やりません。やれないんです。

朝山みどり

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25 正体

 二週間後、カールは、やって来た。

「随分、早いな。目的はなんだ?」とアンドレが迎えている。

「冷たいな」とカールが笑っている。

 店の奥からその声を聞きながら、わたしはわざと少し間を置いた。
 すぐに飛び出していくなんて、つまらない。

 鏡をちらりと見て、髪を指で整える。
 笑顔をつくって、それからゆっくりと扉の方へ向かった。

「マリア、元気だった?」

 カールの声は明るくて、少しだけ安心したような響きがあった。

「はい」

 わたしは少しだけ大げさにうなずいて、にっこり笑いかけた。
 その瞬間、カールの目がやわらぐ。

 ……こういう顔、するのね。

 胸の奥が、くすぐったくなる。




 カールと町中を歩いた。

 石畳の道。店先に並ぶ薬草や布。
 知っている顔が次々と声をかけてくる。

「マリアちゃん、元気?」
「久しぶりだねぇ」

「はい、おかげさまで」

「お隣はなんだい? 仲良しだね」

 わたしは笑って、ひとりひとりに丁寧に答えた。
 少しだけ声を明るくして、少しだけ親しげに。

 隣にいるカールが、ちらちらとこちらを見る。

「ずいぶん顔が広いんだな」

「普通ですよ」

 そう言いながら、また別の人に手を振る。

 そのたびに、カールの視線が少しだけ強くなる。
 口には出さないけど、わかる。

 ――やきもち。

 それが、なんだか楽しかった。



 三日目、カールはしぶしぶと言った顔で荷物をまとめた。

「行ってくる」

「いってらっしゃい」

 手を振ると、少しだけ名残惜しそうにこちらを見て、それから出ていった。

 その背中を見送りながら、わたしは思う。

 ――悪くない。

 悪くないわ、この感じ。


 翌月。

 戻ってきたカールは、以前よりも少しだけ疲れて見えたけど、その分、どこか決意のようなものをまとっていた。

 夕暮れの店内で、カールはまっすぐわたしを見た。

「本店に行ってくれるかい?」

 一瞬、言葉の意味を確かめるように、胸の中で転がす。

 本店。

 カールがたくさん持っているお店の本店。奥さんにまかせたいと思っている場所。

「はい、喜んで」

 答えた瞬間、口惜しさとか焦りとかが、みんな消えた。




 その夜の夕食の席でカールが、二人のことを報告した。

 長いテーブルの上には料理が並び、みんなの顔が浮かれていた。

 カールが一枚の書類を差し出す。

「これに署名してくれ。役所に提出するから」

 紙は少し厚くて、しっかりしていた。
 文字がびっしりと並んでいる。

 ――書類は、署名する前に隅々まで読みなさい。
 厳格だった祖母の戒めが、不意に耳の奥で蘇る。だが、周囲の歓声がそれをかき消した。


「よかったねぇ!」
「ほんとにめでたい!」
「カール、やったな!」

 声が重なった。笑い声が重なる。
 誰かが肩を叩く。

 紙の上の文字が、うまく頭に入ってこない。

 でも、ここのいい人たちが喜んでいる。

 今さら、ここで止まるの?

 みんなが見ている。祝っている。


 ペンを取るのを待っている。

 ほんの一瞬だけ、ためらいがよぎる。

 ……でも。

 いいじゃない。

 どうせ、うまくいく。

 わたしは名前を書いた。

 さらさらと、迷いなく。

「やったな、カール!」

 誰かが言う。

 カールが笑う。

「ありがとう」

 その横顔を見ながら、わたしは胸の奥でつぶやいた。

 やったわ。

 わたしは、薬屋で終わる女じゃないのよ。



 馬車で一日。

 揺れが続く中で、景色がどんどん変わっていく。

 見慣れた町は遠くなり、知らない道が続く。

 それでも、不安はなかった。

 これから先のほうが、きっといいに決まっている。

 時折、わたしに笑いかけるカールの顔がそう言っていた。



 ◇◆◇◆◇

 外が暗くなったころ、馬車は一軒の宿屋の前で止まった。

 灯りがたくさん、灯っている。派手な装飾の木の扉。

 なにかの香料が匂う。安っぽい!

「いらっしゃい」

 中に入ると、低い声が迎えた。

 カウンターの奥にいる男が、じっとこちらを見る。

「おや、この娘」

 その視線に、少しだけ違和感を覚えた。

「いいだろう」

 カールが軽く答える。

 ロビーの隅に立っていた男が、すっと近づいてきた。

「え?」

 腕をつかまれる。

 強い。思ったより、ずっと強い力。

「ちょっと!」

 言い終わる前に、体が引かれる。

 足が床を滑る。

「なにするの? カール」


 カールは、動かない。

 それどころか、笑っていた。

「さよなら。マリア。がんばりな!」

 最高の笑顔だった。

 その笑顔の意味が、わからないまま、

 わたしは奥の部屋へ引きずられていった。


 それが、わたしという「商品」を売り払った男の、満足げな商談成立の笑顔なのだと気づいた時には、もう遅すぎた。
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