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朝
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鬱蒼とした暗く深い森の中、その暗闇の中に、炎は赤く燃えている。薪の弾ける音と共に、火の粉を虚空に向けて散らしてゆく。二人はそれを囲んで座り、その背から影が伸びる。一人は大きく、影は木々の影に紛れて見えない。もう一人は小さく、その影はゆらゆらと揺れて定まらない。大きい影が口を開く。争いの話をしよう。お前がまだ生まれていないときに起こった、百年にも渡る争いのことを。そうして大きな影が語りだすと、それまで動いていた小さな影は動くのをやめた。大きな影は語る。小さな影の知らない昔話を。今もなお爪痕の残る大地に思いを馳せて。始めのうちは熱心に聴いているのだろう、小さな影は身じろぎ一つしなかった。しかし時間が経つにつれ、小さな影はまた小さく揺らぎ始める。大きな影は気付かぬままに話を続けて、しばらく経ってからようやく気付いて溜め息をつく。まだ半分も話していない、そうぼやいてから、寄って行き、小さな影を横たえさせる。そして自らの上着を脱いで、被せてやる。すると、それまで隠していた大きな影の姿が、ありありと炎に照らし出された。全身毛むくじゃらの姿は獣のようであり、太い尾は虎を思わせる。しかし、頭頂から生えた一対の耳は尖っていて、物音を探っているのか、ときおり動く。大きな影は上着から離れて、元居た場所に戻り、座り込む。そして、揺らめく炎を眺めながら、周囲の音にときおり耳を動かしていた。
日の光というものは、むやみに目で見ないほうがいい。眩し過ぎるせいで目に焼きついてしまうからだと聞いている。特に、暗闇から出ていきなり見るのがよくない。一番眼が疲れるからだそうだ。そういうことからか、僕が目を覚ましたときに目にしたものは、茶色い布の縦糸と横糸が、無数に組み合わさった光景だった。繊維越しに朝日の光が差し込んできて、ぼくは目が慣れるまで動かずにいようと思った。でも、すぐにぼくは身体を起こし、足元にある茶色い衣を見た。そして顔をしかめる。ぼくに覆いかぶさっていた衣が、あまりに臭ったからだ。
そしてそのまま、視線を真っ直ぐ滑らせると、焚き火の黒い燃えかすの向こうに、衣の持ち主がいる。いつものように、身体を大の字にして寝そべっている。そしていびきもうるさい。それに何といっても、人間とは思えないその姿を見て、ぼくは、どうしてこんな猫もどきに拾われてしまったのだろうか、と自分の運命にけちを付けたくなる。
よくよく見ると、頭のすぐ近くに、木の太い根っこが一つ、地面に浮き出てきていた。こいつ、寝返りでも打って頭をこの根っこにぶつけやしないだろうか、と考えた。半ば好奇心、半ば心配の入り混じる想像である。命の恩人ではあるが、へんちくりんな姿だから何だか一歩身を引きたくなるために、たまにこういう自分でもなぜだか分からない想像で遊ぶことが、良くある。そうしてそんなことをしている自分に負い目を感じつつ、その間にこの毛むくじゃらが起き上がりはしないかと、内心どきどきしたりするのである。
そして、そういうときに限って、この目ざとい猫は起きないものなのだ。
結局、その遊びにも飽きて、ほんの少し待ったその後でも、この猫もどきは起きる気配すら見せずに、呑気にいびきなんかをして、近くの木々を震わせる。いびきに耐えていることや、なかなか期待通りに起きてくれないことや、上着がくさいこととか、昨日の話を最後まで聞こうと意気込んでいたのに聞けなかったこと。そういったものたちで、ぼくはいつにも増していらいらする。ぼくは腹いせに、彼の上着を両手で取ると、そのまま手をできるだけ高く上げる。視界が茶色に覆われる。その中で、足元を見たが、やっぱり衣は地面まで届いているだけじゃなくまだかなりの長さがあるらしい。つま先立ちしてみてもだめだった。薄々分かっていたけど悔しいし、くさい。いらいらは増すばかりだ。ぼくはそのまま大いびきに向けて歩く。こちら側に巻き込んでくる衣は容赦なく踏んづけるか蹴り飛ばして、歩く。そして目の前に立つ。いびきの声が布越しに聞こえる。やっぱりうるさいのだ。
ぼくは作戦を決行することにした。目的はこのいびきを止めることと、そしてあわよくばこの毛むくじゃらに朝の一撃をお見舞いすることだ。ぼくは、ありったけの声で叫ぶと同時に高く上げたその両手を全力で下ろした。
「ハインリヒさん、起きろ!」
するとどうなるか。手に持ったくさい衣は風に舞い上がり、そして因果応報とばかりに持ち主の顔めがけて降下するのである。大声に目を覚ました毛むくじゃら、もといハインリヒさんは、何だろうと目覚めると、自分の衣の応酬に遭った。ぐえ、という呻き声の後、たまらず叫んだ。
「何だ、この臭いのは!」。
「あなたのいつも着ている上着ですよ。少しは洗ったらどうです。」
作戦は思い通りにいったので、ぼくはとても気分が良くなった。大笑いして見せたら、ハインリヒさんの顔色が露骨に悪くなる。
「寝覚めを襲うとは卑怯なことを。それを恥とも思わないのか。」
まだ被せた布の臭いが残るのだろうか。顔をぶんぶんと左右に振ると、ハインリヒさんはそうぼやいて、溜め息を吐く。
「寝込みに攻撃をしてきたのは、ハインリヒさんが先ですよ。これでようやくおあいこじゃないですか。」
僕は自分で言った言葉に至極もっともだと思ったが、ハインリヒさんはとうとう怒ったのか、こちらにずかずかと歩いてきた。
「この。言わせておけば、すぐ減らず口を叩く。」
ゆっくりとした足取りでハインリヒさんは近付いてくる。しかし、むざむざ掴まってやる義理はぼくにはない。なので、ぼくは様子を見ながら後ずさりし始める。
「そんななりして、おしゃべりな人には言われたくない。」
ぼくの言葉にハインリヒさんの頭上にある大きな耳がびくりと動く。どうやら逆鱗に触れたらしい。
「小僧。今俺の風体のことを言ったか。いい気になるのも結構だが、限度があるぞ。」
ハインリヒさんはそう言いながら、一歩、また一歩と進んでくる。森にできた小さな隙間を寝床にしていたために、ぼくが走り回れるところは限られている。もう少しからかってみたいが、これ以上怒ったら、多分ぼくの逃げ場はないだろう。
ぼくの心の天秤のそれぞれの皿に二つのものが置かれる。今の楽しみと、そのすぐ後に訪れるであろう嫌な状況の予測、その二つである。ぼくは悩んだ。そして、悩んだ末に決めた。
「ハインリヒさん。」
「何だ。謝るなら今のうちだぞ。」
しかし、ふと現実に意識を戻して見ると、ハインリヒさんは、ぼくにあとニ、三歩で届く距離まで迫ってきていた。自分ではまだ余裕が持てるくらいまで、距離を保っていたつもりだったから意外だ。一体いつの間に、ここまで来たのだろう。足音を消したのだろうか。ぼくは空恐ろしくなって、後ずさりする。かかとに何かがぶつかった。見なくても感触で木の根っこだと分かった。硬い。ぼくのすぐ後ろには、青々とした葉っぱの茂る森林が広がっている。どこまで続いているのかはわからない。木立の中を走るのは危険だ。運悪く今のように根っこに足を引っ掛けて転ばないとも限らない。転んでしまえば捕まってしまうのに時間は三秒だって掛からないだろう。けれど、このまま焚き火の燃えかすの周りにいては逃げられないのは目に見えていた。逃げなければ、今にも捕まりそうだ。どうする、そうぼくは自分に問いかける。
そのときだった。ハインリヒさんはじっと自分を見据えるぼくの視線に何かを感じたのか、にやりと笑って、言った。
「どうした、小僧。もう降参か。」
その言葉が、ぼくの天秤を片方に大きく傾かせたことは言うまでもない。ぼくがこの世で一番嫌いなことは「戦わずして逃げる」ことなのだから。
「誰が毛むくじゃらなんかに捕まってやるもんか!」
ぼくはそう叫ぶ。木立の中に飛び込むと、一目散に駆け出す。しかし、叫んだその後、言わなければよかった、とすぐに思った。ハインリヒさんの振る舞いは何一つ変わらなかった、けれど、ぼくは全身から血の気が引くのを感じた。多分、森の中でいきなり獰猛な熊に遭遇したときに似た、これは喰われるな、という諦めのような感覚だった。森の中を叫びながら、ただ前に向かって走った。戻って謝ろうとか、もっと広い場所を探そうとか、そういう考えは、命の危険が迫っているときには、案外考え付かないものだ。ときおり足元に罠のように太い根っこが這っていて、うっかり転びそうになる。しかし一度でも転んだリ立ち止まったりしたら、それで追いつかれるような気がして、足を止めることは出来ない。風の通るせいだろうか。木の枝や幹が大きくしなる音がいくつも聞こえて、それにもいちいち驚いてしまう。けれども、振り返って辺りを見回す余裕はぼくにはもうない。
ハインリヒさんに初めて出会った時も、同じように驚いて、逃げ回ったことが思い出される。街の中だったから、ハインリヒさんの石畳を踏み付けて走る足音がやけに響いて聞こえた。ここは地面が土だからそこまで響かない。ただ幹のしなる音が響く。
「ここも石畳だったらよかったのになあ。」
そうぼやいたとき、ぼくはあることに気付いた。聞こえるのは自分の足音ばかりで、ハインリヒさんの、どすどすと猛進する足音は全く聞こえないのだ。奇妙だと思ったそのとき、すぐ近くの木の幹が、ぎし、と重たげな音を立ててしなる。
しまったと思ったそのときには、目の前にさっきの毛むくじゃら、もといハインリヒさんが立っていた。ついさっき音をしたほうを見ると、案の定、幹がほんの少し弓なりに曲がっている。
「枝を渡るにしても、折れたらかなわないからな。幹を蹴り飛ばしながら近道で来てやったぞ。」
「普通に走ってこないなんて卑怯だ。」
ぼくがそうこぼすと、お前に言えることじゃない、と一喝される。
ああ、とうとう追いつかれてしまった。ハインリヒさんは、普段はあまり怒らないから、本当はどれだけ怒るのか、測ってみたくなる。そんな出来心だった。そう言って弁解することも出来るかもしれない。けれど、それで収まる怒りだったなら、ぼくはここまで必死に逃げなかっただろう。
小僧、と声を掛けられるが、正直ハインリヒさんの顔を見たくない。多分一度見たら、ことある毎に夜中の夢に見てしまうだろう。代わりに顔から下を見て、僕は何とか、はい、と返す。そしてハインリヒさんの右手に、木の棒が握られているのが見えた。まさかあれで殴られるのでは、そう思ったとき、体中から冷や汗が、だらだらと流れ始める。ああ、これはいよいよまずいことになった、とぼくは痛感する。あんなもので殴られたら頭が割れたりしないだろうか、と嫌な想像が膨らむので、ぼくはとうとう観念して目を閉じることにした。
「何か言うことはないか。小僧。」
ハインリヒさんは、そう言葉を掛けてくる。頭の奥までしみこんできそうな低い声だ。そうしてこちらに歩いてくる足音が、妙に冴えて聞こえる。ここで謝ろうかと思ったが、結局ぼくは何も言わなかった。そしてハインリヒさんは僕のすぐ傍まで来た。
「では、分かった。」
そうハインリヒさんは言って、右手を振り上げる。布ずれの音がする。ぼくはより固く目を瞑って、頭にくるであろう衝撃に備える。嫌な想像がまぶたの裏の暗闇をいくつも過ぎる。それでもぼくは、何も言わずに、苦痛の時間を耐えた。
しかし、いつまで経っても、頭に痛みは走らない。それどころか、足音と共にハインリヒさんの気配は次第に遠くなってゆく。何も言わなかったことを反省の証ととったのだろうか、ぼくは恐る恐る目を開ける。目の前には誰もいない。振り返ると、木立に入ってゆくハインリヒさんの背中が見えた。ハインリヒさんは自分でもくさいと言っていた衣を、頭から被っている。
あの、と声を掛けると、ついて来い、と返ってきた。
ぼくは冬からずっと一緒に旅をしているのに、ハインリヒさんが何を考えているのか、分からなくなることがある。ハインリヒさんは、ずんずんと木立を進み、こちらを振り返る素振りすら見せない。うっかりすると、そのまま木立に紛れて見失いそうだ。ぼくはとうとう、腑に落ちない気持ちを抱えたまま、ハインリヒさんを追うために走り出す。思ったよりも距離が離れていなかったのか、すぐに傍に追いつく。
ぼくが、ハインリヒさん、と呼びかけても、ハインリヒさんは口元を固く結んだまま、ずんずん歩く。僕の顔を見ることさえしない。やっぱりまだ怒っているのだろうか。ハインリヒさん、ともう一度呼んでみても、その顔は石像のように動かない。気付きはしないだろうか、とぼくはハインリヒさんの顔を見続けていた。でも、髭一つ動かさないその顔を見ることが恐ろしくなって、顔を背けてしまう。その石像のような顔を見ているうちに、ぼくの魂胆なんかにはとっくのとうに気付いていて、それでも気にしないようにしているのか、と不安になるのだ。ぼくがこの人にいたずらをするのはこれが初めてではなく、本当にしょっちゅうやっているのだ。暇になったら朝から晩まで、思いついたら即行動している。ハインリヒさんはよくいつもひっかかるものだと思っていたが、それでも怒髪天になるほど怒るのは数回であった。限度があるぞ、ぼくはハインリヒさんの語る言葉を牛のように反芻する。ぼくは、それまでこの人につながっていた鎖を、自分の手で断ち切ってしまったのではないかと、思い、そしてずいぶん落ち込んだ。ぼくは、歩きながら地面を見ることにした。これ以上ハインリヒさんの顔を見る元気をとうとう無くしてしまったのだ。そして、今になってようやく、ぼくは朝ごはんさえ食べていないことに気付く。でも、お腹が空きましたと言って、ハインリヒさんは答えてくれるだろうか。不安は募るばかりだ。
どこをどう進んだのかはわからないが、元いた場所に、ぼくとハインリヒさんは戻ってきた。そして、ハインリヒさんは、近くの茂みに近寄ると、しゃがんで何かを探し始める。そしてぼくの方を向いたときには、左手にずた袋を提げていた。焚き火の燃えかすの前に座ると、ハインリヒさんはやっと僕のほうを見て、言った。
「こっちへ来い。小僧。腹が減っては怒る気にもなれん。」
「はい!」
ぼくはそう返事をすると、ハインリヒさんの傍に駆け寄った。
ずた袋の中身は、黒パンの入った袋とぼくとハインリヒさんの水筒がそれぞれ一つずつある。冬の間は干し肉も入っていたけれど、空気が暖かくなってしまうと腐ってしまうから入れないのだそうだ。
ハインリヒさんは、黒パンの袋の中から、薄く切られた二枚のうち一つをぼくに配った。
「黒パンは、出来立ての内は柔らかいのだが、時間が経つと固くなって、終いにはナイフの刃も通らなくなる。だから柔らかい内に切っておくのだ。」
ハインリヒさんは、食事のときや寝る前になるとよく喋る。食べることは、僕も好きだけれど、ハインリヒさんのそれには及ばない。黒パンのどこか酸っぱい味に慣れてきたぼくとは違って、ハインリヒさんは食べることを純粋に喜んでいるように食べるのだ。獣の姿に、そのありようは不釣合いに見えた。
「何か俺の顔についているか。」
「いえ、何も。」
じろじろ見られていることにハインリヒさんは気付いていたらしい。最後のパンの欠片を口に放り込むと、いきなりそう聞いてくる。ぼくは飲んでいた水を噴き出しそうになって、こらえて、飲み下すのに苦労した。まさか気付かれないだろう、そう思わせるほど、ハインリヒさんは物を食べることを愛する人なのだ。もしかしたらその情熱は執念に似ているのかもしれない。けれど、僕はハインリヒさんからその手の話、過去に潜る話を聞いたことはない。まあ、話してくれる仲になったら、そのときが来るのだろう。
ハインリヒさんは、食事を終えると、立ち上がって、ずた袋を元の茂みに隠すと、焚き火の燃えかすを拾い始める。黒く焼け果てて、もう使い物にならなくなったそれらは、近くの茂みから拾ってきたものだ。集めてきたのは細さも太さもまちまちな枝ばかりだったから、燃やした後で元の形が残っているものもあれば、黒い灰同然になっているものもある。
その中に、銀色に光る何かが見える。ぼくが気付くのと、ハインリヒさんが、何だこれは、と言って拾い上げるのは同時だった。
銀色の玉のようにも見えるそれは、楕円の形をしていて、先端は鋭い。
「これは、矢じりか。」
ハインリヒさんがうめくように言った。矢じり、細木の先に付けて、弓などで放つ、武器の一部。また、狩りにも使われ、イタチやウサギを狙い、射抜かれる。ハインリヒさんからそう聞いている。なぜ知っているのかなんて、それはハインリヒさんの年の功というものだろうか。
「おまえは、細い枝と勘違いして持ってきたのだろう。矢じりか。そんなものをまさか、ここで見ることになるとはな。」
沈痛な顔でハインリヒさんは、呟く。
もしかしたら、ハインリヒさんは狩人を恐れているのだろうか。そう嫌な想像が浮かぶ。
僕はすぐに、頭を振ってそれを隅へ追いやる。
「悪い冗談はやめてください」
ハインリヒさんにいつもの口調で言う。
「ああ、分かった。」
ハインリヒさんはいつものように返した。
でも、ふと俯いて、そんなことがあるわけなかろう、と呟くのを僕は聞こえない振りをしてやり過ごす。嫌な予感をさせるその言葉を、頭を左右に振ってすぐに忘れてしまおうと思った。けれど、自分自身を宥めるようなその口調が、やけに耳について離れない。次第に傍目にもわかるくらいに、ぼくのいらいらしてきたのを、ハインリヒさんは見て取ると、いきなり僕の頭を鷲掴みにすると、力任せにぐりぐりと乱暴な手つきで撫ではじめる。
「痛い。放してください!」
そうぼくが悲鳴を上げても、ハインリヒさんは一向にやめない。痛い、痛い、と抗議を続けてみても効果がない。そうして、わだかまっていたいらいらが、別の方向に向いたとき、ハインリヒさんは、これでお終い、と言って、やっと僕の頭から手を離した。
「何するんですか、いきなり!」
「何って、決まってるじゃないか。お前の今朝の狼藉の報いに、ぐりぐりの刑を思いついたから、物は試しにやってみただけだ。非難を浴びる筋合いはない。」
ふん、と鼻息荒く、ハインリヒさんは今度は遠くの茂みの方にまたずかずかと歩いて入ってゆく。そして体をかがめて、なにやら捜し始める。しばらくすると、何かを見つけたらしく、立ち上がり、こちらに向き直る。
「いくぞ。小僧、受け取れ。」
そう聞こえるのと同時に、何かをいきなり投げてよこしてきた。心の準備もあったものではない。投げられたそれは弓なりの線を描いて、まっすぐこちらめがけて落ちてくる。放物線と言うらしい。近づいてくるにつれて、それが木の棒であることが分かってくる。もうそろそろというところになって、僕は両手を伸ばし、それを取ろうとする。しかし、伸ばした両手は見当はずれだったのか。空を切る感触がした。
あいた、とぼくが頭に物が当たった痛みを感じ、木の棒が地面に落ちた音を聞いた後、ハインリヒさんの笑い声が、後れて聞こえてきた。不意打ちが卑怯だって言ったのはほかならぬハインリヒさんなのに、笑われるとは思わなかった。そう思ったとき、僕のいらいらはとうとう頂点に達し、どうしてもあの毛むくじゃらに一泡吹かせなくては気がすまなくなった。
僕は目の前に落ちた木の棒を右手で拾うと、ハインリヒさんめがけて駆け出す。ハインリヒさんはこうなる事が分かっていたのだろう、茂みから出ると、走り出したぼくを見据えると、動きを止めて、そのまま棒立ちになる。見ると、手には何も握られてはいない。ハインリヒさんが持っていたものを僕に投げてよこしたのだろうか、でも、そうだとしたら、なぜ茂みに入ったのだろう。疑問に思ったが、すぐに考えない事にする。今はこの反抗が大事なのだ。ぼくはハインリヒさんの正面に駆け込む。そして、それまで下ろしていた木の棒を振り上げて、えいっと振り下ろす。しかし、一度や二度、そして何度も繰り返したてもハインリヒさんは、顔色一つ変えない。二十回を超えるとさすがに疲れてきて、あからさまに動きが鈍ってきた。
すると、ハインリヒさんは、なんでもないように、ぼくの右手首を掴むと、そのままぼくの手をハインリヒさんの頭上多角まで引き上げてしまう。
「う、うわわ。」
いきなりそんなことをされて驚いたというよりも、心のどこかでは少しは効いているんじゃないかと思っていたぼくにとって、ここまであっさりと体を持ち上げられてしまうのは、予想外で、衝撃的だった。それに、いきなり足元が地面から引き離されて宙ぶらりんになることで、ぼくはいやがおうにもハインリヒさんとの果てしない力の差を思い知らなくてはならなかった。それはとても悔しいことであったし、またハインリヒさんが力を持つ存在として、何だか遠くに感じられたせいか、悲しくもあった。そして、行き場のないいらいらが、顔をほてらせ、胸をかきむしりながら、とうとう涙となってあふれ出すのは、時間の問題だった。
ハインリヒさんの馬鹿、と今でしか言えないような悪口を、思いつく限り叫び始める。ハインリヒさんの顔はにじんでよく見えない。なぜか一向に上げた手を下ろしてくれないから、自由に動く両足で手当たり次第に蹴る。そのうちのいくつかは、ハインリヒさんに当たったらしい。分かったから、蹴るな、蹴るな。そう言うと、ハインリヒさんは、ようやくぼくを下ろして、地面に座らせる。しかし、僕はまだ収まらないものを抱えていたので、涙でよく見えない視界のまま、屈んだハインリヒさんらしきところに駆け込み、突進をする。当たった。そしてこぶしで殴るやら、足で蹴るやら、頬の針金のようなひげを引っ張るやら、容赦ない攻撃を浴びせる。
しまいに、とうとうハインリヒさんは、痛い痛いとわめきながら、降参だと確かに言って、そこでようやく、ぼくの涙は止まり始めたのだった。
日の光というものは、むやみに目で見ないほうがいい。眩し過ぎるせいで目に焼きついてしまうからだと聞いている。特に、暗闇から出ていきなり見るのがよくない。一番眼が疲れるからだそうだ。そういうことからか、僕が目を覚ましたときに目にしたものは、茶色い布の縦糸と横糸が、無数に組み合わさった光景だった。繊維越しに朝日の光が差し込んできて、ぼくは目が慣れるまで動かずにいようと思った。でも、すぐにぼくは身体を起こし、足元にある茶色い衣を見た。そして顔をしかめる。ぼくに覆いかぶさっていた衣が、あまりに臭ったからだ。
そしてそのまま、視線を真っ直ぐ滑らせると、焚き火の黒い燃えかすの向こうに、衣の持ち主がいる。いつものように、身体を大の字にして寝そべっている。そしていびきもうるさい。それに何といっても、人間とは思えないその姿を見て、ぼくは、どうしてこんな猫もどきに拾われてしまったのだろうか、と自分の運命にけちを付けたくなる。
よくよく見ると、頭のすぐ近くに、木の太い根っこが一つ、地面に浮き出てきていた。こいつ、寝返りでも打って頭をこの根っこにぶつけやしないだろうか、と考えた。半ば好奇心、半ば心配の入り混じる想像である。命の恩人ではあるが、へんちくりんな姿だから何だか一歩身を引きたくなるために、たまにこういう自分でもなぜだか分からない想像で遊ぶことが、良くある。そうしてそんなことをしている自分に負い目を感じつつ、その間にこの毛むくじゃらが起き上がりはしないかと、内心どきどきしたりするのである。
そして、そういうときに限って、この目ざとい猫は起きないものなのだ。
結局、その遊びにも飽きて、ほんの少し待ったその後でも、この猫もどきは起きる気配すら見せずに、呑気にいびきなんかをして、近くの木々を震わせる。いびきに耐えていることや、なかなか期待通りに起きてくれないことや、上着がくさいこととか、昨日の話を最後まで聞こうと意気込んでいたのに聞けなかったこと。そういったものたちで、ぼくはいつにも増していらいらする。ぼくは腹いせに、彼の上着を両手で取ると、そのまま手をできるだけ高く上げる。視界が茶色に覆われる。その中で、足元を見たが、やっぱり衣は地面まで届いているだけじゃなくまだかなりの長さがあるらしい。つま先立ちしてみてもだめだった。薄々分かっていたけど悔しいし、くさい。いらいらは増すばかりだ。ぼくはそのまま大いびきに向けて歩く。こちら側に巻き込んでくる衣は容赦なく踏んづけるか蹴り飛ばして、歩く。そして目の前に立つ。いびきの声が布越しに聞こえる。やっぱりうるさいのだ。
ぼくは作戦を決行することにした。目的はこのいびきを止めることと、そしてあわよくばこの毛むくじゃらに朝の一撃をお見舞いすることだ。ぼくは、ありったけの声で叫ぶと同時に高く上げたその両手を全力で下ろした。
「ハインリヒさん、起きろ!」
するとどうなるか。手に持ったくさい衣は風に舞い上がり、そして因果応報とばかりに持ち主の顔めがけて降下するのである。大声に目を覚ました毛むくじゃら、もといハインリヒさんは、何だろうと目覚めると、自分の衣の応酬に遭った。ぐえ、という呻き声の後、たまらず叫んだ。
「何だ、この臭いのは!」。
「あなたのいつも着ている上着ですよ。少しは洗ったらどうです。」
作戦は思い通りにいったので、ぼくはとても気分が良くなった。大笑いして見せたら、ハインリヒさんの顔色が露骨に悪くなる。
「寝覚めを襲うとは卑怯なことを。それを恥とも思わないのか。」
まだ被せた布の臭いが残るのだろうか。顔をぶんぶんと左右に振ると、ハインリヒさんはそうぼやいて、溜め息を吐く。
「寝込みに攻撃をしてきたのは、ハインリヒさんが先ですよ。これでようやくおあいこじゃないですか。」
僕は自分で言った言葉に至極もっともだと思ったが、ハインリヒさんはとうとう怒ったのか、こちらにずかずかと歩いてきた。
「この。言わせておけば、すぐ減らず口を叩く。」
ゆっくりとした足取りでハインリヒさんは近付いてくる。しかし、むざむざ掴まってやる義理はぼくにはない。なので、ぼくは様子を見ながら後ずさりし始める。
「そんななりして、おしゃべりな人には言われたくない。」
ぼくの言葉にハインリヒさんの頭上にある大きな耳がびくりと動く。どうやら逆鱗に触れたらしい。
「小僧。今俺の風体のことを言ったか。いい気になるのも結構だが、限度があるぞ。」
ハインリヒさんはそう言いながら、一歩、また一歩と進んでくる。森にできた小さな隙間を寝床にしていたために、ぼくが走り回れるところは限られている。もう少しからかってみたいが、これ以上怒ったら、多分ぼくの逃げ場はないだろう。
ぼくの心の天秤のそれぞれの皿に二つのものが置かれる。今の楽しみと、そのすぐ後に訪れるであろう嫌な状況の予測、その二つである。ぼくは悩んだ。そして、悩んだ末に決めた。
「ハインリヒさん。」
「何だ。謝るなら今のうちだぞ。」
しかし、ふと現実に意識を戻して見ると、ハインリヒさんは、ぼくにあとニ、三歩で届く距離まで迫ってきていた。自分ではまだ余裕が持てるくらいまで、距離を保っていたつもりだったから意外だ。一体いつの間に、ここまで来たのだろう。足音を消したのだろうか。ぼくは空恐ろしくなって、後ずさりする。かかとに何かがぶつかった。見なくても感触で木の根っこだと分かった。硬い。ぼくのすぐ後ろには、青々とした葉っぱの茂る森林が広がっている。どこまで続いているのかはわからない。木立の中を走るのは危険だ。運悪く今のように根っこに足を引っ掛けて転ばないとも限らない。転んでしまえば捕まってしまうのに時間は三秒だって掛からないだろう。けれど、このまま焚き火の燃えかすの周りにいては逃げられないのは目に見えていた。逃げなければ、今にも捕まりそうだ。どうする、そうぼくは自分に問いかける。
そのときだった。ハインリヒさんはじっと自分を見据えるぼくの視線に何かを感じたのか、にやりと笑って、言った。
「どうした、小僧。もう降参か。」
その言葉が、ぼくの天秤を片方に大きく傾かせたことは言うまでもない。ぼくがこの世で一番嫌いなことは「戦わずして逃げる」ことなのだから。
「誰が毛むくじゃらなんかに捕まってやるもんか!」
ぼくはそう叫ぶ。木立の中に飛び込むと、一目散に駆け出す。しかし、叫んだその後、言わなければよかった、とすぐに思った。ハインリヒさんの振る舞いは何一つ変わらなかった、けれど、ぼくは全身から血の気が引くのを感じた。多分、森の中でいきなり獰猛な熊に遭遇したときに似た、これは喰われるな、という諦めのような感覚だった。森の中を叫びながら、ただ前に向かって走った。戻って謝ろうとか、もっと広い場所を探そうとか、そういう考えは、命の危険が迫っているときには、案外考え付かないものだ。ときおり足元に罠のように太い根っこが這っていて、うっかり転びそうになる。しかし一度でも転んだリ立ち止まったりしたら、それで追いつかれるような気がして、足を止めることは出来ない。風の通るせいだろうか。木の枝や幹が大きくしなる音がいくつも聞こえて、それにもいちいち驚いてしまう。けれども、振り返って辺りを見回す余裕はぼくにはもうない。
ハインリヒさんに初めて出会った時も、同じように驚いて、逃げ回ったことが思い出される。街の中だったから、ハインリヒさんの石畳を踏み付けて走る足音がやけに響いて聞こえた。ここは地面が土だからそこまで響かない。ただ幹のしなる音が響く。
「ここも石畳だったらよかったのになあ。」
そうぼやいたとき、ぼくはあることに気付いた。聞こえるのは自分の足音ばかりで、ハインリヒさんの、どすどすと猛進する足音は全く聞こえないのだ。奇妙だと思ったそのとき、すぐ近くの木の幹が、ぎし、と重たげな音を立ててしなる。
しまったと思ったそのときには、目の前にさっきの毛むくじゃら、もといハインリヒさんが立っていた。ついさっき音をしたほうを見ると、案の定、幹がほんの少し弓なりに曲がっている。
「枝を渡るにしても、折れたらかなわないからな。幹を蹴り飛ばしながら近道で来てやったぞ。」
「普通に走ってこないなんて卑怯だ。」
ぼくがそうこぼすと、お前に言えることじゃない、と一喝される。
ああ、とうとう追いつかれてしまった。ハインリヒさんは、普段はあまり怒らないから、本当はどれだけ怒るのか、測ってみたくなる。そんな出来心だった。そう言って弁解することも出来るかもしれない。けれど、それで収まる怒りだったなら、ぼくはここまで必死に逃げなかっただろう。
小僧、と声を掛けられるが、正直ハインリヒさんの顔を見たくない。多分一度見たら、ことある毎に夜中の夢に見てしまうだろう。代わりに顔から下を見て、僕は何とか、はい、と返す。そしてハインリヒさんの右手に、木の棒が握られているのが見えた。まさかあれで殴られるのでは、そう思ったとき、体中から冷や汗が、だらだらと流れ始める。ああ、これはいよいよまずいことになった、とぼくは痛感する。あんなもので殴られたら頭が割れたりしないだろうか、と嫌な想像が膨らむので、ぼくはとうとう観念して目を閉じることにした。
「何か言うことはないか。小僧。」
ハインリヒさんは、そう言葉を掛けてくる。頭の奥までしみこんできそうな低い声だ。そうしてこちらに歩いてくる足音が、妙に冴えて聞こえる。ここで謝ろうかと思ったが、結局ぼくは何も言わなかった。そしてハインリヒさんは僕のすぐ傍まで来た。
「では、分かった。」
そうハインリヒさんは言って、右手を振り上げる。布ずれの音がする。ぼくはより固く目を瞑って、頭にくるであろう衝撃に備える。嫌な想像がまぶたの裏の暗闇をいくつも過ぎる。それでもぼくは、何も言わずに、苦痛の時間を耐えた。
しかし、いつまで経っても、頭に痛みは走らない。それどころか、足音と共にハインリヒさんの気配は次第に遠くなってゆく。何も言わなかったことを反省の証ととったのだろうか、ぼくは恐る恐る目を開ける。目の前には誰もいない。振り返ると、木立に入ってゆくハインリヒさんの背中が見えた。ハインリヒさんは自分でもくさいと言っていた衣を、頭から被っている。
あの、と声を掛けると、ついて来い、と返ってきた。
ぼくは冬からずっと一緒に旅をしているのに、ハインリヒさんが何を考えているのか、分からなくなることがある。ハインリヒさんは、ずんずんと木立を進み、こちらを振り返る素振りすら見せない。うっかりすると、そのまま木立に紛れて見失いそうだ。ぼくはとうとう、腑に落ちない気持ちを抱えたまま、ハインリヒさんを追うために走り出す。思ったよりも距離が離れていなかったのか、すぐに傍に追いつく。
ぼくが、ハインリヒさん、と呼びかけても、ハインリヒさんは口元を固く結んだまま、ずんずん歩く。僕の顔を見ることさえしない。やっぱりまだ怒っているのだろうか。ハインリヒさん、ともう一度呼んでみても、その顔は石像のように動かない。気付きはしないだろうか、とぼくはハインリヒさんの顔を見続けていた。でも、髭一つ動かさないその顔を見ることが恐ろしくなって、顔を背けてしまう。その石像のような顔を見ているうちに、ぼくの魂胆なんかにはとっくのとうに気付いていて、それでも気にしないようにしているのか、と不安になるのだ。ぼくがこの人にいたずらをするのはこれが初めてではなく、本当にしょっちゅうやっているのだ。暇になったら朝から晩まで、思いついたら即行動している。ハインリヒさんはよくいつもひっかかるものだと思っていたが、それでも怒髪天になるほど怒るのは数回であった。限度があるぞ、ぼくはハインリヒさんの語る言葉を牛のように反芻する。ぼくは、それまでこの人につながっていた鎖を、自分の手で断ち切ってしまったのではないかと、思い、そしてずいぶん落ち込んだ。ぼくは、歩きながら地面を見ることにした。これ以上ハインリヒさんの顔を見る元気をとうとう無くしてしまったのだ。そして、今になってようやく、ぼくは朝ごはんさえ食べていないことに気付く。でも、お腹が空きましたと言って、ハインリヒさんは答えてくれるだろうか。不安は募るばかりだ。
どこをどう進んだのかはわからないが、元いた場所に、ぼくとハインリヒさんは戻ってきた。そして、ハインリヒさんは、近くの茂みに近寄ると、しゃがんで何かを探し始める。そしてぼくの方を向いたときには、左手にずた袋を提げていた。焚き火の燃えかすの前に座ると、ハインリヒさんはやっと僕のほうを見て、言った。
「こっちへ来い。小僧。腹が減っては怒る気にもなれん。」
「はい!」
ぼくはそう返事をすると、ハインリヒさんの傍に駆け寄った。
ずた袋の中身は、黒パンの入った袋とぼくとハインリヒさんの水筒がそれぞれ一つずつある。冬の間は干し肉も入っていたけれど、空気が暖かくなってしまうと腐ってしまうから入れないのだそうだ。
ハインリヒさんは、黒パンの袋の中から、薄く切られた二枚のうち一つをぼくに配った。
「黒パンは、出来立ての内は柔らかいのだが、時間が経つと固くなって、終いにはナイフの刃も通らなくなる。だから柔らかい内に切っておくのだ。」
ハインリヒさんは、食事のときや寝る前になるとよく喋る。食べることは、僕も好きだけれど、ハインリヒさんのそれには及ばない。黒パンのどこか酸っぱい味に慣れてきたぼくとは違って、ハインリヒさんは食べることを純粋に喜んでいるように食べるのだ。獣の姿に、そのありようは不釣合いに見えた。
「何か俺の顔についているか。」
「いえ、何も。」
じろじろ見られていることにハインリヒさんは気付いていたらしい。最後のパンの欠片を口に放り込むと、いきなりそう聞いてくる。ぼくは飲んでいた水を噴き出しそうになって、こらえて、飲み下すのに苦労した。まさか気付かれないだろう、そう思わせるほど、ハインリヒさんは物を食べることを愛する人なのだ。もしかしたらその情熱は執念に似ているのかもしれない。けれど、僕はハインリヒさんからその手の話、過去に潜る話を聞いたことはない。まあ、話してくれる仲になったら、そのときが来るのだろう。
ハインリヒさんは、食事を終えると、立ち上がって、ずた袋を元の茂みに隠すと、焚き火の燃えかすを拾い始める。黒く焼け果てて、もう使い物にならなくなったそれらは、近くの茂みから拾ってきたものだ。集めてきたのは細さも太さもまちまちな枝ばかりだったから、燃やした後で元の形が残っているものもあれば、黒い灰同然になっているものもある。
その中に、銀色に光る何かが見える。ぼくが気付くのと、ハインリヒさんが、何だこれは、と言って拾い上げるのは同時だった。
銀色の玉のようにも見えるそれは、楕円の形をしていて、先端は鋭い。
「これは、矢じりか。」
ハインリヒさんがうめくように言った。矢じり、細木の先に付けて、弓などで放つ、武器の一部。また、狩りにも使われ、イタチやウサギを狙い、射抜かれる。ハインリヒさんからそう聞いている。なぜ知っているのかなんて、それはハインリヒさんの年の功というものだろうか。
「おまえは、細い枝と勘違いして持ってきたのだろう。矢じりか。そんなものをまさか、ここで見ることになるとはな。」
沈痛な顔でハインリヒさんは、呟く。
もしかしたら、ハインリヒさんは狩人を恐れているのだろうか。そう嫌な想像が浮かぶ。
僕はすぐに、頭を振ってそれを隅へ追いやる。
「悪い冗談はやめてください」
ハインリヒさんにいつもの口調で言う。
「ああ、分かった。」
ハインリヒさんはいつものように返した。
でも、ふと俯いて、そんなことがあるわけなかろう、と呟くのを僕は聞こえない振りをしてやり過ごす。嫌な予感をさせるその言葉を、頭を左右に振ってすぐに忘れてしまおうと思った。けれど、自分自身を宥めるようなその口調が、やけに耳について離れない。次第に傍目にもわかるくらいに、ぼくのいらいらしてきたのを、ハインリヒさんは見て取ると、いきなり僕の頭を鷲掴みにすると、力任せにぐりぐりと乱暴な手つきで撫ではじめる。
「痛い。放してください!」
そうぼくが悲鳴を上げても、ハインリヒさんは一向にやめない。痛い、痛い、と抗議を続けてみても効果がない。そうして、わだかまっていたいらいらが、別の方向に向いたとき、ハインリヒさんは、これでお終い、と言って、やっと僕の頭から手を離した。
「何するんですか、いきなり!」
「何って、決まってるじゃないか。お前の今朝の狼藉の報いに、ぐりぐりの刑を思いついたから、物は試しにやってみただけだ。非難を浴びる筋合いはない。」
ふん、と鼻息荒く、ハインリヒさんは今度は遠くの茂みの方にまたずかずかと歩いて入ってゆく。そして体をかがめて、なにやら捜し始める。しばらくすると、何かを見つけたらしく、立ち上がり、こちらに向き直る。
「いくぞ。小僧、受け取れ。」
そう聞こえるのと同時に、何かをいきなり投げてよこしてきた。心の準備もあったものではない。投げられたそれは弓なりの線を描いて、まっすぐこちらめがけて落ちてくる。放物線と言うらしい。近づいてくるにつれて、それが木の棒であることが分かってくる。もうそろそろというところになって、僕は両手を伸ばし、それを取ろうとする。しかし、伸ばした両手は見当はずれだったのか。空を切る感触がした。
あいた、とぼくが頭に物が当たった痛みを感じ、木の棒が地面に落ちた音を聞いた後、ハインリヒさんの笑い声が、後れて聞こえてきた。不意打ちが卑怯だって言ったのはほかならぬハインリヒさんなのに、笑われるとは思わなかった。そう思ったとき、僕のいらいらはとうとう頂点に達し、どうしてもあの毛むくじゃらに一泡吹かせなくては気がすまなくなった。
僕は目の前に落ちた木の棒を右手で拾うと、ハインリヒさんめがけて駆け出す。ハインリヒさんはこうなる事が分かっていたのだろう、茂みから出ると、走り出したぼくを見据えると、動きを止めて、そのまま棒立ちになる。見ると、手には何も握られてはいない。ハインリヒさんが持っていたものを僕に投げてよこしたのだろうか、でも、そうだとしたら、なぜ茂みに入ったのだろう。疑問に思ったが、すぐに考えない事にする。今はこの反抗が大事なのだ。ぼくはハインリヒさんの正面に駆け込む。そして、それまで下ろしていた木の棒を振り上げて、えいっと振り下ろす。しかし、一度や二度、そして何度も繰り返したてもハインリヒさんは、顔色一つ変えない。二十回を超えるとさすがに疲れてきて、あからさまに動きが鈍ってきた。
すると、ハインリヒさんは、なんでもないように、ぼくの右手首を掴むと、そのままぼくの手をハインリヒさんの頭上多角まで引き上げてしまう。
「う、うわわ。」
いきなりそんなことをされて驚いたというよりも、心のどこかでは少しは効いているんじゃないかと思っていたぼくにとって、ここまであっさりと体を持ち上げられてしまうのは、予想外で、衝撃的だった。それに、いきなり足元が地面から引き離されて宙ぶらりんになることで、ぼくはいやがおうにもハインリヒさんとの果てしない力の差を思い知らなくてはならなかった。それはとても悔しいことであったし、またハインリヒさんが力を持つ存在として、何だか遠くに感じられたせいか、悲しくもあった。そして、行き場のないいらいらが、顔をほてらせ、胸をかきむしりながら、とうとう涙となってあふれ出すのは、時間の問題だった。
ハインリヒさんの馬鹿、と今でしか言えないような悪口を、思いつく限り叫び始める。ハインリヒさんの顔はにじんでよく見えない。なぜか一向に上げた手を下ろしてくれないから、自由に動く両足で手当たり次第に蹴る。そのうちのいくつかは、ハインリヒさんに当たったらしい。分かったから、蹴るな、蹴るな。そう言うと、ハインリヒさんは、ようやくぼくを下ろして、地面に座らせる。しかし、僕はまだ収まらないものを抱えていたので、涙でよく見えない視界のまま、屈んだハインリヒさんらしきところに駆け込み、突進をする。当たった。そしてこぶしで殴るやら、足で蹴るやら、頬の針金のようなひげを引っ張るやら、容赦ない攻撃を浴びせる。
しまいに、とうとうハインリヒさんは、痛い痛いとわめきながら、降参だと確かに言って、そこでようやく、ぼくの涙は止まり始めたのだった。
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