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side α
俺が失った俺のオメガ 1
コンコンコココンコン。
どこか遠くからなにか音が聞こえる。妙にリズミカルな打撃音。昨夜は動けなくなるまで働いて、倒れるように眠ったというのに夢を見ているのだろうか。久しぶりに寝付けたというのに。別にどうしても寝たいとは思っていないが、寝られない夜はどうしてもいろいろ考えて堪える。意識を失っていられる時間は長いほうがいい。
音は続いている。どうやら、近隣で建て壊しをやっている工事音のようだ。この盛り場の成れの果ての地域は荒廃しきっている。日本は表向き世界一安全な国だがここは別だ。明るい世界には戻れない、行き場のない人間の吹き溜まり。ここにいる男も女もアルファもオメガも皆そんなもので、なんでもありの無法地帯だ。
流れ着いた俺にとって人目を気にしなくて良い居心地のいい場所だったが、再開発されることになり次々と建て壊されている。俺のこのぼろアパートもそのうちそうなる予定だ。しかしこのリズム。あいつのノックによく似ている。
なつかしいあの頃。あいつはいつもこうノックして俺の部屋に来た。あいつとの未来を全く疑っていなかった頃。あの頃は気づいていなかったが、思い返せばあいつとともに過ごした時間は全て金色に輝いていた。
「こんなノックなら音だけで僕ってすぐわかるでしょ」
弾ける、という表現がぴったりの笑顔であいつは少し威張ってそう言ったものだった。
ああ。あれから何もかも全てを捨てたというのに。どんなに封をして、無かったことにしてもちょっとしたきっかけで記憶は蘇ってしまうのが厄介だ。ただの工事音の連続から懐かしいリズムを見出してしまうのは、昨日あいつから来たメッセージのせいだろう。
[結婚するよ。一度そっちに行くね]
というメッセージ。家を出る時、俺はすべてを捨てた。家も名も将来も過去も捨てて、スマホすら持たず身一つで家を出た。それなのに今になってあいつから俺にメッセージが届いた。今のスマホは以前の俺を知る誰にも教えていないから、これは実家の仕業だろう。家の力を持ってすれば俺の居場所も何もかも、とっくに掴まれていてもおかしくは無い。
あいつこと、翠と俺が出会ったのはまたほんの幼児の頃だ。アルファである俺と、オメガであるあいつ。まるで必然のように出会った。
名家のガーデンパーティーは社交の場であるとともに、出会いの場だ。家同士のつながりを密にする意味と、アルファとオメガのマッチングの場。未婚であれば大人から幼児まで、そういうことを意識して参加する場だ。あの日の俺も、そういう意味のある場だと言い含められて母に手を引かれて参加した。明るく美しい庭園にこれまた明るく美しい人々。上品な集いは体を使って遊びたい盛りの俺にとって退屈そのものだった。自分たちの話に夢中の母からうまく離れて、勝手に広大な庭園を探検していた俺は、池の縁にべったりと座って適当に小花を投げ込んでいる幼児に出会った。
「なにしてんだよ?」
線が細く小柄だが半ズボンを履いているから男子だとわかった。俺と同じように小綺麗な格好をしているから、参加者の一人だ。しかしあまりにやっていることの意味がわからない。同じ子ども同士・男同士だから、普段他人と接する時のように取り繕った顔も作らず普通に話しかけると、池に向けたまま顔も上げず、
「お魚、来ないかなぁ。お花は食べないのかな」
と言う。見れば錦鯉たちは投げ込まれる小花を一顧だにせず、すいすい泳いでいる。
「ハハッ。鯉は花や葉っぱにゃこねえよ。こいつらは食べ物はわかるんだよ」
魚の我関せずな様子が面白くて思わず笑ってしまった。そんな俺の言葉にはっと上げた顔に俺は釘付けになった。小さな顔にこれ以上無いほどバランスよく配置された大きな目、すっとした鼻、薄ピンクの小さな口。髪と瞳は淡いブラウン。その認識に遅れてふわりとたくさんのフルーツを集めたような、いい匂いがした。こんな人間が本当にいるのかと目を見張った。かわいいと言うよりあまりにきれいで、目が離せなかった。
「僕に普通に話してくれるの?」
小さな口から発せされた言葉とその切実さは思ってもみないもので、俺は首を傾げた。
「パーティー、やだ。みんな、すごくやだ。なんかやだ。やさしいけど気持ち悪い」
言い募る言葉に、ははん、と思った。多分、こいつはオメガなのだろう。アルファに比べてオメガは極端に少ない。アルファは本能でオメガを求める。だからアルファはみな、どうしてもオメガに対して下手に出るし、顔色をうかがう形にもなる。広場で集っている人々も、その中心にいるのはオメガだ。
「でも君は、違う。ふつう。ねえなんて名前?ずっと一緒にいて?あっ、僕はスイ。翡翠って宝石の、スイだよ」
宝石の翡翠を知らず、それは何かと考え込んだ瞬間、ぐっと右手を掴まれた。白くて小さな手は細さの割に力が強く、引っ張られて池の端に俺も座り込む。それから鯉を眺めながら話し込んだ。あいつのポケットから出てきた飴を舐めながら。好きな本の話、食べ物の話。驚くほど話が合った。相手してやっているはずだったのに、いつの間にか夢中で話し込んでいた。
「ああ楽しかった…こんな楽しかったの初めて。僕、君とケッコンしたいな」
遠くから親たちが探す声が聞こえてきたところで、あいつはそう言って、俺の顔を覗き込んだ。
ケッコン。ああ、あれだ、親たちだ。父と母だ。いつも二人で一緒にいるやつ。つがいだ。二人の子どもなのに仲間はずれになってしまうほど、仲良くしているのがつがいでケッコン。適当な理解だがアルファとはいえ俺も幼児だったから、そんな認識だった。そうだ、今日はケッコンの相手を探すパーティーだ。
「いいよ。君とならいっしょにいたい」
話している内に俺もまた、一緒にいることが心地よく思っていたから即答した。午後のきらめく光の中でそれを上回るような輝く笑顔であいつは小指を差し出してきた。
「じゃ約束ね。嘘ついたらぁーうふふ、針千本のーますっ」
これが始まりだった。
お互いが話した特徴でお互いが特定された。親同士がすでに知り合いで、交流させようと思っていたところだったらしい。家を行ったり来たりし遊ぶようになるのもすぐのことで、毎日同じ学校に通い、週末はお泊りという関係になった。
あのノックを始めたのはうちに自由に出入りするようになってからだ。
最もノックであいつと気付いた瞬間にはもう勝手に部屋の中に入って来ていたが。そうしてあいつに振り回されるのもまた楽しくて、鍵なんてかけたこともなかった。そんな日々だった。これはほぼ婚約ということで、俺はあいつとずっとともにあると思っていた。
それが変わってきたのはあいつが中学に上がる時だ。一斉に行われる第二性検査であいつはオメガ、俺はアルファであると確定した。互いにそれはそうだろうと思っていたが、予想外なのは俺が上位アルファだったことだ。
そこからだった、あいつと疎遠になっていくのは。第二性を元にクラスが組まれ、そうして友達の種類が変わればもう、学校では交わりようがなかった。オメガやベータの友人たちと行動するあいつ。俺の周りにいるのは俺と同じようにガタイの良いアルファのクラスメイトたちで、それに寄ってくる一癖も二癖もあるオメガばかりだ。
もう中学生だし、正式な婚約ではなかったから、という理由で互いの家を訪れることはなくなり、交流が無くなった。あいつがだんだん遠くなっていく。俺の知らないところで活動して、気がつけばオメガ初の生徒会長となって、あいつは光り輝いていた。俺は俺のスイではなく優秀なオメガ、御門翠を遠くから見つめることしか出来なかった。
しかし、それでもまだ、俺は薄い望みを繋いでいた。俺達の通う学園は幼稚園から大学まで繋がっていて、大抵の生徒は内部進学する。だから大学に行けばまた、と思っていたのだ。こんな状態で高校最後の年となり、人づてに聞いたあいつの進路に俺は愕然とした。
留学。オメガのみの全寮制の大学兼フィニッシングスクールに行くというのだ。薄々わかってはいた。あんな約束は子供の頃の戯言だ。俺が鮮明に覚えているのは、俺があの約束を頭のどこかでよすがにしてしまったからだ。明るく活発で人付き合いのうまいあいつのこと、たくさんの人との関係の中、俺との約束なんて記憶に残っていなくてもおかしくない。
あいつは高校卒業の資格を得て年明けすぐに旅立ったという。もちろん、俺に何の一言もなかった。確かに、婚約を結んだわけでもなんでもない。しかし十数年の付き合いを、こんな形で無しにされるのは、そういうことだ。そう納得せざるを得ない。あいつの中に俺はいないのだ。
あいつのいない卒業式。あいつのいない大学。全く色のない世界だった。この先続くあいつだけがいない世界に絶望した。こんな何の希望も色も無い世界からは一刻も早く逃げ出したい。飛び級で大学を卒業したその日、俺は誰にも言わず、家を出た。着の身着のまま、スマホも置いて。あちこちをさすらった。どこかで死ねればと思っていたのだ。しかし運悪くというべきか、アルファはそう簡単に死なないし、どこででも生きていける。
あれから数年が経った。流れ着いた先で知り合った人間に頼まれて適当に仕事をしていたら、いつのまにか生活が成り立ち、事業となっていた。俺はまだ、不調の体を抱えて生き長らえている。
翠と会えなくなってから、いつもどこか不安だった。それでも同じ学校だったうちはまだ良かった。旅立って俺の近くからいなくなってからずっと、息もよく出来ないし、深く眠ったことはない。今もそれはそのままで、そうしてやっとのこと、生きているというのに。一人で命が尽きるまで適当に暮らして野垂れ死ぬ。それだけが俺の望みだったというのに。
昨日届いたメッセージに俺は動揺した。
あいつは俺が今どこにいると思っているんだろうか。変わらず生家で暮らしているとでも思っているのだろうか。そもそも捨てた俺に、いや、捨ててすらいない、とっくに忘れていただろうに、今更なんなのだろう。ただの思い出をなぞる旅だというのなら、俺を引っ張り出さないで欲しかった。
工事音のおかしなリズムのせいで目が覚めてしまった。窓の外はすっかり明るい。寝ついたと思われる時間からは五時間ほどが過ぎていた。今日もまた一日が始まるが、もうずっと一続きの夢の中で暮らしているような感覚だ。それにしても、工事音から記憶を拾ってくるとは。未練もここに極まれり、と小さく苦笑いして重い体を起こした。
どこか遠くからなにか音が聞こえる。妙にリズミカルな打撃音。昨夜は動けなくなるまで働いて、倒れるように眠ったというのに夢を見ているのだろうか。久しぶりに寝付けたというのに。別にどうしても寝たいとは思っていないが、寝られない夜はどうしてもいろいろ考えて堪える。意識を失っていられる時間は長いほうがいい。
音は続いている。どうやら、近隣で建て壊しをやっている工事音のようだ。この盛り場の成れの果ての地域は荒廃しきっている。日本は表向き世界一安全な国だがここは別だ。明るい世界には戻れない、行き場のない人間の吹き溜まり。ここにいる男も女もアルファもオメガも皆そんなもので、なんでもありの無法地帯だ。
流れ着いた俺にとって人目を気にしなくて良い居心地のいい場所だったが、再開発されることになり次々と建て壊されている。俺のこのぼろアパートもそのうちそうなる予定だ。しかしこのリズム。あいつのノックによく似ている。
なつかしいあの頃。あいつはいつもこうノックして俺の部屋に来た。あいつとの未来を全く疑っていなかった頃。あの頃は気づいていなかったが、思い返せばあいつとともに過ごした時間は全て金色に輝いていた。
「こんなノックなら音だけで僕ってすぐわかるでしょ」
弾ける、という表現がぴったりの笑顔であいつは少し威張ってそう言ったものだった。
ああ。あれから何もかも全てを捨てたというのに。どんなに封をして、無かったことにしてもちょっとしたきっかけで記憶は蘇ってしまうのが厄介だ。ただの工事音の連続から懐かしいリズムを見出してしまうのは、昨日あいつから来たメッセージのせいだろう。
[結婚するよ。一度そっちに行くね]
というメッセージ。家を出る時、俺はすべてを捨てた。家も名も将来も過去も捨てて、スマホすら持たず身一つで家を出た。それなのに今になってあいつから俺にメッセージが届いた。今のスマホは以前の俺を知る誰にも教えていないから、これは実家の仕業だろう。家の力を持ってすれば俺の居場所も何もかも、とっくに掴まれていてもおかしくは無い。
あいつこと、翠と俺が出会ったのはまたほんの幼児の頃だ。アルファである俺と、オメガであるあいつ。まるで必然のように出会った。
名家のガーデンパーティーは社交の場であるとともに、出会いの場だ。家同士のつながりを密にする意味と、アルファとオメガのマッチングの場。未婚であれば大人から幼児まで、そういうことを意識して参加する場だ。あの日の俺も、そういう意味のある場だと言い含められて母に手を引かれて参加した。明るく美しい庭園にこれまた明るく美しい人々。上品な集いは体を使って遊びたい盛りの俺にとって退屈そのものだった。自分たちの話に夢中の母からうまく離れて、勝手に広大な庭園を探検していた俺は、池の縁にべったりと座って適当に小花を投げ込んでいる幼児に出会った。
「なにしてんだよ?」
線が細く小柄だが半ズボンを履いているから男子だとわかった。俺と同じように小綺麗な格好をしているから、参加者の一人だ。しかしあまりにやっていることの意味がわからない。同じ子ども同士・男同士だから、普段他人と接する時のように取り繕った顔も作らず普通に話しかけると、池に向けたまま顔も上げず、
「お魚、来ないかなぁ。お花は食べないのかな」
と言う。見れば錦鯉たちは投げ込まれる小花を一顧だにせず、すいすい泳いでいる。
「ハハッ。鯉は花や葉っぱにゃこねえよ。こいつらは食べ物はわかるんだよ」
魚の我関せずな様子が面白くて思わず笑ってしまった。そんな俺の言葉にはっと上げた顔に俺は釘付けになった。小さな顔にこれ以上無いほどバランスよく配置された大きな目、すっとした鼻、薄ピンクの小さな口。髪と瞳は淡いブラウン。その認識に遅れてふわりとたくさんのフルーツを集めたような、いい匂いがした。こんな人間が本当にいるのかと目を見張った。かわいいと言うよりあまりにきれいで、目が離せなかった。
「僕に普通に話してくれるの?」
小さな口から発せされた言葉とその切実さは思ってもみないもので、俺は首を傾げた。
「パーティー、やだ。みんな、すごくやだ。なんかやだ。やさしいけど気持ち悪い」
言い募る言葉に、ははん、と思った。多分、こいつはオメガなのだろう。アルファに比べてオメガは極端に少ない。アルファは本能でオメガを求める。だからアルファはみな、どうしてもオメガに対して下手に出るし、顔色をうかがう形にもなる。広場で集っている人々も、その中心にいるのはオメガだ。
「でも君は、違う。ふつう。ねえなんて名前?ずっと一緒にいて?あっ、僕はスイ。翡翠って宝石の、スイだよ」
宝石の翡翠を知らず、それは何かと考え込んだ瞬間、ぐっと右手を掴まれた。白くて小さな手は細さの割に力が強く、引っ張られて池の端に俺も座り込む。それから鯉を眺めながら話し込んだ。あいつのポケットから出てきた飴を舐めながら。好きな本の話、食べ物の話。驚くほど話が合った。相手してやっているはずだったのに、いつの間にか夢中で話し込んでいた。
「ああ楽しかった…こんな楽しかったの初めて。僕、君とケッコンしたいな」
遠くから親たちが探す声が聞こえてきたところで、あいつはそう言って、俺の顔を覗き込んだ。
ケッコン。ああ、あれだ、親たちだ。父と母だ。いつも二人で一緒にいるやつ。つがいだ。二人の子どもなのに仲間はずれになってしまうほど、仲良くしているのがつがいでケッコン。適当な理解だがアルファとはいえ俺も幼児だったから、そんな認識だった。そうだ、今日はケッコンの相手を探すパーティーだ。
「いいよ。君とならいっしょにいたい」
話している内に俺もまた、一緒にいることが心地よく思っていたから即答した。午後のきらめく光の中でそれを上回るような輝く笑顔であいつは小指を差し出してきた。
「じゃ約束ね。嘘ついたらぁーうふふ、針千本のーますっ」
これが始まりだった。
お互いが話した特徴でお互いが特定された。親同士がすでに知り合いで、交流させようと思っていたところだったらしい。家を行ったり来たりし遊ぶようになるのもすぐのことで、毎日同じ学校に通い、週末はお泊りという関係になった。
あのノックを始めたのはうちに自由に出入りするようになってからだ。
最もノックであいつと気付いた瞬間にはもう勝手に部屋の中に入って来ていたが。そうしてあいつに振り回されるのもまた楽しくて、鍵なんてかけたこともなかった。そんな日々だった。これはほぼ婚約ということで、俺はあいつとずっとともにあると思っていた。
それが変わってきたのはあいつが中学に上がる時だ。一斉に行われる第二性検査であいつはオメガ、俺はアルファであると確定した。互いにそれはそうだろうと思っていたが、予想外なのは俺が上位アルファだったことだ。
そこからだった、あいつと疎遠になっていくのは。第二性を元にクラスが組まれ、そうして友達の種類が変わればもう、学校では交わりようがなかった。オメガやベータの友人たちと行動するあいつ。俺の周りにいるのは俺と同じようにガタイの良いアルファのクラスメイトたちで、それに寄ってくる一癖も二癖もあるオメガばかりだ。
もう中学生だし、正式な婚約ではなかったから、という理由で互いの家を訪れることはなくなり、交流が無くなった。あいつがだんだん遠くなっていく。俺の知らないところで活動して、気がつけばオメガ初の生徒会長となって、あいつは光り輝いていた。俺は俺のスイではなく優秀なオメガ、御門翠を遠くから見つめることしか出来なかった。
しかし、それでもまだ、俺は薄い望みを繋いでいた。俺達の通う学園は幼稚園から大学まで繋がっていて、大抵の生徒は内部進学する。だから大学に行けばまた、と思っていたのだ。こんな状態で高校最後の年となり、人づてに聞いたあいつの進路に俺は愕然とした。
留学。オメガのみの全寮制の大学兼フィニッシングスクールに行くというのだ。薄々わかってはいた。あんな約束は子供の頃の戯言だ。俺が鮮明に覚えているのは、俺があの約束を頭のどこかでよすがにしてしまったからだ。明るく活発で人付き合いのうまいあいつのこと、たくさんの人との関係の中、俺との約束なんて記憶に残っていなくてもおかしくない。
あいつは高校卒業の資格を得て年明けすぐに旅立ったという。もちろん、俺に何の一言もなかった。確かに、婚約を結んだわけでもなんでもない。しかし十数年の付き合いを、こんな形で無しにされるのは、そういうことだ。そう納得せざるを得ない。あいつの中に俺はいないのだ。
あいつのいない卒業式。あいつのいない大学。全く色のない世界だった。この先続くあいつだけがいない世界に絶望した。こんな何の希望も色も無い世界からは一刻も早く逃げ出したい。飛び級で大学を卒業したその日、俺は誰にも言わず、家を出た。着の身着のまま、スマホも置いて。あちこちをさすらった。どこかで死ねればと思っていたのだ。しかし運悪くというべきか、アルファはそう簡単に死なないし、どこででも生きていける。
あれから数年が経った。流れ着いた先で知り合った人間に頼まれて適当に仕事をしていたら、いつのまにか生活が成り立ち、事業となっていた。俺はまだ、不調の体を抱えて生き長らえている。
翠と会えなくなってから、いつもどこか不安だった。それでも同じ学校だったうちはまだ良かった。旅立って俺の近くからいなくなってからずっと、息もよく出来ないし、深く眠ったことはない。今もそれはそのままで、そうしてやっとのこと、生きているというのに。一人で命が尽きるまで適当に暮らして野垂れ死ぬ。それだけが俺の望みだったというのに。
昨日届いたメッセージに俺は動揺した。
あいつは俺が今どこにいると思っているんだろうか。変わらず生家で暮らしているとでも思っているのだろうか。そもそも捨てた俺に、いや、捨ててすらいない、とっくに忘れていただろうに、今更なんなのだろう。ただの思い出をなぞる旅だというのなら、俺を引っ張り出さないで欲しかった。
工事音のおかしなリズムのせいで目が覚めてしまった。窓の外はすっかり明るい。寝ついたと思われる時間からは五時間ほどが過ぎていた。今日もまた一日が始まるが、もうずっと一続きの夢の中で暮らしているような感覚だ。それにしても、工事音から記憶を拾ってくるとは。未練もここに極まれり、と小さく苦笑いして重い体を起こした。
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