」
アーノルドは首を傾げる。何か言いたいことがあったのかと思ったが、結局聞けないままだった。
まぁいいか。そう思い直して踵を返そうとした時、
「ありがとう」
後ろから小さな声が聞こえた気がした。気のせいだろうか。でも、確かにエルの声だ。
「……どういたしまして」
アーノルドは振り向かずに答えて、その場を後にした。
翌日、結婚式が行われた。
本当に手の届かない人になったエルは、美しかった。アーノルドは祝福の拍手を送る。"使用人として"、"護衛として”の彼は心からエルの婚姻を祝っている。
結婚式が終わり、ロジャーとロザリーと話し終わった花嫁姿のエルがこちらに向かって歩いてくる。
「アーノルド、今までずっと私の使用人として面倒を見てくれてありがとう」
主人としての言葉。
「とんでもないことでございます。おめでとうございます、お嬢様」
アーノルドは恭しく頭を下げて礼をする。
「そうだ。貴方の幸せを願って分けてあげる」
そう言って花嫁のブーケから一輪のバラを取り、アーノルドの胸ポケットに押し込んだ。
一輪のバラの花言葉は『あなたしかいない』
「ありがとうございます。このご恩は決して忘れません」
アーノルドは目頭が熱くなるのを感じたが、ぐっと堪えて笑顔を作る。
「……アーノルド……元気でね」
エルはアーノルドを見上げて少しだけ寂しそうな笑みを浮かべて言う。
「エルお嬢様こそ……どうかご健勝で」
アーノルドも微笑んで答えた。
「では、失礼します」
アーノルドは深々と頭を下げると、その場を離れた。
これで最後になるだろう。二度と会うことはないかもしれない。
それでも、願わずにはいられなかった。
いつまでも、あなたに幸多からんことを―――。
「アーノルド」
ノックの音と共にエルの声がする。アーノルドは無視し続けた。
「ねぇ、アーノルド。話があるの」
何を話すというのだ。明日になれば、彼女は結婚相手の元へ行ってしまう。今更、こんな時間に使用人の男などと話すことなんてないはずだ。
「私ね、アーノルドに言いたいことがあるの」
「明日は大事な日です。早く寝た方がいいですよ」
「お願い。今日で最後だから……」
「……」
「庭の、あの場所で待ってるから」
エルの気配が遠くなる。
行くつもりなんてなかった。それでも、あの愚かなお嬢様は自分が来るまで待っているだろう。そう思うと、アーノルドは部屋を出ざるを得なかった。
明日の主役が、身体を冷やして風邪を引いてしまってはいけない。
庭に出て、空を見上げる。星が綺麗だ。月明かりのおかげで辺りはよく見える。
エルは既にそこに居て、ベンチに座っていた。アーノルドが来たことに気づくと嬉しそうに笑った。
「来てくれないかと思った」
アーノルドは無言でエルの隣に座る。
「月も星も綺麗だね」
エルが夜空を見上げながら言う。アーノルドは同意するように、そうですね、と返した。
しばらく沈黙が続いたが、おもむろにエルはアーノルドの手を握った。
「どうしたんですか?」
エルは俯いたままだった。
アーノルドはエルの手に優しく触れて、指を絡める。
エルは何も言わずに、アーノルドの肩にもたれかかった。
「明日が来なければいいのにな」
エルは呟くように言った。アーノルドは黙っていた。代わりに、繋いだ手に少し力を入れた。
俺も、そう思ってるよ。アーノルドは心の中で答えた。
「……結婚、したくないなぁ」
「お嬢様」
嗜めるようなアーノルドの口調にエルは首を縦に振った。
「わかっているんだよ。私は貴族だもん。家のための政略結婚は当たり前だから」
でもね、とエルは続ける。
「アーノルドと一緒にいたかったの」
アーノルドは言葉に詰まった。
エルの気持ちは痛いほどわかった。だが、それを叶えることはできない。
エルはアーノルドの頬に触れた。
「でも、私のことは気にせず、アーノルドは好きな人と幸せになってね」
エルは笑顔で言う。
ああ、残酷な人だ、とアーノルドは思う。俺の気持ちを知っていてそんなことを言うのか……いや、違う。残酷だったのは俺の方か、とアーノルドは小さく笑った。
アーノルドが好きな人と幸せになれることはない。だって、彼女は明日、別の人の花嫁になるのだから。
「私、アーノルドと出会えてよかった。たくさん迷惑かけてごめんね」
聞きたくない。別れの言葉なんて、聞きたくない。
「アーノルドには感謝してもしきれない。本当にありがとう」
お願いだから、それ以上何も言わないでくれ。
「アーノルドといられて、本当に楽しかった。アーノルドのおかげだよ。アーノルドがいてくれたから、いつも支えてくれたから、私、頑張れた」
もう、いいから。
「アーノルド。大好きだよ。誰よりも、アーノルドのことを愛してる」
エルの目尻に涙が溜まる。それでも、懸命に耐えているようだった。
「私のこと、忘れないでね」
エルは笑った。
「…………じゃないか」
アーノルドは震える声で言った。
「俺はただの使用人で、あなたに相応しくなくて、身分だって釣り合わないのに、なんで、こんな……たかが使用人にそんなに入れ込んで、あなたは、馬鹿じゃないのか。いくら、入れ込んでも、その気持ちに応じて貰えないのに」
エルは目を丸くした後、眉を下げて微笑んだ。
「バカでもいいよ。応じて貰えなくてもいい。アーノルドが傍にいて、笑ってくれるなら、それで十分だったから」
アーノルドは奥歯を噛み締めて、握った手を引き寄せてエルを抱き寄せて、エルの肩口に顔を埋めて、声を押し殺すように泣いた。
「バカだ……ほんとうに……」
エルもアーノルドの背中に手を伸ばし、ぎゅっと抱きつく。
「うん、そうだね。馬鹿かもしれない。だけど、アーノルドが好きだという気持ちだけは誰にも負けないもの」
アーノルドは嗚咽を漏らしながら、何度も、バカだと繰り返す。
「だから、アーノルドが私に恋してくれて、とても嬉しかった。アーノルドの笑顔が、声が、手が、優しさが、全部、私に向けられていることが、たまらなく嬉しかった」
エルの声が段々と掠れていく。それでも、言葉を紡ぐことをやめなかった。
「アーノルドと過ごした時間は宝物みたいにキラキラしてた。毎日が楽しくて、幸せで、このままずっと一緒にいれたらって思ったけど……」
エルはアーノルドの胸に手を当てた。
「アーノルド。これで最後だから、答えて欲しいの」
潤んだ瞳がアーノルドを見つめる。
「アーノルドは、私のことを好き?」
アーノルドは唇を引き結んで、目を伏せた。
「私は……」
「召使いの貴方じゃなくて、アーノルド・イーノックに聞いているの」
アーノルドは目を開いた。そして、一度、深く息を吸い、真っ直ぐにエルを見据える。
「俺も、好きだ」
言ってしまえば、今まで抑えていた感情が全て溢れ出した。堰を切ったように想いが口から零れる。
「初めて会った時からずっと、好きだよ。誰よりも愛してる。俺も、あなたといる時間が、何より大切で、幸せだった。他の人なんて目に入らないくらい、あなたしか見えなかった。結ばれないと、報われないとわかっていても、気持ちは止められなかった。でも、身分違いの恋だって諦めていた。お嬢様は貴族の令嬢だし、それに……」
アーノルドはエルの頬に触れた。
「あなたには、俺なんかよりもっと良い人が居るはずだから」
それを聞いて、泣き顔なんて見せるつもりはなかったのに、エルはポロポロと涙を流した。
「エル」
初めてアーノルドはエルの名前を呼び捨てにする。その声は掠れていた。名前を呼ばれただけでこんなにも嬉しいなんて。
「大好きだ。愛してる。愛してるよ……エル……」
ずっと口にしなかった言葉を吐き出す。許されない想い。決して結ばれない想い。それでも、アーノルドはエルを想わずにはいられなかった。
「……やっと、言ってくれた」
エルはアーノルドの首に手を回すと、自分の方へ引き寄せる。
「……ごめん」
「謝らないで。わかってる、わかってるから……」
抱き締める腕に力を入れると、エルも同じように力を込めた。お互いの鼓動を感じることができるほど密着する。
この温もりも、匂いも、感触も、全て忘れないように。
「アーノルドと一緒に居たい。アーノルドじゃないと嫌だ。私、アーノルド以外の人のものになんてなりたくなかった」
涙が溢れる。エルは、アーノルドの胸に額をつけた。
俺もだ。俺だって同じだ。アーノルドは心の中で答える。
他の男のものにならないでくれ。頼むから、俺を選んで。どうか、俺のそばにいて。
そう言いたかったけれど、言えなかった。
エルさえ良ければ、結婚したかった。エルを幸せにしたかった。エルと一緒にいたかった。
だが、それは叶わない夢なのだ。身分が違うから。身分の差は埋まらないから。
けれど、今だけは、この瞬間だけは、許されるだろうか。
エルが望んでいる。エルが求めている。エルがアーノルドを求めている。
アーノルドはエルを引き寄せて、その唇にキスをした。
初めて触れた彼女の唇は柔らかくて、温かくて、とても愛おしくて、名残惜しむようにゆっくりと離れた。エルは涙で濡れた顔を綻ばせて、ふわりと笑う。
「アーノルド」
「なに?」
「もう一回、して欲しい」
アーノルドは返事の代わりにもう一度口づけた。
エルは幸せそうな笑みを浮かべたまま目を閉じて、静かに受け入れる。
これが最初で最後。二度と味わうことのできない幸せな時間。
永遠に続くことはない。明日になればエルは別の男と結婚し、アーノルドはただの使用人に戻る。どれ程愛しあっても変わらない事実。それでも、確かに幸せだった。
エルの唇を何度も啄ばむように口付ける。何度も何度も繰り返し、最後に強く抱きしめた後、アーノルドはエルから体を離した。
「愛してる」
これ以上の言葉はいらなかった。言葉では足りないほどの想いがあったからだ。
「私も」
エルはそっとアーノルドの手を取った。
「私も、愛してる」
アーノルドはその手を握り返す。二人は見つめ合い、どちらともなく微笑んだ。
「エル。君の幸せをただ、願ってる」
「……うん……」
エルは悲しげに笑ってうなずく。
「アーノルドもいつか、素敵な人と幸せになってね」
「俺は……」
アーノルドは言葉に詰まったが、すぐに笑顔を作った。
「大丈夫だよ。心配しないで」
「……わかった」
エルはアーノルドの手に頬ずりをして、手を解く。
「さようなら、アーノルド」
「さよなら、エル。俺の大好きな人」
アーノルドはエルを優しく抱きしめた。
最後に触れるだけのキスをして、見つめ合う。
そして、どちらともなく離れた。つかの間のひとときは終わった。
「じゃあ、屋敷に戻りましょうか。お嬢様」
アーノルドは使用人の顔に戻って言った。
「えぇ、そうね」
エルもいつもの顔を作って、返事をする。
「明日は忙しいんですから、できるだけ早く寝るんですよ」
「わかっているわよ」
「本当ですか?明日の主役が体調崩したら大変ですからね」
「わかってる!」
エルは不満げな顔をして歩き出した。アーノルドは苦笑いしながら後を追う。
「お嬢様。伯爵家に行ったら、そんな態度取ってたらダメですよ」
「……わかっているわよ……」
「ちゃんとしないと、旦那様に叱られますよ」
「……だから、わかってるって言ってるでしょ……」
「本当に?」
「……もうっ!しつこい!!」
「私はお嬢様のことが心配で言っているのに……」
アーノルドは軽く息を吐く。屋敷に戻り、彼女を部屋まで送り届けるまで、あと少し。
「ねぇ、アーノルド」
「なんでしょう?」
「……やっぱり、何でもない」
エルの部屋の前に着いて、エルは立ち止まった。
「おやすみ、アーノルド」
「はい。ゆっくり休んでください」
エルはドアノブに手をかけたまま振り返ったが、何も言わずにそのまま部屋の中へ入っていった。
「……?」
アーノルドは首を傾げる。何か言いたいことがあったのかと思ったが、結局聞けないままだった。
まぁいいか。そう思い直して踵を返そうとした時、
「ありがとう」
後ろから小さな声が聞こえた気がした。気のせいだろうか。でも、確かにエルの声だ。
「……どういたしまして」
アーノルドは振り向かずに答えて、その場を後にした。
翌日、結婚式が行われた。
本当に手の届かない人になったエルは、美しかった。アーノルドは祝福の拍手を送る。"使用人として"、"護衛として”の彼は心からエルの婚姻を祝っている。
結婚式が終わり、ロジャーとロザリーと話し終わった花嫁姿のエルがこちらに向かって歩いてくる。
「アーノルド、今までずっと私の使用人として面倒を見てくれてありがとう」
主人としての言葉。
「とんでもないことでございます。おめでとうございます、お嬢様」
アーノルドは恭しく頭を下げて礼をする。
「そうだ。貴方の幸せを願って分けてあげる」
そう言って花嫁のブーケから一輪のバラを取り、アーノルドの胸ポケットに押し込んだ。
一輪のバラの花言葉は『あなたしかいない』
「ありがとうございます。このご恩は決して忘れません」
アーノルドは目頭が熱くなるのを感じたが、ぐっと堪えて笑顔を作る。
「……アーノルド……元気でね」
エルはアーノルドを見上げて少しだけ寂しそうな笑みを浮かべて言う。
「エルお嬢様こそ……どうかご健勝で」
アーノルドも微笑んで答えた。
「では、失礼します」
アーノルドは深々と頭を下げると、その場を離れた。
これで最後になるだろう。二度と会うことはないかもしれない。
それでも、願わずにはいられなかった。
いつまでも、あなたに幸多からんことを―――。
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